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ラビットプレス+9月号


豊臣秀吉公像(大阪城豊国神社)

豊臣秀吉…。それは紛れもなく、我が国の有史に際立つ出世頭、日本一の成り上がり者である。

尾張中村郷(現在の名古屋市中村区近郊)の貧しい農民の子として生まれ、十代後半に家を飛び出すと、今川氏の直臣飯尾氏の配下の松下之綱(之綱は今川氏滅亡後、秀吉の家臣として大名となっている・天正16年に遠江久野城主)に一時仕えるが離脱し、織田信長の小者(武家奉公人)に召し抱えられるまで、諸国行脚を繰り返し、様々な人々との出会いと交流を通じて金儲けの方法や商売の基本を学んだとされ、結果、「農民と商人」という経験が、独創的なアイデアと思考の持ち主、「豊臣秀吉」という稀有な人物を育てたと云われる。
戦国時代。天下人となる為の絶対条件は、政治力と軍事力、それらを支える基盤として並はずれた経済力が必要であった。貴族階級から表舞台の政権を奪取した武家勢力により開かれた鎌倉幕府から室町幕府へと時代は移り行く間も、世の中を治め、文化を育む時代背景には必ずその時の指導者を支える強い経済基盤が無くてはならない。戦国時代の有力大名らが領地拡大に奔走したのもまた強固な経済基盤獲得の為であった。


戦国の世は戦いの日々(イメージ:関ヶ原合戦屏風一部・大阪歴史博物館蔵)

織田信長が本能寺で横死の後、天下人の階段を駆け上がり、時代の風雲児として脚光を浴びた豊臣秀吉の経済基盤はどのように作られたのか。信長経済学を直に学び、自らの商才を如何なく発揮した秀吉と豊臣コンツェルンの経済戦略を解き明かす。

【秀吉の出世街道】
織田家奉公人として信長に仕え、清州城普請奉行に任ぜられるなど、天性の社交術で家中において存在を現していった。永禄4年(1561年)8月、浅野長勝の養女で杉原定利の娘・おねと結婚する。この時はまだ長屋住まいであり、あまりの身分の低さ故、おねの母・朝日には猛反対を受けたという。
永禄7年(1564年)、美濃国の斎藤龍興との戦いにおいて、敵方松倉城主の坪内利定と大沢次郎左衛門(鵜沼城主)の諜略に成功し、翌永禄8年(1565年)11月2日付・坪内利定宛知行安堵状を交付する際に副署し、歴史資料に初めて「木下藤吉郎秀吉」名が登場する(坪内文書:尾張坪内利定宛判物)。

永禄12年(1569年)5月。毛利元就と大友氏が九州で交戦(多々良浜の戦い)するも、その隙をついて、同年6月に出雲国奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、同盟者の山名祐豊(すけとよ)がこれを支援した。元就は信長に対し、山名氏を背後から襲うよう出兵を依頼し、信長は呼応して同年8月1日、秀吉軍2万を派兵した。この時秀吉は、僅か10日間で18城を落城させる働きを演じている。
元亀元年(1570年)。秀吉は越前の朝倉義景討伐に従軍。北近江の浅井長政が裏切り、金ヶ崎付近を進軍中に織田軍を背後から急襲した。織田軍は、浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機に見舞われたが、秀吉、池田勝正、明智光秀が織田軍の殿軍(しんがり)を務め、無事に帰還させる功績をあげた(金ヶ崎退き口、金ヶ崎崩れと呼ばれる撤退戦)。それから三ヶ月後、織田軍は再編し、浅井朝倉両軍にリベンジを仕掛ける(姉川の戦い)。この戦いに勝利した後、天正元年(1573年)、秀吉は浅井氏の旧領北近江三郡に封ぜられ、今浜に着任し、「長浜」と改め、長浜城の城主となる。この頃、木下氏を羽柴氏に改め羽柴秀吉注1と名乗った。


長浜城天守(イメージ:長浜市長浜城歴史博物館)

