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ラビットプレス+2月号


征夷大将軍・徳川源朝臣家康(資料:堺市立博物館所蔵)

慶長3年(1598年)7月22日。豊臣五大老の筆頭、前田利家と同じく肩を並べる徳川家康の姿が死期迫る太閤秀吉の病床、伏見城に在った。
隆盛見る影もなく、痩せ衰えこの世の人と思えないほどの姿の太閤殿下の前に進んだ家康に、消え入るようなか細い声で懇願する秀吉。その言葉は、ただひたすら藤吉郎秀頼(慶長元年に元服し、幼名拾丸改め)の行く末を案じる一人の老いた父親のそれであった。
それから間もなく、同年8月18日。戦乱の時代を駆け抜け、不世出の天下人、豊臣秀吉が死んだ。そして次の時代の扉が開いた。

遡ること16年前。天正10年6月の本能寺において織田信長が横死し、謀反の首謀者である明智光秀もそれから僅か11日の命であった。
当の家康は、6月6日、居城の岡崎帰着後、時を空けず旧武田領甲斐・信濃に侵攻(天正壬午の乱)し、領地拡大と武田家旧家臣の取り込みに動いていた。


甲斐・信濃を攻略し、上野は北条氏が切り取ることで講和(資料:国金blog)

明智光秀の謀反によって大きく流れを変えた戦国時代の潮流は、計ったかのように天下の大罪人を討ち果たし、織田家を踏み台にして大きく頭角を現してきた羽柴秀吉の時代に突入したのである。それから16年間、豊臣時代の隆盛に身を任せ(ように映る)、徳川家康が生きたその16年は、この国の歴史上最も重要な時間ではなかったか。そして終盤、関ヶ原の地で決した群雄割拠の時代の終焉に至るのであるが、豊臣時代があったからこそ培われた家康天下取りへの真髄に迫る。

【清州会議と徳川家】
天正10年(1582年)6月27日。信長の後継と織田家家臣の所領配分を決める為、柴田勝家、羽柴秀吉、池田恒興、丹羽長秀は尾張国清州城に参集し、合議を持った。織田信長には三人の男子が居たが、すでに織田家の当主を務めていた長男・信忠は本能寺の変において明智軍に二条城で殺害されており、残る次男・信雄(のぶかつ)と三男・信孝(のぶよし)が互いに後継者の地位を主張していた。
本能寺の変で信長が横死するまでは、織田家で筆頭の家老の地位にあったのは柴田勝家である。しかし、謀反人の明智光秀を討ち、一躍脚光を浴びた羽柴秀吉はその地位を十分に脅かす存在となり、織田家における実質的な政権争いの幕開けがこの清州で行われた合議である。
歴史小説やドラマでは、三男・織田信孝を当主として織田家を支えようとしていた柴田勝家に対し、奇をてらうように信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)を擁立し、諜略の末に柴田勝家派であった丹羽長秀を取り込んだ秀吉の思惑通り、三対一で三法師を後継者とする案が採択されたと描かれることが多い。しかし、第一級資料とされる「金井文書」「多聞院日記」などによると、信雄と信孝の跡目争いに巻き込まれるのを嫌った勝家や秀吉らが、共謀して三法師擁立で進める案を最初から用意していたような記述があることから、清州での合議自体に息をのむ駆け引きが行われた事実は無いようである。
つまり、清州の合議の主たる目的は、織田家の主だった家臣らの領地配分にあり、すでに勝家も秀吉も信長亡き後、訪れる群雄割拠の次代を睨んだ行動であったと推測出来よう注1

