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ラビットプレス+8月号


浅野幸長像(資料:東京大学史料編纂所蔵)

「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねの すみにしの浦」(秀次)

文禄4年(1595年)7月15日。豊臣政権第二代関白で、豊臣秀吉の甥でもあった豊臣秀次は、家臣雀部重政の介錯注1により、高野山青巌寺(現:金剛峯寺)の柳の間で28年の生涯を閉じた。
このとき、秀次謀反の連判状なる文書が問題視され(石田三成の偽造という説がある)、そこに五奉行のひとり、浅野長政の嫡男・幸長の手跡が確認されたという。
当時、幸長の正室は、池田紀伊守信輝(恒興)の娘・慶雲院であった。一方、秀次の正室も信輝の娘(若政所)だったため、まことしやかなストーリーがでっち上げられ、連座制によって同罪の嫌疑が掛けられたのである。
速やかに、伏見において、大老五奉行列席の上で取り調べが行われたが、最終的にはそれが幸長のものではないと判明した注2。しかし、秀次との縁戚を理由に、能登国鶴崎城へ移封。幸長は前田利家の屋敷で監視の下、同年8月、能登へと出発した。

注1
重政が秀次の介錯に使った刀、「南都住金房兵衛尉政次」は、兄の雀部六左衛門から子孫に受け継がれ、現在は大阪城天守閣内博物館「大阪城天守閣」に寄贈展示されている。

注2
石田三成の家臣に磯谷十蔵という者がいた。この男、元は幸長の祐筆であったが、幸長の機嫌を損ねたため、三成に仕えることになった。三成は、この磯谷を使って謀叛を造り出し、事が露見しそうになる前に磯谷を殺そうとした。
磯谷は大慌てで幸長に一連の次第を告白したことで、幸長の無実が証明されたという(浅野長政公伝)。

翌文禄5年(1596年)、ニ度目の朝鮮出兵を秀吉が決断したことに際し、徳川家康のとりなしによって幸長の帰参が許され、慶長2年(1597年)、慶長の役では、再び渡海して西生浦に着陣。その後蔚山城(現在の蔚山広域市内)に拠って明の名将・李如梅の軍と戦い戦功尽くしている。時に幸長、21歳。

浅野幸長は、武勇に優れた歴戦の勇将であり、その勇猛さには多くの大名が一目置いたといわれる。また、学問も熱心であり、藤原惺窩(ふじわらせいか:公家冷泉家出身の儒学者)・堀杏庵(堀正意=藤原惺窩の弟子で儒医)らに師事した文武両道に秀でたエリートであった。
しかし、何故か幸長が歴史舞台のメインキャストとして、スポットライトを浴びることはこれまでに無かった。その理由とは?
現代でも同様に、超高学歴の鳴り物入りで社会デビューを果たした人たちでも、全部が全部、出世街道を順風満帆に走るわけではない。社会の、世間の荒波に揉まれ、大海の藻屑と消えさる人とそうでない人との差は。
遡ること450年前。幸長の生き方を検証すれば、自ずとその理由が見えてくるのである。


超一流大学の合格発表風景(イメージ)

【父、浅野長政(長吉)の活躍】
幸長の父、浅野長政は、尾張国春日井郡北野(愛知県北名古屋市)に、宮後城主・安井重継の嫡子として生まれ、織田信長の家臣(弓衆)であった叔父・浅野長勝に男子がなかったため、長勝の娘・彌々(やや)の婿養子として浅野家に入り、その後家督を相続する。
長勝の養女、寧々(ねね=北政所)が当時まだ木下藤吉郎と名乗っていた豊臣秀吉に嫁いだことから、長吉は秀吉直近の姻戚となる。
信長の死後、秀吉の与力として賤ヶ岳の戦い(天正11年、1583年)において戦功を立て、大津2万石の大名となる。翌天正12年(1584年)には京都奉行職を任ぜられ、後、豊臣政権下で五奉行の筆頭として太閤検地の実施や、東国大名との縁を買われて諸大名から没収した金、銀山の管理などを任されるなど、その行政手腕には秀吉から高い評価を得ている。
その後の活躍も目覚ましく、天正15年(1587年)九州平定、翌16年官位(従五位下・弾正少弼だんじょうしょうひつ)叙任、天正19年の奥州仕置でも武功著しく、天正20年(1592年)豊臣姓を下賜されている。翌年(文禄2年・1593年)の朝鮮出兵で長吉は渡海し、その功績から甲斐国府中21万5千石を与えられて甲府城に入る。以降、豊臣政権の中枢にあって上方詰めの日々を送っていたため、国元の政務は嫡男の幸長に任せていた。

