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ラビットプレス+10月号


織田信長(山形県天童市三宝寺)、豊臣秀吉(豊国神社)、徳川家康(堺市立博物館蔵)

現代の経営者やリーダー養成には戦国の三英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がそれぞれに行ってきた政治的戦略を分析した多くの教材が手本として扱われる。その手法は養成講座に通う各界の若きリーダーを三英傑それぞれのタイプに分類し、個人に合った英雄の政治と思考、企画力や統率力を学び実践させようとしてきた。しかし、複雑化しすぎた現代において、もはや450年以前の一人の天下人にその全てを委ねたところで、企業活動の様々なシーン全てに対応させることは難しい。歴史は繰り返す、が、歴史に学ぶには、多くの先人の「良いとこ取り」と、彼らの失敗をつぶさに検証し、その原因を肝に命じて現代社会を戦っていかなければならない。
信長は武家社会の基礎を作った鎌倉・室町時代の終焉を「破壊」という手法で切り裂き、秀吉は信長亡き後の治世に「創造」の社会を実現すべく尽力した。そして家康は、信長・秀吉の「良いとこ取り」を率先して取り込み、戦国の乱世に終止符を打っただけではなく、そこから続く未来へのレールの方向を定めたのである。

これまでに節操無く気の向くままに書き散らかしてきたこの「戦国武将シリーズ」の締めくくりに相応しく、我が国を今に導いてきた歴史の転換期に登場した立役者たちは、まるで出来レースのように見事にバトンリレーを成功させた。そして、そのアンカーとして第4コーナーからホームストレッチを悠々と走り抜けた徳川家康の経済手腕を披露し、このシリーズを一旦終えたいと思う。


大坂夏の陣屏風絵図(大阪城天守常設館蔵)

【大坂の陣…家康の目論見と豊臣秀頼という存在】
家康の天下統一を語るには、豊臣最後の戦い、大坂の陣勃発の“もう一つの理由”について理解しておかなければならない。
関ヶ原合戦後、65万石程度の大名に減封された豊臣家であったが、朝廷の加護により豊臣公儀は未だその威信を失ってはいなかった。一方、家康の関ヶ原戦後処理は、これまでの戦勝特権としての利己主義的な地図の塗り替えではなく、今後の天下国家を創造する為の中長期ビジョンに基づいた政策的な対応が目立っている。中でも最も家康が実行しなければならなかったことは、豊臣秀頼と生母淀殿の大坂城からの退去、つまり「国替え」であった。
関ヶ原合戦は東軍(徳川率いる豊臣左派の軍勢)と西軍(毛利輝元、石田三成らによる豊臣右派の軍勢)の大きな派閥争いであり、いずれの軍においても大義は「秀頼公ご守護」であった。従って、そもそも徳川と豊臣の間に遺恨はなく、戦後の処遇においても行政上のトップとなった家康が実行できることは政策上の豊臣家厳封が精々であった。しかし、家康はどうしても秀頼を大坂城から、厳密には大坂から遠方の地へ移封しなければならないと考えていたのである。

大坂城と言えば、豊臣秀吉が築城し、天下の台所として豊臣政権の本拠とした城であるというのが誰しものイメージである。しかし、元々大坂城築城を計画し、普請を命じたのは織田信長である。天正8年(1580年)、戦国時代最大の寺社武装勢力である本願寺勢力と、織田信長との軍事的・政治的決戦(石山合戦)の末、朝廷の講和推進(正親町天皇による勅命講和)によって本願寺法主の顕如が大坂退去の誓紙を信長に届けて戦闘行為を休止し、10年間に及ぶ戦いの幕を引いたのである。後世、この地(摂津国東成郡生玉荘大坂=現大阪市中央区の上本町から北へ法円坂辺りまでの一帯)に築かれていた浄土真宗の寺院を石山本願寺と呼ぶが、当時は「大坂本願寺」または「大坂城」と称していた。信長は、顕如らが開城した直後に火を放ち、資料(「信長公記」巻十三)によれば丸二日間炎上し続けたと云われる。その後信長は新しい城の普請を丹羽長秀に命じ、安土城を凌ぐ規模の築城に着手しようとしていた(「信長公記」)矢先、本能寺に倒れたのである(この時までに縄張りと正門はほぼ出来ていたとされる)。天正11年(1583年)、この計画を引き継ぎ、黒田孝高(官兵衛)を総奉行に大坂城を完成させたのが羽柴筑前守秀吉(豊臣秀吉)である。
さて、信長、秀吉と二人の天下人が揃って大坂の地に拘ったことは当然のごとく家康も承知しており、当時の日本の要衝は大坂を置いて他に考えられなかったということを表している。大坂という地の利(京への水運、瀬戸内海と堺港は西国及び外国への玄関口)を掌握することと、商工業(工業は主に鉄砲製造)の中心として当時日本一の都市であった堺を統治することが家康の天下統一には絶対条件であった。大坂・堺を抑えれば、日本の軍需物資(鉄砲火薬の原料である硝石など)の大半を抑えることとなり、また海外からの輸入品や国内の物流もコントロール出来、信長が生前に越後上杉や甲斐武田の物流制御を行った戦略的政策を目の当たりにしてきた家康は、どうしてもここを秀頼から奪わなければならなかったのである注1


