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ラビットプレス+8月号


織田信長公肖像画写真複製
(山形県天童市三宝寺は織田信長の直系である天童藩織田家の菩提寺に所蔵)

茶(日常習慣的な飲用及び茶の製法など)は平安時代に遣唐使により中国から日本に伝来し、鎌倉時代には抹茶が薬用として重宝された。その後次第に嗜好品として喫茶の習慣が広がり、室町時代、中国からの輸入雑貨「唐物」を座敷飾りや道具に用い「茶の湯」が成立したとされる。そうして安土桃山時代に自由都市・堺の商人らによって隆盛し、武野紹鴎(たけのじょうおう)が「わび」の精神を説き、草庵の茶を創始した。その後、紹鴎の門下である千利休が芸道としての「茶の湯」を大成し、「茶道」として現代に受け継がれている(裏千家北山会館・不審案添え書き参考)。

さて、織田信長と茶の湯を語る前に、この茶の湯がどうして武家の作法儀礼に組み込まれていったのかを探索しよう。


天下を制したのは…(イメージ:三宅孝太郎著・Amazon)

【武家の台頭…貴族と武士の境界】
平安時代中期。馬を操り、刀、弓を取って戦う「武士(もののふ)」と呼ばれる貴族の護衛兵が誕生する。武士は、徐々に力をつけ、政治的発言力を強めていく。
律令制(りつりょうせい)が崩れ始めた9世紀の末から10世紀にかけ、朝廷から派遣された国司や郡司(役人)の一部は土着化し、貴族間の私闘、地方領主間の紛争、荘園領主と国衙(こくが)の紛争、或いは自身の利害遂行のために武力行使を手段として地方の統治を図ってきた。
つまり、地方に住み、広大な土地を支配する者にあっては、領地を守るために武装する必然性である。一方、都では貴族の身辺警護や天皇警備にあたるため、雇用された役人(貴族出身者)が武士としてその職に就くようになった。やがて、武士たちは戦いに備えて家臣を集め、肥大化し、大きな武力を持つようになっていった。その中にあって、天皇家の系譜である源氏と平氏率いる勢力が、都を中心に畿内を席巻していったのである。

平治元年(1159年)、都で争いが起こり、それを鎮めたのが、武士である平清盛であった(平治の乱注1)。平清盛は、天皇や貴族の信頼を得て出世を重ね、貴族の最高位、「太政大臣」にまで登り詰める。『平家物語』によれば、当時66国の凡そ半数を平氏一門が支配したとされる。更に、平清盛の娘が高倉天皇の皇子を産み(後の安徳天皇)、平清盛はその地位を揺るぎないものとした。治承5年(1181年)3月、平清盛が死去すると平氏一族の統率力は減退し、源頼朝を棟梁とする源氏が勢力を盛り返すこととなり、清盛死去から僅か4年、壇ノ浦の戦いを最後に平氏は滅亡する。そして有史初の武家政権・鎌倉幕府が誕生する。

注1
平治の乱:平治元年12月9日(1160年1月19日ユリウス暦)、院政を執る白河上皇の側近らの対立により発生した政変で、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようとして、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵したが、義朝、信頼は殺され、平氏政権が出現する契機となった。


「平家物語絵巻」イメージ(殿下の乗合:林原美術館蔵)

武士は、貴族と別系統の存在ではない。前述のとおり「武士(もののふ)」とは、貴族の中で軍事を担当し、都の官僚として高位にあったり、国司・郡司として地方に派遣されたりした貴族のことである。従って、後に彼らの家来となったその他の者(国の兵や地方農民武士)たちとは、そもそも種類が違うのである。そのような武士の棟梁たちの中でも、源氏と平氏は、彼らが天皇の子孫であったことから他の棟梁と異なり、天皇家(王族)としての権威と誇りを持ち、その意識に基づいて行動した。彼らが武士の棟梁として一世を風靡したのは、王統継承の危機に対し、武力による決着が必要な事態の度に、王族として介入し、鎮静を図って来たからである。故に源氏と平氏の栄枯盛衰は、彼らが支持した王朝の栄枯盛衰と一体であった。

