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ラビットプレス+8月号


前田利家像(金沢城内)

慶長3年(1598年)8月18日。秀吉側近の大老、前田利家、徳川家康らは病床の太閤殿下の枕元に参集していた。
「…秀頼を、、秀頼を、、、何卒、、秀頼を…」。消えゆく天下人の最後の声を静かに耳を澄まし聴き入っていた。

明けて慶長4年(1599年)元旦。
諸大名は伏見に出頭し、新しい主君となった豊臣秀頼に年賀の礼を行った。利家は病いを押しながらも傳役(ふやく=後見)として出席。幼い秀頼公(当時4歳)を抱いたまま鎮座した。
1月10日、秀吉の遺言通り、家康が伏見城に、利家が秀頼に扈従(こじゅう=貴人に付き添う)し大坂城に入る。以後、利家は秀頼の傅役として大坂城の実質的主となった。
しかし、間もなくして家康の専横が目に余るようになる。伊達政宗、蜂須賀家政や黒田長政、福島正則らと次々に独断で婚姻関係を結び、重臣らの怒りを買ったのである(秀吉が生前(文禄4年(1595年))に制定した無許可縁組禁止の法度を破ったため)。これには利家も反発し、諸大名が家康、利家それぞれの屋敷に集結する騒ぎとなった。そのとき、利家の屋敷には、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の三大老や五奉行のひとり・石田三成、また、後に関ヶ原の戦いで家康方につくこととなる武断派の武将、細川忠興、浅野幸長、加藤清正、加藤嘉明らまでが味方したのである。
この件に関しては、利家らが家康に対して三中老のひとり・堀尾吉晴注1らを問罪使として派遣するなどした結果、家康は2月2日、自らを除き利家ら五大老、五奉行の内9人と誓書を交わし、最終的に家康が向島(京都市伏見区向島(むかいじま))へ退去することで和解する。

注1
堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、生駒親正(讃岐高松17万石)、中村一氏(駿河府中14万石)ら3名が三中老に任命されたとされるが、当時の資料には三中老という役職の事実は確認出来ておらず、五大老五奉行の中間職という位置づけにも疑問視する声は多い。

ある日、和解に向けて利家と家康が相互に相手方を訪問することとなった。
利家は息子の利長に、「秀吉は死ぬ間際まで秀頼様を頼むと言っていたのに、家康はもう勝手なことをしている、わしは家康に約束を守らせるために直談判に行く。話が決裂すればわしはこの刀で家康を斬る。もし、わしが家康に斬られたら、お前が弔い合戦をしろ」と言って伏見城に向かった(言経・利家夜話)。


徳川家康花押(茨城県立博物館蔵書接写)

戦国の大名にあって、これほど他の大名、武将に尊敬され、慕われた武将は居ないであろう。世に言う「傾奇者(かぶきもの=常識はずれの服装や行動で自分を誇示する者)」であった利家。しかし、その偉大さは、利家の没後、時を待たず天下人へ動き出した徳川家康の行動がそれを物語る。
若さ故、人生に悩み、世間から弾かれた落ちこぼれが、何をきっかけに生きる目的を見つけ出し、そして世の中を動かす影響力を備えるまでに出世していったのか。本編では、前田利家の人生に転機をもたらした重要な人物との「出会い」を追いながら、現代に悩める人々の道標となれば嬉しいことである。


かぶき者…現代風にはこんな若者!?(イメージ)

【生い立ち…プロローグ】
天文7年(1538年)戊戌(つちのえいぬ)戌年の生まれで幼名を犬千代という(天文6年の生まれとも、豊臣秀吉と同年齢(天文5年)の説もある)。誕生の地は、前田氏発祥の地と云われる前田城のあった尾張国海東郡前田村というのが速念寺注2の言い伝えであるが、荒子説注3も有力である。前田一族の勢力は、東は荒子、西は蟹江、南は一色までおよび、前田は勢力範囲の中心に位置している。
利家の父は前田利春(利昌)といい、永禄3年(1560年)に歿。母(長齢院)は竹野氏で天正元年(1573年)に亡くなったと伝わる。利家は六男二女の四男であり、前田家にあっては分家筋である。前田で生まれ、子供の頃に荒子に移ったというのが、速念寺で言い伝えているところである。

