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女不動産屋 柳本美土里

柳本不動産の事務所では、朝から社長の美土里、営業の河野、事務員の万理の3人が、テレビの前で画面を見つめていた。
横殴りの雨のなか、今にも傘が飛ばされそうな通行人をカメラは捕らえ、ヘルメットを被ったレポーターの透明の雨合羽が、生き物のようにバタバタと音を立てて動くのが映し出された画面の片隅に、台風の進行経路が予想された天気図が、貼り付けられている。
「この様子だと、台風は昼頃に、こちらに来るみたいね」
まさしく、台風の進路予想では、柳本不動産のある町を通過して、日本海側に抜ける経路をとっている。
今回の台風は、観測史上最強の風と雨をもたらしているらしい。
まだ、かなり遠い南の海上にあるはずなのに、昨日の段階でも、傘が飛ばされそうになった。
JRをはじめ、鉄道は軒並み運行停止となり、路線バスも既に運行を取りやめているようだ。
「河野くん、帰れなくなると困るから、今のうちに万理ちゃんを家まで車で送ってあげて」
美土里は、万理に視線を送りながら河野に指示をした。
「社長、ありがとうございます。でも台風の進行予想図では、夕方には日本海側に抜けそうですよ。そうなれば、雨や風もおさまるから、自分で帰れると思います」
万理の言葉に、河野はどのように対応すべきかを決めかねて、美土里の言葉を待った。
「ううん、どうせこんな状態じゃ仕事にもならないだろうし、今日はもう休みにしましょう」
「2人とも、帰ってからは不要不急の外出は控えるようにね。看板でも飛んできて、怪我でもしたら大変だから」
2人は頷き、美土里は、椅子から立ち上がり、机の上を片付けて帰り支度を始めた。

「河野さん、ありがとうござました」
長い髪の毛が風で真横に引っ張られ、ほとんど顔が見えなくなってしまった万理が、ペコリとお辞儀をして、アパートの階段を昇っていった。
「さて、僕も帰るとするか」
河野は、万理が部屋に入るのを見届けると、運転席に座りなおし、ハンドルを回した。
独り暮らしのアパートへ車を走らせていると、いつも仕事の帰りに立ち寄っているスーパーが見えてきた。
「そうだ、食べるものを何も買っていなかったんだ」
アパートの冷蔵庫には、大したものが入っていないのを思い出したのだ。
河野は、昼食と夕食を調達しようと、スーパーに向けてハンドルを切った。
「何だ、これ」
河野の目に入ってきたのは、いつも惣菜が並べられている棚には、ほとんど何も載っておらず、肉や魚のコーナーも、僅かな量しか残されていなかった。
そこには、商品の代わりに「台風の影響で商品の納入が遅れています」との貼紙があった。
河野は仕方なく、ウインナーやチーズなどの加工品と残り少なくなった卵を買物かごに放り込んだ。
家に帰っても、どうせすることも無いし、台風情報でも見ながら飲もうか。
ウインナーを隅に押しやり、ビールと日本酒で一気に重くなったかごを手にレジに向かった。

激しい風雨で折れそうになる傘を開いて車外に出たものの、瞬時にズボンが、ずぶ濡れになる。
傘をさして雨を防いでいるのか、飛ばされないように支えているのか判らない状態で、なんとか買物袋をかかえて、河野は部屋に走りこんだ。
簡単な酒のつまみを作り、飲み始めてテレビを点けると、台風は河野たちが住む町に上陸したとのニュースが流されていた。
窓から外を眺めると、さっきの暴風雨が嘘のように収まり、空の一部には青く晴れているところも見える。
すっぽりと台風の目に入ると、こうも穏やかな世界になるんだと、妙な感慨に浸ったところで、この後訪れるであろう暴風雨を想像して窓を閉じた。
台風が日本海に抜けたというニュースが、記憶にあった河野の最後の場面だった。
ちびりちびりと飲んでいた酒の量が、いつしか限界を超えていたのだろう、テレビを前にした座椅子にもたれかけて寝てしまっていたようだ。
眠りから目覚め窓の外を見ると、雨は残っていたものの、風は既に治まっていた。
台風が通過する大半を、眠りの中で過ごしていた河野は、いつもと変わらない部屋の状態と、風で散った木の葉が道路に広がっているだけの様子に、当初に予想されていたほどの被害もなかったのだろうと安堵していたのだ。

それでも、点きっぱなしのテレビからは、台風が通過していったエリアの被害情報が続々と流されている。
冠水した空港には、電気も無い状態で数千人が取り残され、救助の見込みも立っていないらしい。
それでも、どこか現実でない、テレビの向こう側の出来事の作り話のように河野には思えてならなかった。

