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女不動産屋 柳本美土里

白いウイングカラーのシャツに黒の蝶ネクタイ、黒のベストを着たウェイターが運んできたのは、バルサミコソースなのだろうか、赤黒いソースがかかった鴨肉のソテーらしい。
適当な大きさに切られた鴨肉に、表面に焦げ目がついたフォアグラが載せられ、その上にある指先くらいの大きさの黒い粒の塊はキャビアだろう。
純粋にフォアグラを味わいたくて、ナイフでキャビアを少し動かし、フォアグラの一片を切り取ると、口に運んだ。
柔らかな食感が口内に広がり、豊かな味わいが鼻から抜けるようだ。
まだ味わいが残っている間にグラスを持ち上げ、赤ワインを流し込んだ。
ワイングラスをテーブルクロスの上に戻す途中に、半円形の室内に沿うようにはめ込まれた全面ガラス張りの窓から、ビルの夜景の間を縫うように配置された道路に、車のライトが川のような流れを作っているのが見えた。
「はぁ~、ホント素敵」
まるで、映画の主人公になったようだわ。
江里子は、流れる車のライトを遠くに見ながら溜息をつき、田舎にいた頃のことを思い出していた。

高校を卒業するまで、江里子は広島の田舎に住んでいた。
山間部にある江里子の住む村には鉄道はなく、公共の交通手段といえばバスがあるだけ。
広島市内に行くには、バスで約1時間の距離を揺られなければならない。
そんなバスでさえ、夜7時半の到着が最終バスとなり、それより遅い時間に屋外で動くものといえば、イノシシか狐くらいのひっそりとした村だった。

高校の修学旅行で初めて大阪に行ったときのこと。
とんでもない人混み。
全員が競歩のように早歩きをしている。
天を突くような高いビルがいくつも並んで建っている。
大きな道路を埋め尽くす車の量。
どこにこんなにも待機しているのだろうと思うほど頻繁にやってくる電車。
都会と言えば広島市内しか知らない江里子にとって、大阪は驚くことばかりだった。
江里子にとって、驚きは興味となり、いつしか憧れとなった。

「江里子は高校を卒業してから、どうするの?」
小さな村のことなので、簡単に自分の気持ちを明かしてしまうと、まわりまわって父の耳に入る可能性もある。
なので、クラスメイトからの質問には適当に誤魔化していたけれど、心の中では村を出て都会で暮らすことを決めていた。
「江里子は、地元の農協か市内の銀行くらいに行ってくれればいいんだけどな~」
あるとき、父が母に話しているのを耳にした。
それからというもの、自分の進路について話すことはできなくなっていた。

都会の短大でキャンパス生活を送る。
そんな憧れはあるものの、父には怒られるだろうし、家の経済状態を考えると、そんなことはとても言い出せないし、聞き入れてもらえないことは火を見るよりも明らかだ。
だからと言って、地元で就職するという選択をすれば、何年か勤めて、地元に勤める適当な男性と出会うか、お見合いで結婚をして、子どもを産んで育てて、歳をとって、お婆さんになって・・・
きっと、そんな先の見えた人生のレールに乗ってしまうような気がした。
さて、どうしたらいいものか?

そんな江里子に光をもたらす情報が入ってきた。
「看護学校なら寮に入れそうだし、奨学金も充実しているようだから、あまりお金を掛けずに行けそうだよ」というものだ。
江里子は、関西エリアの看護学校の入学条件や奨学金制度、特待生制度などを、躍起になって調べた。
そして、経済的な面でクリアする方法と看護師になりたい理由を武器に、父母に気持ちをぶつけた。
渋い顔をする父に対し、母は江里子の味方についてくれた。
「まあ、江里子がここまで熱心に調べて、頑張って行きたいって言っているんだから、いいじゃないですか。看護師として社会の役に立てるのだし、看護師さんなら引っ張りだこで、食いっぱぐれることもないと言いますし・・・」
最後には父も、「関西エリアの学校なら」という条件をつけて、承諾をしてくれた。
これで、自分の人生のドアを開くことができそうな気がした。