幸長は甲斐支配を進め、九筋ニ領注3に基づく奉行配置で代官制を敷き、現代に繋がる区域区分による行政を長吉・幸長時代に実施している。

注3
九筋二領(くすじにりょう)とは、甲斐国における地域区分割、領域の編成単位である。「九筋」は、甲府盆地から甲斐国北西部の国中地域一帯の区分で、栗原筋、万力筋、大石和筋、小石和筋、中郡筋、北山筋、逸見筋、武川筋、西郡筋を指す(『甲斐国志』)。「二領」は甲斐国南部、富士川の沿岸地域で、河内領と甲斐国東部の郡内領を指す。天正17年(1589年)に関東郡代伊奈忠次(熊蔵)による五カ国総検地が実施された際、九筋の区分が設定された。


甲斐の九筋(資料:身延町立図書館)

【慶長の役・蔚山城(ウルサンソン)の戦い】
慶長の役の第一陣に課せられた任務は、明・朝鮮軍を破って全羅道・忠清道に進撃し、この二道を制圧し、朝鮮南岸域に城を築くことであった(釜山周辺には、文禄の役当時から日本軍の城が築かれていたが、新たに築城を命じられたのはその外縁部に位置するところ、東から、蔚山城、梁山城、昌原(馬山)城、唐島瀬戸口(見乃梁)城、固城城、泗川城、南海城、順天城、の八城であった)。
その城のうちの一つ、最東端にあたる蔚山には、加藤清正が自ら縄張りを行い、慶長2年(1597年)11月中旬ごろから、浅野幸長・加藤清正・毛利秀元の軍勢を中心として、本格的に蔚山城の築城を始めた。
12月22日、明軍の軽騎兵隊1000騎に急襲され、毛利家臣、冷泉元満、阿曾沼元秀、都野家頼が討死し、幸長が駐屯していた仮営が焼き払われた。当初、浅野幸長らは救援に遅れた(鳥撃ちと勘違いしていたという説有)が、浅野幸長、太田一吉が反撃し、明軍は罠を仕掛け、浅野勢をおびき寄せて、揚登山、李如梅らが三方から一斉に攻撃したため、浅野勢は窮地に陥ったのである。
浅野隊は460人余りに及ぶ犠牲者を出し、太田一吉も負傷。幸長は蔚山城惣構内に撤退して約1万人の兵士と共に籠城戦が始まった(清正高麗陣覚書)。

蔚山城が襲撃を受けたとの報を西生浦で聞いた加藤清正は、即座に兵船に座乗して約30キロ離れた蔚山に帰還、海路を封鎖される前に城内に入った。ここから加藤清正の指揮の下、壮絶な籠城戦を敢行することとなる。

  • 12月23日:城内の惣構を突破され、日本軍は660余の戦死者を出した。
  • 12月24日:明・朝鮮軍は四面から蔚山城を攻撃したが、日本軍の鉄砲隊によって反撃され、死傷者多数、撤退。
  • 12月25日:朝鮮軍のみで攻撃を試みるが、撃退。
  • 12月26日~27日:風雨の中、明・朝鮮軍は進撃するも、日本軍の攻撃にまたもや多数の死傷者を出し阻まれる。
  • 12月28日:柴草を集めて、城を火攻めにしようと工作。しかし、明・朝鮮軍は甚だ多くの死傷者を出し、城の下に達することさえも出来ずに退却。
(明朝鮮王朝実録)


蔚山戦役屏風絵(資料:真相文禄・慶長の役)

幸長は自ら銃を手に取り、数多くの敵兵を殺害した。幸長の顔の半分ほどが薬煙で黒くなっていた。そんな幸長の様子を見て、「浅野殿は太閤殿下の御親戚でしょう?どうか急ぎ本丸へお入り下さい」と勧めたが、幸長は断って二の丸に留まり続けたという。何故なら、蔚山城は加藤清正の城であったからである。幸長はこの時、23歳。若年にも係わらず、その老練な統率振りに誰もが感嘆したという(名将言行録)。

明・朝鮮連合軍の攻城戦に対し、日本軍の防戦によって城を守り通したため、明・朝鮮軍は大きな損害を被った。しかし、城の完成後間もなくということから、兵糧の備蓄も充分ではなく、そのまま籠城戦に突入せざるを得なかった日本軍側は厳しい戦いを強いられることになった。
厳冬の寒さと飢え、疲労困憊により倒れる兵士が続出し、蔚山城落城は時間の問題となる。 翌29日には、開城すれば和睦するとの使者が明・朝鮮連合軍の陣営から出された。捕虜となった降将の岡本越後守と田原七左衛門であった。清正は開城には応じる気は毛頭なかったが、捕虜交換の交渉には応じようと、城外で明の将との会見に臨むことを了承したが、幸長は、罠かもしれず危険であると諫止した。