オランダの東洋学者、ハドリアン・レランドの日本六十六州図:日本の中心は大坂だった。(国土地理院蔵)

注1
「此頃までも大御所は猶さりともと、常高院尼をもて城中へ和議を仰つかはさるるといへども、秀頼母子終にその命にしたがはず」(「徳川実記」)
大坂夏の陣の数日前(慶長20年5月4日)に記述された徳川実記が正確だとすれば、この時に至っても未だ家康は秀頼と淀殿に大坂城退去と国替えを条件とした和議を提示していたことになる。


徳川実記(成島司直等編:経済雑誌社)

~享保の改革に見る、大坂経済Vs江戸の首都機能~
享保元年(1716年)は大坂夏の陣から丁度100年後である。徳川第8代将軍吉宗公によって主導された幕政改革は、幕府財政の再建が主たる目的であったが、その他文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡り、江戸の三大改革(享保、寛政、天保)の最初と学術上の慣例として表されている。その中に、大坂堂島の米市場の公認が公共政策として敢行され、「敷銀」(証拠金)による差金決済、所謂先物取引を可能とした(現代の基本的な先物市場の仕組みを備えた)、世界初の整備された先物取引市場として堂島米会所を設立するなど、当時の大坂には全国の年貢米が集積されていたのである。その他、醤油、油は全国の取扱高の76%が大坂市場で取引され、精製前の綿(繰綿)に至っては100%大坂で取引されていた。つまり、当時の主要産業の殆どを大坂経済に依存している首都江戸の姿を知れば、江戸開闢(かいびゃく:荒れ地などを切り開くこと)から100年以上も経てなお、経済の中心を大坂に奪われ続けていたのであるから、家康の時代はもっと巨大な市場であったに違いないのである。
そこに豊臣秀頼が居ることは許されなかったのだ。


現在の取引所プレートと堂島米会所絵図(大阪府立中之島図書館蔵)

【キリスト教の禁止…信長政策の裏】
信長が南蛮貿易を積極的に活用し、海外からの物資(特に鉄砲火薬の原料である硝石)の輸入と引き換えにキリスト教布教を容認してきたことは本編「織田信長経済政策のここが凄い!~第2話」で書いたとおり、当時世界で最も強国であったポルトガルとの貿易にはキリスト教布教は条件だったからだ。
信長の時代、他の大名たちも信長同様に鉄砲や弾薬を手に入れる為、キリスト教布教に協力し、自らも入信する者(キリシタン大名)まで現れた。
しかし、天下を統一し戦乱の時代を終わらせようとしていた秀吉、家康は、大名らが武器を輸入することを好とせず、布教を禁止することで外堀を埋めようとしたのかもしれない。併せてポルトガルやスペインに対する不信感や理不尽な振る舞いに対する対抗措置としても、布教を禁じ宣教師を締め出す理由のひとつであった。
彼等は慈善的に振る舞う裏で日本人奴隷の人身売買の仲介役として暗躍し、東南アジア諸国に輸出していた(天正遣欧少年使節団手記によれば、各国で日本人奴隷が過酷な労働を強いられている姿に心を痛めたという)。また、武器密輸や奴隷売買で得た利益で教会や医療施設を造り、施しを受けたければ入信せよとの手法で信者を獲得していった。当時のポルトガルやスペインは、世界各国で同様の方法を用い、南米、東南アジア諸国を次々に植民地として占領していたことは知られた史実であろう。日本もまたそのターゲットとして捉えられていた注2

注2
日本が植民地化を避けられた理由の主なものとしては、大航海時代の後半、日本への貿易ルートの開設時期が戦国時代と重なった(それまでの貿易はほぼ明国と非正規ルートの倭寇が主であり、ヨーロッパの国々でさえ明国の許可なくアジア諸国での貿易は出来なかった)ため、すでに各地で戦が絶えず、相当数の鉄砲も保有していたことなど軍事力の面からや、当時のローマ教会(カトリック)による他宗排斥の思想が強く、布教に際して入信した大名などに寺社仏像などの破壊を命じたことなどもあり、仏教、儒教思想の浸透していた民衆にそれほど受け入れられなかったことが植民地化を諦めさせたのではないかと分析されている。


ローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の真実の口(イメージ)

一方で家康の大御所時代、ヨーロッパでは、強国ポルトガル、スペインに対して、新興のイギリスやオランダが、アルマダの海戦や八十年戦争(オランダ独立戦争)などで勝利し、勢力を強めていた当時のヨーロッパ情勢を知ることになる(慶長5年(1600年)にオランダ船デ・リーフデ号が豊後国に漂着し、イギリス人航海士のウィリアム・アダムス(後に横須賀で造船技術などを伝える。和名:三浦按針)やヤン・ヨーステン(貿易指南として乞われ、江戸に屋敷を与えられた。その地を彼にちなんで「八重洲」と呼んだ)が家康に仕えている)。イギリスやオランダはキリスト教布教に関して熱心ではなく、家康の懸案であったキリスト教対策には打ってつけの貿易相手であったようだ。すなわち、これからの日本の国際交流にキリスト教は条件ではなく、ポルトガルやスペインとの関係を維持するメリットは薄れていたのである(その後幕府は日本の貿易相手国をオランダ一国に絞り、寛永16年(1639年)第五次鎖国令を西国大名に通達し、ポルトガルと国交を断絶した)。
こうして家康から引き継いだ外交政策は、キリスト教排除を建前とした他の大名との直接貿易を禁止することで先進的な軍事情報や先進技術は徳川幕府が独占し、圧倒的な徳川勢力を全国に誇示することが出来たのである。


