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女不動産屋 柳本美土里

「大野さん、この春で退職ですか?お疲れ様でした」
かつての部下や後輩から、そんな声を掛けられるようになった。
大野が勤める山元製作所は、工作機械の設計や製造を行う機械メーカーだ。
高校を卒業してから40年以上、この会社で営業一筋でやってきたのだが、この春に、とうとう定年を迎えることになる。
これまで毎年、先輩たちの定年退職を見送ってきたときには、仕事のストレスから解放され老後の人生を送れることを羨ましいと考えていた。
それが、自分の番になったとたん、そうとばかりは思えない現実に直面している。

引継ぎをする後輩とともに行った取引先との打ち合わせを終え、休憩のために立ち寄ったコンビニの雑誌コーナーに並べられている一冊の雑誌のタイトルが目に入り、後輩が飲み物の棚の前に行ったのを確認して手に取ってみた。
「老後破産」
パラパラとめくった紙面には、老後に必要な資金の額などが掲載されており、それを準備できていないとしたら、幸せな老後を暮らすことはできないと書かれている。
「老後のための貯蓄が3000万円や5000万円必要だと?子どもの教育資金や住宅ローンに追われる人生を歩んできたわしらに、どうやったらそんな大金を貯められるというんだ」
思わず吐き出しそうになった言葉を飲み込み、大野は雑誌を棚に戻した。

夫婦で普通に暮らすには、月25万円程度が必要とのこと。
年金でもらえる額は、年間で200万円にも満たないようだ。
その年金も、いつまでもしっかりと支給されるかどうか疑わしい。
なんとか自分の世代では、これまでのように年金が出たとしても、年間に必要な金額が300万円、年金が200万円とすると、毎年100万円もの金を貯蓄から出さなければならないのか。
年間100万円のマイナスということは、うちの会社の退職金は、1000万円ほどなので、10年もすればそれを使い果たしてしまうことになる。
それに、今の貯蓄をあわせても、金が底をつくまでにどれだけの時間が残るというのだろう?
「なんですか家に帰ってくるなり、貯金の額を知りたいなんて言い出して」
訝しげに妻の亮子は夫の顔を眺めた。
退職後の生活に対する不安を口にした夫に、妻の亮子は
「そんなこと心配しなくても、なんとかなるんじゃないですか?将来のことなんて、どうなるのかもわからないし」
そんな能天気な妻の言葉に、かえって不安が増し、大野は執拗に貯蓄額を尋ねた。
「そうね、だいたい500万円くらいかしら」
500万円!
ということは、老後資金が底を尽くまで、なんと5年間延びただけだ。
夫の落胆した表情を、長年連れ添った妻には一瞬で読み取られ、反撃の言葉を浴びた。
「だって、大きな金額なんて貯められるわけないでしょう。名ばかりの中小企業の課長のお給料なんて、たかが知れているのに、2人の子どもを育てて大学まで行かせて、あの子たちの結婚資金も出してやってるのに・・・」
そう言われれば身も蓋もない。
子どもの大学への入学金や結婚資金など、大きなお金が必要になったときでも、妻はまとまったお金をポンと出していた。
どこにそんなお金があったのだろうと不思議に思うほど、妻は少ない給料のなかで、しっかりとやりくりをしてくれていたのだ。

「そんなに心配しなくても、あなた、まだまだ元気なんだから、退職後もしばらく働いてくれたらいいじゃない。この頃は人手不足だっていうんだから、年寄りでも働けるところはあるでしょ」
妻はそう言うと、後ろから大野の肩を2度叩いた。
定年退職をしても、結局は再雇用先を探さなければならないのか?
ハッピーリタイヤとはいかないのか・・・

そんなことを考えながら、大野は今日も部下の運転する営業車の助手席に乗り込み、営業先へ引継ぎの挨拶に向かった。
「あれ?どうしたんだろう?いつもはこんなに混んでいる道じゃないはずだが・・・」
「ええ、昨日からこの先で道路工事をやっているんですよ。ほんと年度末が近づくと、道路工事が多くなって困りますよね~」
片側1車線の道路が片側通行になっているようだ。
白い手旗を振る交通警備員に誘導されて、車は反対車線に車線変更をした。
大野は交通警備員の顔を見た。
自分よりも5つ6つほど年上くらいだろうか、今どき、お爺さんというのには失礼にあたるくらいの年齢だろう。日焼けした上に、道路の埃を被っている顔は、浅黒い肌に深い皺が刻まれ、そのせいで余計に老けているようにも見える。
大野は、そう遠くない自分の未来を見るようで思わず視線を外した。

