トップページ > 2017年1月号 > マンスリー・トピックス

ラビットプレス+1月号


征夷大将軍・徳川源朝臣家康(資料:堺市立博物館所蔵)

天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康は甲斐国の武田勝頼を滅ぼし上方に凱旋するが、同年6月には信長が家臣・明智光秀によって討たれる(本能寺の変)一大事件が勃発する。実は、この事件には家康が大きく関与していた可能性がある。


本能寺本堂屋根の鬼がわら(写真:株式会社大沸)

本能寺の変に至る状況はこうである。

武田氏との戦いで長年労のあった家康を労うという口実で安土へ招待し、その後、奈良、堺を見物させたあと、京都本能寺での茶会に招き入れ、予め命じていた明智光秀の軍勢によって家康を討つ。
信長はこの秘策を成功させる為に周到な準備ともっともらしい芝居を用意する。饗応役に任命した光秀を、家臣、家康一行らの面前で罵倒し(持て成した料理の不備に激怒)、饗応役の任を解いて、中国攻めに手古摺っているからと応援要請をよこした(これも計画にあったとの説有)羽柴秀吉陣営の居る備中高松への援軍を命じる。そのとき信長自ら、「今、安芸勢と間近く接したこと、天が与えた好機である。自ら出陣して、中国の歴々を討ち果たし、九州まで一気に平定すべし(信長公記)」と発し、自軍に安土で挙兵の準備をさせ、待機を命じた。
更に、家康ら一行には案内警護の名目で長谷川秀一(竹)と杉原殿という者を案内役として同行させ、丹羽長秀と津田信澄には、大坂に先に行って家康をもてなす準備をするよう命じたうえで、自らは京の茶会に持参する茶道具(安土より38点の名器)を用意して僅かな供廻りの者だけ連れ、安土を出たのである。
これを直接目にした家康一行は、何の疑念も抱かずに堺へ向かうはずであった。しかし、これら一連の状況は、実に信長-光秀、光秀-家康、光秀-秀吉という相互の利害関係で複雑に絡んだ筋書きの上の各人の行動であった。

天正10年6月2日未明。京都本能寺に信長の予期しない事が起こる。明智光秀の軍勢が本能寺を取り囲み、火を放つのである。光秀謀反である。


月岡芳年画:京都四条夜討之図(パブリックドメインミュージアムアート)

【仮説:本能寺の変と家康の計画】
本能寺の変の真の首謀者は徳川家康である。
こんな断定的な言い方をすれば、その道の専門家の方々から一斉に非難を浴びせられることは間違いない。これはあくまで仮説のひとつ。多様な角度から450年も前の出来事の研究結果から推測された仮設の中のひとつで、素人が想像した歴史ロマンである。ご容赦願いたい。

当時の状況を時系列に追ってみよう。
遡ること7年。天正3年(1575年)、長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍は武田信玄亡き後に家督を継いだ猛将・武田勝頼率いる甲斐武田勢を撃破。その後体制を何とか立て直しつつあった武田軍にあって、人質として寄寓していた織田勝長を返還し、武田家の和睦申し入れを一蹴した織田信長は、嫡男信忠と同盟者であった徳川家康に武田征伐の仕上げを任せていた。
天正10年(1582年)3月11日。織田信忠軍の追撃に力尽きた武田家当主勝頼と嫡男信勝父子は天目山(現山梨県甲州市大和町)において自刃し、名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。

武田家を滅ぼした信長は、実は旧武田領に、ある興味を抱いていた。それは信玄の時代から武田の財源として蓄えてきた良質な黒川金注1の存在であった。
注1.「黒川金」
黒川金は湯之奥金山とともに特に戦国期に開発された甲州金山の代表格であった黒川金山から採掘された良質の金である。鉱物資源の豊富であった甲斐国(山梨県)や武田領国となった信濃・駿河においては、同時代に開発された金山が数多く分布し、武田家は大量の金を領内に埋蔵していると伝わる(信玄埋蔵金、穴山埋蔵金など)。「萩原三雄:よみがえる武田信玄の世界」他。


武田勝頼公自刃の地・生害石(甲州市大和町田野:景徳院)

