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ラビットプレス+4月号


征夷大将軍・徳川源朝臣家康(資料:堺市立博物館所蔵)

「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ 」
(『東照宮御実記』)

仮名一文字をどう解釈するかで文章の本意が異なってくる。日本語の奥深さである。ある程度歴史上の事案が明確になっていて、読み手の現代人が先入観からイメージする家康像が固定している中では、本人の晩年における心情を確実に汲み取ることは難しいかもしれない。
本編における徳川家康公の人生を顧みて、読者自らを家康公に置換した上で自らの気持ちとしてこの句を詠まなければならない。多くの人々が家康公の辞世の句を訳している中で、主流を占める解釈としては、「自分はそろそろ皆(家臣や親族)より先にこの世を去るが、残された者たちとて早かれ遅かれ同じことである。後を追う(追い腹を切る)など意味のないことであるぞ。皆をあの世へ連れて行くことなど考えてもおらぬ。それが別れというものだから。」というところか。家康の心中慮れば概ね正しい解釈であろう。
当時としては、長寿の往生であったとされる亨年75歳の最後であるが、果たして心静かにその時を迎えたのだろうか。ことの外、健康に留意し、秀忠に征夷大将軍職を譲った後もなお大御所として積極的に政務を司り、徳川幕府の基盤整備に心血を注いでいた矢先の死である。「自分はまだ死にたくない、死ぬわけにはいかないのだ」と心を強く持って病(一説には胃癌ではなかったかと云われる)に立ち向かっていたかもしれない。そうであれば、殉死を諌める意味を込めたと云われる「つれて行ぬ」は、“ゆかぬ”ではなく“ゆけぬ”と読み、惜別の念を表したのではないかとも解される。
家康は緻密であったが故に臆病であったとも云われ、まだまだ徳川家の行く末に不安を抱えていたであろうし、そうであれば死後においても家臣を傍に置き、大御所としての権勢を振るい続けたかったのかも知れない。


日光東照宮奥社への参道に遺訓の立て札(撮影2011)

【天下とは…戦国三英傑それぞれの天下観】
現代において、「天下」の表す対象は世界全体、国家、ある業界内での統治、企業やグループ、少数単位では家族内などにおいても牽引役となるリーダーが治める範囲、空間をイメージするのではなかろうか。
戦国時代初期(戦国時代は後世年表に記された期間である)。一般的には室町時代に勃発した「応仁の乱(応仁・文明の大乱)」(応仁元年:1467年)を戦国時代の幕開けとするが、その事件を記録した軍記「応仁記」には「天下大いに動乱」と記されている。また、同様に奈良興福寺大乗院門跡の尋尊(じんそん:室町時代中期から戦国時代にかけての奈良興福寺の僧。父は関白一条兼良)の日記「大乗院寺社雑事記」には「日本国はことごとく天下の命(将軍、公方を指す)に従わず」と書かれている。
元は古代中国で創案された独特の世界観を表す語であり、至上の人格神としての「天」が支配する全世界であると同時に、天命を受けて天子となった有徳(うとく)の為政者が、「天」にかわって統治する世界(王土)を意味する(日本大百科全科・小学館)。古くは埼玉県の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に「治天下獲加多支鹵大王(あめのしたしろしめすわかたけるのおおきみ)」(銘文には辛亥年(しんがいのとし)とあるので、西暦471年)刻まれ、「治天下」の文字が登場するが、室町幕府の中央政権下に至り、武家は政権の公共性という見地から「天下」思想や「天道」思想を宣伝し、朝廷(公家)勢力との対決や自らの領土統治の大義として利用するようになる。戦国時代の古辞書「節用集(室町時代後期の国語辞書。文明年間 (1469年~87年) よりやや以前の成立とみられる)」には、「天下は一人の天下に非ず、天下の天下なり」と収録されていることは注目すべきである。


「節用集」の写本(資料:筑波大学附属図書館蔵)