台風の凄まじさを教えられたのは、翌日のことだった。
台風一過、澄み切った空の下、柳本不動産へ出勤するために車を出そうと、河野は駐車場に向った。
遠くから見える車のボンネットの端が、なんだかいびつな光を撥ね返しているようにみえる。
なんと、太陽の光が乱反射していたのは、ボンネットの端のカーブをしている車体の一部がへこんでいるからだった。
そして、車のすぐ横には、風で飛ばされてきたであろう瓦が落ちていた。
見上げると、駐車場に隣接する一戸建ての屋根から数枚の瓦が飛ばされてきて散乱し、その1枚が河野の車のボンネットに当たり、車体をへこませたのは明らかだった。
「あいた~、マジか!」
河野は、手のひらで額を打った。
とりあえず河野はスマホを取り出し、瓦が飛ばされたであろう一戸建ての屋根、瓦の散乱した様子、車の横に落ちている瓦、そして変形したボンネットを写し、テンションの下がったまま柳本不動産へ車を走らせた。

「社長、見てくださいよ、このへこみ」
誰かに見てもらい、愚痴を吐き出さずにはおれない気持ちだ。
「そうね、確かに酷いわね」
美土里は、口を尖らせている河野を見て、半笑いで言葉を合わせた。
「でも、車両保険に入っていたら、修理代って出るでしょ?」
美土里はそう言うが、たしか、この車は車両保険には入っていなかったはずだ。
となると、瓦を飛ばした家の所有者から、修理代を弁償してもらうことはできるのだろうか?
河野が舌打ちしていると、柳本不動産の玄関を出てきた万理が、河野を呼んだ。
「河野さん、お客さんからお電話です。先日、管理物件の店舗に入居された、湊工業さんからです」と。
湊工業?さて、どうしたのだろう?
河野は、急いで事務所に戻り、受話器をつかんだ。
「河野さん、うちが借りている店舗の裏にある倉庫の壁が、台風の風で飛ばされたみたいなんです。横から雨が降りこんで、商品が濡れているんですよ、ちょっと、すぐ見に来てください!」
湊工業の女性事務員の怒るような声に、河野は電話口で謝っていた。
受話器を置くと、なぜ自分が謝っているのか?理由がつかめないと気がついた。
台風で倉庫の壁が飛んだのは、僕のせいなのか?
被害を受けているのは借主だけれども、原因は台風だし、台風の前には壁が飛ばされるなんて予想もしていなかった。
予想が甘かったのだろうか?
いや、壁の一部が外れかかっていたわけでもないし、予想外の強い台風の仕業であり、自分も所有者である貸主にも非はないと思うのだが・・・
責任問題は、この際置いておくことにして、河野は被害の状況を確認するために店舗に向った。

たしかに倉庫は酷い状態だった。
外側に貼られたブリキがめくれ上がり、内側に打ち付けられていた木製のパネルが雨水を吸い、ところどころで落ちていた。
急遽、柳本不動産が懇意にしている工務店の社長に電話をするにも、いっこうに繋がらない。
1時間ほど経って、やっと工務店の社長より折り返しての電話が入った。
「すまんすまん、昨日の台風で、あちこちから電話が入ってて、ほんとバタバタで電話に出ることもできんかったんや」
台風の被害が出た影響で、工務店も補修依頼などが一度に入ってきて、大忙しになっていのだろう。
だからと言って、壁が飛んでいる倉庫を、このままにしておく訳にはいかない。
河野は、とりあえず応急処置だけでもしてもらうように、工務店の社長に頼み込んだ。
「そっか~、それは大変やな~、柳本不動産の管理している物件のことやったら、何とかせなならんな。ほなら夕方には職人を行かせてなんとかするから、ちょっと待っててや」
河野はスマホの通話ボタンを切ると、大きくため息をついた。
「そうそう、先ずは所有者である貸主に連絡をしないといけない」
河野は再びスマホを取り出すと、貸主に被害状況を報告した。
「・・・なので、とりあえず応急処置はするように手配しました。きちんと補修をするための見積もりも早急に出しますので、よろしくお願いします」と。
工務店からの補修見積もりは、1週間ほどで出てきた。
出てきた数字を見て、河野は驚いた。
「え?300万を越えている?」
河野は、慌てて工務店の社長へ電話をした。
「そうやねん、あれだけ酷いと外側を全部やり直さなあかんのや。残念ながら、ちょっとした修理ぐらいじゃあ、もたんのや」と工務店の社長は、心苦しそうに説明した。

「社長、倉庫の壁が飛んだっていう物件ですけど、外壁のやり替えが必要だそうで、修理代が300万円を越えるみたいなんです、貸主さんは大丈夫でしょうか?」
河野は、貸主の懐具合を気にしていた。