信長は、甲州征伐に尽力した褒美として家康を安土に招く。世に言う「安土饗応」である。その時に同行を促されたのが家康家臣の穴山信君(梅雪・武田信玄の姉の子で、妻は信玄の娘。武田二十四将の一人であり、信玄の元家臣で織田信長に金二千枚を献じて寝返った武将)である。「信長公記」によれば、家康らの安土訪問は論功行賞に対する礼を述べる為とされているが、家康の積極的な意思ではなく信長の懇請によるものであった可能性が高い。何故なら、前号で書いたように、家康は正妻築山殿と嫡男信康の二人を信長の命によって殺されているのであり、同盟関係と言え怨恨の情は計り知れない。一方の信長にしても、岡崎、三河、駿河の大名となった家康の地理的関係から、旧武田領への侵攻を牽制する必要があった。


家康饗応之膳(十六日夕膳再現:信長記念館)

天正10年5月14日。
近江領内に入った家康一行を、丹羽長秀が宿舎を準備して接待し、安土城には翌15日に入った(「信長公記」)。

安土城内では、明智光秀を饗応役として家康一行の接待準備が進められていた。その最中、信長は光秀だけを部屋に呼び、誰ひとり部屋に近づけぬよう側近に命じて密談している。そして間髪いれずに光秀を罵倒し、即刻饗応役を解任して備中の秀吉援軍を命じ、19日には安土を発たせている(イエズス会・ルイスフロイス:「日本史」)。そこで何の話が交わされたのか。

一方、家康一行に対しては、旅の疲れも癒せぬ間に奈良から堺へ急き立てるように遊覧を勧め、6月3日に本能寺において茶会を催すので上洛するよう命じている。

5月27日。
遠征準備の為に丹波亀山に戻った明智光秀は、翌28日、戦勝祈願を兼ねて愛宕大権現に参詣し、威徳院の歌会で「時は今 雨が下しる 五月哉」の歌を奉納する。丹波亀山を発った光秀軍約13000の兵は、摂津へは向かわず、計画通り京へ向かう。

6月1日。
信長は、自慢の茶道具と僅かな供廻りを連れ、本能寺へ入った。そこで信長は自らの権力を見せ付けるがごとくの茶会を開いている。そこには宮廷における皇族を除いた関白以下、一人残らず揃っている様子が記録されている(言経日記)。これには信長の余裕が感じ取れるのである。

6月2日未明。
本能寺は明智の軍勢により取り囲まれ、一斉攻撃が始まった。そしてここに織田信長横死。
同日、家康一行は京へ向かう道中、信長の死を知らされ(今朝、於京都、上樣惟日(光秀)カ爲ニ御生害の由、友閑老ヨリ申來候、【今井宗久茶湯日記書抜(六月二日夕条】)、即座に岡崎へ向かった。歴史に名高い「伊賀越え」である。その途中、穴山梅雪は農兵によって殺害される。


織田信長が使用した指し物、馬印(国立国会図書館蔵)

家康が安土饗応に参じ、奈良から堺へ遊覧している間、光秀は信長の計画通り軍勢を整え本能寺へ。その計画とは、6月3日の家康上洛に併せて事を起こす手はずであった。家康征討である。しかし、それが一日早く、光秀が本能寺を取り囲んだ。これには信長も落胆の色を隠せず、自らの計画を逆手に取られたことを瞬時に悟り、発した「是非に及ばず」の言葉が、光秀、家康にしてやられた無念を表している。
この事件の経緯を基にした仮説はこうである。
甲州武田征伐に成功した信長は、同時に多くの敵対勢力と対峙していたこの時期、徳川家康に対する脅威はそれほど持ってはいなかったと推測する。ただ、家康の領地拡大に対する欲の深さは見抜いていたし、今川、武田と滅ぼした敵の家臣を寛大な処置で次々と引き入れ、軍勢を増大させていたことに加え、自身の妻子を殺した信長に対する忠誠心の強さも、いずれ脅威となる要素と恐れていたのであろう。
そこで、家康の勢力が拡大し厄介な存在となる前に抹殺しておこうと考え、穴山梅雪を諜略して家康殺害を計画した注2のである。家康をこの時期に討つことは、東国の雄である北条氏や、上州上杉氏、小国とは言え知略に長けた真田氏などの関係を危惧しなければならない。しかし、そのリスクを冒してでも、家康討ちを選択した信長の先見性が確かであったことは、後の歴史が証明している。
注2
梅雪が信長と与していた裏付けは見つかっていないが、状況証拠から推測することが出来る。堺遊覧で油断を生じさせ、梅雪に家康を殺害するチャンスを与えたということ。また、梅雪ともあろう武人が伊賀越えの途中で農兵に殺されるなど考え難いことから、元々梅雪を信用していなかった家康が裏切りを知り、手を打ったのではないかと考える方が自然だからである。なお、梅雪は切腹したとの記録もある(松平家忠が残した「家忠日記」)。

