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ラビットプレス+7月号


織田信長公肖像画写真複製
(山形県天童市三宝寺は織田信長の直系である天童藩織田家の菩提寺に所蔵)

「テメエにくれてやる銭なんかビタ一文もねえんだよ!!」
幾つになっても親に小遣いを無心する道楽息子に対し、親父の雷が落ちた。
テレビドラマや映画のワンシーンなどでも頻繁に使われるこのフレーズの「ビタ一文」とは一体幾らのことなのか、ご存知だろうか?

我が国の貨幣制度の歴史は、古代中国やエジプト、インド、ヨーロッパ(オスマントルコ、ローマ帝国時代の中世の南ヨーロッパを含む)など大陸の歴史と比べるとかなり浅く、読者も良くご存じの「和同開珎(わどうかいちん・かいほう)」が朝廷によってその価値 注1を保証された我が国最初の流通貨幣(通貨)である注2
和同開珎の鋳造は、和銅元年(708年)に始まり、唐の貨幣「開元通宝」を模したと云われている。現代に生きる我々は、通貨の使用に何の疑問も持たないが、当時は通貨の定着と流通に対する発行者側の努力は並大抵のものではなかったのも想像に難くない。

注1
通貨の価値:通貨として流通させるためには一定の条件が必要であり、1)支払い、2)価値の尺度、3)蓄蔵、4)交換手段のうち、一つでも満たしていれば通貨としての価値が認められたとする。

注2
和同開珎以前に貨幣として用いられたとされる、「富本銭(683年・天武天皇12年頃に日本で作られたと推定される銭貨)」や「無文銀銭(662年頃の近江朝時代に発行されたとされる私鋳銀貨)」の存在が確認されているが、これらは祈祷用に使用された形跡もあり、流通貨幣と位置付けるには現在のところ資料が発見されていない。また、いずれの貨幣も「日本書紀」に記述が残っている。


解体修理中の薬師寺東塔基壇から発見された和同開珎(奈良文化財研究所2015年)

当時の人々は殆どが通貨を手にしたことも見たことも無かったのであるから、価値を認めるにもその基準や保証の仕組みすら理解出来ないのは当然である。そこで朝廷は、和銅4年(711年)に「穀六升銭一文」と定めて触れを出し、私人が貨幣を鋳造することを禁ずる法(大宝律の「徒三年」より厳しい「斬」を定め、五刑の最高刑である死刑を加えている。その後、蓄銭が銭の流通阻害の要因となったため、延暦19年(800年)に廃止された)を発布、併せて「蓄銭叙位令」を定め、貨幣を蓄蔵した者に官位を与えるという制度まで作り、和同開珎の価値を高めようとしたのである。
更に、和銅5年(712年)、旅行者(主に官用)に銭を携帯させ地方への普及を図り、同年、「庸」「調」の税を銭で納付することが出来る基準も定めた。この基準は、「銭五文=布一常(きだ:一常は一丈三尺)」とした。翌年、郡領(律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官)任官の条件として銭六貫以上の蓄銭を加え、また、地方の富豪に対して旅行者が銭と米を交換(銭で米を買う)出来るよう命令を出している。このように、数年の間に朝廷は様々な銭の普及促進策を進めた結果、「和同開珎」は貨幣制度最初の通貨として浸透していったのである。

しかし、それから約50年後の天平宝字4年(760年)、朝廷は貨幣制度の信用失墜に繋がる大失敗を犯す。
新貨幣「万年通宝」の鋳造開始である。この新貨幣は「和同開珎」の10倍の交換価値と定められたのだが、その作りは粗末であり、デザインや大きさに和同開珎と殆ど違いが無かったことから、人々がその価値に疑念を抱くに至ったのである。従って、現場では10倍の交換価値で流通することにならず、最終的には「和同開珎」と同様の扱いでしか使われなくなった。結果、発行から僅か5年で「万年通宝」の鋳造は中止を余儀なくされたのである。朝廷は、飛鳥時代から奈良時代に掛けて計12種の貨幣を発行しているが、その度に無謀な価値設定を行ったため、やがて人々の間に「銭離れ」が起き、遂に朝廷として貨幣鋳造と発行自体を取り止めることになった注3

