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ラビットプレス+9月号


やっぱりアインシュタインは偉かった?(イメージ:壁紙)

去る8月28日、安倍晋三内閣総理大臣は、持病の「潰瘍性大腸炎」が悪化したことなどから、国政に支障が出る事態は避けたいとして、総理大臣を辞任する意向を固め、同日夕方の記者会見で国民に向けて辞意を表明した。報道では「突然の辞任」と号外も出されたが、一国の首相であるから、当然関係筋では相当前から把握していたに違いない。本編を目にするときには既に自民党総裁選挙も終了(本年9月14日投開票)し、臨時国会、衆参両院の本会議で首相指名選挙が実施されているはずであるから、新内閣総理大臣も誕生していることだろう。

政局が大きく動く中、コロナウイルス禍はまだまだ終息の兆しは見えていない。
執筆時点(9月9日)での我が国の感染者数は、累計で73,331人、うち死亡された方は1,411人(情報提供元:JX通信社/FASTALERT)となり、全世界では感染者累計27,236,916人、死者は891,031人となった。
折しも、9月7日、来夏に延期された東京オリンピックの準備状況を監督する国際オリンピック委員会(IOC)のジョン・コーツ副会長、調整委員長は、「大会は新型コロナウイルスに関係なく来年7月23日に開幕する」との見方を示したことをAFP通信は伝えた。それを受けて、国内関係機関は一斉に歓迎のコメントを発信。橋本聖子オリンピック担当相並びに森喜朗東京五輪組織委員会会長は、「当然の決断」だとして追認した。世界的パンデミックを人類が克服し、新たな感染症リスクに対応しながらも世界的なスポーツの祭典を実行したという実績は、正に吉と出るか、凶と出るか、世界中が注目していることは間違いない。


経済と健康の両立には…(西村コロナ対策担当大臣・NHK)

世の中、アフターコロナ、ウイズコロナというフレーズがあらゆる産業、場面で台頭してきたように感じる。特に今回のコロナウイルス禍で大きな損失を抱くこととなった飲食事業や観光、エンタメ業界などでは、既に感染拡大防止策を大前提とするビジネス手法を模索、研究しており、例えば最も落ち込みが顕著であった飲食業界などでは、複数大手外食チェーンの不採算店舗の閉鎖、Uber Eatsや出前館などに代表されるフードデリバリーへのシフト、小規模事業者による店舗の共同利用(タイムシェア)、廃棄食材を極力減らすために完全予約制を採用した高級料理店など、まだまだ採算ベースとはいかないまでも、その努力は少なからず形に現れてきている。

要するにコロナウイルス禍がもたらした社会構造の変革は、産業の違いを超えて過去に人間が営んできた社会生活の大道を閉鎖に追い込み、滞留する人間の欲求に対応する“別ルート”を開いて、人や物、金の流れを多様化させたことに集約される。
それによって共通した課題は、就労環境の変化による従業者の削減である。つまり、固定人件費や設備費用に掛ける経費をとことんまで抑え、売り上げ減少でも利益率の向上による純利益の確保に言及される。
テレワーク推奨によって在宅勤務が増え、家の職場化が進めば外食の機会は大きく減少する。影響は食生活のみならず、全ての社会生活構造を覆す。通勤機会は公共交通機関の利用と直結しているし、特にホワイトカラーにおいて衣料品やデバイスなどのニーズを減退させる。家庭内では、これまで外部要因であった職場環境が持ち込まれることによる水光熱費や食費、設備投資が増加し、家計に新たな出費が加算される。ソフト面では、家族関係の変化によるストレスが浮揚し、”自宅“の概念が家族単位のプライベート空間から個人のプライバシー確保という要求が高まると共に、職場化によって、家庭内でのパブリックポリシー(公共政策・公序)も必要となってくる。これまでに登場した「コロナ離婚、別居」などという、環境変化に即応できなかった一部の家庭での話ではなく、そもそも経験の乏しいウイズコロナの生き方に必要不可欠なリソースの提供が重要となってくるのだ。


今やリモート会議システムは当たり前に(イメージ:Zoom)

【時間・・・それは普遍的な概念であった】
時間操作を実現するためには、先ず時間とは何か?ということを考えてみなければならない。断っておくが、現代科学のあらゆる理論を用いても、明確な時間の定義は確立していない。“考えてみる”と言ったのはそういうことで、決して理解しなければならないという意味ではない。理解などできないからだ。

人間の有史以来、数多くの学者や研究者は時間の証明に躍起になり、その人生を検証に捧げてきた。古代エジプトやギリシャ、マヤなど、古代文明の宗教的な思想における“時間”の概念は、神が主体となって創造したこの世界を永遠に司る普遍の流れ、のような意味で、止まることのない、ちょうど円盤の上を周るようなものだと考えられてきた。古代宗教的には、この世界は「創造-存続-終末-破滅」を繰り返すのだと定義され、仏教をはじめとする東洋思想においても、「輪廻転生」という観念がもたらされてきた。時を経て、キリスト教が世界中に広まりを見せてきた11世紀から12世紀ごろ、神の啓示によるイエス・キリストのこの世への到来と、キリストの死と復活は不可逆的、反復は不可能なものという教示の下、繰り返される円環的な時間の観念は否定され、「時間とは、終末に向かって進む、神のみが支配する直線的なもの」、という概念が固定化されたのである。


