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ラビットプレス+8月号


大谷吉継像太平記英勇傳 大谷刑部少輔吉隆(資料:森宮古美術)

慶長4年(1599年)閏3月3日。豊臣家筆頭家老・前田利家が死去。同日、かねてから石田三成と対立関係にあった加藤清正・福島正則ら七将注1が、三成の大坂屋敷を襲撃するも、事前に襲撃を知り、難を逃れた三成。その後、徳川家康の仲裁により、三成は奉行衆から退隠、近江佐和山城に蟄居とされた。
翌慶長5年4月1日、家康は会津の上杉景勝に対し、伊奈昭綱、河村長門(増田長盛の家臣)らを問罪使として派遣。このとき家康は、西笑承兌(さいしょうじょうたい=秀吉時代からの政僧)に弾劾状注2をしたためさせ、景勝の軍事力増強を咎め、異心が無いのであれば誓書を差し出した上で上洛し、弁明すべきことを景勝に迫った。
当時、家康の政治的影響力が豊臣家において増大する中、東北一帯を所領監督する役目を負っていた上杉景勝は、直参の直江兼続に命じて会津中央の阿賀川畔、神指ヶ原(こうざしがはら)に新たな城の建設を始めていた。この動きに謀反の疑いを掛けられた景勝は、身の潔白を証するため兼続をして書状を返した(所謂、直江状注3)。しかし、その内容があまりに家康を愚弄するものだとして家康は激怒し、即座に上杉討伐を決したと云われている。

注1 七将
「石田三成襲撃事件」の前後処理にあたって、徳川家康の書状に記されているのは、加藤清正、福島正則、細川忠興、浅野幸長、黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎の七名である。(水野伍貴・「前田利家の死と石田三成襲撃事件」参考)

注2 景勝への非違(ひい)八ケ条の弾劾状
この弾劾状は直江山城守兼続に宛てられたもので、大谷吉継も連署している。

注3 直江状
徳川家康の命を受けて上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌に返答するために送った書簡。関ヶ原の戦いのきっかけとなる会津征伐を家康に決意させたとされる。ただし、偽書説もある。


直江状写し(新潟県立歴史博物館所蔵)

慶長5年(1600年)6月6日。大坂城西の丸にて、会津征伐における評定が開かれる。周囲を山に囲まれた盆地の会津にはいくつか入口がある。北側の米沢口には山形の最上義光と出羽の諸将、東側の信夫口には陸奥の伊達政宗、東南の仙道口には常陸の佐竹義宣、西側の津川口には前田利長と越後の諸将、南側の白河口には家康・秀忠父子の本隊という具合に、総数20万を超える大軍で会津に攻める計画を立てる。この軍議に大谷吉継の姿もあった(三河物語)。
6月8日、後陽成天皇より晒布100反が家康に下賜され、続いて15日には豊臣秀頼から家康に軍費と軍糧が与えられた。これすなわち、上杉討伐は公戦となった。そして家康は6月16日、会津に向けて大坂を発ち伏見城に向かった。


大坂より伏見へ(資料:京都市伏見区役所)

NHK大河ドラマ「真田丸」では、石田三成、大谷吉継は共に奉行方として豊臣政権の政務の中心となって働き、聡明な三成と知恵者の吉継との仲は良好であり、互いに尊敬し、秀吉の両輪のごとき忠臣である。しかしながら、史実では秀吉死去後、数ヶ月後には豊臣家家老・上杉景勝征伐に向けた家康の動きに同調する吉継の姿があり、且つ弾劾状への連署を許されるほどの地位を家康から与えられていたということは、吉継は、すでに家康配下の大名の一人として臣従しており、反家康の最たる三成とは敵対しているはずである。
ならば、何故吉継は関ヶ原で西軍に与したのか?
通説では、それまでの三成との繋がりによる友情論、自身の病と武士の本懐(崇敬する家康との一戦)などが説かれているが、果たして本当にそうであったのか?
天正17(1589)年には秀吉政権のもと越前国敦賀郡、南条郡、今立郡2万石(5万とも、5万7千石とも云われ、更に蔵入り地10万石を預る)を拝領して敦賀城主となり、後12年間に亘りその才能を発揮し、軍事・物流の最重要拠点であった敦賀城下の整備拡大を図った吉継である。当然、家臣や家中の親族など、多くの家来を抱える大名としても有能であったはずの吉継が、なお時の趨勢を十分に悟り、且つ崇敬に値する徳川家康に臣従していたにも関わらず、三成の懇願とはいえ、家中一族の命を賭けるには無謀極まる決断を、僅か数日で決したのには如何なる理由が存在したのか?