「定年退職しても、働いたらいいじゃない」「年寄りでも働けるところはあるでしょ」
昨夜の妻の言葉が、耳から離れない。
たしかに以前に比べると、年寄りでも働ける場所は増えているのかもしれない。
大きな会社なら、再雇用の道もあるのかもしれないが、よほどの技術者でなければ、うちの会社ではあり得ない。
ましてや、営業畑でやってきた社員が再雇用されたことは、これまで1人としていない。
となると社外で職を見つけなければならないのだ。
妻はそう言ったが、定年退職後に自分が納得できるような仕事に就くことが、どれほど難しいことなのか、よくわかっているつもりだ。

数年前のことだ。
休み明けの月曜日、部下がゴルフ場で数年前に定年退職した、かつての上司の姿を見たと噂をしていた。
なんでも、ゴルフ場の浴室で、タオルの交換や掃除をしていたらしい。
元上司が自分に気付いていたのかどうかは定かではないが、声を掛けるのも悪いような気がしたので、気付かないふりをしていたのだが、まず間違いないだろうとのことだった。
自分がもし、その元上司の立場だったら・・・
やはり、元部下の存在に気付いていたとしても、気付かないふりをしただろう。
職業に貴賎はないと言われるが、立場が大きく変わるのは辛いものがある。
下働きみたいな仕事をしているのを元部下に見られ、哀れみの目を向けられるのは、自分はやっぱり耐えられない。

あの先輩なら、何かいいアイデアを持っているかもしれない。
一昨年に大野と同じ会社を定年退職をして、今は小さな居酒屋をしている先輩の店に向かった。
「そりゃ、橋田さんはいいですよ。こうやって自分の店を持てて、しっかりと稼いでいるんだから。私なんて、起業するだけのスキルもファイトもないです」
大野は、手酌で熱燗を猪口に注ぎ、一気にあおった。
「あのな~、お前には、俺が店を開いてのんびり気楽にやっているように見えているかもしれんけど、これはこれで大変なんやぞ」
「食べ物商売なんて、客足が途絶えたら、いつ潰れるかもわからない。事実、数年で閉めて違う店になっているなんてこと、ざらにあるやろ?」
たしかに、駅前の焼き鳥屋も数年で閉店し、今は弁当屋に変わっている。
「じゃあ、私みたいな男は、定年退職後はどうしたらいいと思いますか?」
「そやな~、店を始めたり何かで起業するんは、あんまりお勧めでけへんな。上手くいく可能性が低いと思うし・・・変なプライドを捨てて、自分のできる仕事をするか、今あるお金を投資して稼ぐとかがええんちゃうか?」
「投資ね~」
先日、仮想通過の暴落で、数千万円の損を出したというネットニュースを見たばかりだ。
「俺の同期で、株とか外貨取引とかで生活費を稼いでるってやつもいるみたいやけどな。そんなんは、俺にはギャンブルのように思えてでけへんけどな」
いやいや、居酒屋を開くのも、けっこうなギャンブルだと思いますけど、という突っ込みは、酒と共に飲み込んだ。

投資か・・・
これまで営業として、取引先に様々な提案をして、どれだけ自社の売上を上げることができるか?ということしか考えてこなかった。
橋田さんが言われるように、投資はギャンブルのような印象が拭えない。
お金を増やすことができればいいけれど、もし減ってしまったら元も子もない。
やっぱり地道に働くしかないのか?
大野の瞼に、交通警備員の日焼けして埃にまみれた顔が浮かび、ゴルフ場で下働きをしているという先輩の姿を想像して、思わず溜息が出た。

昨日は、ちょっと飲みすぎたかな?
土曜日の遅めの朝食。
食卓につく前、やたらに喉が渇くので、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、グラスに注いだ水を喉を鳴らしながら飲んだ。
「お父さん、飲みすぎは身体に良くないですよ。いつまでも元気でいてもらわないと・・・」
そんな妻の気遣いの言葉も、今は素直に受け取れない自分がいた。
いつものように食卓に置かれた新聞とともに、今日は地域情報誌があった。
それは、行政の広報が主体となって作っているミニコミ誌で、毎月発行されているものだ。
営業先の担当者との雑談のネタに、大野は欠かさず読んでいる。
食後のコーヒーを飲みながら、地域情報誌を眺めていると、大野の目にひとつのイベントが目に留まった。
「お金のセミナー」
お金について学ぶことで、投資の基礎が理解できるというセミナーらしい。
セミナー開催がある明日の日曜日は、都合よく予定が空いている。
「これ、一緒に行くか?」
呼びかけられた妻は紙面を覗き込み、不思議そうに大野の顔と見比べた。

