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ラビットプレス+2月号


征夷大将軍・徳川源朝臣家康(資料:堺市立博物館所蔵)

慶長8年(1603年)2月12日。
徳川家康は征夷大将軍に任官した。江戸幕府が正式に成立したのである。室町幕府15代将軍・足利義昭依頼30年、「武士の最高位、武家の棟梁」を意味する征夷大将軍に就任し、名実ともにその地位を不動としたのである。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦終結後、戦後処理を進めてきた家康は、豊臣家当主である秀頼の処遇にも厳しく、摂津、和泉、河内三ヶ国を残して当時まだ200万石と云われた豊臣直轄領の殆どを没収し、関ヶ原で家康に与して武功を上げた各大名に再配分して、豊臣家を実質的に減封した。

一方、関ヶ原合戦後の豊臣家に対する朝廷の扱いは秀吉の生前と何ら変わることがなく、毎年正月には平公家が大坂城に大挙下向し秀頼に参賀を行い、豊臣家臣に対しても幕府とは関係なく独自の官位叙任権を行使するなど、摂家注1の一族としての礼遇が続いていた。また、武家側においても豊臣家と秀頼家臣は陪臣(本流から外れた地位)ではなく、徳川家直参と同等に各書類に記載されるなど、豊臣家はなお徳川家と一定の対等性を維持していたのである。


豊臣秀頼公像(玉造神社内)

注1
摂家(せっけ)=摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った五家(近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家)の各家を指す。官位階の大納言から右大臣、左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できたのはこの家格からだけである。関白就任を目論んだ羽柴秀吉(当時は平朝臣(たいらのあっそん)を称していた)は、天正13年(1585年)に近衛前久の猶子となり、藤原朝臣秀吉(近衛秀吉)として関白就任を果たし、豊臣姓を下賜された。その後、秀吉の養子の秀次も関白に就任している。

朝廷では、秀頼という武家豊臣家の後継者が誕生して以来、公家摂家豊臣家の後継者としても認めており、関ヶ原合戦後、家康に武家社会の勢力図が塗り替わったとしても、関白になり得る存在は依然秀頼しか該当する者はなく、朝廷内での位置づけは変わっていなかったことを示すものであった。後に記すが、慶長末年に国家鎮護のため、秀頼が方広寺の大仏を再建した際においても、開眼供養の会に朝儀を挙行し、勅書を調えるなど、朝廷は家康ではなく秀頼のために機能していたのである。


朝廷との繋がりを権威の象徴とした秀吉(イメージ:京都御所承明門)

【家康の全国統一と豊臣家】
関ヶ原合戦後、65万石程度の大名に減封された豊臣家であったが、朝廷の加護により豊臣公儀は威信を失っていなかった。この時期、徳川公儀と並存する形で豊臣は未だ存在していたのである注2。

注2
関ヶ原合戦後の政治体制は、将軍職を基軸として天下を掌握しようとする徳川公儀と、将来における関白任官を視野に入れ、関白職を基軸として将軍と対等な立場で政治的支配を行なおうとする潜在的可能性を持った豊臣公儀とが並存した。こうした両体制の並存を二重公儀体制という(豊臣大坂城:笠谷和比古、黒田慶一共著・新潮選書)。
「二重公儀体制」の存在根拠として、
(1)秀頼に対する諸大名伺候の礼
(2)勅使や公家衆の大坂下向
(3)慶長期の伊勢国絵図の記載
(4)大坂方給人知行地の西国広域分布
(5)秀頼への普請役賦課の回避
(6)慶長11年(1606年)の江戸城普請における豊臣奉行人の介在
(7)二条城の会見における冷遇
(8)慶長16年(1611年)の三ヵ条誓詞
以上、笠谷氏は指摘する。