織田信長は、室町幕府13代将軍足利義輝が暗殺された後、次弟の義昭を奉じて上洛する。永禄11年(1568年)10月18日、足利義昭は朝廷から将軍に任ぜられ、室町幕府最後の将軍として将軍家再興を果たす。信長の朱印である「天下布武」は、義昭を将軍に復帰させるため上洛の正当性と、正親町天皇の親衛隊として朝廷及び諸国(主に畿内)に対する「武威」を誇示し、武家政権の正統性を京都において確立させることだといえよう。つまり、この時点では信長は俗に言われるところの「全国統一」を意識していたかどうかは甚だ疑問視しなければならない。


信長の天下布武朱印状:細川藤孝宛検地指示書(資料:熊本県立美術館蔵)

本能寺において信長が倒れ、明智光秀を倒したころから秀吉の勢力は留まる所を知らず、正に破竹の進撃であった。
遡って信長が足利義昭を追放後、「一天下」を織田政権の公儀として諸国への武力行使を続けていたころ、信長覇権主義の代名詞でもある「天下静謐戦争」は、畿内のみならず、北陸、東海、関東、中国、四国に至り、天下を脅かすものは徹底的に討伐するというメッセージを発信していた。天正10年(1582年)6月の段階で信長の分国は実に29カ国に及んでいたのである。その路線を引き継いだ秀吉は、天正11年(1583年)11月、賤ヶ岳で柴田勝家軍に勝利し、北庄城において自刃させ、反秀吉政権の表面上の壊滅を果たした。
秀吉は征夷大将軍職に就かず、朝廷の威光を利用する政策として自ら関白の官位を得ることに成功する。秀吉の目論見は現代の憲法にも通ずる天皇の地位の確立である。すなわち、秀吉の覇権は天皇を頂点としながらも、政治の舞台からは遠ざける(象徴化する)ことにより国内政務の実権把握を正当化することにあった。大坂に武家としての本拠を置き、京都伏見には天正15年(1587年)、平安京大内裏跡(内野)に、朝臣(あそん、あそみ=公家に与えられた姓注1)としての公卿豊臣氏の本邸(聚楽第)を構えて、天皇臣下であることを公示した。結果、天皇の代行者として、刀狩、検地を実施し、東北から九州まで全国統治を実現注2した。現代に言う所謂「天下統一」の完成形は、秀吉が実践したのである。


秀吉が島津に対し琉球王に上洛の使者を遣わせるよう指示した書簡
(愛媛県公文書館所蔵:資料沖縄タイムス2016.4.14)

注1
日本書紀・天武天皇十三年冬十月の条:「詔して曰はく、更諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混(まろか)す。
一つに曰く、真人。二つに曰く、朝臣。三つに曰く、宿禰。四つに曰く、忌寸。五つに曰く、道師。六つに曰く、臣。七つに曰く、連。八つに曰く、稲置」とある。これは八色の姓(やくさのかばね)と呼ばれ、新しい身分秩序として西暦684年に天武天皇が制定したとされる。朝臣は、皇族にしか与えられなかった真人に次ぐ地位である。(ブリタニカ国際大百科)

注2
「この暴君はいとも強大化し、全日本の比類ない絶対君主となった」「この五百年もの間に日本の天下をとった諸侯がさまざま出たが、誰一人この完璧な支配に至った者はいなかったし、この暴君がかち得たほどの権力を握った者もいなかった」と、イエズス会宣教師による「日本報告集」に記述が在る。(イエズス会日本報告集・ 松田毅一監訳)

では、家康の天下観とは如何なるものなのか。

【家康が残そうとしたもの】
織豊時代、常に臣下として信長、秀吉に仕えてきた家康にとって、双方の君主の天下観を肌身に感じ、且つ自らの考え方を熟考するには十分すぎるほどの時間の中でその経験を得ることが出来た。信長からは群雄割拠する大小大名勢力に対する武力制圧の必要性とその弱点を。秀吉からは朝廷を利用した権威創生の重要性と政権維持の基本は経済力であることを(勿論、信長も市場経済の重要性は認識=楽市楽座の振興など。しかし、その規模は自らの直轄地に限られていた)。そのいずれも重要度に差はないのであるが、時代が信長から秀吉へと流れていったことは、信長より秀吉の天下観に強く影響されていたのは摂理であろう。
徳川幕府成立後も「公儀」としての豊臣家が存在し、それを滅ぼしたとはいえ、徳川が諸大名を武力によって制圧したわけではなく、秀吉が確立し、豊臣家が握っていた天皇を頂点とした「公儀体制」の中枢を、徳川家が取って代わったということで諸大名が臣従したにすぎないことは分かっていた。これが大坂の陣直後の状況であった。そしてこの時すでに家康は74歳を迎えていたのであるから、秀吉が整備した全国統一の基盤を踏襲し、如何に徳川幕府の安定を図っていくのかということだけに全精力を注ぐことは当然であろう。つまり、家康の天下観は織豊時代の経験に則り、秀吉が築いた武家を中心とした国家体制の維持強化であったといえるのではないか。