税理士を本業とするファイナンシャルプランナーだというセミナーの講師が言うには、資本主義社会の日本では、年を経るごとに僅かずつ物価が上昇するインフレになっているとのこと。
言われるように、物価の上下の波があるけれども、長い年月でみれば物価は上昇している。
昔は10万円で買えたものが、今では値上がりして10万円では買えなくなっている。
つまり、インフレの社会では、そのまま持っていたとすれば、年を経ることでお金の価値が下がる、インフレリスクがあるという。
では、銀行に預けていたら利息が付くから大丈夫なのか?
銀行の利息がインフレ率よりも高い時期なら、預けておけばインフレリスクはなくなるが、今のような超低金利の時期では、インフレ率の方が高いため、銀行に預けていてもインフレリスクは解消されない。
では、どうすればいいのか?
お金を投資することで、お金にお金を生み出させ、インフレリスクに備えることが大切だという。
しかし忘れてはならないのは、投資をするとリスクがあるということ。
株やFXなどは、短期間でお金を大きく増やす可能性もあるが、その分、大きく減らすリスクもある、いわゆるハイリスク・ハイリターンであり、国債などの債権は、リスクは少ないものの大きく儲けることは難しい、ローリスク・ローリターンなのだそうだ。

リスクが高いのは怖いし、リターンが低いとインフレリスクの解消にはなるかもしれないが、不足する老後資金を補填するほどにはならない。
結論としては、投資のリスクを減らすためにも、リスクの高いものや低いものなど、いろいろなものにお金を分散させて投資するのが良いらしい。
大野たちが興味を持ったのは、投資信託と不動産投資だった。
投資信託はいろいろな商品があり、うまく組み合わせることで、株やFXの高リスクを避けることができるらしい。
不動産投資も投資信託と同じく、物件の選定に間違いがなければ、安定した収益が得られそうだ。
「良かったら、お力になってもらえそうな不動産業者をご紹介しましょうか?」と言われ、講師から紹介を受けたのが、柳本不動産だった。

「初めまして、柳本美土里と申します」
柳本不動産代表という肩書きの美土里の名刺を見て、再び大野は美土里を見返した。
会社のなかでも、大野の背は低い方ではなく、どちらかというと高い部類に入る。
その自分と変わらないくらいの身長である女性社長は、ブラウンのニットのワンピースに、エスニック調の大きなペンダントを磁器のような白い首から下げていた。
不動産屋さんの社長と言うと、太ったオジサンをイメージしていたのだが、そのイメージを大きく覆す容姿に目を奪われ、用件を切り出すのを忘れてしまっていた。
言葉を掛けてきたのは、美土里の方だった。
「不動産投資に興味をお持ちとお聞きしていますが、もう少し詳しいお話をお聞かせ願えませんか?」

大野は、もうすぐ退職になること、住宅ローンは完済となるので住むのには困らないが、預金と退職金だけでは、これからの老後の生活に不安があることを話した。
「そうですか、年間100万円の不足となるので、それを補いたいということですね」
「お手持ちの1500万円を全て不動産投資に回せば、実質利回り5%で、年間75万円の捻出となります。これなら想定としている年間生活費300万円に25万円、月々にすると2万円ほど不足しますけど、なんとかやりくりできる金額になりそうですね」
「でも、怪我や病気など、突発的な出来事に備えるためにも、ある程度の現金、そうですね~、300万円くらいは確保していた方が安心だと思います」
「そうすると、投資に回せるお金は1200万円となるため、5%利回りで年間60万円の収益となります。この場合では年間40万円が不足することになりますね」
「じゃあ、その不足分はどうしたらいいんでしょうか?」
「そうですね、ご自宅の住宅ローンを完済されたということですから、リバースモーゲージという方法で自宅を担保に資金を融資してもらうことも可能ですね」

リバースモーゲージ、耳にしたことはあるが、内容はよく知らない。
「リバースモーゲージですか?もう少し詳しくお聞かせいただけますか?」
「はい、簡単に言うと、自宅を担保に金融機関からお金を借りるのですが、その元金の返済は亡くなった後に自宅を売却して行われる融資方法です」
「最初に一括で融資を受ける方法もあれば、融資限度額まで定期的に融資を受けることができる方法もあります。また、金利のみ毎月返済するほか、金利も元金も月々支払いは行わず、完済時にまとめて支払うという方法もあります」

