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ラビットプレス+6月号


織田信長公(岐阜駅前銅像:イメージ)

現代を生きる人々の多くが最も好きな戦国大名の名を挙げるとしたら「織田信長」という調査結果が出る。サンプリングの属性(年齢、職業、知識の有無などの環境)に一過性が無い場合はともかく、企業における社員対象や年齢別調査など一定の属性下で採ったアンケートでも同様の結果が出ていることが多い。つまり、単純に老若男女問わず、現代人に支持されている戦国大名が織田信長公その人なのである。

織田信長といえば、読者はどのようなイメージを持たれているだろうか?残虐性、強引傲慢、冷徹非情など強面の側面から、うつけ者、お調子者や茶の湯に代表される文化人といった芸術文化に長けた芸能人的なイメージ、また旺盛な好奇心から先見性を感じさせる、時代を先取りする有能性などなど。人それぞれの信長観をお持ちであろう。
それはそれ、歴史好きの人々には皆それぞれ独自の歴史観で遠い昔の史実に思いを馳せている。
一方で、その時代の現実に目を向けると、現代でも十分に通用する社会構造や政治構造、ガバナンスのための政権施策の具体的手法、実務が存在していることに当然ながら気づかされるのである。

本編で取扱う戦国時代は、領地・分国を支配した戦国大名の時代(北条早雲の伊豆侵攻から豊臣秀吉による小田原征伐と奥州仕置きの時まで。明応2年(1493年)~天正18年(1590年)に至る約100年間)である。
その間、史実に登場する多くの逸話から一級、二級史料と呼ばれる比較的信憑性の高い史料を基に戦国武将の生きてきた足跡を辿り、経済を基盤とした戦国大名の政治から、有能な武将の姿をオムニバスで紹介する。

【信長の寺社迫害の真相~1.寺社勢力の台頭】
平安時代に入ると、各地の有力な寺社は、皇族、貴族など支配階級からの多額の寄付により、自ら生産性を有することなく収入を得、維持及び発展可能な特権的地位を確立するに至った。注1
また一方では、宗教活動を通じて民衆を扇動する組織としても発達し、皇族や武士に圧力を掛け、疫病や災害などの社会不安を利用し、祟りを煽り、寄進を強要してその財力を高めていった。
つまり、寺社はそれらを最大限に活かし、資本力を蓄積し、武力を保持し、勢力を拡大してきたのであり、思想観念力を持つ機関やマスコミ同様の存在として、また莫大な資本を持つ財閥もしくは巨大総合商社であって、且つ武力をも有する軍でもあった。


歴史の変革期には必ず財閥解体が浮上する(東洋経済新聞社:イメージ)

注1
奈良時代の墾田永年私財法(天平15年5月27日(743年)に勅令として発布)で墾田が増加する一方で、その墾田を維持するための法律がないことと国司による税が高すぎたことから、多くが不輸の権・不入の権(不入の権には、外部権力の使者の立ち入りを拒否することができる「不入権」のほか、警察権・司法権の行使を拒否することができる「検断不入権」、租税を拒否することができる「不輸権」などがあった)がある有力な貴族や寺社に寄進をしていった。寄進者は荘官となり、荘官になると領家から地位と荘園からの一部の収穫が与えられた(寄進地系荘園)。その結果、本来国の収入となるべき収穫が有力な貴族、寺社に集まるようになっていった。

比叡山延暦寺は、延暦7年(788年)に伝教大師(最澄)によって薬師如来(薬師瑠璃光如来)を本尊として草庵・一乗止観院(止観=禅)を号したのが始まりである。延暦10年(791年)、御所の北東鬼門に位置することから鎮護のために桓武天皇の御願寺として認められ、同13年に桓武天皇が行幸して落慶法要が営まれた。その後大同元年(806年)に天台宗が勅許により公認宗教となり、最澄の没後7日目(弘仁13年・822年)にして念願であった大乗戒壇(奈良仏教から完全に独立して、独自に僧を養成することができる権利)が設立、そして嵯峨天皇より開祖元号寺が許され「延暦寺」となった(弘仁14年・823年)。それ以降、平安から鎌倉時代に掛けての延暦寺は日本仏教の中心的地位に就くこととなり、多くの名僧を輩出し、仏教教学における権威として「南都」注2に対して、「北嶺」と呼ばれた。