年が明ける。
清正は、これ以上の籠城は出来ないと悟り、飢えて死すより討ち死にを選択する。総攻撃は正月3日決行。勝ち目のない、玉砕戦である。しかし、城内の兵士達は、この飢餓地獄から解放されることに、むしろ喜んだという。
運命の夜が明けた。
一斉に出撃の準備を整え、殺気立った城内に物見役が駆け込む。
「明軍の様子がおかしい。何やら混乱している様子!」
櫓に上り敵方を見渡したその時、清正、幸長の目に飛び込んできたのは、小早川、毛利、黒田、そして海上には長宗我部らの旗印だった。
「援軍到着!援軍到着!」
歓喜にどよめく城内。明らかに浮足立った明・朝鮮の軍勢。
来援を知った蔚山城内の兵士たちは生気を取り戻して迎撃し、攻めかかる明・朝鮮兵に雨の如く銃弾を浴びせかけた。明・朝鮮軍は多くの死傷者を出し、最終最後、一人として抵抗する者がいなくなるほどの損害を被り、蔚山攻城戦は日本軍の逆転勝利で終戦したのである(朝鮮王朝実録、宣祖実録)。

【石田三成襲撃事件から関ヶ原の戦いへ】
秀吉の死後、政権内において加藤清正、福島正則ら武断派と、石田三成、小西行長など行政を担当する文治派(後世の見地に基づく分類)の対立が表面化し、慶長4年(1599年)閏3月3日、これまで仲裁にあたっていた五大老筆頭の前田利家が死去すると、たちまち両派の抗争が勃発する。
前田利家死去のなんと翌日、加藤清正、福島正則、細川忠興、浅野幸長、黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎の七名(家康書状に記された七名。秀吉子飼いの七将と呼ばれた武将には、この他加藤嘉明、池田輝政が含まれる)は大坂城下の加藤清正屋敷に集結し、三成成敗を決起する。これには、加藤清正や浅野幸長ら、朝鮮出征兵士の査定を三成が歪曲し(三成らは明・朝鮮との戦いを早期終息させる狙いがあったという説あり)、過小評価されたことに、日頃から高慢な三成の態度に業を煮やしていた清正らの我慢の限界が暴発したと云われている。
この事件は、内通者による事前通報の結果、清正らが石田屋敷を襲撃した時にはすでに三成の姿は無く、最終的に徳川家康の執り成しによって流血とならずに終わった。
この時、清正らの振り上げた拳を下ろさせる為、家康が大老として下した裁定が、奉行職を解き、三成の居城、佐和山城で謹慎させることだった。こうして、閏3月10日、家康の次男・結城秀康の警護のもと、それまで豊臣政権を名実共に支えてきた三成は伏見を去る(政権から離脱)こととなった。


「澤山城図」(提供:長浜市長浜城歴史博物館)

翌慶長5年(1600年)9月15日。毛利輝元を総大将として、石田三成率いる軍勢82000(西軍)と、徳川家康の軍勢74000は関ヶ原で対峙する。徳川に与した幸長は、池田輝政と共に岐阜城を攻略し、当日には6500の軍を関ヶ原へ到着させた。毛利秀元や長束正家などの軍勢を牽制する任務を得て、南宮山近くの垂井一里塚付近で陣を張った幸長は、戦闘が始まってからも池田輝政軍と共に毛利秀元軍、長束正家軍、長宗我部盛親軍を追尾撃退し、武功を挙げている。
戦後論功行賞では、破格の紀伊国37万6千石を拝領。併せて官位・従四位下・紀伊守に叙任されたのである。

【余命・僅か】
ここまでの幸長を見れば、父・長政(長吉)の威光はあったにせよ、諸大名の中でも出世組として順調に歩んできたように思えるのだが、紀伊国37万6千石の大大名となった僅か2年後、その生涯は不可思議な終焉を迎えるのである。
慢心…。
慶長14年(1609年)5月18日、幸長の近習・松原内記が、弱冠17歳の左内という者に斬り殺される事件があった。
左内は幸長に奉公するため、松原内記を頼った。この若者、大変に美麗であり、内記は自ら左内を召抱えることとし、幸長の元へは行かせなかったという。しかし、この話が幸長の耳に入ると、幸長もこの左内を一目見ようと内記の屋敷を幾度も訪ねたという。それでも内記は左内を幸長に会わせることはしなかった。それほど左内に恋慕していた内記であったが、幸長の命を受けて丹波国の城普請に出向する折、留守中に左内のことが露見することを恐れ、付け人と共に京へ連れ出そうとした。その時、表面上の理由として「左内相抱えず」と書いた書状を左内が見るに至り、自分が捨てられたと勘違いした左内は一人紀伊に戻って内記を殺してしまったという話である(当代記)。
所謂衆道(しゅどう=男色)の嫉妬が高じた事件である。