注1
「織田家内で有力だった丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」をもらい受けた」とする説が一般的である。他説では、羽柴≒端柴と掛け、自分をあえて卑下することで周囲の嫉妬を避ける狙いがあったのではないかとも(小説家・ジャーナリスト井沢元彦)。

【名君の原点…長浜】
一国一城の主となり、木下藤吉郎から羽柴秀吉へと名を改めた秀吉は、琵琶湖岸の寂しい一漁村だった今浜に城を築いて長浜と改称。そこを数年間(天正2年~10年まで)の居城とし、城下町の基礎造りに尽力して北近江一の商業都市へと導いた。
今浜は、北陸と畿内を結ぶ水陸交通の要衝として、また鉄砲生産地である国友村注2の管理、湖北の一向一揆の対応にも築城には都合の良い立地であった。天正2年(1574年)6月より築城工事及び城下町整備が始まり、小谷城下から強制的に百姓や商人を移住させると共に、年貢に優遇措置を施すなどしたため、今浜は人であふれ、活況を呈することとなった注3

注2
国友村:国友鉄砲鍛冶集団は、近世の胎動過程で堺と並ぶ火縄銃の二大生産地の一つとして重要な役割をにない、湖北をクローズアップさせた。
なお、国友の鍛冶師でありながら、日本で初めて反射望遠鏡を作り、月面や太陽黒点の観測を行った江戸後期の国友一貫斎は高名である(長浜市:秀吉と長浜)。


注3
長浜の統治政策として年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まり過ぎたことに苦慮した秀吉が方針を引き締めようとしたが、正妻・ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとしている。これによって長浜の人々の信頼を得た秀吉は、この地から次の大舞台へと邁進することになる(天正元年十二月廿二日秀吉書状)。

また、城下を整備する一方で、自軍の家臣の育成、登用もこの長浜で培ったものが秀吉の天下人への階段を押し上げることに繋がっている。石田三成、片桐且元、小堀正次(小堀遠州の父)、増田長盛、大谷吉継らを従え、福島正則、加藤清正らも小姓として仕えたのがここ長浜であった。


当時の賑わいが想像出来る長浜城下町の推定復元図(イメージ:長浜城歴史博物館)

【もう一人の秀吉…豊臣秀長】
豊臣秀吉の異父弟とされ、秀吉が織田信長に仕えた後、秀吉に乞われて任官したと云われる。その時は、木下小一郎長秀と称し、秀吉が羽柴姓に改名した天正元年以降、同様に羽柴姓を下賜されたと考えられ、天正3年(1575年)11月11日付の発給文書に「羽柴小一郎長秀」と署名があるのが初見である。
その後、天正12年(1584年)に長秀から秀長へ改名し、以後、没するまで秀長を使用した(信長の死後、兄・秀吉が実質的に後継者となったことが改名の契機と云われている:俗説)。


千利休とも通じていた大和大納言豊臣秀長公の木像(イメージ:大和郡山春岳院蔵)

前述した山名祐豊や尼子残党の但馬国における急襲作戦に際し、また、ニ度に亘る但馬征伐を命ぜられた秀吉軍にあって最も戦功を挙げた武将こそが羽柴長秀であった。
天正8年(1580年)、信長は但馬国の山名祐豊を降伏させた長秀に対し、但馬一国13万石を与えている(秀吉に与えて、秀吉が長秀に分与したのではなく、信長からの直命により長秀が受領したものである)。また、信長より従五位下美濃守の官位も授与されており、信長が、いかに長秀の能力を評価していたのかが分かる。
織田家家臣の中に在って、羽柴秀吉、羽柴長秀兄弟の台頭にはそれなりの根拠が存在する。それは、他の大名たちと比較して、経済力が突出していたことである。その鍵は長浜での数年間に在る。
秀吉は、長浜城主として天正3年(1575年)長篠の戦から天正5年(1577年)松永久秀討伐(信貴山城の戦い)、天正5年から天正10年(1582年)に亘る播磨、但馬攻略と中国毛利攻めに至る多くの合戦に出陣し、多くの戦功を挙げた論功行賞として、所領や録を獲得している。それらの戦利を蓄財し、且つ有効に活用することを実際に行っていたのが長秀なのである。例を挙げると、但馬攻略の鳥取城攻の際には、予め城下の米を時価の数倍の値段で買占めた上で効果的な兵糧攻めを行い、備中高松城の水攻めにおいては、莫大な土俵費用と人件費を要するも迅速にそれを用立てている。それ以外も秀吉の戦には大量の兵糧や弾薬が必要であったが、長秀の采配によって迅速に調達し、それを適所に配分することが出来たのである。この高い経済力は戦に不可欠なものであった。