注1
これを裏付ける状況証拠として、清州会議から数カ月後、三法師が後継者となったことを快く思わなかった織田信孝と、既に秀吉と対立していた柴田勝家、滝川一益(織田家重臣でありながら、清州の合議から外されていた)とともに近江での賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに至るのである。そもそも勝家にしても秀吉にしても、織田家を盾に自らの権力を増大させるため合議に臨んでいたのであるが、領地配分においては一歩下がった秀吉の策略に勝家は気付かず、実質的に織田家の最高権力を手にしたと思わせておいて、合議の翌月、信長の葬儀を秀吉独断で盛大に挙行し、世に信長の後継者が秀吉であることを見せつけたのである。そして、勝家がそれを許さず、刃を向けてくることは織り込み済みの秀吉であるから、賤ヶ岳の戦いは筋書き通りの展開であった。
想定通り、一旦は勝家に譲った長浜一帯の領民達は、領主である勝家ではなく、それまで共に繁栄の基礎を築いてきた信頼関係から、秀吉に兵糧をはじめとする物資の援助を行い、敵方の領地内においても有利に戦況を進めることが出来た秀吉が戦いに勝利する。清州会議から僅か一年。最大の障壁であった柴田勝家、滝川一益、織田信孝を同時に排除することに成功したのである。


賤ヶ岳の戦い(イメージ)

こうして信長に代わり、天下人への野心を顕わにして進み出した秀吉は、天正11年(1583年)、大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城を築く。織田家の実力者達を葬った秀吉は、表面的には三法師を当主としつつも、実質的には織田家中を牛耳っていた。
一方、賤ヶ岳の戦いで秀吉側に与していた信長の次男・信雄は、自身の処遇や秀吉の専横に心中穏やかではなかった。天正12年正月、秀吉から年賀の拝礼を強制されたことに反発。その後、信雄家臣で秀吉に近いとされた浅井長時・岡田重孝・津川義冬(織田信雄家において三家老と呼ばれた重臣)らを謀殺し、秀吉に反旗を翻した。同年春のことである。
この行動に加担したのが信長の朋友、徳川家康であった。

【小牧・長久手の戦いと石川数正の出奔】
天正12年(1584年)。織田信雄に加担した家康は浜松に居た。それを知った羽柴秀吉は三河侵攻を決断し、三好秀次、堀秀政、森長可、池田恒興(信雄に味方すると目されていた)ら3万以上の兵を率いて出陣。
家康はそれを察知し、同年3月13日には浜松から8000余の軍勢を連れて信雄の待つ清州城へ移動した。同日、池田恒興軍が信雄の居城犬山城を占領したとの報が入り、家康は小牧山城へ進軍。しかし、秀吉側の森長可(池田恒興の娘婿)も同じく小牧山城を狙って進んでおり、3月16日に小牧山城を望む羽黒に陣を張って家康と対峙。そこで家康は酒井忠次、榊原康政に対し羽黒奇襲を命じ、17日未明、酒井忠次軍が森長可を急襲し敗走させた(羽黒、八幡林の戦い)。翌18日に家康は小牧山城へ入り、直ちに城内整備と土塁建設に取り掛かり、秀吉軍の遠征に備えていた。


織田信雄(おだのぶかつ)(資料:神戸市立博物館蔵)

一方の秀吉は大坂城築城の真っ最中であり、3月27日になってようやく犬山城へ到着。自ら楽田(がくでん)に本陣を敷き、戦闘態勢を整えるが、家康軍は動かない。4月4日、膠着状態を打破するために池田恒興が家康留守で手薄の岡崎城攻めを提案し、家康が動いたところで小牧山城を一気に攻め落とす作戦を秀吉に進言した注2
秀吉はこれを許可し、池田恒興を1番隊として森長可、堀秀政、羽柴秀次から成る支隊を編成し、4月6日夜半、三河西部へ出発させた。

注2
小牧長久手の戦いについては、秀吉、家康両軍の壮絶な戦いが繰り広げられ、結果として家康側の優勢のうちに秀吉軍は本陣のある楽田に退却し、唯一秀吉に土が付いた戦であるというのが通説となっている。戦況では、長久手の戦いの布陣が決定的に秀吉側に不利であったことが敗因であるが、そもそもこの岡崎攻め(信長が得意としていた「中入り」という戦術)の経緯については、池田恒興の起案であり、秀吉は賛成していなかった(秀吉が書かせた「太閤記」によって明らかにされた)と云われることには異説(秀吉が丹羽長秀に宛てた4月8日付書状によれば、秀吉の作戦であることが伺われる)がある。

