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ラビットプレス+11月号


征夷大将軍・徳川源朝臣家康(資料:堺市立博物館所蔵)

地方の小豪族であった松平氏に生まれ、幼少期には各大名家の間を人質として転々、忍従の日々を過ごした家康が最終的には100年余り続いた戦国乱世の勝利者となった。

駿河今川家の人質であった永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれると、その混乱に乗じて岡崎城を奪還し、織田信長と同盟を結ぶ。その後、三河・遠江を中心に勢力図を広げ、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれるや、織田領であった甲斐・信濃を制圧して領地を広げるに至った。
信長に代わって台頭した豊臣秀吉の天下では、東海、中部の大大名であったにも係わらず豊臣家に臣従する。しかし、秀吉の没後は一転、豊臣家と戦端を開き、「関ケ原の戦い」に勝利し、覇権を決定的にしたのである。 慶長8年(1603年)、征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣を任命され、同年江戸に幕府を開いた。

それから明治維新(1867年)までの264年間、世界史的にも稀な泰平の世が訪れることとなる。


徳川氏(将軍家)系図(略図)

さて、織田信長、豊臣秀吉と並び戦国の三英傑として後世に語られ、日本史の大転換期に勝ち組の将としてその名を刻んだ徳川家康であるが、彼の人生に於いて、天下泰平をその目的として武将の道を歩んできたかどうかは定かではない。これは、家康という一人の人間が、崇高な理念の下で、頭角を現す以前から強く目的意識を失わず、そのためにあらゆる手段を講じ、また如何なる状況下においてもその信念を貫徹してきたからこそなし得た偉業であり、且つそこに天が味方した結果である、というような事後評論的な評価でもって歴史事実としてはならないということである。
風雲(情勢や政情が不穏で、今にも革命や大事件が起きそうな気配をいう)急を告げたのは戦国末期のことではない。歴史的にはむしろ応仁の乱注1を契機とした政情不安が一気に諸国へ波及し、室町幕府の統制力の減衰が武家社会の構造崩壊を引き起こした、その時代であろう。

応仁元年(1467年)応仁の乱の発端は、京都上御霊神社の森から… 重要文化財・真如堂縁起絵巻より(国立国会図書館
応仁元年(1467年)応仁の乱の発端は、京都上御霊神社の森から…
重要文化財・真如堂縁起絵巻より(国立国会図書館)

ならば、それから100年も経たこの時代に、天がこの男を世に送り出したのは何故か。歴史は信長や秀吉ではなく、何故家康にリレーアンカーを任せたのか。その偶然を探ることで、家康という日本史上屈指の風雲児の本質が解き明かされる。

注1
応仁の乱(応仁・文明の乱)は、室町幕府第8代将軍・足利義政の継嗣争いに端を発し、その他複数の要因によって応仁元年(1467年)に起こり、文明9年(1477年)までの約10年間続いた内乱。これに伴い、室町幕府管領であった細川勝元と、室町幕府・侍所頭人の山名持豊(後に出家して山名宗全となる)ら有力な守護大名が闘争を繰り広げ、九州など一部の地方を除いて全国的に拡大した政争である。この影響で室町幕府そのものと多くの守護大名の衰退化が加速し、下剋上を伴う戦国期に突入する契機となった。

”終わりよければすべてよし”

ウィリアム・シェイクスピア(E-story Post)
ウィリアム・シェイクスピア(E-story Post)

時を同じく、1603年。遥かイングランド王国の劇作家、ウィリアム・シェークスピア(洗礼1564年~1616年没)が書いた戯曲「All's Well That Ends Well」の題名の和訳である。正に家康が征夷大将軍を拝した同じ年に書かれた海の向こうの戯曲であるから、その和訳自体が家康の耳に届くわけがなかろう。しかし、これから辿る家康という人間の思考と行動を知れば、晩年において家康の心中は、ああ、正にそうであったろう、と思えるはずである。

※本編では、徳川家康という戦国期における大立者を書くことから、寄稿する媒体(月刊メールマガジン・ラビットプレス+)に紙面の制約があり、複数回に亘っての執筆となることを予めお断りしておくのでご容赦頂き、お付き合い願いたい。