慶長10年(1605年)4月。
僅か2年で家康は、官職・征夷大将軍の秀忠への継承を実行した。このことは、徳川家が征夷大将軍職を世襲するのだということを天下に示したものであり、豊臣家に、そして全国の諸大名に大きなインパクトを与えたのは事実であろう。家康は、併せて秀頼の右大臣昇任を朝廷に推挙し、それを口実として伏見で秀忠と面会するよう上洛を打診したが、生母・淀殿の反対で実現しなかった。
家康の豊臣家に対する仕打ちは、名実共に天下人としてその地位を揺るぎないものとし、且つ徳川幕府の隆盛を後世に伝え及ぶためには豊臣家の存在が邪魔であり、様々な策と機会を作っては豊臣家を滅ぼすことを画策していた、とする定説が在る。関ヶ原以降、定説を軸に大坂冬の陣までの13年間、家康が豊臣攻めに踏み切るまでの間に起こった日々の出来事は、定説を裏付ける家康の心境の変化を分かり易く説明するにはもってこいの具材として盛付けされ、シナリオどおり豊臣討伐の必然性を疑う余地のない、当然のものに仕上げている。しかし、それは真実だったのだろうか。


大坂城の片隅に秀頼と母淀殿の慰霊碑が(イメージ:大坂城内)

【関ヶ原戦後処理と家康の政治感覚】
関ヶ原戦後処理に当たった東軍(総大将徳川家康)の諸将は徳川秀忠、本多正信、細川忠興、井伊直政ら徳川家の重臣達である。この時の差配を史料注3に基づき確認してみると、家康の政策や方針が浮かび上がってくる。
先ず、西軍(総大将毛利輝元)側の大小大名についてであるが、今般の大戦の首謀者である石田三成、安国寺恵瓊、小西行長などの刑死は当然としても、戦の最中に戦死もしくは自刃した者達を除くと極刑に処された者の数が想像よりはるかに少ない。全ての処遇を家康が直接命じたわけではなく、前述した家臣らの判断によって処刑された者も含まれるとすれば尚更である。これは一体どういうことだろうか。家康は実は温情主義者だったのであろうか。西軍副将・宇喜多秀家はじめ有名なところでは真田昌幸、信繁(幸村)親子など、勝者からすれば極刑に値する逆賊であるが、いずれも流罪、追放、蟄居など死罪を免れている。更に、刑死・流罪など特別な処罰を受けずに、改易に留まった大名は土佐の長宗我部盛親をはじめ、毛利秀秋、織田信貞ら50余家に上る。
そして何より、家康討ちを心底から望んでいたと目される上杉景勝、毛利家の実力者である吉川広家、総大将の毛利輝元、本戦参加の毛利秀元、そして関ヶ原における大義名分の核である豊臣秀頼らに対して所領を減じる「減封」処分を課しただけに終わっている。


西国最強の毛利氏も周防・長門のみに減封(イメージ:毛利家本邸)

注3
戦国人名辞典・新人物往来社、日本史総覧・新人物往来社

関ヶ原合戦(周辺の攻防戦も含む)で西軍に与したとされる諸将は170余名、93家を数えると云われ、その多さに家康も愕然としたことは想像に難くない。前号でも述べたが、本戦終結後の戦場で家康が見たであろう凄惨な光景は、家康の心中に一つの決意をもたらした。それは、長く続いていた武家による領地拡大のための殺戮の歴史に幕を引くこと。すなわち天下を統一すること。それが自ら授かった使命であると。そのために何をどう処理すべきか。この大戦の戦後処理にはこれまでの戦勝特権としての利己主義的な地図の塗り替えではなく、今後の天下国家を創造する布石として政治家・徳川家康が最初に行った総合政策的処分だったと考える。
先ず、他に追随を許さぬ領地と石高(加増後400万石)を自らが掌握し、圧倒的な力の下で政治を行う環境を整備し、東北から九州まで、150年に及ぶ戦乱に巻き込まれ続けてきた諸国の荒廃を最小限に食い止めながら、短期間のうちに天下を統治すること。それには徳川家単独で成し得るものではないことは承知のうえで、西軍に与した大名であっても、その後の状況や当主の性格、戦闘能力などを子細に分析し、利用すべきは利用し、取り込むべきは取り込む一方で、東軍に味方した大名、家臣であっても改易・減封を課すという家康独特の鋭い政治感覚を発揮した結果の措置と見る。