怠惰…。
「生於憂患而死於安楽也」(憂患に於いて生、安楽に於いて死也=人は心に痛の種ある時は、命を守ろうと努力するが、安楽になると気が緩み、死が待っている)。藤原惺窩による「孟子」の講を聞いていた幸長は古人の言葉に頷いたという。
「自分は石田治部(三成)と仲が悪かった。奴が生きている頃は、隙を見せず、身を固く保ち、人に非難されぬようにして、身体も鍛えていた。
しかし、今はどうか。石田治部は既に亡く、大名となった自分は、(徳川)将軍家に島津、佐竹にも劣らぬ扱いを受けている。
それが故、気は緩み、何事にも身が入らず、この身も病気がちとなっておる有り様。まさに賢者の言われるとおりよ。」
幸長述懐のエピソードである(老人雑話)。

不穏…。
幸長は病と称し、江戸に出仕しなかったことがあった。
当時は大名同士、互いの国元へ見舞いに赴く事は、謀反を煽るとして禁じられていた。
ある日、突然黒田長政が海路より紀伊に見舞いに訪れたのである。
その帰りのこと、洲本(淡路島:紀伊水道を挟んだ対岸)に待機させている船まで、幸長の小姓・永原大膳に小舟を用意して送らせることとした。その時、幸長は紀伊水道に出るまでの航路を指示し、「必ず沖を通ってはならん。松江浜を経由し、加太の田倉崎へ行くように」と申し付けた。ところがこの海域の海は荒れることが分かっていた。
無事に洲本へ送り届けた大膳が戻ると、川口の浜で待っていた幸長は送迎の様子を訪ね、大膳曰く、「さても今日は迷惑なことでした。黒田様の船へ大波が二度も押し寄せ海水が流れ込み、黒田様は船屋形の戸を立てていたので大丈夫のご様子でしたが、他の者らはずぶ濡れになり、酷く迷惑いたした。」と。

これを聞いて幸長は大いに喜び、「筑前(黒田長政)めが!家康の承諾を得ずに見舞いになど来るものか。この幸長が病気だと言って、江戸、駿府に行かずのを不審に思い、様子を見て来いと言われて来ただけの事。単なる見舞いのはずがない。
故に、明日にも幸長を退治せよ、となれば、西国から筑前が、紀州の湊に通じているからということで、先鋒となり船で攻め入ってくるであろう。その時のことを考え、今日は筑前に波を喰らわせ、紀州の湊は中々難しいと筑前に思わせてやったまでよ。
これを聞けば、西国の奴らは皆紀州の海を怖れるだろう。そうなれば、陸路の和泉路から攻めて来る。ならばそれは山越えになるから、こちらが勝つのは容易い。」(浅野長政公伝)


和歌山城大手門図(和歌山県立博物館)

如何にも、知恵者の読みである。しかし、この時点で、家康が自分を疎ましく思っているのではないかという疑念に駆られていたことも伺えるのである。

慶長18年(1613年)8月25日死去(病死とされる)。亨年38歳

【不可思議な死】
紀伊国大名となって僅か13年。当代記によれば、「唐瘡(とうがさ=梅毒)煩い、もってのほか」と記述が見える。つまり、遊興が過ぎて性病に感染し、重症であったということである。しかし、幸長の早過ぎる死は、京の公家衆の間でも話題となった。「時慶卿記(公家・西桐院時慶の日記)」によると、「高台院と片桐且元が、東国で紀州の儀の噂が立っていると話していた。」との記述が見える。
加藤清正、浅野幸長、池田輝政が相次いで死去した。関ヶ原で徳川に与し、それなりの戦功を挙げ、且つ厚遇された豊臣恩顧の大名達である。「当代記注4」には、いずれの武将も朝鮮出征の時、異国の遊女と戯れが過ぎた為、唐瘡(梅毒)を患い、それが原因で死亡したと伝えている。「当代記」は徳川の業績を記した史書であるから、信憑性については疑問なところが多く、忠実に史実を伝えている史料とは言えない。やはり、徳川幕府の黎明期に於いて豊臣恩顧の大名の失墜は、巷に流布された憶測に説得力があるのも頷けるところであろう。