そうして始まった戦は、白山林、桧ヶ根、長久手の戦いと続き、北伊勢・美濃、岸和田城(根来衆、雑賀衆及び粉河寺衆徒が秀吉の留守を狙って堺や大坂に攻め入った)での戦に留まらず、関東では沼尻の戦い(北条氏直と佐竹義重、宇都宮国綱などが交戦し、上杉景勝も参戦)が勃発、四国にも飛び火(第二次十河城の戦い)するなど、半年以上に亘って広範囲に及んだ。
天正12年11月12日。秀吉側へ伊賀と伊勢半国の割譲することを講和の条件に秀吉が申し入れ、信雄はこれを受諾する。信雄が戦線を離脱し、戦の大義名分を失ってしまった家康は、11月17日に三河に帰国し、戦いは終結を迎えたのである。


小牧山城(復元・現史料館)


犬山城(国宝)

本能寺の変が起こる以前、三河遠江を統一した頃の徳川は、西三河に石川数正、東三河を酒井忠次に統括させ、遠江に家康の直轄軍をおいていた。所謂「三備(さんなぞえ)」の体制である。本能寺の変直後、旧武田領へ侵攻し、領地拡大を図った家康は、それまでの三河と遠江の一部であった徳川領を一挙に五ヶ国に広げた結果、三備体制では東西三河と家康直轄の浜松衆だけという統治バランスが崩れ、軍制の変革を余儀なくされた。
一方で武田信玄を尊敬していたと云われる家康は、武田旧臣から信玄の話を聞き取り、また、井伊直政には武田旧臣に書かせた「直政宛諫書」注3を与え、武田流(甲州流)を積極的に取り入れている。
天正13年(1585年)11月13日。家康の腹心であった石川数正は、一族家臣100名余りを連れて岡崎城から出奔し、羽柴秀吉を頼ったのである(後に秀吉から和泉8万石を与えられ、大名となる)。このことから徳川家中において軍制改変を急ぐ声が大きくなり(家老の石川数正は徳川の内政機密に当然のことながら精通しており、秀吉側に筒抜けとなる)、このことも大きく影響したのではないかと云われている(確実な一次資料は発見されていない)。

注3
「直政宛勅書」は、旧態依然とした戦法しか知らなかった井伊直政に対し、大将たる者には影武者が必要であることや、敵の欺き方、目立たない鎧を着用し、銃弾を避けること、戦功者への褒美はその場で与えること、そのためには戦場へも金銀を持参することなど、武田氏の戦法に学ぶべき軍法を家康が武田旧臣に書かせ直政に送ったとされる書状である。

このように史実を調べてみると、徳川家康の武将としての顔が見えてくる。勇猛果敢で猛者的な戦国の武将がクローズアップされる中で、兵力の確保や組織体制の整備、法制基盤を確立させて統制力を増していく軍政には軍人と政治家の両面兼ね備えた家康の能力の高さが伺えるのである。この時期の徳川家は織田家の配下同然の地位から、日の本中に名を轟かせる大大名への過渡期である。清州会議から賤ヶ岳の戦いに勝利し、着実に且つ大胆に信長の後継者として天下人への階段を上り始めた秀吉を横目に、先ずは自身の足元を固めながらも無理をせず、しかし、脇道に逸れ、遅れを取ることは決してなく、常に徳川家の存在を秀吉に強く印象付けていく政治手法は、やがて来る関ヶ原での戦いにおいて結実するのである。


当時の合戦の様子(資料:裏辺歴史研究所)