ヤン・ヨーステンが訛って八重洲に?(イメージ)

【徳川政権265年の基礎】
朝廷から源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた建久3年(1192年)、実質的な武家社会を築いた鎌倉幕府はその後140年続いた。そして足利尊氏が後醍醐天皇を裏切り南北朝時代に突入し、三代将軍足利義満のときに南朝を併合、室町時代が訪れる。しかし、応仁元年(1467年)京都を中心とする戦乱(応仁の乱)が全国に飛び火し、戦国時代へと移っていく。その間凡そ80年足らず。やがて尾張の織田信長が、室町幕府最後の将軍・足利義昭を追放し室町幕府を実質的に倒幕。安土築城が天正4年(1576年)。信長は幕府を開いてはいないが、天下布武を標榜して殆どの武家を手中に収めたが、天正10年(1582年)本能寺で横死。その間僅かに6年。その意志を継ぐように現れた豊臣秀吉が天下を統一し、嫡男秀頼の自刃(慶長20年(1615年)大坂夏の陣)に至るまでを豊臣政権と見たとしても、織田豊臣の安土桃山時代は30年に満たない短命であった。
ところが、徳川家康が開いた江戸幕府にあっては265年。とんでもない長期安定政権である。それでは他の武家政権と徳川政権は何処が違っていたのか。多くの理由が挙げられるだろうが、家康の政権づくりに言及すれば、徹底した領地拡大主義の下で直轄領400万石(徳川親藩を含めると800万石以上。江戸時代最大の藩であった加賀前田家は120万石であったが、到底太刀打ち出来る規模ではなかった)を擁した経済基盤の強さが、その理由である。これは当時の日本の領土(蝦夷を除く)の25%に相当し、過去それまでの幕府の直轄領に比して圧倒的であった。それに加え、徳川幕府の直轄領には全国の主要金山、銀山、銅山という鉱山を抱え、貨幣の鋳造権を原則独占したから、石高以上の経済力を保持してスタートしたのである。直轄領をあまり持たず、脆弱な財政基盤が原因で崩壊し、戦国時代を引き起こした室町幕府を見れば、財政基盤の大切さは一目瞭然であろう。


家康は毛利の石見銀山も直轄地にした(イメージ:世界遺産石見銀山)

秀吉は、積極的財政政策であったが、家康は、デフレ政策であったとも云われる。それは、初期の徳川幕府の政策指針となった。秀吉を真似て、金山、銀山を独占し、金銀の産出も急増したが、支出を抑え殆ど溜めこんだ。江戸城普請をはじめとする城郭、寺院の建立、城下町の造成、河川の改修等の公共投資は、諸国外様大名の財力を削ぐために利用し、手金を出し惜しんだだけではなく、江戸城石垣の礎石買占めに代表される権力に物を言わせた悪徳商人顔負けの商いを行った様である。斯様にして貯め込んだ金は、万治年間(1658年~61年)には金の分同(大法馬金・だいほうまきん:1個当たり41貫、150kgある)が126個あったと云われている注3。約19tの金である。庶民には想像もつかないが、この経済感覚が家康の天下取りを支えたことは間違いのない事実である。

注3
慶応4年(1868年)、江戸城無血開城で占拠した官軍の兵士たちは一目散に金庫を探した。官軍の情報によれば、当時大法馬金が1個残っているとのことであったが、江戸城に金は全く残っていなかった。江戸幕府は大政奉還のときにはすでに破綻していたのである。
この大法馬金、実はその後勝海舟の手にあったことが分かっている。勝海舟は自身の手記、「海難録」の中で旧幕臣や旗本のうち禄が100俵以下の者たちに給金として分け与えたことを告白している。


一つ150キログラムの金分同(大阪造幣博物館レプリカ)

参考文献:
・内田勝晴「家康くんの経済学入門」ちくま新書2001年
・イエズス会「日本年報」柳谷武夫編村上長次郎訳 雄松堂出版
・神田千里「宗教で読む戦国時代」講談社選書2010年
・松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」同朋社出版1987年
・太田牛一(桑田忠親校注)「信長公記」新人物往来社1997年
・大村大次郎「お金の流れで読む日本の歴史」㈱KADOKAWA 2017年
・鍛代敏雄「戦国大名の正体」中央公論新社2015年
・高木久史「日本中世貨幣史論」校倉書房2010年
・竹内理三編「家忠日記」臨川書店1981年
・宮本義己「松平元康<徳川家康>の器量と存在感」大日光71号2001年