【幼少期・竹千代~次郎三郎元信の性格形成】
天文16年(1547年)、尾張の織田信秀(織田信長の父)は岡崎に攻め入るため大軍を送った。竹千代の父・松平広忠は今川義元に援軍を要請。義元は臣従の証しとして人質を要求し、弱冠6歳になったばかりの竹千代を差し出すこととした。
今川氏の居城、駿府へ竹千代を護送する役目を、田原城主の戸田宗光に任じたが、道中宗光は謀反し、竹千代を奪取して織田方へ引渡してしまうのである。この時、宗光は永禄銭千貫文で織田と交渉したと云われる(三河物語)。
織田方に売られた竹千代であったが、息子の命を取られてまでも今川に臣従を貫く広忠に対し、織田信秀も「広忠良将なり」と感嘆したと云われ、竹千代は殺されずに織田家菩提寺である名古屋大須の万松寺に預けられた。そして2年間に及ぶ最初の人質生活を送るのである。
6歳から8歳までというと、幼児期を脱して自我が芽生え、物事の善し悪しや分別が付き始めるころ。現代人とは違い、約460年前のこと。精神年齢的には小学校高学年ぐらいのしっかりした感覚が備わっていたであろう。故に人質の意味や、置かれた境遇に関する恐怖心もあったに違いない。更にこの間には、岡崎の父、広忠死去(暗殺の噂もあった)の報も受けている。恐怖は増すばかりであったに違いない。
心理学でいう「死の恐怖」は、意識が認識する生命の危機とそれに伴う苦痛が無意識に、所謂本能的に痛みへの恐怖として感じるとする。そうであるなら、生死の狭間で揺れ動かされている状況を2年間も経験した少年竹千代の精神状態は如何なるものであったろう。精神医学の医師、エリザベス・キューブラー・ロスは著書「死ぬ瞬間 死とその過程について」の中で、死を宣告された人の心理行動を、否認-怒り-取引-抑鬱-受容と五段階に分類し、人が死ぬことを恐れるのは、それに伴う絶望感や無力感、孤独感に対する恐怖に対してであると解く(鈴木晶:訳/中央公論新社)。
竹千代が過ごした2年のこの経験は、その後の人生にどのような性質を植え付けたのだろうか。俗に家康は過度の臆病で、その慎重さが秀吉、信長とは異なった忍耐力に富むという性格で表されることがある。だから、生き残った。つまり天下を取れたのだと。それがこの幼少期の経験から得たものであるなら、その後死ぬまで家康は臆病でなければおかしい。戦など絶対に避けておきたかったであろう。ならば、そのような武将に戦国期の大名が務まるのか。
しかし、家康はその後、三河を中心とする大大名にのし上がって行くのである。
萬松寺絵図(萬松寺蔵)
萬松寺絵図(萬松寺蔵)


竹千代を織田に奪われた今川義元は、今川家の面子に賭けて竹千代奪還に躍起になって行く。
天文16年(1547年)9月5日、田原城の戸田宗光を攻め、今川家の軍師で僧兵の雪斎(太原雪斎/太原 崇孚 たいげんせっさい/たいげんそうふ:現静岡市岩田の臨済宗・臨済寺の僧侶(禅僧)で義元の軍師と云われ、政治能力も高かった)らの活躍により陥落。更に織田勢に攻撃を仕掛けた。天文17年(1548年)3月19日、三河小豆坂で織田信秀と戦い(第2次小豆坂の戦い)、織田軍に勝利。天文18年(1549年)11月、安祥城を攻めて信長の兄である織田信広を捕えた。
今川義元は、直ぐに織田信秀と交渉し、人質の竹千代と織田信広の交換を取りつけ、同月8日、三河の笠寺(現名古屋市南区)において、竹千代は今川氏の下へと引き取られた。三河安祥城を奪われた織田信秀の勢力は衰退し、実質的に三河西部の支配権は今川家に移ることとなった。8歳になっていた竹千代は、岡崎城主身分のまま駿府に送られ、19才で居城の岡崎へ戻るまでの11年間、次の人質時代を今川義元の下で過ごすことになる。

この頃の竹千代は病弱であったと伝わる。駿府には竹千代の母、松平広忠の正室・於大の方の生母である源応尼(後の華陽院)が居り、母に代って孫の面倒を見たいと義元に懇願し、竹千代は実の祖母の養育を受ける幸運に恵まれている。
祖母は竹千代に智短和尚(智源院住職)を付け、勉学させた。また、今川家軍師の太原雪斎にも手ほどきを受けさせたという。
竹千代は、3歳で父母と生き別れ、8歳で父を失い、19才まで人質として暮らした。さぞ辛かったであろうと思われるが、とりわけ駿府での生活に暗いイメージを想像させる資料はない。肉親である祖母に養育されたこと、名だたる武将や高僧の教育を受けたことなど、義元に目を掛けられていたことが伺われ、これから日本の歴史を大きく動かす大立者に成長していく過程での、必要不可欠な教育をこの駿府で得ていたのである。
戦国期の優秀な武将の多くは、幼少期に他家へ人質として預けられた経験を持つ。以前に紹介した真田昌幸、信繁(幸村)親子もそうであったように、情報網の発達していない時代に在って、井の蛙と違い、未知の世界や他国へ修行に出掛けるチャンスを“人質”という立場で得る。そこには生死の狭間で生きなければならない厳しさも表裏一体として存在するのであるから、戦乱の世において親族や家臣の庇護の下でぬくぬく育った世継には育まれることのない、真の強さ、戦死への心構えがしっかりと備わって行く。

