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女不動産屋 柳本美土里

9月に入ったというのに、この暑さはどういうことだ。
子どもの頃の9月は、こんなにも暑くはなかったように思うのだが。
やっぱり地球は温暖化に向かっているのだろうか?
それにしては、今年1月に鹿児島で雪が降ったというニュースを観た記憶があるのだが・・・
住宅街の中にポツンと建っている中華料理店の横を通ったところで、エアコンの室外機からの熱い風を横顔にまともに受けた。
自然の大きな変化である地球温暖化は、外の気温がどうなっても室内にいる自分だけ涼しければ構わないという自分勝手な人間が創り出した機械のせいに思えてならない。
四角の赤い渦巻き模様が描かれた店のドアを睨んだが、"冷やし中華はじめました"ののぼりが自分をバカにするように翻っているだけだった。

河野は、住宅街に建ち並ぶ家の郵便受けひとつひとつに、"売り物件を探しています"というチラシを入れていた。
こんな過酷な気温のなか、歩きながら1軒1軒の郵便受けにチラシを入れるという前近代的な作業をしているのは、不動産業界で、「売り物件を持った不動産業者の方が有利だ」と言われてきたせいだ。
チラシを見た不動産所有者から、他社への売却依頼ができない"専属専任媒介契約"や"専任媒介契約"で、売却依頼を受けることができれば、買主を他の業者が連れてきたとしても、売主から仲介手数料をもらうことができる。
もしうまく自社で買主を見つけられたとすると、売主と買主、両方から手数料がもらえるのだ。
河野は、水を浴びたように全身汗だくになり、意識が遠くなるのを感じながらも、次の家の郵便受けに手を伸ばしていた。

河野は、柳本不動産の営業マンである。
正直でお客様第一主義の河野を女社長の柳本美土里が気に入り、他の不動産会社から引き抜かれた。
美土里社長の評判が高く、これまで取引をさせていただいたお客さんや、友人知人からの紹介で仕事が途切れることはない。
でも、これって単に美土里社長のおこぼれで仕事をしているだけじゃないだろうか?
営業マンとしては、自分でお客さんを見つけてくることが、本来の営業の仕事だと思う。
そう言って意気込んで、チラシのポスティングという、足で稼ぐやり方を提案したのだ。

「適当にしておいた方がいいわよ」「河野君に倒れられたら、その方が困るんだから」という美土里を振り切り、事務所を出てきたのが3時間前。
これ以上、炎天下を歩き回ることに命の危険を感じた河野は、熱っぽい頭をゆっくりと前後に振りながら事務所に戻ることにした。

「ちょっと、河野君、熱があるんじゃない?顔が真っ赤よ」
額に当てられた美土里の手が冷たく柔らかくて気持ちがいい。
そう思ったとたんに、目の前が真っ暗になり意識がなくなった。
気が付いたときには、額に重みと冷たさを感じた。
両脇には冷却剤が挟まれ、頭の上には氷嚢が置かれているのだ。
それにしても、縦と横に木製の軸を組み、ゴムの袋の中に氷水が詰められた氷嚢って、幼稚園の頃におばあちゃんの家で熱を出したとき以来だと思う。
こんな年代物がこの事務所にあったということに感心してしまった。

「気が付いたようね、ほんとに河野君ったら・・・そんな状態になるまで頑張らなくてもいいのに」
「おかげで、久しぶりに力仕事をさせてもらったわ。筋肉痛になったら、マッサージ代を出してよね」
そういえば、応接テーブルのソファに寝かされている。
美土里が独りで運んでくれたのか?
まさか、女性独りの力で最近お腹が出てきた自分を運ぶなんて…
思わず美土里の二の腕を凝視してしまった。

「もう大丈夫です」
そう言って体を起こしたものの、頭を動かした後に脳が付いてくるような感覚に見舞われ、気持ちが悪くなる。
「いいから、もう少し寝てなさい」
まるで、母親に怒られたみたいな柔らかな言葉に、体の力が抜け、再びソファに体を投げ出し目を閉じた。