借主さんが入居後すぐに、雨が降り、倉庫の屋根の老朽化が原因で、ところどころから雨漏りがしてきたようだった。
その補修のために100万円以上が必要となったが、貸主さんに修繕資金が無く、借り入れもできない状態だったので、仕方なく工務店にお願いをして、賃料分での分割支払いで工事をしてもらったのだった。
「あの貸主さん。たぶん、300万円以上なんて出せないと思いますよ。どうしましょう?」
美土里は、河野の話を聞いて首を傾げた。
「今回は、台風の被害で壁が飛んだんでしょ?だったら、建物に火災保険を掛けているとすれば、保険から修理費用は出るんじゃない?」
「そっか、じゃあ保険さえ掛けてあれば、今回の補修分は心配しなくてもいいんですね」
河野は、さっそく修理の見積額と、火災保険で補修ができるだろうということを貸主さんに連絡をした。
「え~、300万円もかかるの?全く金無いんだけど、どうしよう?」
河野の予想通りの答えだったので、火災保険を掛けていれば、心配なく、保険金が出るだろうということをアドバイスした。
「保険ね~、あの倉庫って火災保険掛けてたかな~」
え?まさか火災保険を掛けていない?
予想外の答えに、河野はたじろいだ。
「そういうことは、嫁に任せてたから・・・今夜、嫁に確認しておくわ。でも、もし火災保険に入っていないとすれば、どうしよう?」
どうしよう?って・・・・
「万が一、そうした場合には、どなたかお金を借りることができる人っていないんですか?」
「う~ん、いないよな~」
借主さんが困っているのは、河野も知っていた。
この店舗倉庫だって、元々は借主さんがご自身の商売で使っていたものを、商売が上手くいかなくなって、店を畳んだことで使わなくなり、空けてても仕方ないからと、貸し出された物件なのである。
ほんと、どうしたらいいのか?訊ねたいのはこっちだよ。

「火災保険に入っていないって?」
「いやいや、まだそうと決まったわけじゃないんですけど、もしかして、そうかも?って言われたんで、万一そうだとしたら、どうしたらいいかと思って社長に相談してるんですよ」
困ったときの神頼み。河野は、美土里の知恵に頼った。
「それは、困ったわね~。工務店も、今回は分割には応じられないって言っているんでしょう?さて、どうしましょう?」
「柳本不動産で借してあげるとかは?」
河野は美土里の顔を下から覗き込んだ。
「河野くん、何を甘いことを言っているのよ?今現在でも、以前の屋根の修理代金を毎月の賃料で支払っているんでしょう。柳本不動産が貸したとしたら、屋根の修理代を払いきったあとから、賃料で返済してもらうってことになるわけじゃない。そんなことできると思ってる?もし、賃料での返済の途中で、借主さんが退去したらどうするのよ?どうやって返してもらうつもり?」
美土里の剣幕に、河野は首をすくめた。
「今の借主さんが退去したとしたら、また違う借主さんを見つけて、そこからの賃料で、また返済を続けてもらうとか・・・」
「河野くん、いい加減にしなさいよ。先ずは火災保険に入っているかどうか確認しなさい」
美土里に睨まれて、河野はそれ以上言葉を続けることができなくなった。

結局、貸主さんは火災保険を掛けていなかった。
「ほんと、困ったわね~」
「そうですね、こんなことなら貸さなければ良かったなんて貸主さんも言い出しているんですよ」
「確かに困ったことだけど、倉庫の壁の補修費用は1年間の賃料で支払える程度だし、屋根の補修費用とか、その他もろもろを入れても、2年もあれば費用が賃料で回収できる計算なんだから、補修して10年くらい建物がもつとしたら、貸さない方が良かったなんていうのは間違いだと思うわよ」
河野も美土里も腕を組んで黙り込んだ。
「貸主さんは、賃料収入以外に収入は無いの?」
「はい、時折アルバイトみたいなことはしているようですが、所得らしい所得は無いようです」
「ふー、それなら普通の銀行とかでは融資してくれないわね。金利は高くなるけど、ノンバンクの不動産担保ローンでも申し込んでみる?」
「どうでしょう?お店も畳んでいることだし、もしかすると個人情報の信用に傷がついているかもしれないですよね。そうなるとさすがにノンバンクも融資は厳しいかと・・」
「たしかに、そうね~」
再び、2人は黙り込んだ。

しばらくして美土里は組んでいた腕をほどいた。
「じゃあ、次の一手に出てみましょうか」
そう言うと、美土里はどこかに電話を掛けると事務所を出て行った。
数時間後に、美土里は戻ってきた。
そして、河野に例の店舗倉庫の貸主と話をしたいからセッティングするように指示があった。