比叡山回遊マップ(資料:天台宗大本山比叡山延暦寺)

注2
奈良六宗ともいう。8世紀に官大寺などで研究されていた三論宗、成実(じょうじつ)宗、法相(ほっそう)宗、俱舎(くしゃ)宗、華厳(けごん)宗、律宗の六宗を指す。六宗の成立以前に華厳宗を除く五宗が成立していたことは養老2年(716年)10月の太政官符に《五宗の学、三蔵の教》とあることからもうかがわれ、藤原氏祖先の伝記である「家伝」(鎌足伝)も藤原鎌足が飛鳥元興(がんごう)寺に五宗の研究の費用を寄付したと伝えている。(出典 世界大百科事典第2版:株式会社日立ソリューションズ・クリエイト)


延暦寺同様に権勢を誇っていた興福寺(資料:法相宗大本山興福寺)

平安時代後期に入ると、延暦寺の権力は益々肥大化していく。
応徳3年(1086年)、白河天皇は当時まだ8歳であった善仁皇子(堀河天皇)へ譲位し、太上天皇(上皇)となったが、幼帝を後見するため白河院と称して、引き続き政務に当たった(白河院政)。強大な権力を手にしたその白河上皇にあっても、思い通りにならない三つの事柄があるという逸話が「平家物語(巻一)」に残されていることは有名である。

「天下三不如意」
「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」

「賀茂河の水」とは、古来より度々氾濫を起こす賀茂川の水害のことで、「双六の賽(さい)」とは、文字通り双六のサイコロが出す「賽の目」のことである。そして「山法師」とは、日吉山王社の神輿を担いで都に雪崩れ込み、手前味噌の理由で強訴を繰り返した比叡山延暦寺の僧のことである。
時の指導者の白河上皇をもって、どうにもすることが出来ないと言わしめるほど大きな障壁と化していた延暦寺僧衆は、政治にも強力に且つ深く関与したことから、延暦寺に対する上皇の苦悶が想像できるのである。

延暦寺の勢力は留まるところを知らず、鎌倉幕府成立後の武家社会にとっても脅威が続いていた。武家の台頭に伴い、全国の有力寺社の僧衆も年々武装化を強めていった。特に延暦寺における武装化は目を見張るものであり、前述した特権(不入権や不輸権など)を嵩に財力は増し、時の権力を無視できる一種の独立国のような状態(寺社勢力と称され、奈良興福寺と並び恐れられていた)を造っていた。


【信長の寺社迫害の真相~2.資本主義の芽生え】
戦国時代に入り、室町幕府は財政難で苦しんでいた。南北朝時代、室町幕府内での紛争が起きる毎に反対勢力が南朝に加担するという戦略を採った。そのために幕府は少しでも自陣の勢力を確保するため、直轄領を削って派閥の維持に努めている。その結果、当然幕府の直轄領は減少し、税収も激減する結果となって他に財源を求めるようになっていった。それは主に「酒屋土倉役」注3と呼ばれる商人からであり、「酒屋土倉役」とは所謂貸金業者である。通常、蔵を構えて蓄財し、金融業を営むのは土倉や酒屋であった。鎌倉末期の京都においては300軒を超える土倉が確認されており、その殆どが比叡山延暦寺の支配下にあった。明徳4年(1393年)、三代将軍足利義満の時に土倉酒屋に「倉役」という税を課して(「洛中辺土散在土倉并酒屋役條々」)幕府の主たる財源としていた。
そもそも金貸しに頼る財政は不安定そのものである。土倉酒屋は庶民の生活に直結しており、高利注4に苦しむ庶民の間では度々一揆が発生した。正長元年(1428年)に起こった土一揆(正長の土一揆)は、近江国の「馬借」(運輸業者)から端を発し、全国に波及して各地の土倉を襲い、借金の帳消しを求めたのである。そのため、室町幕府は度重なる一揆の鎮圧のために借金の帳消し令、つまり「徳政令」を発布せざるを得ず、必然的に幕府財政も圧迫されることとなって、一層財政は悪化していった。


正長の土一揆を収めた徳政令碑文。
「正長元年より先は神戸四ヶ郷に負目あるべからず」と刻まれている
(奈良県柳生観光協会)

