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ラビットプレス+12月号


征夷大将軍・徳川源朝臣家康(資料:堺市立博物館所蔵)

大河ドラマ「真田丸」もいよいよ大詰めを迎え、宿敵・徳川家康に襲いかかる真田佐衛門佐信繁(ドラマでは信繁改め、幸村と改名)の「日本一の兵」と言われた雄姿が待たれるところであるが、大河では徳川家康の立場はすこぶる悪く、俗評(古狸、狸爺など)に忠実?に描写されているのは家康ファンにとっては少々納得いかぬであろう。しかし、このドラマは主役では無い故に、真田幸村の活躍をしかと拝見するほかないのである。

駿河今川家の人質であった永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれると、その混乱に乗じて岡崎城を奪還し、永禄5年(1562年)、伯父である水野信元の斡旋により織田信長と和睦、清洲同盟(尾山同盟≒尾張と三河の同盟)が成立した。
永禄6年(1563年)7月。松平元康は、今川義元から拝した「元」の字を返上し、「松平家康」注1と改名。

注1
「家」の字は、源義家からとったと云われ、伊藤祐親(すけちか:河津祐親、伊東法師とも呼ばれる)の「家用平康」(家を用って平らかに康し)という書経の句から家康という字を選んだと云われる。


松平家の家紋は三葉葵

【家康の三河統一】
三河は近畿一帯と北陸と並び、一向宗の有力な地盤であった。当時、農村の小領主や名主、作人を含めた講組(こうぐみ:同一神仏や宗教信仰の組織。農村地域などでは家の結合体として各種の宗教的講集団や地縁的村組による家と家との横の平等的結びつきを表す)門徒を結成していた。

松平氏は代々浄土宗であったが、地域に根を下ろした松平氏の武士団の中にも本願寺門徒は数多く、土着している譜代やその一族の中には、宗門護持と譜代の忠誠のどちらを優先するか迷っている者も少なからず存在していたので、家康は早晩一向宗と対決せざるを得ない状況に置かれていた。

永禄6年(1563年)、三河一向一揆が蜂起し、一揆軍には反家康の松平支族(支族=分家)や国衆・譜代も加勢した激しい戦いの末、翌永禄7年に和議が成立。家康の戦後処理は寛大であったと云われ、帰順した元家臣の大半に再奉公を許した。
一方、一揆の中心であった寺院には、一向宗からの転宗(浄土宗へ)を迫り、それに応じない寺院、道場を根こそぎ破却して、一向一揆を鎮圧した。そして西三河一帯には家康の威令が徹底され、後、東三河の平定に乗り出し、三河をほぼ支配下に置くことに成功したのである。


一向一揆の発生地と占拠地(ブリタニカ国際大百科)

永禄8年(1565年)、家康は三河に奉行を設置。これまでの家父長的な領国経営から組織的体制へ徐々に変貌を遂げていくこととなる。
同年3月7日、家康は天野康景、高力清長、本多重次(本田重次ではなく、植村正勝ではないかなど、他説あり)らを、三河三奉行として民政等を担当させた。その頃、領民らの間で「仏の高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」という謡が流行した。これは、それぞれ性格の異なった三人の奉行の働きぶりに対する揶揄を込めた評価であったが、抜擢した三人の力量を見極め、適材適所に人事配置を施した家康の目利きに評価が高い。
翌年、家康は朝廷より従五位下三河守に任ぜられた。官位を拝した家康は、それまでの血族による族党政治を脱して、新しい組織政治の形態を実践していくのである。

そしてこの年(永禄9年)、家康は松平姓を「徳川」に改めようと願い出る。そもそも、松平氏の祖先とされる徳川氏は源氏の惣領であり、途中で藤原氏に改称したことがあるというもので、家康は、徳川氏を清和源氏新田氏の末裔注2ということにした(中村孝也「徳川家康公伝」東照宮社務所)。
それ自体、信憑性に疑問がある話ではあるが、名ではなく姓を改めるということに、この先の家康の飛躍に込める思いが感じられる。

注2
「徳川」は、祖先の住んでいた上野国(群馬県)新田郡世良田郷得川(徳川)から得たものと云われる。


家康が清和源氏徳川氏を名乗る訳

【家康の戦歴】
永禄10年(1567年)。家康の嫡男・信康と織田信長の娘・德姫の祝言が行われた。今川家と決別した家康は、尾張の織田信長との同盟をより強固なものにするため、織田家との姻戚関係を結び、絆を深めていく。
その頃、織田信長との同盟を反故にし、朝倉義景と通謀した浅井長政に恨みを増す信長は、元亀元年(1570年)6月19日、北近江に出陣する。その結果両者は、近江国(現在の滋賀県)の姉川で激突する(姉川の戦い)。