注4
当代記は、寛永年間(1624年~1644年)頃に成立したとされる史書で、編者は多説あるが、松平忠明(播磨国姫路藩主・1583年 - 1644年)によるとされている。戦国期から江戸時代初期に亘る文化、政治に加え三面記事的な記述も多く、当時の世相等を知る上では比較的史料価値が高いと見る史学者も多い。


姫路宰相と呼ばれた幸長の戦友、池田輝政も同年に死去(写真:姫路城)

【優秀なるが故?】
酒を飲ませた女性にわいせつな行為をしたとして、強制わいせつ罪などに問われた東大生や東大大学院生ら3人の公判が本年7月、東京地裁で始まった。
法廷で明らかにされたのは、日本最高のエリートでありながら、女性を“モノ扱い”していた被告人達の人間性そのものを疑わせるような鬼畜の所業だった。エリートサークルの“裏の顔”は、「女性に酒を飲ませ、わいせつ行為をする目的のサークルだった」(被告らの供述調書)。

東大に関して言えば、法学部、医学部他13学部の毎年の卒業者数(学士授与者)は概ね3000名強。併せて西の雄、京大、阪大など超一流と呼ばれる教育機関の卒業者は毎年数万人を数える。その誰もが、その後の人生に於いて各分野での存在感を放っているかといえば、勿論そうではない。何故彼が、と後ろ指を指されるに至った高学歴のエリート達には、幸長にも共通する心の内が見え隠れするのである。「承認欲求」高学歴エリートの代表的な生い立ちが、その家庭環境に在ることは事実だろう。外観的には恵まれた環境と言える中に在り、幼いころから周囲の期待に応えることが命題となって、十分な教育を与えられた子供は親、教師、クラスメイトに認められ、褒められようと必死に勉強に励む。求めるモノは勉強による成果ではなく、他者から認められること、つまり「承認」の欲求なのである。やがてその欲求は、自分自身と自分以外の何か権威のあるものを結びつけて、自分にもそれと同じように価値があると認めて欲しい、それにより自分が特別な存在なのだと確認したいという心理が働く。有名中学から有名高校、そして超一流大学、一流企業。ブランド名は他者からの承認を得るには不可欠な要素なのである。


求めるモノは、母の喜ぶ顔??(提供:Amazon.com)

他方、慶長の役に従軍し、蔚山城の戦いで死闘を演じた加藤清正や幸長。その評価に対する不満は心情的に理解するが、やはり満たされない承認欲求の現れである。その者達が集結して石田三成を襲撃したことは、同様の不満を持つ者の共同体意識であり、仲間意識が三成という天敵に向けられ暴発した。自分は褒められる存在であるという、自己に対する信頼と、社会や周囲に対する安心感が保たれていないと、必要以上に他者の承認に頼ることに繋がって行く。

その心理を巧みに利用し、欲求を満たしてやったのが徳川家康であった。

関ヶ原での論功行賞により、紀伊国37万6千石の大大名に抜擢という褒美を得た幸長は、満足感にどっぷりと浸り、家康が次に何を考えているのか、次なる家康の目的にどう対応することが、浅野家を繁栄させていくことに繋がるのかなど、戦国末期に外様の成り上がり大名としては、絶対に忘れてはならなかった危機管理意識の欠落が、幸長が智才であったが故、家康にとっては目障りな、また不要な存在となっていたと考えられるのである。
何故そう言えるのか。歴史的にそれを裏付ける事実として、浅野家や加藤家と同じく豊臣恩顧の一族であった加賀藩前田家の初代藩主・前田利長、二代・利常の、徳川に対する振る舞い注5と前田家の繁栄を比較すれば、なるほどと思うのである。


関ヶ原では徳川軍として毛利、長束を抑えた武功も…(中山道・垂井宿)

注5
仮痴不癲(かちふてん=痴をいつわりて、てんせず)は兵法三十六計の第二十七計にあたる戦術。愚か者を装って相手に警戒心を抱かせず、時期の到来を待つ。前田利長と利常は、謀反の疑いなど微塵も感じさせないよう、無能な武将を装い続けたという。

参考文献:

  • ・浅野長政とその時代 黒田 和子(校倉書房)
  • ・天下統一と朝鮮侵略・織田、豊臣政権の実像 藤木久志(講談社)
  • ・文禄・慶長の役〔壬辰・丁酉倭乱〕文学に刻まれた戦争 崔官(講談社選書)
  • ・国史大辞典 吉川弘文(吉川弘文館)
  • ・当代記 駿府記 (史籍雑纂)
  • ・旧参謀本部編「日本の戦史 関ヶ原の役」(徳間書店)