注3
伊達植宗が制定した分国法「塵芥集」に附帯する天文2年3月13日付「蔵方之掟」という質屋法がある。質屋法は土倉酒屋を対象とした金融法であり、質入れの担保と質取りの代金と利息など規定と担保の保管義務等についてが規定されている。また、本法である塵芥集には、倉役=倉役質屋営業税の規定がなされ、伊達家分国においても土倉酒屋が納税義務を負うことによって質屋業務を認可されている。

注4
「利平(りひょう)」:室町幕府の法律に登場する利平とは法定利息のことで、応仁の乱直前の長録3年(1459年)の幕府洛中利平定書によれば、絹布、書籍、楽器、家具類は12ヶ月預って月利5分(5%・年利60%)、茶碗や瀬戸物、香炉、武具などは月利6分である。また、質入れの期限は武具が最長の2年とし、米穀物類は7ヶ月、その他は20ヶ月と決められていた。しかし、土倉側は恣意的に利息を設定していたので相当高利であった。
「祠堂銭」:寺社が管轄下の土倉酒屋に融資するための資金。これは「二文子の利平」と定められ、年利24%で運用されていた。しかし、この祠堂銭は幕府の徳政令の適用を除外されていた。


【信長の寺社迫害の真相~3.延暦寺の実態】
永正5年(1508年)、管領(室町幕府の将軍補佐役。現代では内閣官房長官か副総理に該当する)であった細川高国は全国の特権組織(所謂財閥)に対して通貨に関する法律「撰銭令(えりぜにれい)」を発し、欠けたり潰れたりした貨幣と良銭と選別して良銭のみを蓄える当時の貨幣の流通に対する制限を設けた。これにより、当時八つの財閥といわれたのは、大山崎(自治都市)、細川高国、堺(自治都市)、山門施設、青蓮院、興福寺、比叡山三塔(比叡山の山上から東麓に位置する東塔、西塔、横川(よかわ)の区域の総称で「三塔十六谷」という)、大内吉興である。この八大財閥の内四つが寺社関連であり、その中の山門施設、青蓮院、比叡山三塔が延暦寺直轄団体である。延暦寺は広大な荘園と莫大な寄進により当時日本最大の財閥となっていたのである。そして寄進の大部分を占める米を高利で貸し出していた(出挙:すいこ)。元々この出挙は、飢饉などで困窮する庶民へ応急的に貸し出し、収穫時に一定の利息を付けて返還させるもので、いわば政府の貧困対策として行われてきた施策であった。しかし、延暦寺直轄の日吉大社がこれを利息収入の目的として私的に行うに至り、これらは私出挙(しすいこ)と呼ばれ、無認可の貸金業として広がって行き、後に土倉へと繋がっていくことになる。


日吉大社拝観案内図(大津市坂本・山王本宮日吉大社)

これまでに述べてきたとおり、伝教大師・最澄の「一向大乗」思想(すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるとうもの)や理想とはかけ離れた延暦寺が信長の「天下布武」の前に立ちはだかっていたのだ。従って、比叡山焼き討ち事件の真相とは、このような腐敗しきった仏教界を放置することはこの国を滅ぼす要因となりかねないと考えていた織田信長の英断であり、決して宗教弾圧などではなかったのである。延暦寺解体こそが室町幕府に代表される脆弱な武家政権体制を払拭し、天下一統の経済基盤づくりには欠かせないと考えた信長の政治家としての資質と行動力が極まった事件とみるべきであろう。
事実、昭和の延暦寺発掘調査で明らかなとおり、山上伽藍(がらん)を形成する金堂や根本中堂など主要な建造物を除いては、信長の時代に消失したと推測される遺構は発見されなかった(「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」滋賀考古学論叢第1集)としている。

参考文献:
・池上裕子「織田信長」吉川弘文館2012年
・イエズス会「日本年報」柳谷武夫編村上長次郎訳 雄松堂出版
・松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」同朋社出版1987年
・太田牛一(桑田忠親校注)「信長公記」新人物往来社1997年
・大村大次郎「お金の流れで読む日本の歴史」㈱KADOKAWA 2017年
・鍛代敏雄「戦国大名の正体」中央公論新社2015年