【秀吉の死に賭けた家康の野望】
先に紹介した「直政宛勅書」の前書にこういう記述が在る。

「心はやるは悪事」「進まず退かざる将こそ良き大将」

秀吉が天下人へ邁進し始めた頃、すでに家康の胸中には次の時代への扉がどこに在るかを十分承知していたのかも知れない。
秀吉が豊臣に姓を改め、朝廷へ急接近を試みていた。天正12年(1583年)11月には従三位権大納言に叙任され、晴れて公卿となり、翌年3月10日、正二位内大臣に叙任、同年7月には朝廷内で紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に自らも介入し、近衛前久の猶子となって関白宣下注4を受けることに成功したのである。その間、秀吉は全国平定を目指し、四国、中国、越中を攻略し、天正14年暮れから15年に掛けて九州での勢力を拡大させていた島津義久を討つべく、黒田孝高を軍監として毛利輝元らと合流し九州をも手中に収めていった。

注4
權大納言藤原朝臣淳光宣、奉勅、萬機巨細、宜令內大臣關白者 天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉 (関白宣旨)
詔、以庸質當金鏡、妥政績於通三、以愚昧受瑤圖、增德耀於明一、夢不見良弼、誰能諫言、內大臣藤原朝臣、名翼翔朝、威霆驚世、固禁闕之藩屛、忠信無私、居藤門之棟梁、奇才惟異、夫萬機巨細、百官惣己、皆先關白、然後奏下、一如舊典、庶歸五風十雨之舊日、專聽一天四海之艾寧、布告遐邇、俾知朕意、主者施行、天正十三年七月十一日 (関白勅書)

その頃家康は、自領の整備に追われていた。天正11年(1583年)から翌年に掛けての東海地方は天災の当たり年であったと記録され(「家忠日記」)、その中での秀吉や北条氏との戦いを続けてきたツケは大きく、小牧長久手の戦いによって戦死した領民らの家族の多くが、荒廃した田畑になすすべもなく、飢饉が襲い、老若係わらず自害する者が多数出たと記されている(三河「龍門寺拠実記」)。
天正14年(1586年)に入り、秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を盛んに試みた。臣従を拒み続ける家康に対し、同年4月、秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、5月、家康は朝日姫を室として迎えた。これで秀吉と家康は義兄弟となったが、家康は上洛しなかった。秀吉は10月に生母・大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送る。この状況でようやく家康は上洛を決し、10月24日、浜松を出たのである(「当代記」)。
全国の諸候は続々と秀吉の下へ臣従し、上洛していった中での家康の態度は、小牧長久手の戦いにおける印象冷めやらぬうちの出来事であったことも相まって、秀吉にはかなり堪えたであろう。上洛し、謁見する前夜に秀吉自ら家康の宿を訪問し、家臣一同の前での臣従の誓いを懇願したと伝わる(「徳川実記」)。そして、この後に豊臣家臣として働く家康であるが、特別扱いせざるを得なくなった家康に対する秀吉の疑心は死の床に就いても消えることは無かったのである。


徳川実記(成島司直等編:経済雑誌社)

それから僅か12年。慶長3年(1598年)7月22日。太閤秀吉は幼い秀頼を残しこの世を去った。
その間、家康は豊臣家繁栄のために公職を全うしてきた。表向きは、である。天正15年(1587年)8月8日、秀吉の推挙により朝廷から従二位・権大納言に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれるようになり、更なる推挙に左近衛大将および左馬寮御監(さめりょう/さまのりょうごげん/みかん、とも読む)に任ぜられる(駿府左大将と呼ばれる)。大坂では前田利家に次いで大老の職を務め、天正18年(1590年)の小田原北条征伐の際に武功を上げたにも係わらず江戸移封とされたが甘んじてこれを受諾し、100万石を超えるといわれる直轄地には、大久保長安、伊奈忠次、長谷川長綱、向井正綱、日下部定好、成瀬正一、彦坂元正らを代官職などに抜擢することによって、群雄割拠の関東一帯を速やかに統治することに成功している(関東はこの時以降、現在に至るまで発展を遂げる。その基礎がここに造られたのである)。
慶長3年(1598年)当時、関東一円に250万石の禄高を数える大大名にまで巨大化し、豊臣執行部の筆頭大老として押しも押されもしない地位に在った家康は、石田三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと、秀吉が生前(文禄4年(1595年))に制定した「無許可縁組禁止の法」を無視し、次々と縁戚関係を結んでいく。遂に次の時代の扉に手を掛けたのである。慶長4年(1599年)3月2日、前田利家死去と同時に豊臣家は混迷の時を迎える。反三成派の武将らが三成襲撃を企て追い詰めるのだが、家康の仲裁によって治められてしまう。家康はこれを好機と捉え、石田三成を追放し、豊臣政権における実権を完全に掌握するのである。