次に、信長による家康暗殺計画を家康に知らせたのは誰か。それが光秀であればもっともらしいのであるが、おそらくそれは不可能であったろう。饗応の席でなら対面することがあろうが、その席には信長も居るわけだから、これも現実的ではない。そこでこの仮説には重要な人物が登場する。長岡藤孝(細川幽斎)である。藤孝は光秀によって信長に取り立てられ、山陰方面軍総大将だった光秀の与力としても活躍した(黒井城の戦い)。天正5年(1577年)、大和信貴山城に籠る松永秀久を光秀と共に攻略(信貴山城の戦い)するなど、強い繋がりがある。実は、家康一行が安土へ到着する前日の5月14日、光秀、藤孝と家康三人の接点が見つかっている(十四日、辛未、長兵(長岡藤孝)早天安土へ下向、今度徳川、信長爲御礼安土登城云々、惟任日向守(光秀)在庄申付云々…兼見卿記別本)。つまり、光秀の計画を家康に密告した人物は藤孝ではないかと推測させる。

この計画を知った家康は一層警戒心を強めながら、饗応の席に着き、信長に悟られぬよう平常で振る舞うことは勿論、その後の奈良、堺の遊覧の誘いも断ることなく脱出の計画を練っていた。


光秀が本能寺の変のあと藤孝に送った書状(永青文庫蔵)

一方、毛利攻めを和睦で解決し、あの”中国大返し”を実現させた羽柴秀吉は、本能寺での謀反の真相について、どこまで真実を知っていたのか。
家康暗殺計画について信長が秀吉に打ち明けていた事実は今のところ見つからない。では、明智謀反計画についてはどうか。中国大返しには現代でもなお多くの疑問が残る。現在の岡山市北区から京都府乙訓郡大山崎町まで、その距離約235キロ。武装した3万の集団が、本能寺の変からわずか10日で山崎に着くことができたのだろうかと。
この物理的な問題を解くカギは、秀吉に明智光秀が謀反を起こすことを予め想定させ、その時が来れば即座に行動(上洛)出来るよう準備させておくことである。つまり、通常の情報伝達方法と突発的な対応では、到底なし得ない離れ業で(惟任退治記や太閤記などでは神憑り的に記述されているのは、そもそも秀吉が書かせたものであるから)、不可能である。
では、秀吉に計画を漏らしたのは誰か。これも前述の長岡藤孝ではないかと推測される。惟任退治記によれば、「長岡兵部大輔藤孝は、年来将軍(信長)の御恩を蒙ること浅からず。これに依って、惟任が一味に与せず。秀吉と心を合わせ、備中表に飛脚を遣わし、爾来、江州(近江)、濃州(美濃)、尾州(尾張)に馳せ来たり」とある。


何かと話題の明智憲三郎氏著書(文芸社)

以上のことから、本能寺の変を巡って織田信長時代の幕引きを演出し、次のステージへと歴史の駒を進めた人物たちが間違いなく存在した。しかし、その人物それぞれの思惑と情勢の読み方は違っており、家康はまだ天下取りへの階段を上ろうとはしていなかった。

