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女不動産屋 柳本美土里

この春から小学校に行くことになった眞理子は、どうしてもあの公園に行きたかった。
あの公園には、象が描かれた黄色い大きなすべり台がある。
象の頭がすべり台のてっぺんで、そこから地面まで緩やかなカーブで鼻が伸びている。
それまで眞理子が遊んでいた公園のものと比べると、倍くらいの高さがあるように思える。
すべり台のてっぺんに立つと、ずっと遠くの建物まで見えるだろう。
すべり下りたときの身体の内部が持ち上がる感じ、周りのゆっくりとした動きのなか自分だけが高速で移動しているという優越感。
今までの公園のものよりも大きなすべり台は、眞理子の想像を膨らませた。
眞理子の小学校では、近所の小学生が集まって登校する集団登校が義務づけられている。
下校時にも、独りでは帰らないようにと指導があり、数人の友達と一緒の下校となるからという理由だけでなく、寄り道をしないということをママと約束させられていたため、公園の黄色い象のすべり台を、いつも横目で眺めるだけで通り過ぎていた。

ママは眞理子が通う小学校ではない他の小学校の先生で、パパは中学校の先生をしており、ママは夕方に弟を幼稚園に迎えに行ってから帰宅する。
だから、眞理子が家に帰ってきても誰もいないのだが、ママからの言いつけで、寄り道をせずに家に戻ると、まずは机に向かい宿題をしなければならない。
それをしないと遊びに行ってはいけないというのが、ママの教えだから。
大人がいない家で子どもだけで遊んではいけないというママの考えで、眞理子が友達と遊ぶときは、たいてい誰か他の友達の家だ。
遊びはもっぱら、ままごとやお絵かき、ビーズで何かを作ったり。
しかし眞理子はそうした遊びよりも、ブランコやジャングルジムで遊ぶ方が好きなのだが・・・
友達のお母さんから「危ない遊びはしないでね」という言葉は幾度と聞いたし、友達も外で遊ぶよりも家で遊ぶ方が好きなタイプが多かったため、眞理子はそれに従うしかなかった。

ある日曜日、パパはいつものように担当する野球部の練習試合のため、朝から出掛けていた。
ママは、勤める小学校で問題が起こったということで呼び出され、家には弟の学と2人で留守番をすることになった。
2人で絵本を読んでいたのだが、それも読み終わると、さて何をして遊ぼうか。
「そうだ、あの公園に行こう」
弟と一緒なら独りじゃないから怒られはしないだろう。
そう思うと、早く公園に行ってすべり台で遊びたくて、居ても立ってもいられなくなった。
眞理子は、ポシェットにハンカチとティッシュペーパーを入れて肩から斜めにかけると、弟の手を取って家を出た。

毎日通っている通学路の途中にある公園なので、2人は迷わずに到着した。
公園には、ベビーカーを横に置いた若いお母さんが2人ベンチに座っていて、グラウンドでは、眞理子より少し大きいくらいの男の子と、お父さんらしい大人とがキャッチボールしていた。
若いお母さんたちが、ちょっと眞理子たちに視線を向けたが、すぐに話に夢中になった。
眞理子は弟の手を引いたまま、真っ直ぐに黄色の象のすべり台に向かった。
すべり台の下までくると、これまで経験したこともない高さの鉄の梯子が掛かっている。
期待と同時に、ちょっと怖さを感じるくらいだ。
「お姉ちゃん、ここを登って向こうにすべるからね、学はここで待ってて」
弟の手を取ってすべり台の鉄の支柱を握らせ、眞理子は梯子に足を掛けた。
前を向いたまま、一段、一段と登っても、なかなかてっぺんには届かない。
どんどん地面と離れていく危うさに、見てはいけないと思いながらも下を向いて地面との距離を測ってしまった。
高い!怖い!少し脚が震えた。
どうしよう?降りようか。
いや、下を観ながら降りる方が、よっぽど怖い。
こうなったら、上るほかはない。
眞理子は、勇気を振り絞って足を持ち上げた。