【流れに逆らわなかった関ヶ原決戦】
当時の豊臣政権下では、家康の専横は確かに度が過ぎていた部分もあったのであろうが、前田利家が死に、朝鮮出兵の遺恨が石田三成の失脚によって治まりつつあった大坂城中では、高台院(北の政所)も家康の政権を容認するなど、家康にとってもこれ以上を望む必要も無かったかもしれない。太閤秀吉は幕府を開かなかったが、家康の力量をもってすれば、征夷大将軍任官も難儀なことではなかったはずである。豊臣家の扱いは力関係からどうにでも出来るまでになっていたし、豊臣恩顧の諸大名を手懐けることも、豊臣家の最高権力者であるという家康の肩書がそれを可能にするからだ。つまり、家康にとっては東西を二分する大戦を起こす必要など無かったのである。しかし、時代はそれを許さなかった。


上杉謀反の嫌疑に直江兼続が反論した!(資料:直江状・米沢市上杉博物館蔵)

上杉景勝に謀反の疑いを持ったことは事実であるように思う。説によれば、石田三成の挙兵も想定内であり、ここで一気に反家康一党を成敗するため、敢えて上杉征伐に自ら出陣した、というものもある。しかし、当時の情報伝達技術や交通手段などを考えると、三成挙兵の一報を受けたのが下野国小山(現在の栃木県小山市)であることから、伏見から500キロの距離を会津に向かっていたのである。目的が三成との一戦であって、上杉征伐はカモフラージュだったとするならこの行動は説明出来ない。従って、家康が小山で評定を開き、会津攻めを諦めた(家康自身は出陣出来ないが、上杉、佐竹への抑えとして、次男で武勇に優れていた結城秀康を総大将に、里見義康、蒲生秀行、那須資景らを宇都宮城に留め監視させている)のは、三成挙兵の規模と反家康に加担する諸大名の多さに危機感を高めたからであって、事の成り行き上、受けて立たざるを得ない状況となったからであろう。関ヶ原という場所においても、東西から進軍した結果、たまたまその辺りで両者が衝突するタイミングであったからである。
慶長5年(1600年)7月。家康は小山での評定を終え、三男秀忠に主力の軍勢(本多正信と3万8千の兵)を付けて中仙道から京へ向かわせることとし、暫くは諸大名へ支援要請の書状を発給することに専念するため江戸城へ戻っている。東海道を辿り、西へ向かったのはそれから一月ほど経ってからであった。

関ヶ原本戦は同年9月15日朝から始まり、現在時刻の午後2時頃にはほぼ勝敗が決してしまった。そこには様々な歴史ドラマが繰り広げられ、戦後処理においての諸候の運命が決まった戦であったのだが、勝利した家康の脳裏に浮かんでいたものは何か。これだけの大名を動かし、天下の名の下に雌雄を決したからには、全国津々浦々に至るまで、戦国150年の地図を書き換えねばならない時が来たという使命感ではなかったか。関ヶ原の原野に無数に横たわる両軍兵士らの亡骸を目に、さぞかし心も体も震えたであろう。

徳川家康、59歳の晩秋であった。

関ヶ原合戦屏風絵(資料:大垣市郷土館蔵)

次号へ続く