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ラビットプレス+4月号


征夷大将軍・徳川源朝臣家康(資料:堺市立博物館所蔵)

「金の成る木」とは?家康が問う。家臣、応えず、家康が太い幹に書きて一同に示す。

『よろづ程のよ木』…よろず程良き
『志ひふか木』…慈悲深き
『志やうぢ木』…正直

細川三斎(幽斎)忠興公、これに左右の枝をとお添え遊ばしてはとなり、

『あさお木』…朝起き
『いさぎよ木』…潔良き
『志んぼうつよ木』…辛抱強き
『ゆだんな木』…油断なき
『かせ木』…稼ぎ
『ついえのな木』…費え無き(倹約)
『ようじょうよ木』…養生良き
『かないむつまじ木』…家内睦まじき(家内安全)


細川忠興公と妻ガラシャ像(長岡京市勝竜寺内:長岡京市観光協会)

関ヶ原での辛勝(敢えて辛勝とする。理由は関ヶ原合戦に関する数多の文献を参考されたい)から戦後処理を経て、徳川家康は征夷大将軍となり、名実共に武家社会のトップに躍り出た。それも束の間、僅か2年後の慶長10年(1605年)4月。家康は、征夷大将軍の職を三男・秀忠へ継承し、徳川家が征夷大将軍職を世襲する事実を天下に示し、幕府体制の基礎を江戸の地に下ろしたのである。
ここに至るまでの家康の戦略と統治の手腕は前号までに書いたとおりであるが、領地拡大に対する飽くなき追求には莫大な金が掛っていたことは当然である。また、敵将の臣下を、来る者拒まず受け入れ、能力ある者には要職に抜擢するなど、清濁併呑の器量は、裏を返せばそれだけ扶持(給金)を増やすことに繋がり、一層台所は苦しくなるのであるから、資金力も相当要求されることは家康も十分に分かっていた。
本能寺の変の直後、堺から岡崎に戻るや否や、旧武田領(甲斐、信濃)に進軍した天正壬午の乱(天正10年・1582年)で家康が狙った本当の獲物は、武田家の遺した甲州金注1であったと云われるのも頷ける。

注1 甲州金
戦国時代の金、銀貨の呼称は「両」「分」「朱」であり、また、その計算単位は4進法であった。これらの始まりは、甲斐武田氏が造った甲州金である。その他の大名によって造られた各種の金、銀貨は秤量貨幣(使用する都度、品位、重さを検査した上で交換価値が決められる)であったのに対し、甲州金は7段階に及ぶ量目体系に基づいて造られた計数貨幣(統治者が一定の品位や量目によって額面を表示し、その価値を保証したもの)であり、当時最先端の貨幣流通制度を構築していた武田氏は、領内の安倍、金沢、黒川、湯之奥などの金山を開発し、採掘した金で「甲州金」を造り、軍用費や報奨に使用していた。

家康はこの金がどうしても欲しかったのである。家康は、甲斐で武田氏が扱っていた甲州金を掻き集め、重さ1匁注2(もんめ)の小判(甲州金座の役人であった松木家の名を取り松木判と呼ばれる)30万両に改鋳させ持ち帰ったという。本能寺の変の直前、武田勝頼を討った織田信長は、家康の武功に対して駿河国を与え、安倍金山(梅ヶ島金山=梅ヶ島村の日影沢金山、関之沢金山、入島村の湯ノ森金山の総称で、井川村の笹山金山を中心とする井川金山も含めて安倍金山と呼ぶ)を支配下に収めたことから、家康の蓄財が本格的にスタートしたと云われる。


甲州一朱金・松木の刻印が見える(画像:日那コイン)

注2
1匁の松木小判(松木判)は一般的な小判に比して4分の1程度の重さ。
小判1枚=1両の経済価値(金の価格)は当時の物価からすれば7万円ほど(かけ蕎麦1杯が当時の資料で16文、1両が約4000文であるから約250杯分、今のかけ蕎麦の値段を280円で算出)。それが30万両ということだから、家康はこの時、約200億円強の資金を調達したことになる。