注3
天徳2年(958年)に発行された「乾元大宝(けんげんたいほう)」を最後に、貨幣の鋳造が中止され、その後我が国の通貨は米、布を中心とする「米、布経済」に逆戻りすることとなった。この「米、布経済」は、宋(中国)の貨幣「宋銭」が大量流入してくる平安時代末期まで、実に約130年間も続いたのである。


皇朝銭のうち最も製造が少ない万年通宝(大和文庫コレクション)

和同開珎以降の貨幣の歴史において、このようになった背景には重要なポイントが在る。それは鋳造する貨幣の原料となる鉱物、つまり銅や銀の不足にあった。必要とされる発行量の貨幣を鋳造するための原材料不足を補うには、必然的に貨幣の価値を上げることとなる。すなわち少ない枚数で同じ価値を生み出すには10枚作るところを1枚で賄うということである。また、純度を下げる(不純物を混ぜる)という方法も一方で考えられ、粗悪な貨幣が大量に出回ることに繋がる。平安時代末期頃から貿易を通じて流入した宋銭を始め、室町時代の明銭(明国が日本との貿易用に鋳造した永楽通宝など)などは、やがて国内の通貨としても流通し始めるのであるが、国内外でもこれを真似た質の悪い私鋳銭が作られ、また、明銭にも粗悪なものが混じるなどしていたため、やがて流通の現場ではそれらの「悪銭(鐚銭・びたせん)注4」は、交換価値を失ったり、低いレートでしか流通しなくなったりし始めたのである。


永楽通宝の鐚銭
(加刀鐚と呼ばれ、銭に書かれた文字等を多少加刀・修正して鋳造した:大和文庫コレクション)

注4
欠け、不整形な物や文字が潰れている物、穴が塞がっているなど、粗悪な貨幣で、「価値の無い銭」の形容詞にもなった。冒頭の「ビタ一文」とは、鐚銭一文の意。



【南蛮貿易と信長】
世界史でいうところの「大航海時代(西洋では「大発見時代、地理上の発見時代」などと称す。日本の文化人類学者で歴史学者の増田義郎東京大学名誉教授が1963年に岩波書店の企画で命名)」の真只中、日本は室町時代の終盤、戦国時代を迎えようとしていた。
大航海時代の主役は、主にポルトガルとスペインであり、当時の両国の船は東南アジアを拠点にアフリカ、中国(当時は明)、琉球と日本などを往来し、莫大な利ザヤを稼いでいた。特にポルトガルは、永正7年(1510年)にインドのゴアを占領、次の年にはマラッカも占領して東南アジアにおける拠点を確保した。そして永正10年(1513年)に明と通商関係を結び、明とインド、ヨーロッパ等との中継貿易を支配し、東南アジアでの地位を揺るぎないものとしたのである。


大航海時代の象徴「発見のモニュメント」。この彫刻像の中にはバスコ・ダ・ガマやマゼラン、F・ザビエルの姿も見える(ポルトガル・リスボン港:イメージ)

天文12年(1543年)、ポルトガル商人らを乗せてマカオを出航し、東に進路を執った明船が台風によって遭難し、ポルトガル人3名とインド人、中国人らが乗った小舟が9月23日、大隅国(現・鹿児島県)種子島西村の小浦に漂着した注5。それまでの日本は、倭寇貿易(明国との非正規貿易)が主流であったが、明国政府の鎮圧によって倭寇の力が衰退し、それ以降、ポルトガルがほぼ独占することとなっていた。

注5
種子島漂着事件と鉄砲伝来(天文12年8月25日、1543年9月23日):大隅国種子島の西村浦に漂着した明国の船に乗っていたポルトガル人の賈胡(「牟良叔舎(フランシスコ)」、「喜利志多佗孟太(キリシタダモッタ)」)の2人による鉄炮の実演を見た種子島の島主・種子島時堯がそのうち二挺を購入し、刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製を研究させたと伝わる(「鉄炮記」より)。なお、鉄砲伝来のルートは諸説あり、これが最初であるというのは俗説とされるのが現在は定説である。