本編では、吉継が三成に与した理由ではなく、家康に背いた理由という視点で史実を洞察し、智才の名将・大谷吉継の本心と秘められた戦略を明らかにしようと試みることとする。


越前敦賀城跡(イメージ画像)

【大谷吉継の出自と出世】
永禄8年(1565年)、近江国(現:滋賀県伊香郡余呉町大字小谷)で生まれたとするのが通説となっている。この小谷とは”おおたに”と呼び、慶長年間以前は大谷と書いていたという。
六角氏の旧臣・大谷吉房を父とする説が有力であり(「淡海温故録」「輿地志略」)、吉継は近江大谷村の出身としている。
また、「華頂要略」の坊官大谷家系図に吉継の名があること、本願寺坊官・下間頼亮室が妹であることなどから、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍の子という説もある。いずれにしても資料が残っていないため、出自は不明である。

吉継の母については、秀吉の正室の高台院の取次役であった東殿(ひかしどの)であることが判明している(校交雑記、兼見卿記)。豊臣家中に在って、母の地位は相当に高く、吉継は秀吉の隠し子ではないか(秀吉を継ぐ者=吉継と命名)との俗説に繋がるが、長きに子を授からなかった秀吉に、侍女であっても実子の男子が存在すれば、何らかの手立てで継承者として表舞台に登場するはずであるので、この説には信憑性が低いとされる。

石田三成の推挙で秀吉に登用されたと云われているが、通説では、天正2年(1574年)、長浜城を築いた際に新しく秀吉が雇った700名の中に混じっていたという。天正5年(1577年)10月、織田信長の命を受けた秀吉の播磨攻略に際し、姫路城を本拠地としたときに脇坂安治や一柳直末、福島正則、加藤清正、仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆の一人として、「大谷平馬」の名前が見える(武功夜話)。天正6年(1578年)5月4日の上月城における毛利輝元軍勢からの尼子勝久救出の際の援軍出陣には吉継も従軍している(武功夜話)。

天正11年(1583年)に織田氏筆頭家老の柴田勝家と秀吉との対立が表面化し、賤ヶ岳の戦いが起こった。この時吉継は、長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させ、石田三成らと共に七本槍(福島正則、加藤清正ら武功を挙げた武将を後世に称えた呼び名)に匹敵する「三振の太刀」と賞賛される活躍を見せた(一柳家記)。また、紀州征伐においては、増田長盛と共に2千の兵を率いて従軍。最後まで抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取ったと云われている(根来寺焼討太田責細記)。

また、文書発給もこの頃から見られ、西堂・称名寺(滋賀県長浜市)の寺領を安堵する書状を「大谷紀之介」の名で出している(天正11年12月13日付書状・称名寺文書)。
天正13年(1585年)7月11日、秀吉は近衛前久の猶子(ゆうし≒養子)となって従一位・関白に叙任した。併せて諸大夫12名を置き、吉継は従五位下・刑部少輔(じゅごいのげ・ぎょうぶしょうゆう)に叙任される注4。これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになったと云われる。予てより秀吉の側近として政務を文掌し、事務官僚的な役割を担っていた吉継は、天正13年(1585)九月の秀吉の有馬温泉湯治にも、三成らと随行している(宇野主水日記)。

注4「関白任官記」
(前略)件の拝悦の条、儀式を以て三代あり。諸大夫なきはあるべからず。侍の中、その人を択びて、これに任ずる者十二人。中村式部少輔一氏、生駒雅楽頭政勝、小野木縫殿助重勝、尼子宮内少輔晴久、因幡兵庫助、柘植左京亮、津田大炊頭、福島左衛門大夫正則、石田治部少輔三成、大谷刑部少輔吉継、古田兵部少輔重恒、服部采女正、是也。