【天下取りの陰に究極の経済感覚…家康の金権政治!?】
天正18年(1590年)、秀吉の北条征伐後、関東に移封された家康は、広大な領地(約250万石)の一部を有力家臣達に分け与え、それぞれ城持ち大名にさせていく。ただ、この処遇が秀吉や信長とは比べ物にならないほど粗末、つまり“シブチン”であったのだ。徳川四天王と呼ばれた本多忠勝、榊原康政が10万石、今話題の井伊家・井伊直政でさえ12万石の小大名クラスという徹底ぶりであったから、蒲生氏郷など、「ケチの家康に天下は取れぬ!」(『老人雑話』)と酷評したという。しかし、このような家康の金の使い方が、後の関ヶ原での東軍組織編成に大きく寄与することになる。
徳川家財政を安定させた家康は、慶長5年(1600年)、伏見において家臣に対する扶持を増額し、徳川への忠誠を高めさせることに蓄財を惜しむことはなかった。また、薩摩・島津義弘の借財、金子700枚(現在の金額に直せば15億円前後か)を躊躇なく肩代わりし、恩を売っている。一方で、上杉征伐の大義を認めさせるため、同年6月6日、大坂城西の丸において会津遠征の評定を開き、6月8日に後陽成天皇から晒布(さらし)100反、15日には豊臣秀頼から黄金2万両(現在価格:約550億円)と米2万石を下賜された。島津への15億円など痛くも痒くもない金額であったろう。


甲斐国の金山分布(画像:湯之奥金山博物館)

~エピソード~
文禄4年(1595年)、関白豊臣秀次が粛清される事件が勃発した。秀吉は、秀次の切腹だけで満足せず、係累の根絶をはかり、眷族(親族縁者)のみならず多くの連座者を出した。この騒動に怯えていたのが秀次から黄金100枚の借財をしていた丹後12万石の大名・細川忠興であった。これを清算しておかなければ連座者として名前が上がり、切腹は免れない状況である。忠興の重臣・松井康之は家康の屋敷を訪ね、事情を説明して頭を下げた。これに対して家康は、「斯様な時の蓄え。遠慮なくお使いなされ」と言うや、家臣に持って来させた黄金200枚入りの箱から100枚を康之に差し出し、「返済は無用であるぞ!」と付け加えた。黄金入りの箱には入蔵の記録が記されており、20年以上前の日付であったという。昨年放映されたNHK大河の「真田丸」の一場面で、伏見の家康屋敷襲撃未遂事件を起こした石田三成が細川忠興に加勢を依頼したが、忠興は三成の依頼を一蹴したシーン。三成嫌いのイメージが定着している忠興にあっては、さほど深い意味を持たない出来事のようであるが、このときすでに家康から2億円強の借財の肩代わりを催促無しで受けていた忠興のことを視聴者が知っていたなら、さぞ忠興に対する見方は変わっていたであろう。その後の関ヶ原合戦で、忠興は徳川方の東軍に属し、先陣を切って奮戦したことは史実である。また、土佐の山内忠義、伊達正宗、鍋島勝茂らにも金銀を貸し付けた記録(『家忠日記』)もあり、大坂の陣において徳川に与せざるを得ぬよう恩を着せている。正に「金貸し家康」として、彼の天下取りは、準備周到にして人間心理をマネー術によって操り、着々と階段を上っていったのである。(参考:歴史研究家・はしばあきら「戦国武将のマネー術」Wedge2017.1)


金権政治と言えば…!?(イメージ:講談社現代新書)

【反転…大坂の陣へ】
家康の天下取りは、武家社会における混乱の治世であった。数多の戦に参戦し、時の主導者に翻弄されながら多くの家臣、領民の犠牲を払い、時には自らの絶命を覚悟しながら生き抜いてきた家康には、この国をどう統治すべきか、という命題に一つの答えを得ていた。

