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ラビットプレス+4月号


新年参賀の礼(イメージ:2019・宮内庁)

令和元年5月1日。無事に皇位継承が行われ、日本国民は新しい時代と新しい天皇の即位に湧いた。

この度の皇位継承は特例である。どういうことかと言うと、天皇の皇位継承は皇室典範第一章 第四条により、天皇の死(崩御)のみの事由に限り継承されるものと規定されているからである(皇室典範 第一章 皇位継承 第四条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。)。これは旧皇室典範注1においても同様であった。

注1

旧皇室典範(明治22年2月10日)御名御璽
第十條 天皇崩スルトキハ皇嗣卽チ踐祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク(テンノウホウスルトキハコウシスナハチセンソシソシュウノジンキヲツク)

しかしながら、皇位継承(賤祚=センソ:天子の位を受け継ぐこと)については、明治以降、上記によって定められたのであり、それ以前については、先帝の崩御あるいは譲位によって行われていた。また、即位とは、賤祚に続く行事であり、天子の位に就いたことを内外に知らしめることを言う。

平成28年8月、平成天皇が生前退位の意向を示されたが、現在の皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)には前述のとおり陛下のご意向を反映させるに足りる規定は存在しなかった。政府は、陛下のご意思を尊重するとして政府有識者会議を招集し、そこでの論議を経て、皇室典範特例法という形で法案を国会に提出し、衆議院本会議を経て平成29年6月9日、参議院本会議で審議に退席した自由党を除く235名全員の賛成で可決され、平成天皇の生前退位が実現することとなった。

「光格天皇以来、実に200年ぶりに退位を実現するものであり、この問題が国家の基本、そして長い歴史、未来に関わる重要な課題であることを、改めて実感した。政府としては、国会における議論、委員会の付帯決議を尊重しながら、遺漏なきよう、しっかりと施行に向けて準備を進めていく」(平成29年6月9日首相官邸・安倍晋三内閣総理大臣談話)

国民から敬愛される皇室へ

昭和天皇が太平洋戦争終結(以下終戦という)の翌年(昭和21年)の元日に出された詔書によって、自らを現人神(あらひとがみ)ではないと宣言した。所謂「天皇人間宣言」である。しかし、初代神武天皇から昭和天皇まで、125代の系譜を持つ天皇家であり、その源流を神々と天皇の関係無くしては語れない。
日本の神話は、古事記(上・中・下全三巻第33代推古天皇まで)と日本書紀(全30巻及び系譜からなる第41代持統天皇まで)による。いずれも奈良時代初期に、天武天皇の命によって編纂されたとされ、八百万の神々の生き生きとした描写が特徴的に書かれ、神話の舞台とされる史跡が西日本を中心に数多く残っている。古来、神の子孫として崇められてきた天皇とその一族であったが、前述の人間宣言において、GHQ(連合国総司令部)による詔書草案作成過程における“Emperors aren't offspring’s of a god.”(皇帝は神の子孫ではない)という行には抵抗したという逸話(木下道雄侍従長「側近日誌」による)が残っている。


側近日誌 - 侍従次長が見た終戦直後の天皇(中公文庫:木下道雄、高橋 紘)

明治維新以後、終戦に至るまでの間も、天皇は国民(旧憲法は臣民)に敬われる存在であったことは事実である。しかしそこには天皇の実像は存在していない。国民が天皇の姿を拝見することも、肉声を聞くことも殆ど無かった時代、それは教育と政策によって強制されたものだと言える。だが、現在の状況は全く異なっている。NHKによる1973年から5年毎に行われる国民意識調査(現代日本人の意識構造)によれば、73年(昭和48年)では天皇陛下に対する「尊敬の念を持っている」が33.3%、「好感を持っている」が20.3%であった。88年(昭和63年)調査では、同様の質問に対して前者が27.5%、後者が22.1%と総じて減少している。更に「特別の感情は無い」が46.5%と半数に迫る結果となった。昭和の終わりには、天皇及び皇室に対する国民意識は希薄と言ってよいほど国民から離れていたのである。
時代は平成に入り、2013年(平成25年)調査ではどうなったかと言うと、「尊敬」34.2%、「好感」が35.3%で、7割近くの国民が肯定的に捉えており、「無感情」は28.4%に減少していた。これは平成天皇、皇后両陛下におけるご公務のお姿が国民の前に現わされ、大規模災害の被災地を率先して慰問し、膝を突き合わして被災者の声を聞くなど、弱者に寄り添い、80歳を超えてもなお皇后さまとお二人で全国を回り続けられていた。その姿に国民の多くが胸を打たれ、感動を覚えたからに相違ない。昭和天皇から平成天皇へ受け継がれた、「人間天皇」の姿が、国民から愛される皇室へと繋がってきたのである。