【豊臣家の資産はこうして作られた】
~秀長の箱本(はこもと)制度~
天正13年(1585年)9月、秀長が大和国郡山に入城して、城下町の建設にとりかかり、商工業保護の政策として同業者をそれぞれの町に集め、特許状を与えて営業上の独占権を認めて保護した(これらは後に株仲間制度に発展する)。この営業特許権を証する状を朱印の箱に収め、封印をして月交代で郡山本町以下十三町を持ち回り、当番の町が「箱本」となって、この箱を町内の会所に置いて、表に長さ二尺の紺地の木綿に白地抜きの小旗を二間ほどの竿に付けて立てた。各町には「年寄」、「月行事」、「丁代」と呼ばれる世話役がおり、町の自治に当たることとし、「箱本」になった町では、その町の年寄りが1ヶ月間全責任をもって郡山町中全体の世話をすることとした。これは正に当時国内最大の都市であった堺の自治組織の運営方法を踏襲していると思われ、農民からの年貢だけに頼ることなく、商工業の保護と発展を基に商人から恒常的に税収を得ることを念頭に置いたまちづくりを秀長も重要視していたことが分かるのである。


天正16年(1588年)の「郡山惣町分日記」(春岳院文書)
(奈良県指定文化財郡山町箱本関係資料:大和郡山市)

~太閤検地~
室町時代に守護大名が検地を実施したという記録は無く、荘園・郷村単位の大田文注4によって領国内の公田を把握していたにすぎなかった。
戦国大名は、直轄領及び家臣の所領を検地し、知行制度(領主による所領支配制度)の基盤を構築して家臣団を組織していた。検地という言葉は「吾妻鏡」に“地検”として登場するが、検田といったような単純な意味で鎌倉時代前期から使われていたようである。戦国大名による検地の初見は永正3年(1506年)相模国で行った北条早雲の検地である。

注4
大田文(おおたぶみ):鎌倉時代に国ごとに作成された帳簿。図田帳、田数帳ともいわれ、公領や荘園について名字(地名)・田積・租税田数・租税額を記載したものや、領主、地頭を明記したものもある。前者は国衛在庁官人が造内裏役や伊勢神宮役夫工米、または朝廷の臨時雑役などを賦課するため、後者は御家人役を課すための基本台帳となった。

当時の土地所有形態は重層的な権利関係が存在しており、土地は大名のものであり且つその家臣のものでもあった。戦国時代の検地は、検地竿で農耕地を測量し、升で収穫量を計り年貢の量を決定していたが、これらの竿や升は各地域の大名が独自の基準で使用しており、統一されていなかった。
これに対し、豊臣秀吉が定めた『太閤検地』では、大名の手によって検地が行われ、土地の権利関係を整理するとともに、直接耕作者(農民)を検地帳に登録して年貢の負担者とした。また、太閤検地で初めて全国統一規格の検地竿注5、升が採用され、1間は6尺3寸(=約1.9メートル)と定められた。このように、太閤検地では農民の登録と農耕地の測量を正確に行うことにより、年貢の徴収の合理化が図られたという点で、画期的なシステムであったのだ。

注5
文禄3年(1594年)に行われた島津家領の大隈・薩摩・日向の太閤検地の際に用いられた検地竿(検地尺)が現存しているが、殆んど誤差の無い正確なものである。


検地竿(尺)(複製:鹿児島市尚古集成館・資料提供名古屋市)