 

徳川と豊臣の政権交代時期を明確に分岐する事件は複数指摘されるが、その一つ、天下普請ともう一つ、二条城の会見について、史実を確認しておく。
関ヶ原戦後処理も一段落し、いよいよ徳川幕府の実質的支配がスタートするのであるが、豊臣家と徳川家の序列においては、大坂城に秀頼とその母、淀殿が居している限り秀吉の時代と変わってはいなかった。だが、すでに実力差は歴然であった。それまでは、太閤秀吉の遺命により、秀頼の傅役として前田利家、政務の要として徳川家康が指名され、併せて宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元、(小早川隆景は、慶長2年1597年病没)が同位同列であり、実質的な執行体制は奉行衆の石田三成、浅野長政、前田玄以ら複数の豊臣家官吏が担う合議体制を敷いていた(所謂五大老、五奉行だが、史書に実在する呼称は、秀吉遺言にある五人の衆、五人の物、三成や加藤清正の書状による御年寄衆、御奉行衆である)。
その後、関ヶ原で石田三成ら西軍に付いた諸将は処分され、関ヶ原以前に利家の死去によって家康の独占状態になっていた大坂城内であった故、実質的にはこの仕組みは崩壊していた。しかし、豊臣恩顧の大名衆の中でも加藤清正、福島正則という東軍側の大名においては、戦後に至ってなお関ヶ原の大義は豊臣家の存続に在ることを強く主張したことから、豊臣家と徳川家の序列が完全に入れ替わったとは言えなかった。

慶長9年(1604年)、家康は各地の大名に江戸城の普請を命じた(天下普請)。この計画は、西国方面の豊臣恩顧の大名を含む全国の諸大名を動員して推進された。慶長11年3月から本格的に工事が開始されたが、参加した大名の中に豊臣秀頼の名前はない。しかし、普請奉行の8名中、2名(水原吉勝、伏屋貞元)が秀頼の家臣であり、秀頼は家臣を派遣し普請を差配する側にあったことが分かっている。これは、秀頼の同意と協力の下で江戸城普請が進められたことを表し、対等な協力関係を保ったことになる。
つまり、天下普請に関して言えば、秀頼の同意を取り付けたところに意義があると考えられ、家康の権力と権威、そして徳川公儀の存在を天下に知らしめることが目的で、この時点で豊臣家を滅亡させようとの意図は読み取れない。

とてつもない規模の江戸城普請に使われた石は、実は家康が買い占めていた(左・皇居内堀、右・江戸城最古級の始図:松江市歴史館蔵)

次に家康は、後陽成天皇の譲位と後水尾天皇即位の儀に合わせた上洛を期に秀頼との会見を実現させた。慶長8年(1603年)には家康の孫娘・千姫を秀頼に嫁がせており、舅の立場での会見を秀頼に打診する。
慶長16年(1611年)3月28日、京都二条城で若武者(17歳)と成長した秀頼を迎える。老いた自身と、若さ輝く秀頼とを比較し、危機感を募らせたという脚色はさておき、非常に重要なのは秀頼が家康の臣従に下ったことである。この時、対等な立場での会見を促した家康に対し、朝廷より下賜された官位において家康の上位(従一位)は明らかで、家康の見え透いた配慮を真に受けると、無礼を働いたとして責められることは明白であった。かといって、天下泰平のためにはこの会見申し出を断ることも出来ない状況で、家康の老獪な誘導策に従わざるを得なかったのである。この時、豊臣は徳川の事実上の配下に置かれたのである。


二条城遠待の間で家康と秀頼が会見した(資料「元離宮二条城」)