秀吉の天下観とは…(小和田哲夫著:吉川弘文館)

戦国時代、「天下」とは主に京都を中心とした天皇と将軍との二元体制による中央政権を指し、天下国家とは中央=天下と地方=諸国家を言う。従って「天下静謐」とは、朝廷を主とする中央政権の平穏安定を意味する言葉なのである。つまり、戦国大名の中で豊臣秀吉を除き、誰も日本全国の統一などという天下観は持っておらず、そういう考えも及ばなかったと推測して間違いはなさそうである。さすれば、徳川家康という男の強運には、ただただ驚かされるばかりである。

【神になった家康】
戦国大名は天道思想の影響を受けていた(鍛代敏雄・「戦国大名の正体」中公新書)と前号で述べた。織田信長は安土城に総見寺(臨済宗妙心寺派の寺院。山号は「遠景山」)を建立し、聖日として自らの誕生日を参詣日と定めた。信長は「自らが神体である」と宣し、五層七重の天守と仏教の諸宗派の総見としての寺院を持つ安土城は、王権と仏法を統括する唯一無二の天下人であることを誇示したのであろう。信長は、自ら国王と称し天皇の=神の「内裏」であるとした。天皇が神であるとすれば、日本は神国である。その天道によって認められた権威が信長の「神体」宣言であるとすれば、至極当然の表現である。
一方、秀吉は一時期の態度を一変し、キリスト教を排除した注3。天正15年(1587年)6月19日発令の五箇条の禁制には、「神国日本」を宣言してキリシタンのキリスト教は邪法と決めつけ、日本の仏法を破ることは「曲事(まがいごと)」と記している。これも信長の思想背景を踏襲した「神国仏国」の考え方を基本としているのがわかる。秀吉は、方広寺大仏の鎮守である「豊国大明神」として祀られている。


豊国神社鳥居の扁額:豊国大明神とある(京都市東山区大和大路・撮影2014)

注3
「伴天連追放令」
天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉が九州平定後の筑前筥崎(はこざき)で発令した。翌19日、定五箇条を発し、その要旨は、日本は神国・仏教国であり邪法キリスト教が説かれることは不適当であるから伴天連(宣教師)は20日間以内に国外退去せよ、としている。(世界大百科事典第2版:日立ソリューションズ・クリエーション)

家康の両親(父・松平広忠、母・於大の方)は薬師信仰に篤く、峰の薬師(三河の鳳来寺)に祈願して家康が生まれたことから、薬師如来の生まれ変わりだと説く。天下人(ここでは信長、秀吉と家康をいう)は皆中国の皇帝を理想としながら、神国日本を守護する天道思想に基づき「神」になろうとした。神国こそが他国に優越し、神国の基礎上に横たわる王国と仏国(王権と仏法)の相互に補完される関係論が神国仏国論である。この理論が戦国時代後期より天下統一の型式として家康において結実するのである。家康は、死後側近の天海注4によって神号「東照大権現注5」を付与され、神となった。

注4
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗比叡山延暦寺の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として有名。家康の死後、神号を同じく天台宗の高僧「崇伝(方広寺鐘銘事件で豊臣謀反の疑いを家康に進言した)」との間で論争し、秀吉の「豊国大明神」に絡め「明神」は不吉とし、また家康の遺言により「山王一実神道(崇伝は吉田神道)」に則って薬師如来を本地とする「権現」となった。ただし、家康の遺言に山王一実神道の指定は存在しない。