【家康の知略と本質…温情家と冷血漢】
関ヶ原戦後処理における家康の知略が伺える処遇として、片桐且元の加増が挙げられる。片桐且元は、豊臣家直参の大名で、長く秀吉に仕えた後、秀頼の傅役として家老職に在った。関ヶ原合戦では西軍(石田三成方)に付き、小出秀政、石川頼明、弟の片桐貞隆など旗本も加わる大津城の戦い注4に、増田長盛と同じく家臣を派遣し奮戦。しかし、東軍勝利の後は一転して豊臣と徳川両家の調整に奔走し、家康から功績を評価されて播磨国と伊勢国の所領6千石と引替に、大和国竜田2万4千石を与えられた直後、茨木城の城主にも任ぜられている。且元といえば、その後に勃発する大坂の陣の引き金とされる方広寺鐘銘事件注5に際し、豊臣家の代表として大野長治らと共に駿府へ派遣され家康との面談に臨んだが叶わず、それが元で内通を疑われ大坂城を追われた後、家康に人質を送って徳川に従軍した。


片桐且元は実は非常に重要な役割を果たした(資料:大阪教育大学付属図書館蔵)

注4
大津城の戦い:慶長5年(1600年)9月7日から同年9月15日まで、近江国大津城を舞台に行われた戦い。関ヶ原の戦いの前哨戦と位置付けられ、1万5千の兵を率いた西軍の勝利で終わる。しかし、勝利したその時、すでに関ヶ原で本戦も終結していた。この1万5千の兵力は後に関ヶ原本戦での致命傷となったと分析されている。

注5
方広寺鐘銘事件:慶長19年(1614年)、豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿の完成と共に梵鐘が完成した。再建の総奉行であった片桐且元は、梵鐘の銘文を京都南禅寺の僧・文英清韓に選定させ、家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っていたが、天台宗、真言宗の対立に加え、家康側から開眼・大仏殿供養日が同日であることに異議が出され、更に大仏殿棟札と梵鐘銘文の内容に家康を愚弄する意図が隠されているので承服できない、として日程の延期を命じた書簡が届いた。特に梵鐘に刻まれた銘文に在った「国家安康」「君臣豊楽」の熟語に対する家康の抗議に端を発し、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝(以心崇伝・臨済宗の僧侶。徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案、外交や宗教統制を全面的に任された。その権勢から「黒衣の宰相」とも呼ばれた)らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般的である。
しかし、当時の情勢から考えて、銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかったと弁解しても、それが真実であるとは信じがたい、つまり最初から徳川に対する呪詛の意図があったのではないかという指摘も多い(笠谷和比古著「関ヶ原合戦と大坂の陣:吉川弘文館」他)。


秀吉の権威を彷彿させる方広寺大仏殿絵図(資料:京都国立博物館蔵)


今も残る広方寺梵鐘の銘文(イメージ:広方寺)

関ヶ原戦後処理から14年後に起こる豊臣家最後の戦いを予測し、いざという時のために片桐且元を手懐けておくことを意識していたとは到底考えられないことではあるが、家康にとって且元は使える男であると感じ取っていたのかも知れない。結果として、且元の存在がその後の歴史に大きく影響し、また家康に有利な状況を作っていくのである。更に、関ヶ原合戦において西軍に与した諸将のうち、一部を除き(真田信繁、長宗我部盛親、増田長盛、毛利秀秋ら)大坂の陣で徳川方に付いた豊臣恩顧の大名も相当数出るなど、当時は甘い処分と見られがちな家康の差配も、まるでこの時を見越していたかのように活きてくるのである。

【秀吉の人たらし、家康は…】
作家の司馬遼太郎は豊臣秀吉の立身出世の原因を「人誑し(たらし)」という言葉で解説している(新史太閤記:新潮文庫)。誑し≒騙し、同義語としてはほぼ悪意を表す言葉として用いられるが、司馬遼太郎が秀吉の本質を射た言葉として引用して以降、ビジネス用語としても人心掌握術の重要な手法の比喩として使われるようになったとされる。
史実かどうかは不明だが、秀吉にはこれにまつわるエピソードが非常に多く語られているので、あながち全くの創作ではなかろう。現に、尾張中村の百姓の倅が激動の戦国乱世を生き抜き、且つ当時の常識では絶対にあり得ない武家社会で天下人となったのであるから。
秀吉の人心掌握術の特徴は、自らの情愛を徹底的に相手に伝えようとするところから始まり、その相手が根負けするまで諦めない辛抱強さに非凡であったことであろう。そして、一旦相手が胸襟を開けば、懐奥深くまで羞恥なく入り込み、素性、身分や敵味方に係わりなく、自身の命をも厭わない態度で接するのである。秀吉の本質を育んだ環境からすれば頷けるところである。すなわち、貧しい大家族の農家に生まれ育ち、家族の絆を拠り所として幼少期を過ごした後、命を賭けて武家社会へ飛び込んだ秀吉に失うものは何一つ無かったのである。失うものが無い人間ほど強く逞しい者はない。であるから、秀吉の対人関係は常に真剣であり、それが相手の疑心を奪い、いつの間にか秀吉と苦楽を共にしたいと思わせてしまう。叩上げの人たらしである。