当時、鉄砲の弾丸に使用する鉛や火薬に使用する硝石を精製する技術は日本になく、全て輸入に頼っていたので、倭寇衰退後はポルトガルを介さなければならなかった。従って、戦国時代の大名らの軍事物資を事実上独占していたのがポルトガルであり(ポルトガルとの貿易を南蛮貿易と称する)、有力な大名らがこぞって南蛮貿易に打って出たのは、この軍事物資の調達のためで、当然織田信長もこれを強力に推進していくのである。

永禄11年(1568年)9月7日、信長は室町幕府将軍家嫡流・足利義昭を奉じ、上洛を開始した。12日、六角氏の居城・観音寺城が陥落、その後9月25日から僅か10日間ほどで大津、山城、摂津の反信長勢力を次々に撃破注6し上洛を果たすのである。

注6
大津では三好三人衆と三好氏の軍が崩壊。山城の勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏、摂津・芥川山城の細川昭元、三好長逸が城を放棄し、篠原長房も越水城から阿波へ逃避した。また、同じく摂津池田城主・池田勝正も信長に降伏した。

足利義昭は、晴れて室町幕府第15代将軍となり、信長に対する行賞として畿内6カ国管領と副将軍の地位などを与えようとしたが、信長はこれを辞退。引き換えに堺、大津、草津の三箇所に代官を置くことを所望し、許された。
堺は当時、海外貿易と国内交易の拠点で日本最大の国際港、大津は北陸と京を結ぶ琵琶湖の舟運の湊、草津は東海道と東山道(中山道を含む古くからの幹線道路)が交わる陸運の要衝だった。


自治都市として江戸時代初期にはこのように整備されていたとされる
摂泉堺浦波戸再掘細見図1791年寛政3年(堺市立図書館)

上杉謙信は、柏崎と直江津の湊から関税を徴収していた。この二つの湊からの上がりは実に年4万貫(1貫目は当時の銭1千文。米の価格が1石(150kg)=5百文であったから、8万石の米(1万2千t)に匹敵する)あったと云われ、これは30万石の大名の収入とほぼ同じである。つまり、上杉謙信は最大版図で越中、能登を領地とした時期、約120万石と推測されるが、その所領以外に30万石の領地を持っていたのと同じなのである。

当時の堺、大津は柏崎や直江津と比べて遥かに物流量が多く、信長は、この三つの要衝の利権を独占することで財政難を一気に好転させよう注7と考えたのであろう。

注7
足利義昭の上洛において、信長が率いた軍勢はおよそ6万。約50日間の遠征に参加したとされる。当時の合戦では、3日分の兵糧は自己負担という原則があるので、信長は47日分の兵糧(米以外に味噌、塩、副食類)及び武具、刀や槍、攻め落とした城や町の修復に掛る費用などを購う金を用意しなければならなかった。その額、凡そ2万貫(兵糧米は1人当たり1日6合:「雑兵物語(江戸時代前期の兵法書)」)と推測される。『橋場日月の戦国マネー術』※当時の米価は前述のとおり1貫目で2石(300キロ)の米が買えたから、現在価格に直せば玄米10キロが相対取引平均価格3000円とすれば1貫目は90000円。2万貫は実に18億円の費用となる。


信長はその後、堺(当時は自治区)を統治することに対して2万貫の負担金を堺から拠出させている。つまり、上洛に掛った費用をそっくり肩代わりさせていたのである。更に、3箇所の要衝を抑えることにより、物流のコントロールが可能となって、敵国への様々な物資の搬入を制限(荷留、津留=軍事物資や生活必需品などの物流を制限し、敵国を兵糧攻め状態に追い込む経済封鎖)したのである。


堺を抑えることで鉄砲火薬の供給を止めることが出来る長篠設楽原鉄砲隊による馬防冊火縄銃連続撃ち(長篠設楽原決戦まつりより:イメージ)