注2
速念寺:兜の形をした大屋根の寺。前田一族の本願寺である。寺伝によると、当寺はもと天台宗に属していたが、天文12年(1543年)、中興の意休法師の時、真宗に転宗した。意休は俗名前田利則といい、加賀公前田利家の叔父にあたる。本尊は利家が寄進した阿弥陀如来で、その蓮台には「聖徳太子御作、前田又左衛門尉利家」の銘がある。また、当地は前田氏発祥の地で、境内には前田古城跡の石碑がある。当時の前田氏は蟹江、一色、荒子を傘下に収めていた。

注3
荒子城:富士権現社の境内にある荒子城跡の立札には、「天文年間(1532年~1555年)」前田利昌(利家の父)が築城。その長男利久、四男利家、利家の長男利長が相次いで居城し、天正3年(1575年)、利家が越前北之庄(史実は府中説が有力)に移り、同9年(1581年)利長も越前の府中(現在の武生市)に移ったため廃城。
尾張荒子前田家:代々の当主は蔵人を称したことから前田蔵人家ともいわれる。前田与十郎家から前田利隆(利家の祖父)が尾張荒子に分家して興したとされるも、前田利昌以前の系譜は明確ではない。


富士権現社の利家誕生地の碑(名古屋市中川区)

後に秀吉の「猿」に対して「犬」と称されることもあるが、幼少期から身体も大きく、現代で言うガキ大将のごとき暴れん坊であったと伝わる(名古屋市中川区荒古町史他)。幼い頃は「うつけ(虚け=怠け者、呆気)」、青年期には「かぶき者」として、その自由で奇抜な感性は語り草となっている。

【出会いその1…織田信長】
前田家は尾張国守護代であった織田氏に仕えていた。
天文20年(1551年)、利家14才の時に、清州織田氏三家老(三奉行ともいう)の一つ、織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ=家臣団)で本家を凌ぐ勢力を持っていた織田信長の小姓に取り立てられる。「尾張の大うつけ(信長公記記述)」と呼ばれるほど奇異な存在であった信長と、「かぶき者」の利家との運命の出会いである。
その翌年、織田大和守家当主であった清州城主・織田信友は、織田信長配下の鳴海城主・山口教継の謀反に乗じて家老・坂井大膳の軍勢を信長領の松葉城・深田城へと差し向け、両城を陥落させた。これに対して信長は、那古野城からの本軍と守山城の織田信光の軍を合流して出陣。清州からも織田信友が出陣し、萱津(かやづ=現在の愛知県海部郡甚目寺町上萱津)の地で激突することになる(萱津の戦)。利家は信長軍に参加(初陣)し、首級ひとつを挙げる功を立てている(村井重頼覚書)。
当時の利家の着物等から、利家は六尺(180cm超)ほどの身の丈があったとされ、長槍(全長6.3mとの記録がある)の使い手でもあった。その後、元服した利家は、前田又佐衛門利家(又四郎、孫四郎とも:加賀藩資料)と改名し、槍の又佐衛門、槍の又佐などと異名を取るようになる。


前田利家公初陣の像(古屋臨海高速鉄道あおなみ線・荒子駅前)

弘治2年(1556年)、信長と、その弟の織田信勝による織田家の家督争いである「稲生の戦」に従軍し、敵方の宮井勘兵衛なる小姓頭に右目の下を矢で射抜かれながらも、その者を討ち取るという功績を上げた。また、永禄元年(1558年)、尾張上四郡を支配していた守護代岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争いである「浮野の戦」にも参戦し武功を挙げている。
浮野の戦のあと、信長軍に新設された赤と黒の母衣注4衆(信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊)の赤母衣衆筆頭に抜擢され、多数の与力を与えられた上に、録100貫の加増を受けるなど、信長自ら「肝に毛の生ず者」と言わさしめ、お気に入りとなっていく。


背に赤母衣、手には長槍の利家像(尾山神社:金沢市)

注4
母衣(ほろ):日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。ホロは「幌」「保侶(保呂)」「母蘆」とも書く。