注5
天海が支持した「山王一実神道」では、比叡山延暦寺(仏教)と山王日吉神社(神道)は一体であり、仏と神の融合は究極であるという。従って家康は神であり仏であるから、あらゆる神仏を包摂した権威を得たということになる。「権現」とは、仮の姿の意であり、神が仏の姿を借りて現われたという意味となる。東照については、家康の遺言による「関八州」の鎮守に従い、東国を守護する意味として天海によって考えられたものと伝わる。

【終わりよければ…】 「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。
(臨終後、遺体は久能山へ埋葬。葬儀は壇上寺で行うこと)
御位牌をば三川之大樹寺に立。
(位牌は三河大樹寺に立てること)
一周忌も過候て以後。
(一周忌が過ぎてからでよい)
日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」(本光圀師日記)
(日光山に質素な堂を建立のこと そこへ改葬して欲しい)

元和2年(1616年)4月17日。徳川家康公死去。亨年75歳(戒名:安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士)。


久能山東照宮社殿(パンフレット資料:久能山東照宮)

本編第1章巻頭に示したイングランド王国の劇作家、ウィリアム・シェークスピア(洗礼1564年~1616年没)が書いた戯曲「All's Well That Ends Well」(和訳:終わりよければすべてよし 1603年頃の作)は、一人の男に恋い焦がれた身分の低い女が幾他の困難を奇策と運によって乗り越え、最後は思いを遂げるという喜劇である。この作品と徳川家康の生涯を重ねる意味はないが、人生の中で巡り合う人との縁、数奇な運、そして知略を巡らし最後は自らの目的を達成してしまうドラマは、「終わりよければすべてよし」のタイトル通り、正に家康が最晩年に述懐した想いではなかっただろうか。


天下統一の仕上げは駿府で行った(駿府城坤(ひつじさる)櫓:静岡市)

天正14年(1586年)9月、家康は、元は今川の所領であった駿府に城を構え五ヶ国(三河、遠江、駿河、甲斐、信濃)を支配するが、天正17年(1589年)3月、秀吉の小田原北条氏攻めの後に関東移封を命じられるも承諾し、そこでも腐らず、不毛の地「関東」を見事な一大都市へと整備したのである。
慶長12年(1607年)7月3日(当代記他による)、家康は再び駿府に移住し、ここから10年間に亘る大御所政治注6を執行する。これには全幅の信頼を置けない二代将軍秀忠との二元政治がその理由とする説があるが、そうではない。秀忠は主に江戸において家康から帝王学を学び、徳川将軍としての資質は相当なものであった。
しかし、当時の徳川政権の基盤は未だ強固とは言えず、関ヶ原戦後の始末と全国統治に向けた諸施策を実行していかなければならなかった。それに伴い、朝廷との関係調整も行わなければならず、また、諸外国からの圧力も増してきており、国内外に配慮しながら政権を維持していくためには秀忠独りでは現実に不可能であったからであろう。
従って、秀忠は江戸城に居て内政を仕切り、家康は駿府大御所として文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交回復(慶長14年・1609年朝鮮通信使と謁見)を皮切りに、オランダ及びイギリスの東インド会社商館の開設(長崎・平戸)を許可するなど外国貿易を推奨、多くの使節団を駿府に招く一方、家康の九男・徳川義利(義直)、十男・頼将(頼宣)、十一男・鶴松(頼房)を叙任(官位に付けること)させ、尾張に義直、紀伊には頼宜を配置(御三家体制)して江戸を中心とする広域行政の体制を整備し、外交、軍事、経済の各分野における徳川幕府の恒久的延命戦略を推進していった。江戸時代の基本的法令であった「禁中並公家諸法度」や「武家諸法度」並びに「諸宗諸本山法度」などを整備したのも大御所時代である。

注6
大御所政治とは、慶長12年(1607年)から元和2年(1616年)の家康死去に至るまでの10年間、駿府において権勢を振るった期間を指す。スペイン人のアビラ・ヒロンは「日本王国記」の中で、「日本の領主たちは、彼等が老いた後もしくは子息が成人した後に隠居する習慣が在る。これは領主の地位を相続者にに譲り統治から引退することであるが、今のこの国の国王はその流儀に従わず、王子はすでに35歳を過ぎている大人であるにも係わらず、依然国王自らが国を統治し続けている」と記し、家康と秀忠の関係を評している。