国会開会式での天皇陛下のお言葉(イメージ:時事通信)

~トピック~
2016年(平成28年)1月。年明け最初の通常国会が開会する。その開会式には天皇の国事行為として陛下がご台臨されるが、日本共産党は1947年(昭和22年)の第1回開会式を除き、以後一度も開会式には出席していない。これは、憲法が定める天皇の国事行為の範囲を逸脱するとして、ボイコットしてきたのであるが、この度の天皇陛下のご意向を受けて、国民の9割が支持するとした生前退位の論議に対する影響と、改めて陛下への敬意を表する意味を込め、何と68年ぶりに開会式に参加したのである。勿論、政治的な駆け引き(その年の参議院選挙を睨んで)として、国民感情を考慮した部分もあるだろうが、共産党ですら陛下に対する姿勢を変えざるを得ないほど、国民に慕われていることの裏付けであろう。

皇室とは何か

皇室と言うと国民の多くは天皇ご一家とその親族というようなイメージで捉えていると思われる。しかし、これは間違いであって、そもそも皇室の概念を一般国民の家族関係と重ねることは出来ない。
宮内庁は、宮廷内部の皇族(独立した宮家を持たない)に対して「内廷にある皇族」として皇室と称する。すなわち皇后、太上天皇、太上皇后、太皇太后、皇太后、皇太子とその家族(皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃)、未婚の皇子女を指す。これは狭義に皇室を捉えた場合で、天皇を含まない。皇室とその他の皇族を区別する必要性は、皇室経済法の「内廷費(第4条)」拠出の根拠である。
現在、天皇を含めた皇室は、18人の皇族で構成されている。

平成28年8月8日、平成の天皇(現太上天皇)は生前退位に言及する「お気持ち」を表明された。天皇の国事行為とは何か、象徴天皇が国民統合の象徴であるべきという陛下の信念と、その思想を支えるために即位以後30年に亘る象徴としての努めの意義を述べられた。その中で、天皇が健康で有り続けることこそが前提となる象徴としての努めの遂行は現実的ではない。当然、歳を重ねる毎に身心の自由が利かなくなる。そうかと言って、天皇で在り続ける以上、それを言い訳には出来ないと語られたのである。俗っぽく表現すれば、加齢と共にご公務を軽減させながらも天皇で在り続けることが、国にとって、国民にとって、そしてその後を継ぐ皇族にとって果たして善作であると言えるのか。天皇とは何か、皇室とは何か、を問い続けてきたと。正に、平成天皇であるからこそのお言葉であった。


昭和34年現太上天皇と太上皇后のご成婚パレード(イメージ:共同通信)

現在の皇室を語るには、民間出身の妃殿下の存在がキーワードである。
太上皇后の美智子様(正田美智子氏)は、昭和32年の夏、軽井沢で時の皇太子であった太上天皇(明仁様)と出会い、翌年にプロポーズし、昭和34年4月ご成婚。それまでの慣例を覆し、旧皇族・華族からではなく民間人として初めて皇室に嫁いだのである。昭和35年に今上天皇である浩宮徳仁様が生まれたが、民間出身者である美智子様の子育てもまたそれまでとは大きく異なるものであり、それを許容した明仁(平成天皇)様とお二人で名実共に新しい皇室を造られた。宮廷内の食事は宮内庁大膳課の職員が担当しているが、美智子様は自らの希望で東宮内にキッチン設備を設け、徳仁様のお弁当を手作りされていたことは有名である。
現在の皇后雅子様も元外務省官僚、秋篠宮妃紀子様も学習院大学名誉教授の父を持つ民間人だ。また、皇室と言えば「学習院注2」という印象が強いが、太上皇后美智子様の時代からの影響もあってか、最近では秋篠宮内親王殿下真子様が国際基督教大学教養学部、同佳子様は学習院大学を中退して真子様と同じ大学学部をご卒業、秋篠宮親王殿下悠仁様がお茶の水女子大学附属中学と、何が何でも学習院でなければ駄目だというわけではない。わりと自由に学校を選択している。