そして、翌日に、貸主さんが事務所にやってきた。
「お世話になっています。この度は台風の被害に遭われて、本当にお見舞い申し上げます」
美土里は深々と頭を下げた。
そして、応接室の椅子に座ると、ゆっくりと切り出した。
「河野からも聞いたのですが、被害に遭われた倉庫の壁につきまして借主さまの物品をきちんと保管できるように、貸主さまが壁の補修をしていただく必要があることは、ご理解いただいておりますよね?」
貸主さんは、黙って目を伏せて頭を下げた。
そして、顔を上げて意を決して貸主さんが何かを言おうとした。
貸主さんの口から、お金がないということを言わせてはいけない。
とっさに、美土里は貸主さんの言葉を制して、自ら口を開いた。
「火災保険が掛けられていたら、修理代金は保険金で賄えたと思われるのですが、河野の話では、火災保険も掛けておられなかったようで、本当にタイミングが悪く不運だったと思います」
「そうなると、貸主さん自身で補修費をご準備いただかないといけないのですが、なにぶん、お店を整理されて間が無いとのことで、それらのご準備もままならないと。そして、賃料については前回の屋根の補修費用の分割支払いに充てられているため、これ以上の分割支払いは受けられないと工務店も言っているようですね」
貸主さんは、情けない顔をして、どんどん縮んでいくようだった。
「どうぞお顔をお上げください。私は、責めているわけではないのですから。今日は、ご提案があってお越しいただいたんです」
貸主さんは八方塞がりと思い込んでいたようで、驚いたように顔を美土里に向けた。
「ご提案と言うのは、借主さんから、賃料の前払いを受けてはどうかということなんです。借主さんも倉庫が壊れたままでは困ることになりますし、借主さんから賃料の前払いをうけることで、倉庫の壁を補修しようということなんです」
「でも、借主さんは、そんな大金を賃料の前払いとして支払ってくれるのでしょうか?」
河野が疑問を口にした。
貸主さんも、河野の疑問を持っているようだ。
美土里は、貸主さんに向いて、話を続けた。
「もちろん、大きな金額を出すことになりますので、借主さんも苦慮されていました。でも、幸いなことに、今期は借主さんの会社は売り上げが伸びて利益が多くあったようなんです。なので、短期前払い費用として1年分の家賃を支払うことで、それを今期の費用に充てることができるので税金の節約になりますよ。とアドバイスさせていただきましたら、じゃあ1年分の前払いをしてもよい、とのお返事をいただいたんです。ただ、これまで月々支払いの賃料を、いきなり一括払いにすると、税務署に認められないこともあるので、税務署と税理士の先生と相談の上でのことですが、それでも要件を満たせば、できないことはないでしょうから、この方法で倉庫の壁の補修を行っていきましょう」
「賃料が入ってくると思っていたところに、屋根の補修や壁の補修で賃料が工事代金に充当することになり、いろいろご苦労を強いているようですが、これを乗り切れば、賃料収益が上がるようになりますから、どうか頑張ってください」
美土里は、力を注ぎ込むように貸主さんの手を両手で包み込んだ。

「良かったですね。貸主さんも喜んでおられましたね」
河野も美土里の機転に感謝した。
「ところで、僕の車の修理代なんですけど、これって瓦を飛ばした家の所有者に請求できるんですよね?」
「河野くん、何か考え違いをしているようね」
「考え違い?」
「ええ、そうよ。家の瓦などが飛んで誰かに損害を与えた原因が、台風などの想定外の自然災害が原因の場合は、家の管理者や持ち主は過失にならずに、損害賠償の責任は無いのよ。ただし、以前から瓦がずれていて風が吹いたら飛びそうなのに、それを直さずに放置したり、被害が予想されるのに、それに対しての備えを怠っていた場合には、損害賠償の責任が生じるのよ。だから、あなたの車がへこんだのが、隣の家の瓦が飛んできたことが原因でも、予想外に大きな自然災害だとしたら、瓦を飛ばした家の持ち主は損害賠償を負う必要はないという可能性もあるわけ」
「ええ~、それって本当ですか?」
「信じられないなら、自分でネットでも検索して調べなさいよ。だいたいケチって車両保険に入っていないのが悪いんじゃない?」
「そんな~、とりあえず、家の所有者にお話してみます」
「そうね、善良な人なら、責任を感じて車の修理費を支払ってくれるかもしれないから、交渉能力を磨くためにも、行って話をしてくるといいわ」
そんな会話を後ろで聞いていた事務員の万理から、微かな笑い声が漏れた。(完)

このドラマはフィクションであり、実在の団体や個人とは何の関係もありませんので、ご承知ください。