「でも、どちらにせよ、リバースモーゲージは借入となりますので、できるならば極力借りないですむ方法を探した方がいいと思います。状況によりますが、最初の不動産投資が順調であれば、2軒目3軒目の不動産投資の道も開けてくると思います。それらの購入は借入で行うとしても、収支がプラスなら、リバースモーゲージで生活費を借りなくても不足分をカバーすることも可能になるでしょう」
大野は少し首を傾げた。
「同じ借入なのに、リバースモーゲージでの借入と、不動産投資の借入とでは、どう違うのですか?」
美土里は、大きく頷いた。
「リバースモーゲージは、基本的に生活資金を借りるための消費のための消極的な借入です。それに対し不動産投資への借入は収益を出す資産に対する借入となりますので、リスク管理をして収支がプラスになるのであれば、その借入は悪いことではないのです。簡単に言えば、借入をしたとしても、不動産の借主が支払ってくれた賃料で融資金の返済ができ、かつ現金が手元に残るのであれば、どんどん経済的に余裕ができることになりますよね」
「また、時期をみて自己資金で購入した投資物件や、返済が進んだ物件を売却すれば、まとまったお金もできるので、その後の余裕を持った老後を送ることも可能となるのではないでしょうか?」
でも、そんなに上手くいくものだろうか?
大野の不安を美土里は読み取ったようだ。
「たしかに、不動産投資にもいろいろなリスクがあります。しかし、それらのリスクを想定して対策し、いつまでも入居者が現れるような物件を選び作ることで、リスクは減らすことができると思うのです。物件選定からリスク管理まで、しっかりとアドバイスさせていただきますので、その点はご安心ください」
美しい女性社長だということを差し引いても、信用できそうな人だ。

「それと、投資は分散投資が必要と聞きましたが、株や債権などへの投資はしなくてもいいんですかね?」
「そうですね、余裕があれば株や債権への投資もされた方がいいと思います。でも失礼ながら、あまり余裕資金がない今は、できるだけ安定的に収入を確保した方がいいと思うのです。老後資金の不足分を補填することが目的ですので、そのためには不動産投資の方が向いていると思われます。余裕資金がなく株などをすると、値下がりをしたときに買い増しをする資金が不足したり、値上がりをしたときに、すぐに換金することになったりするので、変動リスクに耐えられない可能性が高くなります。これから長期に亘って資産を形成するのではないので、変動リスクの高い株やFXは避けた方が無難だと思いますよ」
それまで、じっと隣で話を聞いていた妻がニコリと笑った。
「はい、大丈夫です。株は、私が働いていた頃に買った自社株を今でも持っていますので、そういう意味では分散投資はできていると思います」
なに、株を持っているって!?
「この前、家にあるお金について尋ねたときは、そんな話してなかったじゃないか」
「だって、あなたは貯金がいくらあるか?って聞いたでしょ。だから貯金の額を言ったのよ。株は貯金じゃないし」
「それに、その株は私が会社勤めしてたときに、自社株積み立てで買ったものよ。もし、あなたが先に逝ったら、その後の生活も考えておかないといけないじゃない」
それを聞いて、美土里は口を挟んだ。
「それなら、心配いりません。ご主人様が亡くなられても、投資した物件は残りますし、もし融資を受けて購入した物件があれば、生命保険で融資金が完済されることになりますから、借入がついていない無担保で収益のあがる不動産も残ります」
「まあ素敵、それなら安心ね」
「素敵って・・・」
大野は、複雑な表情になった。

柳本不動産から家に戻る車の中で、大野はさっきから気になっていることを妻に尋ねた。
「ところで、その買っていた自社株っていうのは、今ではいくらくらいになっているんだ?」
「そうね、私が辞めた後しばらくしてから、あの会社は株式上場をしたこともあって、買ったときよりも、かなり値上がりしたみたい。最近の株価から計算すると、ざっと1000万円くらいかしら」
なんと、妻は1000万円もの株を持っていたのか。
「ね、だからそんなに心配しなくても大丈夫って言ったでしょ。これまであなたは仕事ばかりで、家に居られる時間も少なかったんですから、これからは2人の時間を持つようにしましょうね。そして健康に注意して、いつまでも元気でいてくださいね」
妻の言葉が胸に沁み入り、最近つとに緩くなった涙腺を妻に悟られないよう、大野はあくびをするフリをしながら指で瞼を拭った。(完)

このドラマはフィクションであり、実在の団体や個人とは何の関係もありませんので、ご承知ください。