注2

学習院は、1847年(弘化4年)京都御所日御門前の学習所として開講した「京都学習院がその由来である。1877年(明治10年)に英国の貴族学校を模して旧宮内省の外局として設置され、創立時は国立学校であった。1947年(昭和22年)に廃止、民営化されて、新たに私立学校として再出発し現在に至っている。今上天皇内親王殿下愛子様は学習院女子高等科在学中である(平成31年4月1日現在)

お世継ぎ・皇位継承問題

明治天皇には成人した兄弟は居なかった。また、側室(当時は側室を認めていた)との間に多くの皇子女が生まれたが夭逝(幼くして死ぬこと)し、最終的には一男四女が成人した。皇子がお一人(後の大正天皇)で、幼少から病弱であったので、その後の男子継承も大きな問題であった。従って、当初の婚約を破棄し、健康な妃を選び直したという。大正天皇の妃は幸いにも4人の皇子を生んだので、皇位継承は安定した。

旧皇室典範
第一條 大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス
皇室典範
第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。

昭和天皇も男子が生まれないことでかなり苦しんだ。それまでの側室制度は昭和天皇が廃止した。大正天皇が正妻の子しか儲けなかったのが大きな理由と言われているが、いざ自身の時代になって皇女ばかり4人が生まれたので、側室制度の復活や、養子制度が検討されたほどである。結婚後8年が経ってようやく待望の男子が生まれ、2年後には二男(常陸宮)も誕生し、ようやく問題は落ち着いたのである。今上天皇と皇后雅子様との間にも男子はおらず、皇位継承順位第2位の秋篠宮文仁親王殿下と紀子様との間にも長く男子は授からなかったので、再び皇位継承問題が浮上し、国民を巻き込んだ議論が交わされた。女子の継承を認める案や養子相続(皇室以外の皇族から)まで叫ばれたが、悠仁様の誕生によってトーンは落ち着いている。
しかし、この問題は皇統と男系に拘る以上、永遠に続くのである。ただ、その議論にはこの度の生前退位に係る皇位継承問題で噴出した無責任な議論は改めなければならない。すなわち、「女帝容認論」なる中身に大きな間違いや無知が横行していることだ。現代社会において真っ先に持ち出されたのが「男女平等」、「男女共同参画社会での差別」などという論理だ。中でも、男系に限ったのは明治以降の話で、女性の皇位継承は過去「十代八方注3」存在しているのだから、一向に差し支えない、的なメディア等での発言や主張が著名な識者や政治家などからも出た。確かに明治以前には十代八方の女性天皇が存在したのは事実であるが、時々の女帝即位の理由は、天皇が崩御された後の皇位継承者が幼少であり(戦前までは天皇が国家統治または政務を行う権限を有していた)、皇子が成長されるまでの「幕間継ぎ」として、皇太后が即位されたケースなのである。所謂「摂政」のような立場であり、現行の皇室典範でも「摂政」の規定(第3章第16条乃至21条)が存在するように、当然そこには男系の皇位継承者が居て、いずれは男系に戻ることが確実とされていたからであって、今論じられている女帝とはそもそも意味が異なるのである。
男系の皇位継承者が存在しなくなった場合の話を前提とする女帝はかつても存在していない。そうしたかつてない状況をどう考えるか、という議論である。従って、その女帝のあとは、当然その嫡出子が継承されることになるが、その時、皇統は「女系」に移る。そこが議論の中心でなければならず、日本国の歴史上、これまで女帝はいても、「女系」は存在しなかったのだから、男女平等だとか、外国の王室と比較してとかの議論は全くお門違いも甚だしいのであって、天皇制の根幹に関わることであるから専門機関による慎重な検討が必要なのは当然。大衆で論じるようなレベルのことではない。

注3

天皇126代のうち、女性皇族が即位された人数は8人であったが、その内、2人が二度即位されている。これを重祚(ちょうそ)と言う。女帝も「中天皇(なかつのすめらみこと≒中皇命)」と呼ばれ、中継ぎの意味を示すという説もある。万葉集では中皇命と出。宮廷神と天子との中間に立つ一種の「すめらみこと」の意味らしくある。(最古日本の女性生活の根底・折口信夫著)


次号に続く・・・