他方、関ヶ原、大坂の陣を経て、日本国中の戦国大名及びその家系は徳川家康を武家の頂点とする天下一統の体制を受け入れて行くこととなる。

慶長20年(1615年)7月9日。豊臣秀吉を「大明神」として祭祀する豊国大明神の神号が払われ、同神社領は改易となり御霊舎(みたまや=故人の霊璽を祀る社)は取り壊された(方広寺境内に移設)。前号に述べた(2017.4本編第5章注脚3)聖武天皇の神話に肖り日本人の軍神である「新八幡」の神号を遺言としていた秀吉の遺言執行を阻止したのは家康である。それは、豊臣家滅亡後に家康が考えていた徳川体制堅持のために、八幡大菩薩を氏神として全国を統治するのは源氏姓を名乗る氏子中の最高権威である源氏長者、すなわち家康自らであることを意識してのことであった。


八幡神とは日本特有の軍神

【終章】
家康は、側近の崇伝(金地院崇伝)が編集した「異国日記」において「日本国領主」として称賛されている。また、家康が発布した禁中並公家諸法度第14条に在る「国王」とは天皇のことである。つまり、日本の国王は天皇を言い、武家領主である将軍は国主と位置付けた。これこそが日本の王権に係わる基本的原則であり、現代まで綿々と続いているのである。
戦国の風雲児・織田信長と稀代の天才・豊臣秀吉という二人の天下人と共に戦乱の世を駆け抜けながら、徹底して後発の有利性という理論を実践し、情報収集に他の追随を許さず、先人の歴史を大いに学び、どの状況下にあっても俯瞰的視野を基本とした先見性を持ち、常に時間を計算しながら健康に留意して「その時」を待った徳川家康。「不屈の精神力」という言葉は、彼のために在る。


江戸から東京へ…現在もなお発展し続ける首都(都庁展望台:東京都)


参考文献:
・今谷明「戦国大名と天皇」福武書店1992年
・勝俣鎮夫「戦国時代論」岩波書店1996年
・鍛代敏雄「神国論の系譜」法蔵館2006年
・同上「中世日本の勝者と敗者」吉川弘文館2013年
・同上「戦国大名の正体」中央公論新社2015年
・中村孝也「新訂徳川家康文書の研究」(上・中・下巻之一・下巻之二)日本学術振興会1980年
・同上「家康の政治経済臣僚」吉川弘文館1978年
・小和田哲夫「争乱の地域史」清文堂出版2001年
・神谷昌志「徳川家康伝」明文出版社1995年
・久能山東照宮博物館「家康と遠江」久能山東照宮1973年
・高木昭作「将軍権力と天皇」青木書店2003年
・久保健一郎「戦国大名と公儀」校倉書房2001年
・明智憲三郎「本能寺の変431年目の真実」文芸社2015年
・平山優「天正壬午の乱」学習研究社2011年
・富島保次郎「松井康之伝」宮田昌之刊1997年
・大久保彦左衛門(小林賢章訳)「三河物語」教育社1980年
・太田牛一(桑田忠親校注)「信長公記」新人物往来社1997年
・竹内理三編「家忠日記」臨川書店1981年
・英俊(辻善之助編)「多聞院日記」三教書院1935年
・東京大学資料編纂所「言経卿記」岩波書店1959年
・斎木一馬(染谷光広校訂)「兼見卿記」続群書類従完成会1971年
・ルイス・フロイス(松田毅一、川崎桃太訳)「完訳フロイス日本史」中央公論新社2000年
・松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」同朋社出版1987年
・アビラ・ヒロン(佐久間正、会田由訳)「日本王国記」岩波新書1991年
・近藤瓶城編「老人雑話」臨川書店1983年
・宮本義己「松平元康<徳川家康>の器量と存在感」大日光71号2001年

出典資料
・大御所徳川家康の城と町(駿府城関連資料調査報告書(静岡市教育委員会)
・徳川家康公御遺品・文書目録(全国東照宮連合会)
・駿府と家康展(久能山東照宮博物館)
・徳川家康関係参考文献目録(岡崎市立図書館)
・駿府政事録(林羅山)
・日光東照宮文書(日光東照宮)
・大御所四百年記念祭・家康公を学ぶ(元大御所四百年祭推進室)
・駿府城公園(静岡市)