秀吉時代の大坂城復元模型(資料:大林組)

一方、家康はどうか。
家康は三河国人・松平氏8代当主広忠の嫡男として生を受けた正真正銘の名家の御曹司であるが、幼く(3歳)して今川義元の元に人質として差し出され、家族の愛情や温もりに触れることなく過ごした不遇の生い立ちを持っている。後、政争の具として更に織田家の人質(6歳)となり、当主として岡崎に戻れたのは実に18歳になってからであったという。家康は、幼少から正に戦国の世をその目で見、己の身を以て生死の狭間を体験してきたといえる。つまり、他人を信じることすなわち死を意味するという常に不安と恐怖の緊張状態の中で成長したということであり、且つ三河松平家継承と領土統治という重責を担っていたのであるから、自ずと秀吉とは違う対人観察力と洞察力を身に付けていたはずである(本編2016.11第1章【幼少期・竹千代~次郎三郎元信の性格形成】の項参照)。

裸一貫、怖いもの知らずのままのし上がってきた秀吉と対極の成長過程を経た家康の人心掌握術は、一言でいえば「組織力の誇示」である。数は力、徳川ブランドの持つ魅力は現代社会の大企業への憧れに似ている。農耕民族で集団生活を基本とする日本人の共通する意識は今も昔も変わっていない。“寄らば大樹の陰”“長い物には巻かれよ”“多分に洩れぬ”など、古くから諺にも語り継がれている民族の気質。それに対する家康の戦略とは。彼の尋常ではない領地拡大意欲にその本意を知ることが出来る。それは家康が三河の小大名として今川義元に従軍し、桶狭間の戦いで強大な敵・織田信長と戦い感じた兵力と組織力の違いに始まり、甲斐・信濃の武田信玄、小田原の後北条家など大大名の勢力を目の当たりにして、自らの生き残り策は領地の拡大以外にはないと悟った。


浜松を拠点に武田氏と戦う(イメージ:浜松城復元天守)

それからというもの、従軍していた今川氏を見限り、永禄5年(1562年)、織田信長と同盟(清州同盟)を結び、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し三河国を統一、永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣するなど、同盟先の選択にも時代の流れを優先させた。一方、駿河今川領へ侵攻を開始していた武田信玄との攻防にいては、遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結び、遠江国の今川領へ侵攻した後、元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬に移ると、そこを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした。しかし、元亀2年(1572年)、武田氏が小田原北条氏との甲州同盟を回復すると、翌年、徳川領である遠江国・三河国への侵攻(西上作戦)を開始した。この戦いにおいて徳川軍は劣勢を強いられ、一言坂の戦い、二俣城の戦いと続けて敗れるなど窮地に陥ったが、浜松での三方ヶ原の戦いで武田軍を迎撃する。その後、武田信玄の死去で情勢が大きく変化し、後継者勝頼の奮戦も空しく天正10年(1580年)3月、武田勝頼の自刃により武田家は滅亡する。

これら一連の戦いにおける家康の働きを評価した信長は、駿河一国を徳川領として家康に与えた。こうして三河一帯、遠江、駿河を領地とする徳川氏の基盤が確立していったのであるが、その間、戦に敗れた敵国の兵を殆ど無条件で自軍に迎え入れるなど、兵員増強にも積極的に取り組み、本能寺の変で織田信長が横死した大事件にも動揺することなく、即座に旧武田領の甲斐・信濃へ侵攻し(天正壬午の乱)、更に領土拡大を果たすのである。これにより、元亀元年(1570年)頃は三河・遠江約57万石であった領地が、天正15年(1585年)頃には甲斐・信濃を含む約180万石の勢力を誇示するまでに至り、徳川の名は東国の大大名として全国に轟くこととなった。