日時計(イメージ:セイコーミュージアム)

一方、一般市民レベルにおける時間の概念がもたらされたのは、14世紀に入り西洋において機械式の“時計”が発明されて以降である。15世紀から16世紀に掛けて、主要な都市の教会や広場に時計なるものが設置されるようになったことで、不定時法から定時法への変換がなされ、人々が初めて1日や1時間という単位による生活リズムを意識するようになる注1。これは正に、神が支配していた時間から、宗教的な概念を離れて客観的な時間へと、「時間意識の革命」で、時間は神の手から、その時代の政治経済を支配する者たちへ移譲され、社会生活の事象を計る道具として現代に続いている。

注1
クリスチャン・ホイヘンスが1656年頃に振り子時計を完成させ、その後、より正確な機械式時計が普及するにつれて、「時間は常に一定の速さで流れる」という概念が定着していった。
イギリスの科学者アイザック・ニュートンは、「自然哲学の数学的諸原理」という著書において、「絶対時間」と「絶対空間」の概念を提唱し、「宇宙のどこに置かれていても、すべての時計は、無限の過去から無限の未来まで変化せずに同じペースで同じ時間を刻む」。そして、「空間はどこも均質で、無限に広がっている」ことを前提とした所謂「ニュートン力学」理論を立て、後の科学者に多大な影響を与えた。

【時間・・・哲学的考察】
アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson:1859年~1941年)はフランスの哲学者である。科学的な時間と純粋な時間を、時間の概念を中心に区別した。科学的な時間とは、例えば時計であるような、測定できる時間であるのに対して、後者は人間が直接的に経験する、人の意識の中の持続する時間であるとした。ベルクソンは、時間と空間の二元論を提唱し、我々の意識の本質は不断の流れであり、純粋な時間性であるとして、次のように時間を定義している。
1.本来の時間は、過去・現在・未来という時間の三契機は、それぞれ独立したものではなく、我々の意識が常にそうである現在は、過去と未来を自らのうちに巻き込む重層的な時間である。
2.過去・現在・未来の融合体としての持続する時間は、意識の質的変容の遂行として持続する。意識の持続としての時間は、一瞬前の過去を巻き込むことによって、重層化していくわけであるが、しかし、過去と現在の量的拡大をもたらすのではなく、意識の質的変容、つまり、まったく新しい意識の自己創造という側面を持つ。われわれの意識の基底部においては同じ状態はありえない。
3.過去を巻き込み、未来へと侵入しつつ自己を新たなものへと不断に創造する意識の持続としての時間は、予想不可能という性格を有する。常に新たなものを創造するからである。(『時間と自由』岩波文庫 中村文郎訳)


著書「時間と自由」(イメージ:Amazon)

例えば、待ち合わせ時間になっても相手が現れないとき、イライラして腕時計を見ると、時間の進みが遅れているように感じた経験があるだろう。そのような場合、普通なら、「まだ5分しか経っていない」と、時計が刻む時間を正しい時間だと疑うことはしない。しかし、ベルクソンは時計の時間を本質ではないと説明する。時計に限らず、太陽の動きも、素粒子の振動も、あらゆる時間は単に「空間的に捉えられた時間」だとして、時間の本質ではないという。
時計の針や太陽の周期運動など、我々は連続している時間を人工的に区切っているに過ぎず、時間は空間的にしか捉えることが出来ない。すなわち、「遥かな過去」や、「遠い未来」という表現自体、時間を空間的に表現しているのであって、ベルクソンの言う「純粋な時間」は、直観によってのみとらえることが出来る時間であり、あらゆる生命体には実は非常になじみ深いものであるという。そして、純粋な時間の持続(持続とは、「いまこの瞬間」という意識の絶え間ない流れ≒意識の持続)が、生命の創造的進化に他ならないと主張する。時間というのは、どこか我々の外側にあって、我々の意識とは無関係に流れているという、所謂「絶対時間」的なものではなく、精神の運動を内側から質的に把握するための躍動的な流れであって、切断できない意識の連続性の中に存在すると説明している。


待っている時間は長い?短い?(イメージ:JR東海記念TOICA)

【ウイズコロナに求められる時間操作】
テレワークが一気に定常化してきた。これまで会社に来るのが仕事の基本としていた世の中のセオリーも、テレワークというスタイルを認めざるをえない状況になり、むしろそのメリットが多数判明してしまったことは、今回のコロナ危機の中での数少ない朗報だと言える。
不可逆的なワークスタイルは、会社に来られない人がいるからやむを得ずビデオ会議にするということではなく、オンライン会議やオフラインによる情報伝達(例:ビデオ会議やメールでの資料送付など)が融合して多様化される。オンライン側には新しい技術が積極的に取り入れられる環境整備に企業は投資し、リアルオフィスにおいても、集団的ワークスペースではなく、個人々に使い易いパーティションスペースなどが中心の職場風景に変わることも当然だ。これらは喉元過ぎれば、の話では決してない。もう数か月前の日本には戻らない、戻れないのだ。