無事に看護学校に入学し、3年間の学生生活はあっという間だった。
卒業後は奨学金を出してくれた病院への勤務が待っており、当然にその病院で看護師として勤めることとなった。
山本幸一郎と出会ったのは、江里子が病院勤務6年を迎えた頃だった。
他の病院から引き抜かれた優秀な外科医で独身、年齢も30歳という触れ込みは、江里子を含めた独身看護師の興味の的となり、赴任してきた山本医師は、彼女たちの興味をさらに熱くする容姿でもあった。
しかし元々、積極的に異性に接するタイプでもなく、同じ病院で勤務しているものの、医者と自分とはどこか違う世界の人と思っていた江里子を、山本から見ると新鮮に映ったのかもしれない。
最初に声を掛けてきたのは、山本の方からだった。
「今度の休みに、一緒に映画でも行きませんか?」
思いがけない誘いに江里子はびっくりしたが、特に断る理由もなく、快諾することにした。
そうしてデートを重ねるうちに、意外にも山本の実家は決して裕福な家庭ではなかったため、苦労をして医学部に通ったこと、医療に対する山本の熱意などを感じ、惹かれるようになっていった。

山本は、これまでの江里子の人生の中では行ったこともないような、高級な店や料理を体験させてくれた。
そんな時間を持つことで、ハイクラスの人間になったような気をさせてくれるのも、江里子にとっては堪らなく気持ちが高まる要素でもあった。
そんな付き合いが2年経ち、2人が結婚を意識するようになるのは自然の流れだった。
「江里子、新婚旅行はどこに行きたい?」
「そうね、ニューヨークとかラスベガスとか行ってみたいわ」
「それなら、まとまって休まないといけないから、日程の調節をしないといけないね」
結婚して子どもが生まれるまでの間は、山本の住むマンションに2人で住むことにした。

そんな結婚前の、忙しくも楽しい時間を過ごしていたある日のこと、いつもの喫茶店で山本の表情は、いつになく沈んでいた。
「どうしたの?急に呼び出したりして」
テーブルを挟んで向かいに座る山本は、眉間に皺を寄せ、口を一文字に結んで青ざめていた。
どう見ても様子がおかしい。
江里子の呼びかけにも応えず、山本は口もつけてない目の前のコーヒーカップを見つめ続けていた。
江里子が3度目に声を掛けたとき、山本は俯いたまま、やっと口を開いた。
「ごめん、結婚できなくなった。これ以上付き合えないんだ、本当にごめん」
あまりに突然の予想外の話で、山本の言う言葉は耳に入ってくるのだが、頭には入ってこない。
頭の機能が停止してしまったように、どういう意味なのか理解できず、江里子は電池の切れたロボットのように固まってしまった。

ようやく山本の言葉が頭に入り、意味を理解しても、それに対して出てくる言葉は「どうして?」だけだった。
山本は江里子の疑問に答えることはなく、真っ赤に目を腫らしたまま「ごめん」と繰り返すだけで、最後はテーブルに頭をつけるようにして謝ると、逃げるように店を出て行ってしまった。
残された江里子は、あまりに突然の出来事が悪い夢のように思え、自分の手の甲をつまんでみた。
かすかな期待も裏切られ、手の甲の皮膚から痛みが伝わり、胸で弾け広がったようだった。
喫茶店から、どうやって自分の部屋に帰ってきたのかもわからない。
悲しいという感情は認識できないのだけれど、涙が次から次へと溢れてくる。
我に返ったとき、「どうして?」と繰り返すだけの自分がいた。

勤務先である病院に行けば、嫌でも山本と顔を合わすだろう。
そうなれば辛くて仕方ない、いっそ退職してしまおうか?
そんなことを考えながら病院へ出勤すると、既に山本の方が病院を辞めていたのだった。

「江里子、どうしたの?最近元気がないけど・・・」
看護学校時代の同級生の岡本里香から、病院の食堂で声を掛けられた。
「うん、ちょっとね」
「ちょっとねって、いったい何があったの?」
江里子は隣のテーブルの同僚を横目でチラリと見ると、ここでは話しにくいからと、勤務後に里香と食事に行く約束をした。

「何それ!?それってあんまりじゃない」
江里子から山本との別れを聞いた里香は、憤慨をビールに当たり散らすように、ジョッキを空にした。
「それであの男、いきなり辞めたわけね、ほんと酷いやつ!」
「里香、怒ってくれるのは嬉しいんだけど、私には訳がわからないだけで、あの人がそんな酷い人だとは思えないんだけどなあ」
「江里子は呑気なこと言ってるわね。それなら私が調べてあげる。どうして山本先生が江里子と別れないといけなくなったのか」
それで明らかになった結果が辛いものだったとしても、こんな宙ぶらりんの気持ちのままでいるよりは、何倍もいいかもしれない、それならそれで吹っ切れる訳だし。
お節介と面倒見の良さが紙一重の里香だけれど、ここは里香の人脈と情報網に頼ることにした。