信長という自らの姿を重ねても余りある武将に出会ってからというもの、血気盛んな利家の持て余すエネルギーを合戦の場で如何なく発揮し、武功を重ねていく利家。正に水を得た魚のごとく輝きを放っていたに違いない。
しかし、そんな利家を快く思うものばかりではないのも当然である。
永禄2年(1559年)頃(推定)、利家は事件を起こしてしまう。
信長に仕える同朋衆(お気に入りの茶坊主衆)の中で拾阿弥という者を、こともあろうに信長の目前で斬ってしまい、信長から勘気(激怒の様)を被り、織田家を追放されるのである(佩刀の笄(読意:はいとうのこうがい=髷結いの道具・利家正室のまつ(芳春院)からもらった笄で、芳春院実父の形見であるという)を盗み、一度は許されたが事に飽き足らず、度重なる侮辱を繰り返したと言われ、信長の面前で利家に斬殺された。世に「笄斬り」とよばれる事件)。
本来であれば信長に即刻成敗されるところ、信長家臣の柴田勝家、森可成(もりよしなり)らの嘆願によって出仕停止の処分で済まされたという。そして織田家を離れて浪人となった利家であったが、信長への尊敬と忠誠は薄れることは無かったようである。


これが笄(こうがい)(資料:シルクドパピヨン)

【出会いその2…柴田勝家】
永禄3年(1560年)、出仕停止中の身でありながら、信長の許可なく桶狭間の戦いに参戦し、朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てるも、帰参は許されなかった。翌永禄4年(1561年)、森部の戦いにも無断参戦する。このとき、斎藤家重臣・日比野下野守の家来で、「頸取足立(くびとりあだち)」の異名を持つ、足立六兵衛を討ち取る功績を挙げた(足立六兵衛以外にも首級1つを挙げている)。2つの首級を持参して信長の面前に出た利家。その戦功が認められ、信長から録300貫を加増されて450貫文となり、ようやく帰参を許されたのであった(信長公記)。
また、利家の浪人中に父・利春(利昌)が死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいた。しかし、病弱の上に世継ぎ問題が重なり、永禄12年(1569年)に信長から突如、兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられ、前田家領主となっている。
その後、織田家臣としての利家の活躍は目覚ましく、元亀元年(1570年)4月の金ヶ崎の戦い、6月の姉川の戦い、同年9月には石山本願寺との間に起こった春日井堤の戦いの他、天正元年(1573年)9月の一乗谷城の戦いなどにおいても戦功を挙げていく。
天正2年(1574年)、利家は柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の鎮圧、7月の長島一向一揆、同3年(1575年)5月の長篠の戦いに鉄砲奉行として参戦。同年、佐々成政、不破光治とともに府中10万石を与えられ、「府中三人衆」と呼ばれるようになる。越前国平定後は、柴田勝家与力として成政らと共に上杉軍と戦うなど、北陸地方の平定に従事しながらも、信長直参として荒木村重征伐(有岡城攻め)や三木合戦(播磨三木城攻め)に参戦した記録が残っている。


イメージ(資料:七尾市)

天正9年(1581年)、信長より能登一国を与えられ、七尾城主となり23万石を領有する大名となったが、翌天正10年6月2日、京都本能寺において主君信長が明智光秀謀反によって横死。柴田勝家と利家は、越後上杉景勝包囲の戦(越中魚津城攻め)の真っ只中であり、勝家が訃報を受けたのは6月5日であった。上杉討伐を佐々成政や前田利家らに任せ、居城(北之庄)へ戻ったのは6月16日。羽柴秀吉が中国大返しで山崎に戻り、明智光秀と雌雄を決してからすでに3日が経過していた。

天正10年(1582年)6月27日。織田家後継人を決める話し合いが重臣4人(羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興と柴田勝家)の合議によって行われ(清州会議)、勝家は後継に幼少の三法師(信忠の嫡男=信長の嫡孫・後の織田秀信)を推す秀吉と対立。
勝家の与力であった利家は、勝家に与したまま翌年、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いを迎えることとなる。

天正11年2月28日、雪解けを待ちきれず、前田利長を先鋒として出陣させ、続いて前田利家、佐久間盛政を、そして勝家自ら諸将率い、除雪をしながら北之庄城を出発した。勝家は、敦賀から木の芽峠を越えて近江に入り、刀根街道と北国街道を押さえる位置にある玄蕃尾城(内中尾山)に入城した。