天正19年奥州仕置の秀吉命令書・三成、吉継らを派遣する内容(仙台市博物館所蔵)

【吉継の病】
天正14年(1586年)始め頃から大坂近辺で千人斬りという辻斬り事件が起こっていた(多聞院日記)。その犯人として吉継の名前が噂されていた(宇野主水日記)。その内容とは、『千人切ト號シテ大坂ノ町人ニテ人夫風情ノモノ数多ウチコロスヨシ種々風聞アリ 大谷紀之介ト云小姓衆悪瘡気ニツキテ千人殺テ其血子フレハ彼病平癒之由 其義申付ト云々世上風説也』(口語訳:千人切りと言って大坂の町人の間で人夫風情の者が多数打ち殺され、様々な噂が立った。大谷紀之介という小姓衆は悪病に侵され、千人殺してその血を飲めば、その病は平癒するというからである)
しかし、その後に下手人は捕えられ、吉継の嫌疑は晴れるのであるが、すでにこの当時、悪い病気を患っていることが世間に流布されていることから、吉継の病状は相当進行していたのであろうか。
吉継の病は梅毒、ハンセン氏病などと推測されている注5。これは、一定時期より吉継が白い頭巾で顔面を覆う注6ようになっていたと云われることから、人目に晒したくないほどの皮膚疾患症状(表層の壊死やゴム状腫瘍などか?)が出現していたのではないかと考えられる。それが事実であればだが。


絹本著色大谷吉継像1984年・前田幹雄作

注5、注6
大谷の書状に”白頭”と署名されているものが散見される(吉村文書、称名寺文書、真田家文書、護念寺文書など)。また、吉継の法名は「渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門」である。
※慶長2年(1597年)に鹿苑寺日記に悪疾と書かれている
一方、「戦国の時には男色盛んに行なはれ、寵童の中より大剛の勇士多く出づ(随筆:梧窓漫筆)」とあるように、戦国時代には武士の男色が盛んになったといわれ、戦国大名が小姓を男色の対象とした例が数多く見られることから、性感染症である梅毒症の疑いが云われている。同様に梅毒で死亡したとされる武将には加藤清正、結城秀康、前田利長、浅野幸長などが挙げられる。

吉継が、疾患で崩れた顔を隠すため白頭巾を被っていたというのが事実であれば、少なくとも天正11年(1583年)、吉継24歳の賤ヶ岳合戦当時には、既に病魔に侵されていた事となる。しかし、現在のところ白頭巾の描写を示すような一級資料は見つかっていない。

【吉継と徳川家康】
慶長4年(1599年)1月19日。家康私婚に対する三成、前田利家らの怒りは家康暗殺という強硬手段をもってしてでも豊臣家の威信を守らねばならないとし、諸大名が家康、利家(一説には大坂の宇喜多邸か:武徳安民記、慶長軍記)それぞれの屋敷に集結する騒ぎとなった。そのとき、利家の屋敷には、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の三大老や五奉行のひとり・石田三成、また、後に関ヶ原の戦いで家康方につくこととなる武断派の武将、細川忠興、浅野幸長、加藤清正、加藤嘉明らまでが味方したのであるが、吉継は家康の屋敷に参じている(或いはいつでも参じる用意をし、自邸で待機していたとの説も在る)。この事件の顛末は、家康が向島(京都市伏見区向島(むかいじま))へ退去することで和解するのであるが、慶長年中ト斎記注7に、家康が向島から伏見に移った時の話として「大谷刑部少内々の使云々」とあり、家康に内々の使いを出すほどの親密な関係を示していることから、秀吉死後の豊臣政権下で、親家康派だったのは間違いないところである。
また、冒頭の石田三成襲撃事件の際、毛利輝元へ三成への荷担を諫める書状を送っていることが、毛利元康宛輝元書状(厚狭毛利家文書・閏3月記)から読み取れる。