我々は毎日々、様々な「モノ」に囲まれて生活している。
スマホ、PC、テレビetc.。実体のあるものばかりではない。仕事、役職、無形の柵(しがらみ)なども「モノ」である。これらの特徴は、それ自体で独立したイメージを想起できる。そう、「モノ」は空間や意識のなかで「客観的に固定」されている。
一方、「コト」はどうか。毎朝〇時に起きるというコト、決まった時間に電車に乗るというコト、仕事終わりに一杯やるというコト。このような「コト」が成立するには、それを体験する主体と主観の存在が欠かせない。(『時間と自己』中公新書 木村敏)
「モノ」に囲まれて生きてきた我々は、「モノ」によって人生を強制されてきたことに気付くべきである。そして、時計の針もまた「モノ」である以上、自分に与えられた時間までも拘束され、制御されているということだ。これまでの仕事のやり方を思い出してみれば、「何時までにコレをやろう」とか、「〇時間あれば仕上がるから」とか、常に時間制御の中で人生が組み立てられてきたことに気付くだろう。
テレワークという「コト」に対して、オフィスや通勤電車、部下、同僚や上司といったような、これまで絡んで解くことが出来なかった「モノ」の存在から解放された安堵感だけに浸っているようでは何も変わらない。テレワークによって得られる時間を、外側から与えられた時間として過ごしては意味がない。この「コト」は、自分自身が「純粋な時間」を取り戻すチャンスなのである。


時間に追われるということは?(イメージ)

通勤の駅のホームに立って、あることに気付く。『〇駅において信号機の故障により、次の電車は約2分遅れで発車いたしました。お急ぎのところ大変申し訳ございません。今しばらくお待ちください』と、日常茶飯のアナウンスに思わずイラっとしている自分が居る。後ろに並んでいる男性から「チェっ」と舌打ちが聞こえた。時計を見る。隣の女性も、学生さんも時間を確認している。「それにしても私たちは、なぜ、こんなにイライラするのだろう。時間通り、計画通り、効率よく、なるべく早く…。そんな現代社会は私たちから何かを、人間としてとても大切な何かを奪ってしまったのではないだろうか」。
何かをするには時間がかかる。何をするにも時間がかかる。「時間がかかる(テイクタイム)」ということ、それは我々の社会では、すでにひとつの障害である。困ったことであり、厄介事なのだ。なんとか解決し、克服すべき問題だ、と考えられている。それにしても「時間がかかる」ことはいつから問題となったのだろう。(辻信一著『スロー・イズ・ビューティフル』:平凡社)

我々が常に気にしているのは時間。わからないことは検索数秒でスマホが教えてくれる。ファーストフード店では数分で食事がとれ、ネット注文など、翌日の指定時間に大体の物は配達される。東京-名古屋を40分で往来する日がそこまで来ているし、2時間半あれば北海道から沖縄まで移動できる。技術の進化はたしかに、目的を果たすまでの時間を短縮してくれた。一方では我々人間は、「待つこと」がもたらしてくれる喜びや、プロセスを楽しむということを忘れてしまった。
時間操作は、社会的時間を制御するということではない。自分の体内に存在する生物時計を信じ、時間の観念を実は司っている心的時計に身を委ねることから可能となるのだ。


時を刻むものとは(イメージ)

皮切りに、絶対時間を刻む「時計」を外すことから始めよう。目覚まし時計、壁掛け時計、スマホやテレビに頼らず、自然に目が覚めたら生物時計に刻を尋ねる。「大体7時ぐらい」という声が聞こえるかもしれない。腹が空いたら時間を気にせず食事をとり、今日一日の仕事に思いを馳せる。何時迄に、ではなく、今日はこれをやろう、これは片付けなければ、程度で良いのだ。「モノ」の無い自室で仕事を開始すれば、一段落する頃には腹が空いてくる。「ああ、昼だな」。やがて日の傾き具合で仕事の終了を気付かせてくれる。体内時計に時刻を確認してみれば、適当な返事が返ってくるに違いない。それでも一日は暮れてゆくのだから、何の問題もない。
時間操作は、自分以外の人の時間を大切にすることも重要になる。妻の時間、夫の時間、子供たちの時間、ペットの時間・・・。それらの大切なパートナーに自分の時間を押し付けてはならない。これが鉄則である。時間は相対的なものであるから、自分の時間と相手の時間は異なることを忘れてはいけないのだ。
誰かの時間を大切にすることが出来たら、その誰かは貴方を必ず大切に思ってくれるはず。ウイズコロナとアフターコロナの時代は、そんな優しい時代にしなければならない。