電話に出た美土里が、「ポスティングの反響よ」と言って河野に受話器を渡したのは、あの熱中症事件があってから2週間ほど経った頃だったと思う。
すっかり元気を取り戻した河野は、はやる気持ちを抑えて受話器を受け取った。
「家のポストに入っていたチラシを見て、お電話させていただいているのですが…」
電話の声からすると、落ち着いた中年男性のようだ。
「家を売りたいのですが…」という言葉を期待していた河野は、続く男性の言葉を待った。
「あの家でも売れるのでしょうか?」
そう来たか。
確かに、家が古かったり小さかったりして、売れるのかどうかを心配する人は少なからずいる。
これまで売却依頼を受けた、そういった心配のあった家でも、高い値段を望まなければ、だいたいは売れてきた。
そうした過去の事例を説明してみるのだが、「はあ」だの「まあ」だのと言う相手の相槌が、いっこうに納得した様子ではない。
水を握り締めるように、掴みどころなく会話が空回りしている。

河野の話が途切れるのを待って、中年男性は言葉を挟んだ。
「もしかして、あの家がどんな家なのか、ご存知ないのですか?」
どんな家って?どういう意味なのだろう?
いろいろな可能性を考えてみるのだが、言葉にできそうな答えが見つからない。
「どんな家って・・・?」
河野のとまどいを察した中年男性は、安堵ともとれるような軽い溜息とともに苦笑いをしたようだ。
「もう、20年も前の話ですから、知らない方もいるんですね。当時は衝撃的なことだったので、ご近所の方で知らない方はいませんでした」
「実は、あの家の中で妹が両親を殺したのです。心の病を患っていた妹は、今も施設に入っています。そんな家なのに、本当に買う人がいるのだろうか?と思いまして」

事故物件。
不動産業界では、自殺や事件があった不動産のことを、そう呼ぶ。
まさしく、河野が郵便受けにチラシを入れたその家は、事故物件だったのだ。
事件から20年もの間、空家にしていたが、ご近所の迷惑になってはいけないと、男性が定期的に訪れ、ポストの整理や家の周りの草刈りなどをしており、その際に、河野が投げ込んだ売り物件募集のチラシが目に留まったようだ。
事件当時、男性は実家に住んでおらず、会社の寮で生活をしていた。
叫び声の異常さに驚いたご近所さんが警察に通報し、警察が到着したときには、大量に出血した2人が横たわっており、ことが終わっていたらしい。
男性は、警察からの連絡で事件を知ったのだが、現場を見て男性がショックを受けないようにと、親戚が気遣い清掃業者を手配してクリーニングをさせた。
そのため、男性が実家に入ったときには、表向きは自分が育った実家と変わらない家がそこにあったのだ。

「すみません、知りませんでした」
事故物件だということを知らなかったことが、謝罪に値することなのかどうかという疑問を感じたが、この男性にとっては凄惨な事件の現場である実家に、安直に営業のチラシを入れてしまったことは、なんだか良くないことをしたような気持ちになり、自然と謝罪の言葉になってしまった。
しかし、男性は河野の営業行為に、気持ちを害するどころか謝意を抱いているようである。
「いえいえ、いつまでもこの状態を続けているのは良くないと思っていたのです。あの家をなんとかしないといけないと」
ああいうことが起こった家だから、すぐにでも処分をした方がいい、処分して早く忘れてしまった方がいい、そういう意見も多かったらしい。
売って処分をしたからといって、記憶から消し去ることなんてできない、かといって自分が住むこともありえない。
見るのも辛い家を、どうこうしようという気持ちになれなかったし、売れるとも思わなかった。

そんな家でも、固定資産税の請求は毎年のように送られてくる。
息子が遠方の大学に進学し、授業料や家賃などの費用も家計を少なからず圧迫している。
住むこともない家の固定資産税を払い続ける余裕などないというのが現実なのだ。
また、自分に何かあった場合には、この家が妻や息子に相続されることになる。
自分の家族に起こった悲劇に、妻や息子を関わらせることはあってはいけない、と思うのだ。
「気付いたら、あれから20年も経ってしまいました。そういうことで、売れるものなら売ろうという気持ちになったのですが・・・売れるものでしょうか?」
事故物件の場合は、一般的には購入を避けられる物件となるので、そうでない物件と同じような値段で売れることはありえない。
買いたいという人が極端に限られているため、査定額を算出することさえ難しいのだ。
「そりゃ、高く売れるにこしたことはありませんが、そんなことを求められる家ではないのは承知しています。売れればそれでいいと思っているんです」
そう思ってもらえるなら、河野の気持ちも少しは軽くなるというものだ。
売り出し価格を提案することを約束して、河野は受話器を置いた。