到着したすべり台のてっぺんで、周りを囲む手すりにしがみつきながら立ち上がると、公園の1番大きな樹の上の方と同じくらいの高さ。
ベンチで話をしている若いお母さんたちも、キャッチボールをする親子も、ままごとで使う人形のように小さくなっていた。
向こうを見ると、川に掛かった橋を通って駅に入っていく電車まで見ることができる。
真下を見ると、学が首を真上に向けて心配そうにこちらを見ていた。
爽やかな初夏の風が眞理子の頬を撫でた。
「学~、気持ちいいよ。すっごく遠くまで見えるよ~」
そういって、手を目の上にかざし、遠くを見るしぐさをした。
「今から滑って下りるからね~」
象の鼻の根元に座ると、やっと1人が通り抜けることができる幅で地面に伸びていた。
長さは長いけれど、角度はそんなにきつくない、これまで遊んでいたすべり台と、そう違和感はなかった。
眞理子は、ポンとお尻を投げ出すと、一気に滑り降りた。
ふわっと浮いたような感覚、スピードが、その時間だけ頭も身体も空白になるようで、なんとも言えない心地よさだ。

「学、楽しいよ。学も滑ってみない?」
何度も何度も夢中になって滑った眞理子は、自分だけ楽しんで、すべり台の下でずっと支柱を握っている弟に申し訳ない気持ちがしてきた。
こんなにも楽しいんだから、自分だけでなく、弟にも味あわせてやりたい。
ただ、そんな気持ちだった。
「最初はちょっと怖いと思うけど、一度滑ったら、もう怖くないから」
嫌がる弟のお尻を下から突き上げて、梯子を登らせた。
最初はべそをかいていた弟は、象の頭に到着するときには、声も出さずに青白い顔をして固まってしまっていた。
泣き止んだということは高さに慣れたからだろうと眞理子は勝手に安堵し、弟が滑り降りるのを促した。
でも、いくら促しても弟は手すりを持ったまま動こうとはしない。
またグスグスと泣き出した。
やっぱり怖いのだ。
だからといって、登ってしまったからには、梯子で下りることもできない。
そうこうしている間に、若いお母さんたちが、弟の泣き声に気付き、こちらを指差している。
もし助けを求めたりしたら、無理やり弟を登らせた自分が怒られる。
こうなったら滑り降りるしか道はない。
眞理子は、嫌がる弟の手を手すりから引き剥がし、象の鼻に向けて背中を押した。

背中を押し斜面に飛び出ると、弟は音も無く像の鼻を滑った。
少し傾斜が緩くなり、スピードが落ちたところで、弟はいきなり横にある手すりを反対側の手で握ろうとして身体をひねった。
手すりを握ったと同時に、ひねった身体は横向きに回転し、手すりを乗り越え、弟は象の鼻の途中から地面に落下した。
「ズドン」
鈍い音が、スローモーションのような映像から眞理子を現実に戻した。
とんでもないことが起こった。
慌ててすべり台を滑り、弟の側に行くと、2人の若いお母さんとキャッチボールをしていたお父さんらしき男の人が弟の身体に手を当てていた。
「大丈夫か!」
弟は男の人の言葉に反応するかのように、少し呻いた。
「救急車を呼びましょう」
男の人が電話をしている間も、若いお母さんは弟の手を握っていた。
そんなことをするつもりはなかったのに。
弟にも楽しさを知ってもらいたかっただけなのに。
眞理子は、自分のしでかしたことの大きさと、万一弟がどうにかなってしまったら、どうすればいいのだろうか?との疑問が迫ってきて恐ろしくなり、泣くことしかできなかった。

幸い、病院での診断は、打撲と軽い脳震盪だった。
脳への損傷はなく、骨も折れていない。
打撲の痕も、2週間程度で消えるだろうとのこと。
病院へ駆けつけたパパとママも、当事者の眞理子も、とりあえず安心をした。
「どうして、こんなことになったの?」
とのママの質問に、怖がる学を自分が無理にすべり台を登らせ滑らせたなんて、どうしても言えない。
眞理子は、「わからない」と繰り返すことしかできなかった。

弟の様子が変だと思われたのは、それから数年経ち、彼が小学校に入ってからのことだ。
学校からの連絡帳を出すのを忘れる、整理整頓ができない。
はじめは単にルーズな性格なのだろうと思われていたのだが、声を出して本を読むことができなかったり、話しかけた内容を理解できずに、自分の思っていることだけを一方的に話したりする様子は、明らかにおかしいと家族も感じ、病院での診断を受けることになった。
結果は、中度の知的障害。
学校との話し合いで、弟は障害のある子どもを教育する特別支援学校に転校することになった。