同年4月16日。織田信孝、滝川一益が再び挙兵した為、秀吉は岐阜へ向かう。
4月20日、佐久間盛政が秀吉軍・中川清秀の守備する大岩山砦を急襲。この知らせを聞いた秀吉が、意表を突く早さで岐阜大垣から引き返し(美濃大返し)、大岩山砦の佐久間盛政に反撃を開始。秀吉軍の反撃の前に佐久間軍が敗れると、およそ5000の兵を率いていた前田利家が突如撤退。これを機に柴田軍主力部隊からは戦線を離脱する将兵が続出し、勝家軍は敗走。秀吉の勝利を決定付けるに至った。利家にとって、以前から親交深く、時の勢いで大きく勝る秀吉と、尊敬する信長の命により従した主勝家の、いずれに付くべきかの取捨選択は、結果として吉と出るのである。


イメージ(木之本町)

利家は越前府中城(現福井県武生市)に籠るが、敗北して北之庄城へ逃れる途中、府中城に勝家が立ち寄り、利家を責めるどころか、これまでの労をねぎらい、今後は前田家存続のために秀吉を頼るよう諭したという逸話が残る(日本合戦騒動叢書:現代語訳・賤岳合戦記 志村有弘)。
後に豊臣家中において絶大な信望を得る利家であるが、その資質の根幹には、柴田勝家によって授かった器量の大きさと武将としての生き様、死に様が大きく影響していると思えてならない。

【出会いその3…豊臣秀吉】
秀吉と利家の関係は特異なものである。信長全盛期の清州時代、両名の住居は隣同士であり、桃山時代に入っては向かい合わせに居を構えていたと云われる。秀吉が足軽であった頃から交流があった。天正2年(1574年)には、子のなかった秀吉夫婦に利家四女の豪を養女に授ける程の関係であり、秀吉と敵対関係になった賤ヶ岳の戦い終結後、秀吉に下った後も三女摩阿(まあ)を秀吉の側室とするなど姻戚関係も強かった。また、利家と秀吉は二人で灸を据え合う仲であったとも云われ、主従を超えた友人関係を、内密ではあったが続けていたという。
しかし、利家は秀吉を主君と慕っていたわけではなかった。
そもそも織田家小姓として仕えていた頃、秀吉は農家出の足軽一兵卒であったが、利家は尾張一帯の土豪の出身。かぶき者と言われた性格上、利家の身分感覚はフランクであったと思われ(尊敬する信長も実力主義者)、常人離れした世渡り上手の秀吉に対する興味と親近感が身分の違いを超えた友情を育んだのであろう。タイプの異なる良きライバル関係が構築されていったとして不思議はない。
その後、歴史の流れの中に在って、主君織田信長を失った後、明智光秀仇討を実現し、清州会議において織田家筆頭家老の柴田勝家を失脚させ、賤ヶ岳の戦いに勝利した秀吉の勢力は、利家のライバルというにはあまりに強大であり、同じく信長家臣として生きてきた利家ではあるが、すでに互いの道は分かれてしまっていたのである。


絶大な権力を手に入れた秀吉に…(イメージ:伏見城復元模型)

前述した賤ヶ岳の戦い後始末に際し、府中城に籠城した利家軍は、北之庄攻めを敢行する秀吉側追撃軍に街中より鉄砲を調達するなど準備を整え、4月21日未明に市街戦を戦っている(小川忠左衛門覚書)。秀吉は、堀秀政を使いに出し、利家との講和を図ったが、利家は、北之庄に人質注5がいるので拒絶したという(村井重頼覚書・利家夜話)。
実は、賤ヶ岳の戦いにおいて前田軍裏切りの陰に秀吉の諜略が存在しているとする説があり、「合戦がはじまったら裏切りを頼む。しかし貴下の心中は察している。ただ傍観してくれれば裏切りと同様に考える」と使者より伝えられたという。利家は「裏切りは困る。中立的態度をとる」と返事を返したとされる(川角太閤記)。
そのような知略に長けた秀吉のこと、旧知の仲とはいえ、今に至っては無条件で秀吉を信用することなど利家に出来ないのは当然である。
利家が警戒していると見るや秀吉は、軍勢を遠くに控えさせたまま、ひとり大手の城門に近づき、利家父子(利勝:後の利長)の安否を問う。さらに前田軍の戦死者をも問い、数人あったという返答に対し、「乱戦であったから致し方ない」と悔やみ、不審なく鷹狩の途中で友を訪ねての問答のごとき振る舞いで、城内に入った。城内では、先ず利家の妻(まつ)に会い、「今度の戦は利家殿が勝たせてくれた」と述べると、まつは秀吉の戦勝を祝した。続けて秀吉は、「これから北之庄へ向かうが、時が無いので戦上手の利家殿に道案内を頼みたい」との言葉に、まつは自らの身の心配は無用と言い、「利勝もお供せよ」と申しつけた。
さらに利家父子と歓談して、湯漬けを所望するなど、少しも敵の敗将に対するといった気配を見せなかったという(川角太閤記)。