月岡芳年:阿根川大合戦之図/慶応2年版

戦国史上に残る激戦~姉川の戦い~
信長は小谷城を眼前に、竜ヶ鼻に陣を構え、小谷城の支城である「横山城」を包囲した。この時、徳川の援軍5千と合流。織田軍約3万4千の大軍となる。
一方、浅井・朝倉連合軍1万8千は、小谷城を出て大依山に陣を構え、元亀元年6月28日未明、野村・三田に移動し、姉川を挟んで織田軍と対峙した(現在の姉川野村橋付近と目される)。
午前6時、戦闘開始。信長公記によれば、「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり」という激戦である。浅井・朝倉軍が一斉に進撃。それを待っていたかのように織田軍も突撃し、姉川河川敷辺りで両軍の激しい戦いが始まった。これに応じ、横山城を包囲する役目を負っていた稲葉一鉄(通朝)の軍勢も加勢に走る。徳川家臣・酒井忠次、小笠原長忠の隊も朝倉軍に突入し、一気に織田軍の士気が上がる。
一方、浅井軍の先方、磯野員昌のすさまじい攻撃に織田軍の第一陣は破られ苦戦。しかし、朝倉軍が徳川家臣・榊原康政の側面攻撃をうけて崩れだし、浅井軍も左側面から稲葉一鉄、右側面から氏家ト全の攻撃に総崩れを呈した。浅井軍は、織田軍の戦法「13段の構え」に対し、11段目までも崩した(元禄時代に出版された「浅井三代記」による)が、信長の本陣を目前にしながら、潰走(かいそう=散り散りに敗走すること)するのである。戦いは正午を過ぎても止まず、9時間にも及んだと云う。浅井・朝倉軍1100、織田軍800の死者を出した(負傷者数知れず)と云われる戦いは、姉川の清流を真っ赤な血で染めたのである(浅井・朝倉軍の陣跡辺りに「血川」という地名が残っていたが、現代になって圃場整備により地名は野村町に変わっている)。


姉川合戦布陣図(写真:古戦場跡案内板)

信長と共に浅井・朝倉連合軍を破った家康は、岡崎城を信康に任せ、自身は浜松城へ移動する。これは甲斐国・武田信玄に対抗するためであった。元亀2年(1571年)10月の北条氏康の死によって、甲相同盟が再締結されたため、信玄は、大井川を渡り遠江まで堂々と侵攻してきていた。
元は、家康が三河を平定したとき協定を結び、駿河を武田、遠江を徳川で分けるという約束で駿河を攻めたのであったが、室町幕府将軍・足利義昭から「信長排除の書状(御内書)」を受け取っていた信玄は、旧今川領すべて手中にする機会を得るのである。足利義昭の書状は「織田信長の排除に助力してくれれば相応の地位を約束する」というものであった。
元亀3年(1572年)10月、浅井長政、朝倉義景両名に信長への牽制を要請した信玄は、三河徳川領国への侵攻を開始する。旧今川領をめぐる問題だけでなく、信長の同盟者として重要なポジションを担っている家康を倒すことは、信玄にとっても重要な戦略であった(西上作戦:元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐国・武田信玄による遠征)。

同年12月22日、家康は三方ヶ原で武田軍を背後から急襲する策を取るも、信玄は徳川軍の急襲を予測し、正面から待ち構えていた。この奇襲作戦を見破った武田軍は徳川軍を敗走に追い立てるが、戦の開始時刻が夕刻3~4時くらいであったがため、陽が落ちて辺りが暗くなって武田軍の追撃の手が緩み、家康はかろうじて逃げ帰ることに成功するのである。この時家康は、追手への恐怖のあまり馬上で小便を漏らしながら浜松城に逃げ帰ったと伝えられ、家康はこの屈辱を忘れないため、自分の恐怖に引きつった顔を絵に書かせたと云われている。


当時の勢力分布地図(map Japan)