弟が知的障害者になったのは、もしかして頭を打ったから?
すべり台から落ちて頭を打った。
あのときの事故が原因なのでは?
自分のせいで弟は知的障害者になったのかもしれない。
眞理子は自分を責めた。
「眞理子、最近どうしたの?ボーっとして、何考えているの?」
箸を止めたままの眞理子に気付いたママは、心配そうに瞳を覗き込んだ。
「ううん、何でもない。あまりお腹が空かなくて・・・でも、大丈夫」
弟の障害がわかってからというもの、熟睡もできないし食欲もない。
でも、弟があんな状態なのに、これ以上ママに心配をかけることはできない。
ママが時々お風呂で泣いているのを眞理子は知っていた。
眞理子は無理やりに笑顔を作って、箸で大きくご飯を掴んで口に運んだ。

普段は顧問をしている野球部の練習や試合があるため、家に帰ってくるのは夜遅くになるパパは、中間テストや期末テストなど、テスト期間中だけは帰宅が早くなる。
ちょうど1学期の期末テストの初日、夕方早めに帰ってきたパパが眞理子の部屋にやってきた。
パパが眞理子の部屋に来るなんてことは滅多にないので、何かとんでもない話を持ち出されそうで、少し怖かった。
「眞理子、最近ご飯もあまり食べていないって、お母さんから聞いたんだけど、体調でも悪いのか?」
優しい目をしてパパは訊ねた。
「ううん、そんなことない」
それだけ言うと、眞理子はパパから視線を外した。
少しの沈黙のあと、無理やり口から言葉を出すようにして、パパは口を開いた。
「もしかして、学の病気について眞理子が責任を感じているんじゃないだろうね?」
いきなり核心を突かれて、心臓を摑まれたような気がして目を丸くした。
「やっぱりそうか。学のことなんだな」
パパは小さく息を吐いた。
「学が知的障害になったのは、誰のせいでもないんだ。パパも、なんとかして学の病気を治すことはできないかと思って、いろいろ調べてみたんだが・・・8割は原因不明で、残りの2割も遺伝が原因だったり脳の病気が原因だったり、妊娠中のお酒やタバコが原因という説もあるようなんだ」
「そんな説もあるものだから、ママも自分に非があると思ってしまっているふしがある。もちろん、ママはお酒も飲まないしタバコも吸わないから、ママの妊娠中の行動が原因でもないんだけど・・・」
「何でも自分のせいにしてしまいがちのママのように、眞理子もお母さんと似たところがあるから、もしかして学のことで自分を責めているんじゃないかと思って・・・幼稚園くらいまで成長してから頭を打ったことが知的障害になる原因だなんてことはあり得ないから、もう自分を責めることはやめなさい」
パパは、しっかりした口調でゆっくりと諭してくれた。
パパの言葉を聞いているうちに、魔法でもかけられたように、固まっていた心が融けていくのがわかった。
それから眞理子は、弟の病気の原因を考えることよりも、どう接したらいいのか?弟のために何ができるのかを考えるようにした。

眞理子が中学校に上がる前のタイミングで、両親は小さな家を買った。
車を持たないので駐車場はいらない、大きな家は買えないけれど、陽当たりのいい南東の角地の家を選んだ。
そして、2階の1番陽当たりのいい部屋を弟の部屋にした。
弟は、時々大声を出したり、独り言を言ったりするので、一緒に出掛けると他人から奇異な目で見られるのが眞理子は辛かったが、病気なんだから仕方がないの、他人に迷惑を掛けている訳じゃないんだから、そんな目で見ないで欲しい、という気持ちを込めて見返すこともできるようになっていた。