徳川家康肖像(紀州東照宮蔵)

注7
成立年代不詳:著者・板坂卜斎(宗高)は明暦元年(1655年)死去。写本が多く、「慶長年中卜斎記」「板坂記」などと称され、豊臣氏滅亡に関する重要な史料とされる。

【吉継と前田利家】
大河ドラマ「真田丸」では、家康私婚の問題に対処するため、三成と真田信繁が療養中の吉継を訪ね対策を相談している。そのとき、吉継は加賀大納言(前田利家)を措いて内府(家康)に意見出来るものは居らん、と意見し、三成と信繁は早速伏見の前田邸へ向かう。しかし、これは史実ではない。前述したとおり吉継はこの事件に徳川方として関与しているのである。
利家が体調おもわしくなく、高齢で余命僅かであることは吉継も知れたところであろう。家康のご法度破りについては、吉継とて公然と認めていたわけではない。しかし、現代のように法治国家としての制度が確立していない当時に於いて、諸法度はその時の当主が定めた影響範囲の限られた法律であり、豊臣政権が継続している状況と言えども、当主秀吉亡き後、利家と並ぶ筆頭の地位に居た家康の行動は、時代の変遷により止むを得ないと考えることも出来た。それよりも豊臣家の存続を強く願う吉継には、吉継なりの時代感が在り、前田家を中心とした新政権と家康中心の豊臣家とを比した場合、どちらを当代として、秀頼公ご成人までしっかりと豊臣家を纏めることが出来るかを考えれば、それは家康である。家康に託すしかない。
何故、前田ではだめなのか。
天正11年(1583年)、秀吉と柴田勝家の対立を軸として起こった賤ヶ岳の戦いにおいて、秀吉勝利を決定づけたのが前田利家の裏切りであり、その後豊臣政権下で筆頭家老にまで上り詰めた利家であるが、何より義を重んじて秀吉に臣従してきた吉継は根本的に信用しておらず、元々肌が合わなかったのではないかと推測する。事実、利家没後、家督を継いだ利長にあって、即座に家康に降っている(利長には前田家存続の大義が有ったことは当然であるが)ことから、上杉征伐の過程で吉継が三成に与した本心も、実は前田家の存在が大きく影響していたのではないかと考えることも出来よう。


前田利家肖像(大阪教育大学付属図書館蔵)

【吉継と石田三成】
吉継と三成の深い結びつきや友情の類に逸話は多く存在する。が、しかし、その友情とやらを裏付ける史料は後世の軍記物などの他、確認することは出来ていないのである。それでは夢が壊れる、と嘆かれても、それが現段階での歴史研究下での答え注8である。
秀吉は生前、三成と吉継を「計数の才」に長けた奉行として重用しており、九州征伐の際には両名に命じて「兵三十万、馬二万疋、一年の長期滞陣」に必要な物資補給と輸送を担当する兵站(へいたん)奉行として任を課している(甫庵太閤記)。
天正18年(1590年)の小田原征伐でも三成と兵站奉行を、文禄の役でも三成と「船奉行」を務めている。また、検地(太閤検地)において三成と共に検地奉行を担当しており、天正13年(1585年)9月14日の秀吉有馬温泉湯治に出かけた際には、三成や増田長盛とその供を務めており(宇野主水日記)、天正14年(1586年)、三成が堺奉行、その補佐役に吉継が付されている。これら、三成と吉継が行動を共にした史実が多く残されていることから、長年に亘って二人の友情が培われたのだとする研究成果が通説となっている。
しかし、考えてみればそれは真逆の効果を生む事柄であったかも知れない。三成も吉継も共に計数の才に長け、政務官吏として譲らぬ手腕を見せていたということは、当然ライバルとして凌ぎを削る間柄であったろうし、時には秀吉の待遇に際して不満やるかたない思いもしたであろうことは容易に推測出来る。また、その後吉継は疾病によって政権中枢からリタイヤするのであるから、如何に情厚く三成が気遣いを見せたとしても、吉継の心中は素直であったかどうかは疑問である。