承久3年(1221年)。源頼朝の死(1199年)後、幕府内の政変により正統な源氏の血筋が途絶え、代わって北条義時(源頼朝の正室・北条政子の弟)が幕府の実権を握り、立て直しを図ろうとしていた。一方、朝廷では政治の実勢を取り戻すべく、時の院政(安徳天皇の治天の君=院政を執り行う上皇を指す)である後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣を出し、山田重忠ら有力御家人を中心に兵を召集して「承久の乱」を起こしたが、北条政子の鼓舞により結束を固めた幕府の大軍に完敗。以後、朝廷に対する幕府の優位性という関係は、明治維新を迎えるまで継続することとなる。幕府は朝廷の権威を利用し、常に武家政権の権力維持に必要な後ろ盾としたのである。


鎌倉幕府の守護神・鶴岡八幡本宮(イメージ画像)

【公家文化と武家文化】
中等教育の日本史教科書において、「公家文化」「武家文化」の区別を特に室町時代の背景を基に、「公家の雅」と「質実剛健、質素の武家」に分類し、三代将軍足利義満が京都北山に建立した「金閣寺」を代表とする公家と武家の価値観の融合的な文化感を「北山文化」と呼び、八代将軍足利義政の時代に造られた「東山銀閣寺」を、先の金閣寺と対比させた文化感で「東山文化=わび、さびの精神」と並び称するのである。しかし、この分類には多くの識者から疑問が呈され、文化論争は今も決着を見ていない。
そもそも、平安期に公家を中心とする貴族から生まれ出た「武士」であるから、時代を彩る文化の根幹は同じであり、年月と共に職域分離と組織形態の変遷から、「公家」と「武家」の嗜好や生活習慣から文化の違いが生じてきたと言うべきで、元々異質な者がそれぞれの価値観の中で育んだものではない注2


慈照寺・通称「銀閣」(イメージ画像)

注2
武家文化の代表格は城下町である。城下町の情緒が現代人を魅了するのは、城主の高い美意識によってもたらされた街区と文化の統一性である(代表例:鎌倉)。一方、公家文化の代表として語られることが多い京都は、実は足利将軍家によって整備された部分が多く、前述の金閣寺、銀閣寺に代表される武家文化の影響の方が大半を占めている(京都は、明治維新によって政治の権勢を奪還した明治政府が、明治28年(1895年)、平安遷都1100年を期に市民の総社として創建した平安神宮などによって、公家文化を象徴する都市として整備した)。


茶湯の嗜みは、鎌倉時代に宋からもたらされた喫茶手法による薬用(養生法)から始まったとされる。南北朝時代には嗜好品としての他に、賭博としての「闘茶(茶の産地別による色や味を飲み分けて勝負を競う賭け事)」が流行した。これらも元々は貴族の趣向として発達したとされるが、前述してきた通り、貴族と武士の出自に隔たりは無いのであるから、武士の間にも茶湯は浸透して当然である。戦国時代に入ると村田珠光注3によって禅宗思想と結合した「茶の湯の道」が生み出されたと云われている。例えば、武家屋敷の書院造りは、鎌倉から室町時代に掛けて成立した建築様式(元は平安時代の貴族の寝殿造りに在った)で、書院の利用法は主にこの茶湯の為である(書院茶と呼ばれ、後のわび茶室とは区別される)。公家や将軍家、有力な守護大名によって流行した唐物(中国からの茶器、道具)を中心とした会所茶(大名たちが金に物を言わせて集める高級輸入品の唐物や、それらを飾り付ける室礼の方法など当時流行していた派手な茶会)の作法は、珠光の提唱したわび茶の登場により、一方では系譜の異なる下級武士や地方豪族出身の家臣の統率と、彼らの教養や品格を育てる教材として採用されていった。


武家文化と融合するわび・さびの趣(京都「竜安寺」石庭・イメージ画像)