太原雪斎和尚像 竹千代手習いの間
太原雪斎和尚像と竹千代手習いの間(静岡市:臨済寺)

他方、戦国大名は戦に明け暮れるばかりが職務ではない。居城を中心として治める領地内の行政職、領民の間に頻繁に起こるイザコザなどを裁く司法職、そして家と領国の規律を維持していくための法度制定などを行う立法職としても手腕を期待されるのである。更に、城の築城技巧や城下の街区整備に欠かせない建築土木のスペシャリストとしての高い能力が求められる。戦国期に在っては、
  • ・加藤清正(肥前名護屋城、西生浦倭城(ソセンポわじょう)、蔚山倭城(ウルサンわじょう)、熊本城、江戸城富士見櫓の石垣等)
  • ・藤堂高虎(宇和島城、丹波篠山城、二条城、江戸城外郭石垣等)
  • ・武田信玄家臣の馬場美濃守信房(小諸城)
  • ・黒田孝高(旧姫路城、中津城、肥前名護屋城、福岡城、大坂城縄張り等)
  • ・家康に仕えた石田数正(松本城)

国宝・松本城
国宝・松本城

などの名声が残るが、家康が築城下手であったはずはない。その後(永禄3年・1560年)に今川義元が桶狭間の戦いで敗れ、武田信玄の駿府焼き払いに遭って消失した駿府城と城下町を再興したのは家康である。

再興後の駿府城板図(駿府城址公園)
再興後の駿府城板図(駿府城址公園)

つまり、名を馳せた優秀な武将達は皆、政治経済、国防はもとより都市計画までを多才にもこなすスーパー官僚であったと言える。なるほど、それだけの激務を行っていれば早死にするのも無理はない。しかし、家康は72歳まで命の炎を燃やしたのである。

閑話休題。

今川義元の下で14歳に成長した竹千代は、義元の「元」の一字を拝して名を松平次郎三郎元信と改め、元服した。弘治元年(1555年)の事である。元服の翌年、義元から初めて里帰りを許され、12年ぶりに岡崎の地を訪れた元信は、城代を努めていた松平家臣・鳥居忠吉(当時既に80歳近かったと云われる)に極秘に城内を案内された(当時の人質には勝手に城内を見聞する自由は無かった)。そこで見せられたモノは、城主の長期に亘る留守中、苦労が絶えなかったであろう家臣達が元信の帰りを信じ、そのときに主人が困らぬよう蓄えた軍資金と兵糧の庫であった。このことに深く感銘した元信は、将来の松平家の自立を心に刻んだに違いない。

弘治3年正月15日。元信は蔵人元康と改名し、今川義元の姪・瀬名姫と婚姻する。直後、義元の命を受け西三河攻めで初陣を飾る。この戦の勝利には、実は岡崎の松平家菩提寺、大樹寺の僧侶・登誉上人が宗徒兵を引き連れ援軍した記述が残っている(三河物語)。そのとき、登誉上人が掲げた馬印には「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんくじょうど」注2と書かれていた。

姉川合戦の家康本陣(姉川合戦図屏風の一部:福井県立歴史博物館蔵)
姉川合戦の家康本陣(姉川合戦図屏風の一部:福井県立歴史博物館蔵)

~珈琲time~
※家紋・馬印・旗印
戦国期の戦を模写した屏風絵図などに描かれる武士たちが背中に差している旗は、平安時代の武士から流行り始めたとされ、自軍の兵と敵方を見分ける為の印及び敵方に脅威を与える目的も兼ねた流れ旗が戦国時代に受け継がれ、旗差し物と呼ばれるようになった。
そこに描かれる絵柄は、一般的に旗印と言われ、その軍を率いる大将のトレードマークである。例えば、豊臣秀吉は当初五三の桐を使用し、位と共に五七の桐、太閤桐と変えていったと云われる。武田信玄は有名な「風林火山」、真田昌幸は「六文銭」、織田信長は「永楽銭」、徳川家康は前述した登誉上人の恩に報いたと云われる「厭離穢土 欣求浄土」であった。
一方、馬印は、陣を構えた大将の目印として多用され(当初は馬印と旗印に用方の区別は無かった)、信長が金の唐傘、秀吉は金の軍配朱の吹き流し(千成瓢箪は地上戦で使用された記録が見当たらない)、家康の金扇などが知られている。
因みに、伝令役の武士などが背中に付けた袋状のモノは、当初、矢除けの役目をしたホロ(母衣)と呼ばれ、次第に精鋭部隊が目立つ目的で着用するようになったと云われる。信長の精鋭部隊は赤と黒に分かれていた。