松平元康改め家康は領地拡大に奔走する(イメージ)

【人間的魅力vs安定保証】
秀吉は個人のカリスマ性を最大限発揮してあれよあれよという間に天下人の階段を昇りつめた。そして自らの基盤(豊臣家)を盤石なものとするために朝廷の権威を利用するという手法に出た。
一方の家康は、信長の死後、脆くも崩れていく戦国最強軍団・織田家の衰退を目の当たりにし、また関ヶ原において東西二分する全国の大名衆が、裏切り、寝返り、不戦というそれぞれの考え方でいずれが勝利するのかを見極めてから勝ち組に乗るという動向を知り、改めて権力とは何かを悟ったのである。
つまり、戦乱の世を治め、天下泰平に向かわせるためには、一人のヒーローの出現は無意味であり、カリスマ性は一身専属の儚さを併せ持つことに早くから気付いていたといえる。従って、家康は自らをヒーローとは考えず、常に自分亡き後も含めた日本の将来を憂い、そのために徳川家は何をすべきか、どうやってこの国を鎮めるべきなのかを考えていた。家康は、近代国家の在り方を真剣に考え、実践しようとしていた。これを裏付ける歴史的状況証拠は揃っている。


慶長16年3月28日、遂に家康と秀頼は対面する(二条城天守:林原美術館蔵)

関ヶ原戦後処理の段階では、大坂の陣のような一大決戦は予測していなかった。豊臣家は減封したが、豊臣恩顧の諸大名や反家康の大名などもおり、当然いつ何時反旗を翻すやもしれないことぐらい承知である。家康は急いだ。徳川領を最大400万石に加増し(絶大な組織力を誇示することにより反逆の意を喪失させるため)、論功行賞と信賞必罰を織り交ぜた対応に苦慮しながらも、自身は残酷な処刑は好まず、謀反の可能性が残る諸将にはニ度と起き上がる気力を与えない処遇を課した。一見すると温情と取られるかもしれない措置であっても、その後の対策には万全を期す。恨み、恨まれる、負の連鎖を断ち切ることが最も大切であり、そうすることで一定の時間が過ぎれば、関ヶ原現役の武将達も年老いて消えていく。それまで、豊臣家と朝廷と徳川幕府の共存は最良の選択であると考えていた。慶長5年(1600年)12月、豊臣秀次が解任されて以来、空位となっていた関白職に、公家衆から二条家出身の九条兼孝が家康の奏上により任じられ、豊臣家による関白世襲を止めた。これは豊臣家から朝廷の威光を降ろし、統治を一元化するためである。
家康は義に厚く、秀吉との約束である秀忠の娘・千姫と秀頼の祝言を実行している。後に分かるが、明智光秀の側近で斎藤利三の娘・福(後の春日の局)を三代将軍徳川家光(幼名竹千代)の乳母に登用したことは、本能寺の変に絡む家康と光秀の深い関係が浮かび、光秀や利三に対する隠された恩義に報いたとする説もある。また、これらのことから見ても、豊臣家を滅ぼすことを戦後処理の中で明確な意思を以て計画していたとまでは断言できない。

家康は組織人としての経営手腕に長けていた人物である。自らは槍働きを得意とはしていなかったが、決して戦下手な武将ではない。諜略を得意とし、来る者は拒まず、組織の中で融和させていくことが可能であることを実践してきた。この手法を国家レベルで実現出来たら、戦国の時代を終わらせることが出来る。歯向かう者達を徹底的に抹殺してきた信長恐怖政治とも、スーパーヒーローとして天下人を一代限り、僅か14年注6で再び戦乱の渦に引き込んだ秀吉とも違う、永く将来に亘って運営されていく近代国家の礎を築き始めた家康。その生涯を閉じるまで、あと2年と迫っていた。

注6
豊臣政権とは、天正14年(1586年)9月9日、秀吉は正親町天皇(おおぎまち)から豊臣姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任し政権を確立させてから死後2年が経過した慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦までの14年とする。

次号へ続く