【世界史にも残る信長の金融政策】
平安期における貨幣経済衰退から130年、中国からの貨幣(宋銭や明銭)が大量に流入し、貨幣経済が定着し始めたものの、元王朝期(1271年~1368年)に銅銭の使用を禁じ、紙幣に切り替えた後、銅銭の鋳造がストップした影響もあって、新貨幣の供給はされず、それもやがて底を突くようになっていった。その影響が出始めたのが戦国時代後期であり、前述した「鐚銭」などが出回る注8ことで貨幣の価値が上がり、モノの価値が下がる深刻な「デフレ」経済に陥っていたのである。

注8
この時代の私鋳銭は、「京銭(きょうせん)」「内平(うちひらめ)」と呼ばれていた。また、堺では大量の無文銭(額面の刻印が無い銭)が鋳造され、各地へ流出している。


そのような状況に信長は、世界でも類を見ない金融政策を発令する。


信長の金好きは有名(安土城天主復元模型・信長の館:近江八幡市)

端的に言えば、金銀を貨幣として利用する、ということである。現代では金銀の本位貨幣制度は理解されているので当たり前であるが、当時は外国においても一部の特権階級における美術品的価値の対象として扱われたり、高額な物の対価として使用されたりすることはあったが、流通貨幣として定着してはいなかったのである。これを信長は高額貨幣として設定したのである。
永禄12年(1569年)3月、将軍義昭・信長連立政権は京都、奈良、天王寺、八幡など畿内の主要都市に対し、「精選条々」(信長署判の定書並びに天下布武朱印による撰銭(えりぜに=銅銭の状態による交換価値の分類、ランク付け)令など追加の法度有り)を発令する。つまり金銀通貨使用令である。
それらによれば、古銭を「やけ(焼け銭)」「大欠け、大ひびき(割れ銭)」「内平(無文銭)」に3分類し、それぞれ基準通貨である精銭(宋銭や永楽銭の良貨=整形の銭を1文とした)に対する交換レートを2倍、5倍、10倍に定め、これ以外の撰銭を禁じた。
また、精銭と悪銭の混合使用を推奨し、貨幣を用いず米を通貨とする取引を禁止。生糸・薬品10斤以上、緞子(どんす:繻子(しゅす)織地に繻子織の裏組織で模様を織り出した織物)10反以上、茶碗など100具以上の取引は必ず金銀を使用すること、銭の貸借の返済は銭で、金銀の貸借の返済は金銀で行うことなどなどが規定された。更に、金銀と銭の交換レートを歴史上初めて規定(固定相場制)し、金10両≒銭(精銭の銅銭)15貫目、銀10両≒銭2貫目とした。


金襴緞子の帯…(京都西陣金蘭商店提供:イメージ)

記録上、金や銀が貨幣として流通し始めたのは、信長の金銀通貨使用令が出されてから10数年後のことであり、それ以降、日本では急速に金銀の貨幣としての使用が広まったと言える(『お金の流れで読む日本の歴史』120項:大村大二郎)。
金銀を高額貨幣として流通させることにより、銅銭の不足を補うことが出来、また遠隔地者間取引に多量の銅銭を運搬する手間も省ける。このことは物流の活性化に寄与する他、戦国時代後期の大大名(徳川、豊臣、上杉、武田、毛利など)の知行に金銀鉱山の利権が加わり、経済力が天下人への絶対条件として歴史は動いていくこととなる。

参考文献:
・池上裕子「織田信長」吉川弘文館2012年
・イエズス会「日本年報」柳谷武夫編村上長次郎訳 雄松堂出版
・松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」同朋社出版1987年
・太田牛一(桑田忠親校注)「信長公記」新人物往来社1997年
・大村大次郎「お金の流れで読む日本の歴史」㈱KADOKAWA 2017年
・鍛代敏雄「戦国大名の正体」中央公論新社2015年
・高木久史「日本中世貨幣史論」校倉書房2010年