石田三成肖像(長浜城歴史博物館蔵)

注8
唯一現存確認出来る同年代の一級資料として「宗湛日記(神屋宗湛:博多の豪商で茶人)」に三成と吉継に関する箱崎茶会に於いての記録が在る。
「一大谷刑部少輔トノハ、ソノ前 上様御機嫌悪キニ依テ、香椎ノ村ニ御カクレ候ヲ、石治少我ラ御頼候ニヨリ、舟ニテ香椎ヨリメイノハマ(姪浜)ニ送申テ、御宿ヲハ興徳寺ニ置申也、サソラヘハ、依大望ニ、道具ヲメイノ濱ニ持参仕テ、刑少輔ニ懸目候也、」
意訳:秀吉の機嫌を損ねてしまった吉継は香椎村で蟄居していた。(このとき秀吉主催の茶会が箱崎であり)石田三成が宗湛へ「茶器を吉継に見せてやってほしい」と頼んだ。吉継は船で香椎より姪浜に渡り、興徳寺に宿を借りて茶器を鑑賞したという。

【吉継の勝算】
吉継の関ヶ原参戦に関し、三成との友情を持て囃すだけではあまりに吉継に失礼であろうと思う。他の文献でも再三指摘されている、「親徳川派」として世の趨勢に逆らわず、家中安泰も含めた敦賀5万石の大谷家の行く末を見極めたうえでの吉継であった。それが自らの余命知る中で、あまりに無謀な賭けに出る吉継である筈が無い、ということは筆者も同感である。前述の指摘通り、加賀の前田に対する不信感や、勿論三成の懇願に対する動揺が無かったとは言えない。しかし、ニ度三度と上杉討伐の道中にあって三成を訪ねたのは、三成に勝機無し、を繰り返し説得するためであったろうか。

明治維新後の新政府において陸軍大学教官に抜擢されたドイツ人のクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル注9が関ヶ原古戦場を訪れ、日本の軍人から当時の東西両軍の布陣図を見せられ、「どちらが勝ったと思われますか?」との質問に、「この戦いは西軍の勝ちである」と即答したという。

注9
Klemens Wilhelm Jacob Meckel(1842年3月28日~1906年7月5日没)明治初期、大日本帝国陸軍軍制のプロイセン化の基礎を作ったドイツ帝国の軍人で、1885年3月来日。教え子には日露戦争時の満州軍総参謀長に任命された児玉源太郎らが居る


青が西軍、赤が東軍、白抜きは西軍から東軍へ寝返った陣営(資料:関ヶ原町)

三成の行動を子細に見れば、大胆かつ緻密で、家康討伐の策も理論的には勝機十分と考えられるものであったはずである。吉継にすれば三成の聡明さは折り込み済みであるから、佐和山での会談は結局のところ軍議として行われたと考えても不思議ではない。
事実、本戦に備える三成方(西軍)は、総石高1124万石、家康方(東軍)は、968万石。兵力は西軍8万2千、東軍7万4千であった(旧日本軍参謀本部編「日本の戦史・関ヶ原の役」)。この数字を知った吉継の脳裏に「勝てるかも知れない」という予感が走ったのかもしれない。
ニ度三度と佐和山を訪れ、吉継は勝利するための戦略を練りに練った。普段から三成の人望の薄さに、西軍総大将は三成以外に立てなければならない。どの隊を東軍のどの隊にぶつけるのか。先鋒隊の役割と鉄砲隊の援護は。寝返る者は誰か、またその逆は。真田昌幸は中山道を抑えられるのか。そして自身は加賀の前田とどう立ち向かうのか、などなど。
病の身体を押して夜半まで続けられる軍議に没頭する吉継と三成。そこにはいつしか賤ヶ岳で武勇を馳せた戦国武将としての誇りが蘇ると共に、豊臣家安泰の大義が湧きあがり、吉継は消えゆく命の炎の再燃に戦国ロマンを見たのであろうか。
大谷吉継とは、そういう男だったのかも知れない。


吉継と湯浅五助の墓標(関ヶ原町)