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ラビットプレス+6月号


(イメージ:令和元年5月4日皇居での参賀・時事通信)

令和元年5月4日。新しい元号「令和」の下で、天皇陛下、皇后陛下が初めて一般国民の前にお出ましの公式行事となる“即位を祝う一般参賀”が、皇居で行われ、14万人(警視庁発表)の人々が即位を祝福した。

午前10時過ぎ。天皇皇后両陛下と、秋篠宮家など皇室、皇族方が宮殿ベランダに姿を現すと、待ち構えた人々から一斉に歓声が上がり、日の丸の小旗がうねる様にはためいた。天皇陛下は、「このように皆さんからお祝い頂くことを嬉しく思い、深く感謝致します」と述べ、「我が国が、諸外国と手を携えて、世界の平和を求めつつ、一層の発展を遂げることを心から願っております」と、一語一語噛みしめるように訪れた人々に向けて語られた。

令和元年5月4日(天皇陛下お言葉の全文)
この度、剣璽(けんじ)等承継の儀、及び即位後朝見の儀を終えて、今日、皆さんからお祝い頂くことを嬉しく思い、またこのように暑い中来て頂いたことに深く感謝致します。ここに、皆さんの健康と幸せを祈ると共に、我が国が諸外国と手を携えて、世界の平和を求めつつ、一層の発展を遂げることを心から願っております。

天皇は、初代神武天皇から今上天皇まで、126代注1が挙げられる。このうち、第37代・斉明天皇は第35代・皇極天皇の、第48代・称徳天皇は第46代・孝謙天皇のいずれも重祚(一度退位した天皇が再び位に就くこと=再祚ともいう)であることが分かっており、総数は124人となっている(重祚された天皇はいずれも女帝である)。

注1

前月号で、「初代神武天皇から昭和天皇まで、125代の系譜を持つ天皇家」という標記は誤記であり、正しくは「初代神武天皇から平成の天皇(現上皇陛下)まで、125代の系譜を持つ天皇家」である。謹んで訂正致します。

天皇のお言葉にある「剣璽等承継の儀」は、皇位の印として歴代天皇に受け継がれた宝物である所謂「三種の神器注2」を承継する正式な儀式である。
このとき、宝物以外に皇位とともに伝わるべき由緒ある物(皇室経済法第7条)として、外交文書や国家重要文書に押される印章である国璽(こくじ)と、「天皇御璽」の印字を有する天皇の印章である御璽(ぎょじ)も含まれる。

注2

三種の神器とは、剣、玉、鏡を言い、剣璽とはそのうちの剣と玉のこと。剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ:別名を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、玉は八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、鏡は八咫鏡(やたのかがみ)と呼ばれ、日本書紀において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと=天皇の祖先)が天照大神(あまてらすおおかみ)から授けられたものとされている。
~天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊に、八尺瓊勾玉及び八咫鏡・草薙剣、三種の宝物を賜ふ~
三種の宝物は同一場所に保管するには霊験が強く、宮中から出されたと伝えられ、剣は熱田神宮、鏡は伊勢神宮、玉だけが宮中(皇居の剣璽の間)に保管されていると言われているが、そもそも天皇でもこれらは見てはいけないものとされ、その実態は歴史のロマンの中に眠っている。


誰も見たことの無い三種の神器(イメージ)

天皇家に名字や姓、氏は無い!?

さて、この度即位された天皇の御名は徳仁(なるひと)である。名字(苗字)が“今上”だなんて思っている日本国民は居ないことを願うが、天皇家には名字は存在しない。
姓(せい・かばね)は古代日本の氏族の称号として誕生し、大和朝廷による国家の形が出来上がるに連れ、朝廷から諸国の豪族に授けられたとされる(賜姓)。やがて氏の身分の位階を表すようになり、皇別諸氏には臣、神別諸氏には連が与えられ、その最有力者が大臣や大連であり、朝廷の政務をとった。天武13年(684年)、従来から在った姓を、真人 (まひと) 、朝臣 (あそん) 、宿禰 (すくね) 、忌寸 (いみき) 、道師 (みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置 (いなぎ) の八種に整理して朝廷から与え、家格を秩序づけた(八色の姓と呼ばれる) 。平安時代に入ると皇族の分家に伴う賜姓として皇子に臣、その他の皇胤(こういん=天皇の血族)に真人が与えられるようになり、姓による身分の序列も定かではなくなった。
姓名などと称することは現代でも一般的ではあるが、戸籍法上や他の法律を見ても「姓」の文字は見つからない(法律上は“氏名”であるが、姓名とイコールではない)。