中学校の部活では、眞理子はバスケットボール部に入った。
目の前の敵をかわし、シュートしたボールがリングにすっぽりと入ると、思わず片手を天に突き出すような興奮を覚えた。
ある日の部活の帰りのことだ、同じバスケットボール部の由美子が眞理子の側にやってきた。
「眞理子、昨日、お姉ちゃんに聞いたんだけど・・・」
由美子の姉は、同じ中学校の2つ上の3年生だ。
「どうしたの?」
「眞理子の弟が頭の病気で、そうなったのは眞理子に原因があるって、3年生の噂になっているって」
「えっ!?それって、どういうこと?」
そう聞き返すのが精一杯だった。
隠していた秘密が、自分の知らないところで多くの人に知られている、そんな恐怖を覚え、眞理子は震えた。
「お姉ちゃんのクラスにいる野球部の男の子が、小学生の頃にすべり台の上から落ちた男の子を見たって。そのとき、すべり台の上にいたのが眞理子だったって」
「この前、スーパーに行った時に、眞理子とその男の子が一緒にいるところを見て、思い出したって言っていたみたい」
眞理子が突き落としたの?
そういう言葉は使わなかったが、明らかにそう問うているような目で、由美子は眞理子を見つめた。
突き落としたんじゃない!
滑るのを手伝ってあげただけ!
突き落とすつもりなんてなかったけど・・・
でも、本当は突き落としたのかもしれない。
「あれは事故だったのよ」
震える声で、眞理子はそう返した。

翌日から眞理子は、朝になるとお腹が痛くなったり、頭が痛くなったりして、学校へ行けなくなった。
休んでいる間に、あの噂が3年生だけじゃなく、2年生にも1年生にも、学校中に広がっているんじゃないか?きっとそうだ、煙が家の中の隅々にまで広がるように、想像がどんどん膨らみ、さらに学校に行くことができなくなる。
1週間を過ぎた頃、ママが中学校へ行き、担任の先生と話をすることになった。
結果的に、眞理子は隣の中学校へ転校することにした。

「そんなことが子どもの頃にあったんですよ」
目じりに皺をためた眞理子は、懐かしそうに口にした。
「母が亡くなってから、半年もしないうちに父も逝ってしまいました。その後、遺言というほど大層なものではないですが、父の思いが書かれた手紙が残されていたんです」
「知的障害を抱えた弟の将来を危ぶんで、せめて住まいだけでも残してやろうと、この家を買ったみたいです。古くなっても使えるように、外壁塗装や屋根の葺き替えなど、定期的にメンテナンスもきちんとしているようでした。でも結局、弟は独りで生活することはできないから施設で暮らす他はなくなったんですけどね・・・。だから、両親の気持ちを汲んで売却したお金は弟のために置いておこうと思ってるんです」
そう言って、笑いながら目尻の涙をハンカチで拭いた。
「私に対しては、弟のことで苦労をかけるけれど頼む、申し訳ないという内容が綿々と綴られていました。親に謝られて頼まれて弟の面倒を看るんじゃないのにね。なんだかんだ言っても家族なんだから、父も母もいなくなれば私が看るのが当然だと思っています。結婚もちょっと行き遅れたけど、弟のせいじゃなくて、もともとそういうタイミングだったんでしょうね。今ならそう思うことができるの。逆に、弟のことがあったからこそ、自分も成長できたし、弱い人の気持ちを理解することも少しはできるようになったのかもしれないわ。そういう意味では感謝しないといけないわね」
眞理子は、柳本不動産のソファで微笑んだ。
言葉の裏には、かなりの苦労が隠されているように思えた。

「弟が成年後見制度を使わなくてはならなかったために、柳本不動産さんとの売買契約を永い間待たせてしまって、本当に申し訳ございませんでした」
眞理子は身体を折り曲げた。
「いえいえ、それは大丈夫ですよ。それより、まだご実家にはお父様やお母様の物も沢山残されているようですけど、全部処分してしまってもいいんですか?」
「ええ、大切なものは既に持ち帰りましたし、実際、私たちが住むマンションでは、これ以上荷物を増やすことなんてできませんから。家を処分するのと同時に、ひとつの区切りを付けようと思っています」
「そうですか、わかりました。それではこちらで処分させていただきます。では、こちらの売買契約書にご署名ご捺印いただけますか?」
「はい、承知しました」
眞理子はテーブルに置かれた書類に、ボールペンのペン先を立てた。(完)

このドラマはフィクションであり、実在の団体や個人とは何の関係もありませんので、ご承知ください。