里香は看護師仲間のネットワークからの情報で、山本医師が江里子と別れないといけなくなった理由を、思ったより早く知ることができた。
「以前に、医師が集まるパーティーがあったときに、山本先生がお酒に酔ったみたいで体調を崩したことがあったらしいの。そのときに、パーティーに病院長の姪も参加していて、その姪が山本先生の介抱のためにパーティー会場から連れ出したみたい。連れ出された山本先生は、会場になっていたホテルの部屋で寝かされていたそうよ。で、その姪が付きっ切りでいたらしいわ」
「それから暫くして、病院長の姪に山本先生が呼び出されて、妊娠していることを告げられたらしいの。パーティーの日に山本先生も意識があってそういうことになったのか、意識が朦朧としていたのかまでは、私にはわからないけどね。でも、そんなことをするほどの女だから、責任をとってくれないと病院長に言うとかなんとか言って、山本先生を脅したんじゃない?」
「ほら、病院長の姪っていうのは、あの斉藤瑠璃子よ」

たしか、斉藤瑠璃子というのは、江里子たちと同じ看護学校の2級下に在籍していたはずだ。
瑠璃子の父親は、兄弟で系列病院の院長をしており、江里子たちの病院の院長の弟だ。
学生時代から、派手めの服装と化粧で、なかなかの遊び人っていう噂も耳にしたことがある。
「あの女なら、それくらいのことしそうだわ。で、山本先生は瑠璃子の父親が院長をしている病院に移ったそうよ」
里香が憎々しく言い捨てた。
なんと、そんなことがあったのか?
山本は、あの喫茶店でひたすら謝っていたとき、どういう気持ちだったのだろう。
本当に知らないうちに、斉藤瑠璃子の罠にかかったのか、それとも浮気心があったのか?
あの涙は、自分への謝罪の気持ちが押し出させた涙だったと思いたい。
江里子には、山本と付き合っていた2年間が、遠い昔の話のように思えてきた。

江里子は仕事に集中するようにして、山本の影を消そうとしていた。
それでも、ふと気が付くと、山本が診察していた部屋の前を通ると、ついつい思い出してしまう。
そんな江里子を見かねて、里香は事あるごとに江里子を誘って外出した。
「ねえ、江里子。私、そろそろ寮を出て独り暮らししようかと思っているんだけど、部屋探しに付き合ってくれない?」
「あれ?寮ならご飯の支度をしなくてすむから楽ちん~なんて、里香言ってなかった?」
「まあ、それはそうなんだけど・・・何かと寮は規則とかがあって煩わしいしね」
「はは~ん、さては里香・・・」
江里子は里香の顔の前で、とんぼを採るように指を回転させた。
「ううん、そんなんじゃないのよ、そんなんじゃ・・・」
江里子の推測に、里香は真っ赤に顔を染め、慌てた。
「正直に言いなさいよ」
「う~ん、まあ白状すれば、図星ってとこかな」
問いただすと、里香には彼氏ができたらしい。
病院に勤務する放射線技師、たしか江里子たちより1つ年下だったと思う。
「寮だと門限もあるし、外食するときには前もって言っておかないといけないから面倒で」
「まあ、そうよね。じゃあ、一緒に部屋を探しましょう」
里香が自身の幸せを、まだ辛い思いをしているだろう自分を思いやって言いにくそうにしていたこと、それでも、外へ引っ張り出して気を紛らわせてあげようという気持ち、それらが江里子には嬉しかった。

顔が広い里香が、友人から紹介を受けていた不動産会社は、女性社長が経営しているという。
駅前に似つかわしくないレトロな建物がその不動産会社の事務所だった。
「柳本不動産」
扁額に達筆で書かれた文字は、時代を感じさせるものだ。
里香たちを担当してくれたのは、柳本美土里という女性社長だった。
「うちは、営業が1人と私しかいない小さな不動産会社だから、普通に私も営業に出るのよ」
そう言う美土里は、スラリとした長い脚でアクセルを踏んだ。
2度目の案内で、里香の希望する部屋が見つかり、契約をすることになった。
「ところで、岡本さんのお友達の福山さんは、お引越しとかは考えておられないの?」
江里子は美土里から水を向けられた。
「ええ、私は今の部屋が気に入っているから・・・それに、引越しも面倒ですし」
江里子は、口ではそう言ったものの、里香の部屋探しに付き合っているうちに、自分も引越ししようかと思うようになっていた。
最近では、仕事中には山本のことは滅多に思い出さないのだが、部屋に帰るとどうしても思い出してしまう。
山本と一緒に料理をしたキッチンや、一緒に見た窓辺の景色。
引越しすれば、そんな思い出ともお別れできそうだ。