この問題について調べて行くと、一つは、そもそも姓は一定勢力を持った部族に対して天皇が下賜したもので、最高権威者は下賜される対象ではないことから、天皇家には姓は無いと結論付けるものである。
一方で、世界史的な見地で論じれば、姓(この場合は名字と同意で使用する)を持たない民族、部族が圧倒的に多く、統治が進むにつれて家族単位や個人に対する峻別の必要から姓や氏の名称を冠すことになる。全く不思議は無い。また、それぞれの国家で、王だけが姓を持たないということはない(王姓)。しかし、ここが日本特有なのである。
世界史上で最も早く名字(姓)を持った国は中国であろう。隣接するアジアの他国においては、文明国である中国の列国として存在しており、時の王朝から認められるために中国風と言っても良い、「姓」を多用してきた歴史がある。
例えば朝鮮において、百済は「夫余族」の「余」を王姓として、6世紀の王・武寧は「余隆」を名乗って中国の南朝に朝貢している。
高句麗は王姓として「高」を用いているが、これら「倭」「余」「高」は民族として持っていた固有の「姓」ではなく、対外的に中国風の姓として使っていた。
新羅の王姓「金」も、新羅が後世の満州族の清朝・愛新覚羅氏注3と同系の民族であったことを示唆している。新羅の場合、中国と殆ど同じ姓氏を使用しているのは、7~8世紀に朝鮮半島を統一した後、人名、地名などを中国風に改めたためと云われる。

注3

愛新覚羅は、満洲(中国東北部)に存在した建州女真族(満洲民族)の姓氏で、清朝を打ち立てた後に中華を統一した家系。

古代日本の氏姓制度が確立したとき(6世紀頃)、天皇家は最も強大な氏族として、神話以来の「天(アメ・アマ)」氏族を国内的に名乗らなかったのは何故だろうか(遣隋使が朝貢の時、倭国王の姓は「阿毎(アメ)」と伝えている注4)。なぜだろうか。
大伴、蘇我、佐伯、物部などの氏族名は、飛鳥(奈良)時代には中国の姓と同様の機能を果たしていた。しかし、天皇家は「天(アメ・アマ)」を名乗らなかったのである。もし、「天」を天皇家の氏(うじ)として名乗っていたら、現代の天皇も、姓は「天」、名は「徳仁(なるひと)」ということになっていても不思議ではない。

注4

8世紀の「隋書」の倭国伝には、「倭王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩雞彌」(原文の「北」は、「比」の誤字と推測される)。これによれば、倭王の姓は「阿毎」(アメ・アマ)、字(あざ)は「多利思比孤」(タリシヒコ)、「阿輩雞彌」(オホキミ)と号す、とある。


遣隋使に託された国家の存亡(イメージ)

天皇の語源は古代中国の道教に登場する最高神であり、北極星を神格化したもの(天皇大帝)から由来するという説が有力である。ただし、天皇家126代全ての天皇が当時から「天皇」の号を使用していたわけではない。日本書紀には推古天皇の紀、16年条に「東の天皇敬いて、西の皇帝に白す」の記述が見られるが、古事記には「豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)」と記され、天皇の文字は見当たらず、未だ「天皇」と呼び始めたのがいつ頃からなのかは解明されていない。
閑話休題。
天皇家に名字が無いのは何故か。もし、天皇家が自らの氏族としての姓を「天(アメ・アマ)」と名乗ったとすると、どのような事態が起こるか。数多の豪族や新興勢力に至るまで、その姓を名乗ろうとする者が割拠することは容易に想像出来る。姓が位階を表すごとく、最高の権威である「天」を欲しがらないわけはないのであるから、それら一切を封じるためには、天皇家に名字を設けないことが最善最良なのである。
勿論私見であるが、天皇家に名字が無い理由は、実は案外と単純なものではないかと思う。

日本神話を深読みすれば、天皇家の真実が見えてくる?

日本の伝統的信仰である神道を司る全国の神社。その元締め的な組織が神社庁(本庁)である。本庁は伊勢神宮を本宗とし、約8万を数える神社を包括して、祭祀の振興と道義の高揚を図り、天皇の長寿と弥栄(いやさか)を祈念し、世界の平和への寄与を目的に、昭和21年に設立された民間の宗教法人である。
そもそも神社は、古来より国家が管理し、祭祀など、我が国特有の文化・伝統を継承し、皇族とも深い繋がりを維持してきた歴史を持つが、昭和20年12月15日、GHQから出された「神道指令」により、国家の管理から離されることになった。
昭和42年5月13日の参議院予算委員会において、小学校における神話教育の重要性についての発言(元文部省事務次官、初等中等教育局長・内籐誉三郎議員)や、翌年の小学校学習指導要領への神話教育の復活注5、その後の時の経過と共に天皇制に対する様々な意見が交錯する中、神話の世界と現実との境を問わない大らかな国民性が、天皇家を優しく包み込んできたと言えよう。


学習指導要領表紙(イメージ:沖縄県教科書供給)