まずは、事故物件ではなかったら、いくらで売れるか査定額を計算した。
出てきた金額は、800万円。
まさか、普通の物件と同じように800万円では売れるまい。
では、この価格からどれくらい値下げをすれば売れるのだろうか?
河野は頭を抱えた。さっぱりわからない。

そういえば、かつて美土里が室内で自殺があったというマンションの売却をしたことがあるという話を聞いていた。
「美土里社長は、査定をするのに部屋に入ったんですか?」
「ええ、入ったわよ。自殺した人の甥が、その部屋を譲り受けて住んでいたの。それで仕事で夜でないと会えないというものだから、夜にマンションに行ったわよ」
美土里は、腕をさすった。
「え~!住んでいたんですか!?甥っ子さんが」
「そう、ビックリでしょう。私も甥っ子さんに訊ねたのよ、なんとも思わないんですか?って。でも甥っ子さんは、全然気にならないって言ってたわよ」
そんな人もいるものなんだ。
でも、逆に考えれば、そうした人にとっては、安く不動産が買えるのだから、それはそれで美味しい物件ということになるのだろう。
「でも、その甥っ子さん、気にならないのなら、そのまま住んでいたらいいのに、どうして売ることになったんですか?」
「ああ、その人、結婚することになったのよ。それで、結婚相手という人は、さすがに自殺のあった部屋には住めないってね、まあ当然よね。それで売ることにしたそうよ。売れたお金を結婚資金に充てるんだって嬉しそうに言ってたわ」
美土里の言い方に少し棘があるのは、気のせいだろうか?

「ところで美土里社長、その部屋はどれくらいで売れたんですか?」
「そうね~、そのマンションの場合は、相場のだいたい半額で売れたわ」
「自殺した部屋でも、売れるものなんですね。どんな人が買ったんですか?」
「買主は、他の仲介業者が連れてきた人だったから詳しくは知らないけど、書道家って聞いたけど・・・売主さんと同じように、世の中には、そういうことを全く気にしない人もいるようね、私は絶対にダメだけど」
「美土里社長でも、怖いものってあるんですね」
河野は、美土里にしっかりと睨みつけられた。

それにしても、どうやって売り出し価格を決めたのだろう?
美土里に尋ねた。
「そうね、事故物件の査定方法なんてないもんね。私は収益性と言う点に着目したわけ。まずは事故物件じゃない場合には、いくらくらいで売れるのかを算出して、その物件を貸し出した場合の賃料をはじき出したのよ。それから、事故物件となった場合の賃料はどれくらいなら借り手がつくかを推測して、その割合で最初の査定額から減価したってわけ」
「つまり、普通なら10万円の家賃で貸せる部屋があったとして、その部屋で事件があったとした場合、いくらなら借り手がつくか、6万円か?5万円か?と」
「事故物件の成約事例を調べてみたら、一般的な賃料の半額なら成約になっていたから、売り出すのも一般的な査定額よりも半額であれば、売れるかなって思って」
なるほど、賃料の差というのは、収益性の差ということになる。
1200万円で買った部屋を賃料10万円で貸し出せば、年間賃料が120万円となり、表面利回りが10%。
同じ部屋が、5万円でしか貸せないとなると、年間賃料は60万円。
表面利回りを同じ10%にするには、600万円で買えば、同じ収益率を確保することができる、つまり収益物件としては、1200万円の普通の部屋と600万円の事故物件とは、同じ収益性を持つことができるということだ。
「ま、結局はその部屋は収益物件としてじゃなくて、自分が住む部屋として買われたんだけどね。売れれば、どちらでもOKよ」

名前は、後藤章雄。
妹が精神的な病に冒されていることは、3年ほど前に知った。
地元の高校に通っていた妹が学校へ行かなくなり、訳のわからないことを言うようになったため、心配した両親が病院へ連れて行ったところ、そういう診断がなされたのだ。
通学に2時間ほどかかる県外の大学へ通う章雄は、学校近くの友人の家に泊まることも多く、たまにしか実家に帰ることはなかったのだが、ある日の夜中、水を飲もうとキッチンに下りていったところで、妹と出くわしたことがある。
「誰かがね、手を引っ張るのよ。その手に引っ張られて来てみるとキッチンだったり、洗面所だったり。小さくて柔らかい手だから子どもだと思うんだけど・・・」
真剣な表情で訴える妹の眼の焦点は定まっていなかった。
どこかで、そんな妹を避けていたのだろう。
章雄が実家に戻る間隔は、しだいに広がっていった。