注3
村田珠光:応永29年(1422年)、検校(盲人の官人の最高位)村田杢市(きいち)の子として現在の奈良市中御門町で生まれ(他説有)、幼名を茂吉と称した。11才で出家し、日輪山称名寺の僧となる。18才の時、称名寺の塔中法林庵の住職となったが、25才の頃、還俗して世俗の生活を送った。その後30才の頃に京都紫野の大徳寺に入り、参禅工風を重ねて茶禅一味の境地を開くに至った。
能阿弥から能や連歌の影響を受け、師・一休宗純から宗経山円悟禅師の墨跡を拝受。禅を学び、能や連歌の精神的な深みと茶禅一味の精神を追求し、わび茶の精神を創った。


【信長と茶湯の出会い】
織田信長が幼少年期を過ごした那古野城において、父信秀の家老・平手政秀注4より茶の手解きを受けたとされる。ここで重要なことは、信長に曲がりなりにも茶湯の嗜みがあったことである。その後の信長と茶湯の関わりは、永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛を果たし、松永久秀より大名物の「九十九髪茄子(漢作唐物茄子茶入)」の献上を受けたことで再び始まる。その後、堺の豪商・今井宗久に信長と近づく為、名物「松島の壺」と「茄子茶入(武野紹鴎遺愛の名物)」を献上する。当時の自由都市・堺では、有力な商人たちの間で茶湯が大流行しており、驚くほど高額な値で取引される茶道具を目の当たりにした信長に、ある考えが浮かんだ。
信長は、翌永禄12年、松井友閑と丹羽長秀に命じ、天下の名物と呼ばれる数々の茶道具を入手させた。更に永禄13年(1570年)には堺代官職の友閑に名物進上令を発布させ、矢継ぎ早に相当な名物を手中にしている(例としては、「初花肩衝」の茶入れは大文字屋宗観から、「蕪なし」の花入は池上如慶から、「富士茄子」の茶入れは祐乗坊から召し上げている)。世に言う、「名物狩り」である。
この頃の茶湯は、接客の趣向として持て囃され、また高価な名物道具は富と権力の象徴であった。信長は、この道楽としての茶湯を独自の感性で政治に利用することを考えたのである。

注4
平手政秀:織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)家臣。家老として、信秀、信長の代に仕え、信長の傅役として幼少期から教育に当たる。通称五郎左衛門。官位は監物、中務丞。茶道・和歌などに精通した教養人であった。信長の成長と共に時を過ごし、元服、初陣の折には後見人を努めた。また、織田家と敵対関係にあった隣国の斎藤家・斉藤道三の娘の奇蝶(濃姫)との結婚を主導し、同盟を結んだ立役者でもある。
晩年、政秀の嫡男・五郎右衛門の駿馬を欲した信長の要求を断ったことから平手家と織田家の確執が深まり、自身の命を賭して平手家と織田家の将来を信長に託し、自刃した。亨年65歳。信長は政秀の死によって自身の諸行を悔やみ、天下布武(撫育民姓国家:民を慈しみ育てる国家)の実現に邁進することとなったという俗説は有名である。


茄子茶入(付藻茄子)大名物として足利義満、足利義政、村田珠光、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康伝来(静嘉堂文庫美術館蔵)当時1000貫、現在価格換算約8千万円といわれる。

【そうして…御茶湯御政道】
茶湯を政治利用(要人の接待に始まり、礼儀作法の教育手段として、また娯楽としての茶湯は、地位の高さを誇示するため)したのは、なにも信長が最初ではない。
前述してきたとおり、武士と貴族は共に皇族に端を発した支配層の一族であったのだから、貴族文化とされる様々な芸能、嗜みについても武家の高位者の間では元から備わった素養であった。従って、鎌倉時代の覇権者である源氏や清和源氏(第56代・清和天皇の皇子、諸王を祖先とする源氏氏族)の流れを汲む室町幕府の足利将軍家においても、貴族文化の継承は当然であった。