「今、家賃ってどれくらい払っているの?」
江里子は答えた。
「そう、あの辺りなら、広さは2DKってとこかしら?」
「ええ、そうです。さすがですね」
美土里は微笑んだ。
「もし、同じような部屋を買ったとしたら、35年ローンで、これくらいのローン支払いで買えるのよ。それに管理費や修繕積立金を足してもこれくらいかな?」
美土里は、電卓の数字を江里子に見せた。
その数字は、江里子の部屋の家賃より2万円も低いものだ。
「え~、そんな金額でマンションの部屋が買えるんですか?」
横から覗き込んだ里香が声を上げた。
「ええ、そうよ。今は金利も低いし、値段もかなり下がったから、これくらいの金額でマンションが買えちゃうのよ」
美土里は、さらりと言った。
「でも、買っちゃうと、何かあったときに動けないじゃないですか?結婚でもしたりして・・・」
江里子は冷静に質問をした。
「う~ん、そうでもないわよ。引越しをする必要が出たら、マンションを貸しちゃえばいいのよ。今のあなたの部屋のオーナーさんのように。そうすれば、その賃料でローンやその他の費用も支払えるので、人のお金で資産を作っているみたいなものね」
なるほど、美土里の言っていることは、もっともだ。
「ただ、やはりリスクはあるから、それは頭に入れておかないとね。まず第一は空室リスクと言って、借り手がすぐに現れればいいのだけれども、なかなか借り手が現れないとか、退居したあと、次の入居者が入るのにタイムラグがあれば、その期間は賃料が入らないので、ローンや管理費などは自分で負担しないといけなくなるわね」
江里子は頷いた。

「でも、空室リスクが大きいか小さいかは、購入するマンションの立地や部屋タイプなどによると思うわ。もし将来、貸し出すことになっても、すぐに入居者がつくような部屋を購入するってことが大切だわね」
「でも、それは私がしっかりと選んであげるから、安心して」
美土里は小さく拳を握った。
「それとね、家賃より下がった分は、しっかりと貯金をして、貯蓄額がまとまったら、ローンの繰上げ返済をすればいいと思うわ。今から35年ローンにすると65歳で完済となるんだけど、早く完済してしまえば、もし空室があったとしてもローン分の負担はなくなっているんだから、かなり楽になると思うわよ」
どちらにせよ、しばらくは結婚することもないだろうし、美土里の勧めるようにマンションの一部屋を買って引越ししようか。
そんなことを漠然と考えていると、横から里香が美土里に話しかけた。
「じゃあ、あたしも部屋を借りるんじゃなくて買った方がいいんじゃないんですか?」
美土里は、にっこりと里香に微笑みかけた。
「そうね、基本的には、私はそう思うんだけど、もし、近いうちに結婚するようなことがあって、また引越しをする必要が出たりしたら、短期間に引越しを繰り返すことになるわね。引越し貧乏って言葉があるくらいだから、その費用もバカにならないんじゃないかしら?さきほど話をした空室リスクというのもあるんだし。まあ、最初から貸すことを前提に不動産を買うというのも、ありかとは思うけどね」

「2人で暮らしたり、子どもができたりして、買った部屋が手狭になる可能性も里香にはあるんだから、とりあえずは賃貸にしておいたら?」
「それに、やっぱりご飯作れない~って寮に戻ることになるかもしれないしね」
自分でご飯を作らないといけないことに、不安を抱えているのだろう、江里子の言葉に里香は納得したようだ。
「じゃあ、美土里さん、とりあえず良さそうな部屋を探してもらえますか?条件はお話させてもらいますから。それで条件に合う部屋が見つかったら、購入を検討してみたいと思います。」
江里子は、住む環境が変われば、いろいろなことに変化が起こりそうな気がしてきた。(完)

このドラマはフィクションであり、実在の団体や個人とは何の関係もありませんので、ご承知ください。