~豊臣政権の錬金術~
現兵庫県但馬地方の生野に伝わる「銀山旧記」によると、天文11年(1542年)に銀鉱脈が発見されたことを契機に、但馬守護・山名祐豊が、当時の最新技術を用いて採掘を始めたと記されている。先に述べた織田信長の命による但馬征伐により生野銀山注6を手中に収めた秀吉は、信長の死後、その直轄領に複数の鉱山を含む領地と、直轄ではないが豊臣家臣として臣従した諸国大名のうち、伊達、徳川、上杉、毛利など領地内に金山、銀山を有する大名から運上(鉱山の営業税)させ、莫大な利益を得たのである。


釜屋間歩と呼ばれる坑道の入り口(イメージ:島根県大田市・石見銀山)

注6
秀吉と石見銀山:秀吉は自領である播磨に生野銀山を抱えており、毛利所領の石見銀山を直轄とすることは無かった。石見銀山以外の毛利領内の銀山(久喜・大林銀山等)が豊臣との共同支配に置かれ、銀5,000枚を産出していた。石見銀山では23,000枚の銀を産出したが、秀吉は石見銀山には手を出さなかった。石見銀山が毛利の手から離れるのは、関ヶ原終戦後の徳川家康が直轄統治を行ったときである。

全盛期の豊臣宗家所領(蔵入地)は、全国合わせて222万石であり、徳川家康が関東で支配していた250万石に及ばない石高であったが、全国の主要金山・銀山、堺や博多などの物流拠点を支配していたため、財政的には抜きん出ていた。慶長3年(1598年)の豊臣氏「蔵納目録」によれば、金4,399枚、銀93,365枚が納められていた。これは石高に換算すると約300万石に匹敵するから、当時豊臣家の収入は522万石となり、徳川の財力を大きく凌いでいた。

【秀吉の経済力の裏側】
秀吉は本当に大金持ちだったのだろうか。確かに秀吉が天下人となった背景には群を抜く経済力があったからである。しかし、豊臣政権自体は僅か16,7年の超短命で終わっている。秀吉の財力を知るエピソードは枚挙に暇が無いほど語り継がれている。例えば、贅を尽くした伏見城や大坂城、聚楽第での「天正金くばり」や「北野大茶会」など桁外れのイベントで費やした金額は天文学的な数字に上る。
ただ、だからといって豊臣政権が盤石であったとは言えなかった。それは、秀吉が直轄とする領地をさほど持っていなかったことに起因する。領地にはそこで採れる農産物や鉱物など以外に、当時としては絶対的に必要なものが付随してくるのである。すなわち、「人」である。領地が大きいということは、そこから動員できる人=兵力や労力が多いということである。経済力があれば一定の人力を集めることは出来る。戦国時代は確かに金で雇われる農兵士が居たことも事実である。しかし、それらは所詮日雇い的な臨時雇用の兵士であり、領地を治める大名領主の家臣ではない。つまり、主君との臣従関係が極めて薄いという現実であった。これは秀吉亡き後の関ヶ原合戦に至るまでの間、豊臣方に与する大名がさほど多くなかったことや、小早川や島津に代表される裏切りに繋がった合戦の結果を見れば瞭然だろう。
徳川260年と豊臣17年との差は、金銭では計れない“人の絆”にあったと言わざるを得ない。


人の心と金銭の天秤は釣り合わない…(イメージ:大田市大森町熊谷家住宅蔵)

参考文献:
・堺屋太一「豊臣秀長-ある補佐役の生涯」《上・下》文春文庫1993年
・福永英樹「志 豊臣秀長伝」単行本2013年
・イエズス会「日本年報」柳谷武夫編村上長次郎訳 雄松堂出版
・松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」同朋社出版1987年
・太田牛一(桑田忠親校注)「信長公記」新人物往来社1997年
・大村大次郎「お金の流れで読む日本の歴史」㈱KADOKAWA 2017年
・鍛代敏雄「戦国大名の正体」中央公論新社2015年
・高木久史「日本中世貨幣史論」校倉書房2010年