また、家紋の起こりは「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と呼ばれる源氏、平氏、藤原氏、橘氏といった強力な氏族のうち、地方に移住した者と他の同じ氏族と区別を図るため、地名などを自分の家名(屋号:後の名字の原)とし、家の独自性を示す固有の目印(紋)として使われたと云われる。武家の家紋は平安時代後期(公家の家紋は平安時代初期)に登場するが、爆発的に普及したのは鎌倉~戦国時代であり、前述の旗や陣幕、兜、刀鞘などあらゆる武具にも家紋が入れられるようになった。

戦国武将の家紋(中部・家紋地図by戦国武鑑)
戦国武将の家紋(中部・家紋地図by戦国武鑑)

当時の今川家の趨勢は絶大であり、今川義元を後に「戦国の雄」と称賛する歴史家も多い。駿府城下は戦国三大文化都市(他、大内氏の周防、朝倉氏の越前一条谷)と後に称されるほど全国的に有名であった。今川家は元々公家との係わりが深く、義元の母・寿桂尼注3は京都中御門大納言宣胤(きょうとなかみかどだいなごんのぶたね・公卿)の娘であったことも影響し、駿府城下町は「東海の小京都」と呼ばれ、注目の街であった。そのため、公家衆の中では今川家を頼る者も多かった。こうした背景も影響したのか、義元はやがて公家の生活様式に興じるようになり、軍事や政務を側近に任せるようになって行く。公家かぶれ大名と揶揄されることもある義元の晩年に、元康は何を学んだのであろうか。

注2
「厭離穢土 欣求浄土」とは、現世の私利私欲に塗れた人間の欲望(煩悩)を嫌って汚れたこの世を離れ、永遠に平和な浄土を願い求めれば、必ず仏の御加護を得て事を成す、という天台宗の高僧・源信の「往生要集」の章名に由来する。 俗説ではあるが、厭離穢土の“えど”と、家康が幕府を開いた“江戸”に通ずるとして、本来は忌み嫌うはずであったが、何かしら強い縁を感じた家康は、秀吉の命ずるままに移封を受け入れたと云われる。オカルト的ではあるが、史実に記録が無いことの方が多い時代である。陰陽師などは召抱えていたであろうから、その言葉に従うも天命と悟ったとして不思議はない。結果論だが、その後の歴史が証明しているのだから。

注3
今川氏親に嫁ぎ、氏輝・義元などを生み、孫の今川氏真の後見役も務めた。今川家の中に影響力が強く、「駿河の女大名」と呼ばれた。

今川義元公木象(静岡市・臨済寺)
今川義元公木象(静岡市・臨済寺)

永禄3年(1560年)乱世沈静という上洛の大義をかざし、2万5千の大軍を率いて駿府を発った今川軍の先鋒隊には元康が居た。尾張の国に入った今川義元は桶狭間(現愛知県豊明市付近)に陣を張ったが、5月19日、織田信長の少数隊の奇襲攻撃を受け、ついには討ち取られた。これにより今川軍の気勢は削がれ、中部・東海の均衡が一気に崩れていく。そして、この戦いに勝利した織田信長が時代の牽引役として台頭する。
今川義元の戦死の報を受けた元康は、これを機に今川家と別れを告げ、岡崎城へ戻るのである。待ちに待った松平家城主の帰還に、どれほど家臣が喜んだか。想像に難くない。3歳で人質として岡崎を出されてから、織田家に売り飛ばされ、そして父・広忠の死、今川家への再度の人質、義元の死に至るまで、戦国の世に翻弄されてきた岡崎の若きプリンスが、立派に成長した姿で戻って来たのである。これら多くの出来事の積み重ねによって、後に三河武士の結束が強まっていったのだと思うのである。

永禄6年(1563年)7月。元康は今川義元から拝した「元」の字を返上し、「松平家康」と改名した。

~次月号に続く~
※出典及び参考文献等の紹介は最終章で行います