北之庄城祉に建立されたお市の方慰霊碑(柴田神社)

注5
この時の人質とは、天正10年(1582年)、11歳で柴田勝家・家臣の佐久間十蔵と婚約し柴田家に入った摩阿姫である(後に秀吉の側室となる)。北之庄で勝家、お市の方(勝家の正室)に殉じて十蔵も自害するが、摩阿姫は利家の元へ帰されている(村井重頼覚書)。

【人生の転機は人にあり…エピローグ】
前田家の財務決済は全て利家自身が行ったと云われ、利家愛用の算盤(そろばん=中国から伝わってきたそろばんは、当時まだ普及しておらず、使いこなす人は少なかった)家宝として残っている。
利家は笄斬りによる2年余りの流浪生活で、金の大切さを、身をもって知ったといい、晩年には「金があれば他人も世間も恐ろしくはないが、貧窮すると人も世間も恐ろしいものだ」と常々口にしていたという。利家のこのような性格が、その後の前田家の財政の健全維持に繋がったのであろう。

若いころ、うつけ、かぶきと揶揄され、我物顔で城下を闊歩していた乱暴者が、信長という生涯を賭ける主君を得て自らの道を見つけ、秀吉や佐々成政などのライバルと出会い、柴田勝家というある種戦国一の優れた武将に縁あって与し、晩年には自らの分を悟り秀吉に臣従し、豊臣家No2の筆頭家老にまで上り詰めた利家であった(本編では触れなかったが、正室まつ注6との出会いもまた利家の良縁であったことは言うまでも無い)。
彼の人生には常に出会いがあり、その出会いを一期一会に留めることなく、自分の身に置き換えて思考し、そして次のステップへと突き進んでいく利家であったからこそ、戦国時代で最も信頼厚き律儀者としてその名と影響力を残したのである。斯様な利家の生き様は前田家の遺産として世代を繋ぎ、加賀百万石の大大名として発展を遂げたと云われる。


加賀百万石の象徴・金沢城祉(資料:石川県金沢城公園)

注6
まつ (芳春院・ほうしゅういん)
前田利家の正室で、天文16年(1547年)尾張国海東郡に生まれる。利家とは従兄弟で、永禄元年(1558年)、12歳で利家と結婚し、2男9女をもうけている。生涯、利家を支え、前田家に尽くした。利家の領国支配を確立した末森城の合戦の際には、「末森の城が落ちたら生きて帰るな。その時には、私も諸将の妻子とこの金沢城に火を放ち自害しよう」と利家に言って、激励したという。
元和三年(1617年)、金沢城で没し、野田山に利家と共に葬られている。享年71歳。


利家とまつ(イメージ:小丸山城公園銅像・七尾市)

今は未だ世間に背を向けて粋がっている若者たちの誰にも、人生を大きく左右する「出会い」が必ず来る。それを自身のアンテナでキャッチし、どう自分に置き換えて考えることが出来るかが、その後の生き方を決定するのだ。是非、利家に学び、そして道を開いて欲しいと願う。

参考文献:
・岩沢愿彦「前田利家(新装版)」(吉川弘文館、1988年)
・花ヶ前盛明編「前田利家のすべて」(新人物往来社、2001年)
・フロイス「日本史」(完訳フロイス日本史 中公文庫、2000年)
・中川太古訳注「信長公記」(新人物往来社、2006年)
・高柳光寿「戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い」(学習研究社、2001年)
・志村有弘訳「川角太閤記」(日本合戦騒動叢書、勉誠社)
資料:
・「信長公記」
・「村井重頼覚書」
・「言経・利家夜話」
・「川角大公記」「小川忠左衛門覚書」他