母からは時々電話がかかってきて、妹の様子なども聞かされてはいたが、章雄が就職活動をすることになってからは、余計な話を耳に入れるのを気遣ったのだろう、母の口から妹の話は出なくなっていた。
自分の人生の中での大きな転換点であるあの時期、自分の将来のことを考えることで精一杯だったというのは、言い訳なのかもしれない。
就職活動の後に保険会社に入社を果たし、新入社員としてがむしゃらに仕事や会社に慣れようとしていた。
精神の病を患っている妹のことは両親に任せてしまって、自分の幸せだけを追い求めていたように思う。
そんなある日、章雄のもとに届いた家族の情報は、警察からのものだった。
母が妹のことを口にしなくなったのは、妹の状態が酷くなっていたからかもしれない。
近所の人の話では、実家からは頻繁に大声が聞こえていたようだ。
家の中では、壮絶な葛藤があったのだろう。

自分だけが逃げた。
だからといって、既にこの世にいない両親を助けることもできず、施設に入っている妹に寄り添うこともできない。
自分を責める人はいなくなってしまい、残るのは、自分が育ち、そして事件の現場となった家だけだった。
その家を処分せずに見守ることだけが、自分への懲戒なのだろう。
それは苦しいことではあったが、自分が苦しむことで何か救われるようにも思えた。

しかし、いつまでもこの状態を続けるわけにはいかない。
住むこともない実家の固定資産税を支払い続けることに対して、何も言わずに許してくれている妻、希望の大学に入学を果たし、自分の人生を目指している息子、彼らにこの家を引き継がせるわけにはいかない。
そういう思いを持ち続けながらも、事件の現場となった家がそう簡単に売れるとは思えないし、あの家を売り出すということは、近所の人にあの事件を思い出させることにもなる。自分自身も、また事件と向き合うことになるように思え、行動を起すことをできないでいた。
そんなところに届いたチラシには、売り家を探しているという不動産会社からのメッセージがあった。
電話で問い合わせをすると、担当者の男性からは、値段は安くなるだろうけれども、売ることはできるような話だ。
親身になって話を聞いてくれる担当者に、すがる気持ちで任せたいと思うようになっている自分がいた。

後藤と電話で話をした河野は、売却依頼を受けるために事故物件に向かった。
「初めまして、柳本不動産の河野と申します」
差し出した名刺の先にいるのは、40代後半の細身の紳士だ。
週末で会社は休日なのだろう、チノパンにラフなサマーセーターの男性から受け取った名刺には、大手保険会社の支店長という肩書きがあった。
家の中に入るのをためらう気持ちを察したのか、それともあまり部屋に人をあげたくないのか、2人は玄関口で話すことになった。
河野は査定をした価格について説明を始め、後藤は黙ってそれを聞いていた。
事故物件ということで減価されるという話にも、悟りきった僧侶のような面持ちで耳を傾けていた。
河野の話を最後まで聞くと、後藤は自分にけじめをつけるように頭を下げて言った。
「わかりました、売却のほう、お任せしたいので、よろしくお願いします」と。

相場の半額というのが功を奏したのか、意外にもすんなりと買主が現れた。
売り出し価格400万円のところを、購入希望額300万円の申込みが入り、売主の後藤が承諾して売買が決まった。
ローンを使わずに現金での購入となった買主は、不動産投資家らしい。
結局、売り出してから1ヶ月でのスピード決済となり、所有権が後藤から離れることになった。
2人が決済をした銀行を出ると、すっかり秋めいた青空が広がっていた。
「河野さん、ありがとうございました。なんだか、これでひとつ区切りがついたように思えます。これからは家族のために、前だけを見て進んでいけそうな気がします」
想像するだけでも苦しくなるのに、それにまつわる様々な出来事が、この人の周りではあったのだろう。
秋の空をバックに、吹っ切れたような後藤の晴れやかな顔が、河野には印象的だった。(完)

このドラマはフィクションであり、実在の団体や個人とは何の関係もありませんので、ご承知ください。