注5

小学校学習指導要領の改正(昭和43年7月11日文部省告示第268号)
学校教育法施行規則(昭和22年文部省令第11号)第25条の規定に基づき、小学校学習指導要領(昭和33年文部省告示第80号)を改正した中で、第6学年の児童を対象とした社会科の項目のうち、歴史的な出来事において、3.内容の取扱い(3)に次の様な記述が追加された。
前略・・・すぐれた文化遺産や人物のはたらきを中心として指導を行なうに当たっては、日本の神話や伝承も取り上げ、わが国の神話はおよそ8世紀の初めごろまでに記紀を中心に集大成され、記録されて今日に伝えられたものであることを説明し、これらは古代の人々のものの見方や国の形成に関する考え方などを示す意味をもっていることを指導することが必要である。
※文中の記紀とは、古事記、日本書紀の総称。

現在、神社本庁のHPには「日本の神話」として七編の神話を紹介している。この神話を辿れば、日本の誕生から国家を樹立し、天皇が統治するに至るまでの出来事が記されている。

1.国生み
2.黄泉の国
3.天の岩戸
4.八俣の大蛇
5.稲羽の白兎
6.国譲り
7.天孫降臨

この七編を要約すると、
~天地の始め、高天原(たかまのはら)に居られた天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神という神さまが、下界に新しい国を創ることをご相談になられ、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)の二柱の神さまに国作りを命じられた。最初に造られた所が於能凝呂島(おのごろじま=現在の兵庫県淡路島)で、その後次々に島を生み出して大八島国という今の日本列島が完成した。『国生み』
国が出来ると、今度は多くの神々を誕生させるが、火の神を生む際に火傷を負った伊邪那美命(いざなみのみこと)は死んでしまう。悲しみのあまり伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は死者の国である“黄泉の国”へ伊邪那美命を連れ戻しに行くが、変わり果てた姿に驚き、逃げ帰ろうとしたとき、追いかけてきた伊邪那美命を黄泉の国の入口を大岩で塞ぐのである。何とか逃げ帰った伊邪那岐命が災いを祓って生まれたのが天照大御神(あまてらすおおみかみ)や須佐之男命(すさのおのみこと)。『黄泉の国』
さて、この須佐之男命は破天荒。あるとき姉の天照大御神にいたずらを仕掛け、天照大御神を本気で怒らせてしまう。天照大御神は怒りのあまり天の岩戸という岩屋に隠れてしまわれました。太陽の神である天照大御神がお隠れになったために世の中は光を失うが、高天原の神々の奇策で再び光をもたらすのである。『天の岩戸』
乱暴が過ぎた須佐之男命(すさのおのみこと)は、高天原から追放され、下界へ降りることになる。出雲の国肥の川(ひのかわ)の辺りで後の妻・櫛名田比売(くしなたひめ)を助け、頭が八つある大蛇(八岐大蛇または八俣の大蛇=やまたのおろち)を酒で酔わせて退治するのである。そうして出雲の地で櫛名田比売と末永く暮らすことになり、二人の間に生まれた子が須勢理毘売(すせりひめ)で、後に大国主命(おおくにぬしのみこと=須佐之男命の孫)と結ばれる。『八俣の大蛇』
この大国主命は優れた神で、稲羽で騙された白兎を助けたりしながら少名毘古那神(すくなひこな)と共に国造りに励み、たいそう発展させるのだが、あるとき高天原からこの国(豊葦原水穂国・とよあしはらのみずほのくに)を観察していた天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、大国主命にこの国を高天原に譲るよう求めます。大国主命は悩みますが、出雲に自分が隠れ住む宮殿を天神の住む宮殿のように造ることを条件に天照大御神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に譲ることを承諾します(これが出雲大社です)。『稲羽の白兎』『国譲り』
天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に三種の神器(さんしゅのしんき)である八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授け、豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに=現在の中国、四国、九州地方)を高天原のようにすばらしい国にするため、天降るように命じました。そして瓊瓊杵尊は高千穂(今の宮崎県)に降り立ち、この国を統治します。この瓊瓊杵尊が初代天皇である神武天皇の曽祖父で、天皇家がこの国を統治する礎を築いたということです。『天孫降臨』


神話の世界は・・・(イメージ:高千穂の夜神楽)

こうして現在もなお語り継がれている「日本の神話」であるが、この物語は前述した古事記(712年)、日本書紀(720年)に収録されているものである。しかし、日本最古の現存する風土記の完本として出雲風土記(733年)があり、畿内(大和政権)が編纂した記紀とは違い、出雲国造(現在の出雲大社の両国造家の祖先)の手によるものとして興味深く、収録されている神話のストーリーや構成が、同じ出雲を舞台とした物語にも係わらず、記紀と大きく異なっている。
これはすなわち、記紀神話を基にした天孫(天皇家の祖先)が登場する経緯について日本国民に浸透させることで、日本における民族の創造、大和朝廷以来の統一国家という歴史認識と天皇家の由来(皇室の起源)を神聖化し、現代における「象徴天皇」を敬愛する国民の意識を支えている。


出雲風土記(イメージ:島根大学)
次号に続く・・・