三方ヶ原における武田軍の勝報を受けて足利義昭は、それまでの信長との表面的な友好関係を排し、自ら二条城に篭って挙兵した。
一方、武田軍はその後、徳川方・菅沼定盈の居城野田城を攻撃する。三方ヶ原の大敗によって戦力を失った徳川勢ではあったが、信玄の不可思議な戦法注3により、「藪の小城」と言われた野田城は約1ヶ月間、陥落を持ちこたえている。ところが武田軍は信玄の容体悪化により、この一戦を最後に西上作戦は中止され武田軍は帰国。甲斐への撤退中の元亀4年(1573年)4月12日、信玄が病死し、東海地方における緊張が緩和されることとなった。

注3
野田城の戦いは、それまでの武田信玄の戦に比べ、非常に勝利が遅かったことがよく挙げられる。要所であり堅城であったとも言えない野田城は、小城に過ぎず、兵力差も圧倒的であった。そうであったにも拘らず、武田軍があえて消極策を取ったことには憶測が諸説ある。不自然に長かった直前の形部村で滞在(三方ヶ原から半月以上)も含めて、信玄の病状悪化説が通説となっている。


家康自戒の自画像(徳川家康三方ヶ原戦役画像:徳川美術館所蔵)

武田信玄と徳川家康の戦いは、野田城の戦いを最後に集結した。間一髪で命拾いした家康であった。しかし、信玄が死んだとはいえ武田氏は勝頼の下で依然として強大な勢力であり、徳川領の三河、遠江へその後も度々侵攻して家康を悩ませていた。
この時期に、遠江の要衝・高天神城が陥落しており、家康は苦戦を強いられていた。更に続いて天正3年(1575年)5月、勝頼が三河の長篠城へ侵攻する(長篠の戦いの初戦)。
歴史に残るこの長篠の戦は、織田軍の加勢によって家康に勝利をもたらすこととなる。信長は陣地前に二重の壕を掘り、柵を作り、鉄砲隊を三分隊に配置して、武田の騎馬隊の突撃を交替で射撃する戦法(所謂三段撃ち)を採った。信玄に勝るとも劣らぬ戦績を誇った後継者・武田勝頼であったが、その数3,000丁と云われる鉄砲を主力とする守戦を念頭に置いていた織田・徳川軍の戦術にまんまと嵌り、騎馬隊は全滅。鉄砲の威力を見せ付けたこの戦いがその後の戦を大きく変えるのである。


長篠設楽原鉄砲隊による馬防冊火縄銃連続撃ち(長篠設楽原決戦まつり)

【家康、真の戦国武将へ】
家康の正室、築山殿注4との間には長男信康と長女亀姫がいたが、家康が桶狭間の戦いの後、母子を駿府に残し、岡崎に戻り、今川と手を切り、信長と同盟するに至り、今川一族の出であった築山殿との間は、不和の状態になっていったとされている。
信康は信長の娘徳姫と結婚し、二人の間には娘二人が生まれたが、母築山殿は、信康に跡継ぎの男子が必要だとして、他の女との関係を勧めたため、築山殿と徳姫の仲は不和になったと云われ、徳姫は築山殿と信康が武田氏と内通していると父信長に訴えるのである。
天正7年(1579年)、徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山殿と唐人(中国人)の医師であった減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12ヶ条からなる訴状を信長に送り、これにより信長が家康に信康の処刑を命じたとされる(德姫陰謀説)。
8月29日、家康は野中重政ら3人に命じ築山殿を殺害。9月15日、服部半蔵と天方通綱を二俣城へ遣わせ、信康に切腹を命じたのである。


徳川信康が切腹した二俣城跡(浜松市天竜区)


徳川信康公肖像(岡崎市柳堂勝蓮寺所蔵)

この事件の背景には、元々同盟関係にあった織田信長の家康への服従を迫ったであるとか、家康の母、於大の方の今川氏への怨恨説など諸説が飛び交っているが、事実は分かっていない。しかし、事件そのものは事実であることが裏付けられているようであるから、この事件を契機として家康の精神構造に、戦国の世に生きる武将としての宿命を悟らせたといってよいのではないか。
この時から、徳川家康は真の戦国武将の道を歩き出すのである。

注4
今川氏の一族関口義広の女。母は今川義元の妹。家康が駿府で人質であったときに正室となった。永禄2年(1559)に長男信康、3年に長女亀姫を生む。同5年、人質交換によって岡崎に迎えられ、城の東方にある総持寺の築山に住んだという。
天正7年(1579)遠江国富塚(浜松市)で家康の命によって殺され、同所の西来院に葬られた。

それから21年後の慶長5年(1600年)9月15日。家康は信康の命日と知っていたのか。天下分け目の戦い、関ヶ原へ布陣している。

次号へ続く

※出典及び参考文献等の紹介は最終章で行います。