【家康と光秀の深い絆】
秀吉の中国大返しは、家康にとっても驚異の行動であったろう。まさか、家康暗殺計画を逆手にとった光秀の謀反を予想しながら主君信長に進言せず、事の成り行きをじっと見極めていたとしたなら、当時は考えも及ばなかったであろう。
当の家康にあっては、光秀謀反の報を聞くや、自身の安全を最優先に岡崎へ戻り、信長が討たれたことを知ると直ぐに旧武田領地(甲斐・信濃)への侵攻を開始する注3。生前、信長が予想していた通りの行動である。
注3
岡崎帰着後早々、武田家元家臣の依田信審(よだのぶしげ・信濃佐久郡の国衆)に対し、「甲斐・信濃に出立し家康の手中に収めよ」との書状を送った(依田記)。また、6月6日には、岡部正綱(武田家元家臣、駿河衆)に、甲斐国巨摩郡下山に築城の命令を出している。これら甲斐・信濃の領地争奪戦は「天正壬午の乱」と呼ばれる。


天正壬午の乱(戦国時代勢力図と各大名動向ブログ)

しかし一方で家康は明智光秀に対する援軍の準備も一応している(家忠日記)。徳川家では、東方への進軍を東陣と称し、西への進軍を西陣と呼ぶ。このとき、家康は西陣を組織する命令を発しているが、武田領への進軍に多くを割いていたため、中々布陣を組織出来ず、出発が大幅に遅れたとされている。その間に、秀吉が備中より驚異的な速さで戻り、大山崎で光秀を成敗したので兵を引けとの一報が届いたため、結局光秀の援軍は中止となった(家忠日記6月19日付)。ただ、この動きに関しても、家康の考えに情勢を見極める勘が働いたようにも思える。つまり、主君信長に謀反した明智の援軍を進めた場合、家康が謀反に加担したことが明るみに出る。確かに光秀によって家康は暗殺計画を知ることが出来、命を救われた。その恩義は十分に感じていたはずである。従って、西陣の布陣に努力したことは嘘ではなかった。しかし現実には援軍を組織出来ず、結果的に動けなかったことは家康に運があったと言わざるを得ない。

大山崎では、光秀の家臣・斎藤利三が明智軍の先鋒として勇敢に戦ったことが記されている。斎藤利三は本能寺の変に於いても光秀軍の先導を務め、その権力は家臣の中で一番でした。そもそも本能寺の変の動機として、四国征伐を決断した織田信長と、長宗我部元親、明智光秀ら土岐一族との対立があったと言われ、斎藤利三の妹が元親の正室であったことから、ギリギリまで信長に四国征伐の中止を光秀と共に奔走した記録が残っている(石谷家文書:林原美術館蔵)。本能寺の変に於ける斎藤利三首謀説も言われるほどであるから、事の全てを知っている人物として、秀吉らの執拗な追跡を受け、近江堅田で捕縛され、京六条河原で斬首となったとされている(惟任退治記他)。
当然、処刑される前に秀吉から、謀反に加担した者の名前を追及されていたはずで、もし家康の名前を吐露していたら、秀吉は即刻徳川征伐に動いたであろうことは想像に難くない。そうであったならば、歴史は大きく変わったであろう。しかし、斎藤利三の口からは家康の名前は出なかったのである。


石谷家文書・斎藤利三書状(林原美術館)

斉藤利三には福という娘が居り、稲葉重通(信長、秀吉に仕え、秀吉晩年には御伽衆(おとぎしゅう)となった)の養女となり、徳川幕府の三代将軍、徳川家光の乳母に召された。その後に「春日局(かすがのつぼね)」として権勢を誇り、江戸城大奥の礎を築いたとされる、あの人物である。将軍の乳母に抜擢されるには、厳格な要件を満たさなければならないことぐらい容易に判断できるが、これはもう、家康直々の指示でなければあり得ないことが伺え、明智光秀、斎藤利三と家康の深い結びつきがあったことが証明されたようなものである。また、徳川幕府の二代将軍は秀忠、三代は家光だが、光秀の名前の字を一文字ずつ拝したとも推測出来る。もし、家康と光秀が敵対していたのならば、秀や光という字を将軍の名前に入れることなど絶対に無かったであろう。


春日の局像(東京都文京区)

次号へ続く