信長は、自らが蒐集した名物の茶道具に新しい価値基準を設定し、土地や銭に代えて武功の報奨に用いることを考案し、実践した。
堺に入った信長は、この街を我が手中に治めることが、官位などくだらぬ肩書よりどれほど大切かを瞬時に見極めたに違いない。先月号で解説したように、南蛮貿易の拠点として、国内物流の要衝としての堺を意のままにすることで展開される経済戦略。そして、鉄砲や火薬の原料・硝石などをおさえることによる軍事戦略。更に、足利幕府政権時代に混乱を極めた貨幣経済の失政から生み出した新しい価値基準の創設に利用出来ると考えたのが茶湯である。

茶湯を嗜むには専門的な知識と訓練による作法の習得が必要である。身分の高い者の前で茶湯をする場合、誰もが緊張し、恥を掻きたくない心理が働く。信長が茶湯に政治的意味を持たせ、茶会の開催制限注5や自らがプライスリーダーとなって茶器の経済価値を高めたことから、「天下布武」の下、軍隊を統率するために礼節を重んじ、身分階位による規律統制を必要とする武将にあって、茶湯の嗜みの有無は単なる個人の趣味の問題ではなく、大名家の沽券に関わる問題として重要な意味を与えたのである。


調馬・厩馬図屏風(滋賀県:多賀大社蔵・安土桃山時代推定)
武家屋敷座敷の隣室で茶を点てる宗匠が描かれている。

注5
永禄11年(1568年)、堺を掌握した織田信長は、その後茶道具を蒐集すると共に、自らの家臣及び織田家臣従の諸国大名に対して信長の許しなく茶会を催すことを禁ずる触れを発したとされるが、直接的な書簡は発見されていない。なお、信長政権下で茶会を許可された武将は、羽柴秀吉、柴田勝家、織田信雄、明智光秀、丹羽長秀の五人だったとされる(ルイス・フロイス:「イエズス会日本通信」)。


一方、信長と茶湯の関わりを伝える裏話として、茶湯には軍事的に大きな意味があったことはあまり知られていない。それは、茶(抹茶)を製造するときに必要な碾臼(ひきうす)が、実は鉄砲火薬の硝石を挽く臼として非常に重宝されたと云う事実である。黒色火薬は、硝石75、木炭15、硫黄10の割合で混合したもので、いずれも細かい粉末である。硫黄や硝石は粉にしやすく、木炭を粉にするのは難しい。技術の如何では銃の性能が左右される。鉄砲の口火用の高性能火薬は、当時は茶臼(当時は「茶磨」と書いた)以外では出来なかった(『茶磨の日本史』粉体工学会)。信長は、これらの利用法についても早くからその知識を得ていたものと思われ、茶湯文化を支配することが、反信長勢力への鉄砲、弾薬の製造及び保有を制御することそのものだったのである注6

信長は、茶湯を通じて本格的に天下統一の道を進み始めた。

注6
信長、秀吉の茶湯御政道によって茶磨(主に中国、朝鮮からの輸入物)が手に入り難かったこともあり、諸国大名は自前の技術で茶磨の製造を試みる。そのためには、自国内での陶器の製造(窯業)を振興し、質の高い(茶磨はきめ細かい粉末を挽き出す必要から高度な技術が要求される)陶器が全国各地で作られていった。現在でも全国的に有名な陶器の生産地が多く残っているのは、このような歴史背景も要因と考えられる(例:信楽焼・滋賀県甲賀、常滑焼・愛知県常滑、越前焼・福井県丹生郡越前、丹波立杭焼・兵庫県篠山、備前焼・岡山県備前、伊万里焼・佐賀県伊万里など)。

参考文献:
・福田豊彦「平将門の乱」岩波新書刊1981年
・池上裕子「織田信長」吉川弘文館2012年
・イエズス会「日本年報」柳谷武夫編村上長次郎訳 雄松堂出版
・松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」同朋社出版1987年
・太田牛一(桑田忠親校注)「信長公記」新人物往来社1997年
・大村大次郎「お金の流れで読む日本の歴史」(株)KADOKAWA 2017年
・鍛代敏雄「戦国大名の正体」中央公論新社2015年
・神津朝夫「茶の湯の歴史」角川選書2009年