【戦国大名の思想】
戦国大名と呼ばれる名だたる武家衆のトップ達は、大名御家や「分国」を公儀と捉える政治思想を持っていた。室町幕府成立後、武家による領国統治機構は地方分権を主とした遠隔操作の中央体制であり、現代のように移動交通手段や通信手段の発達する以前の情報伝達技術の中では、中央集権国家は成立しないことが明らかである。従って、最上位に位置する幕府の「公儀」は勿論のこと、分国においての「公儀」の樹立が政治の要であり、幕府はその監督に守護制を敷いていたのである。

戦国大名はバサラに非ず(婆沙羅=無秩序な無法者。語源は仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、薬師如来及び薬師経を信仰する者を守護する(護法善神)とされる十二体の武神。十二神将、十二夜叉大将、十二神明王とも呼ばれる)、と言ったのは鍛代敏雄(きたいとしお:歴史学博士、東北福祉大教授著書「戦国大名の正体」)である。戦国大名の分国法の中には「礼」についての条が多く見られる。戦国大名を卑怯な下剋上の産物として捉えるに留まるなら、その本質を見失う。「儀礼」は、家格や身分によって編成される組織に在って必要不可欠なものであり、それぞれの地域に独立した分国を統治する戦国大名は、朝廷と幕府の公儀に包摂され、その権威の下に家格や役職が付与される存在であった。これは徳川や豊臣、織田家においても同様であり、自力による実効支配を正当化する外聞や面目を必要としたのである。
この権威のうち、朝廷の威光を存分に活用したのが秀吉であったことは前号でも述べた。それまで五摂家(鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った五家(近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家)の各家)が独占していた関白の官位を、武家出身者で初めて認めさせた秀吉の政略は、征夷大将軍となった家康をも十分に悩ませた。


儀礼と秩序を重用したのが戦国大名であった(イメージ:京都御所建礼門と正殿)

また、戦国大名は、「天道思想」の影響そのままに領地拡大を繰り返していた。天道とは、天地自然を生みだした絶対的な神によって保証された道理のことである(前述『戦国大名の正体』)。彼等は公儀を正当化するために天道を宣伝して権威の裏付けとした。天=神であり、合戦の勝敗も天道によって左右されると考えていた。桶狭間の戦いにおいて、信長が僅か2千の兵で4万5千の今川軍に勝利した驚きを「信長公記」の筆者である大田牛一はこう記している。「因果歴然、善悪二つの道理、天道恐ろしく候なり」。秀吉は死後、京都・方広寺大仏の鎮守、豊国大明神の神霊として祀られた。奈良時代の聖武天皇注3に準えて(なぞらえて)のことである。
家康が関ヶ原戦後処理において、豊臣家減封後もなお巨額の財産を保有していた秀頼に対し、神社仏閣の建立を勧めて富の散財を誘導したという俗説もあるが、とりわけ秀頼が心魂に徹したのが方広寺再建であった。世に言う「方広寺鐘銘事件」は、確かに大阪冬の陣の引き金となるのであるが、銘文に難癖を付けた家康が、豊臣謀反を誘引したということではない。家康も又天道を信仰した大名の一人であるが故、このまま大仏鎮守の神霊として未来永劫秀吉が神格化されることを恐れ、なんとしても阻止しなければ、徳川幕府の行く末と天下泰平に暗雲が立ち込めることが分かっていたからである。だからこそ、豊臣の怒りに火を付けるため、濡れ衣を着せた片桐且元に救いを差し伸べ、徳川家臣に重用したことも頷ける。


大坂夏の陣屏風絵図(大阪城天守常設館蔵)

そしてついに豊臣家滅亡の戦いの火蓋が切られ、豊臣家は滅亡へと向かってゆくのである。

注3
聖武天皇が奈良東大寺大仏を造立した際、豊前宇佐宮の八幡神を勧請して大仏の鎮守八幡として祀ったとされる。御神託を授けられた巫女は紫の輿に乗り東大寺に入って拝礼した。八幡大神が憑依していた。その後、八幡神が出家し、神仏同体の菩薩となって現れ、聖武天皇の菩提を弔ったと伝わる。(出典:「戦国大名の正体」231項)

次号へ続く