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女不動産屋 柳本美土里

高架をくぐり、通過する駅のプラットホームが飛ぶように過ぎると、いっきに視界が開け、青色の景色が目に飛び込んできた。
海にかなり近いのだろう、4人掛けの椅子から見える車窓には凪いだ瀬戸内海だけが映り、まるで海の上に掛けられた橋の上を電車が走っているようだ。
隣に座る5歳になる長女の桜は、短い旅に疲れたのか頭をこちらにもたせかけて寝てしまっている。

大学に入る長男の教育費がかかるだの、ガソリン代が上がっただのと、法事の後に必ず言う兄のいつもの愚痴だと思っていた。
いつもと違ったのは、誰も住んでいない実家の固定資産税の通知書を出してきたことだった。
なぜ、固定資産税の通知書を持ち出してまで愚痴ったのだろう?
「あっ!もしかして、そういうことか」
思わず声を上げそうになり、美智子の奇妙な態度の変化に気付いた乗客が、こちらに怪訝な顔を向けているのではないかと、車内を見回した。
スマホでゲームに興じる姿、イヤホンで音楽に聞き入っている姿、幸いにも多くの乗客は目線を手元に落とし、他人のことや車窓の風景などに気を向ける人はいないようでホッとした。

私ってなんて鈍感なのだろう、きっとあれは兄の精一杯の主張だったのだ。

昔から兄は、遠慮がちな性格だった。
あまりにも遠まわしにしか自分の気持ちを表さない兄に、イライラさせられることも多く、そのために、よく兄妹喧嘩をしたものだった。
いや、兄妹喧嘩をしているというよりは、周りから見ると美智子が1人で兄に怒っているようだったのだろうけれど。
年齢を重ね、兄の性格を把握するようになると、兄の小さな心の声にも気が付くようになっていたのだが、それぞれが家庭を持ち、会う機会も減ってくると、研ぎ澄まされていた能力も錆びてしまうということなのかもしれない。

父が亡くなり、独り暮らしになった母が他界したのは2年前だ。
それからの実家といえば、兄が時々換気をしたり庭の草抜きをしたりする程度で、空き家となっていた。
財産と呼べるほどのものは何も残さずに逝った両親が、唯一残したものが実家の一戸建てなのだが、建物は既に建築後30年を越えており、財産という認識もないまま、そのうち兄が手を入れて兄の子どもが住むことになるのかな?というほどにしか思っていなかったのだが・・・
兄は私とともに実家を共有しているつもりなのかもしれない。
きっと、そうだ。
だから、固定資産税の通知書を出してきて、これだけの金額が負担になっているから半分くらいは支払って欲しいという意味だったのだろう。

まだ目が覚めきっていない桜を促し、海水浴客で混雑するプラットホームへ降りると、反対方向へ向かう電車に飛び乗った。
ここからなら30分もあれば兄の家に戻ることができる。
顔を見ながら話をしないといけない。電話では、兄の本音を知ることは出来ないのだ。

さっき、出て行った家にまた戻るのは、なんとなくバツが悪い。
扉の前で躊躇しているところに、玄関のドアが開いた。
「あら、美智子さん、どうしたの?忘れ物でもした?」
兄嫁の良子に不意を突かれて、美智子は玄関先で固まった。
「いいえ、忘れ物じゃないんです。ちょっと話をしておかないといけないことがあったような気がして・・・」
なんだか言い訳めいた言葉を発し、兄嫁に促されて美智子は再び玄関から家に上がった。

兄は、ほんの少し前と同じ姿勢で客間で新聞を広げていた。
「美智子か?どうした?」
どうしたじゃなくて、兄さんの方こそ言いたいことがあるんでしょう?
口からそう出そうになるのを堪えて、美智子は平静な口調に努めた。
「実は実家のことなんだけど・・・」
そう水を向けると、やっと気付いてもらえた嬉しさと安心からか、兄は唇の間からわずかに溜息を漏らしたようだ。
「うん、それで?」
「実家のことなんだけど、兄さんはどうするつもりでいるの?」
「私は、てっきり兄さんが住むか、将来は孝司君が住むのかと思っていたんだけど・・・」
そう言っても何も答えない兄の目を覗き込むと、庭の方を眺め、否定の気持ちを暗に示しているようだ。
ほんと、面倒くさい人だ。

「もしかして、親の財産だから、実家について私にも権利があると思っているわけ?」
「そりゃ、そうやろ?法律的には、2人で半分ずつ相続するってことになっているらしいし」
兄は、やっと重い口を開いた。
「確かにそうかもしれないけど、私は嫁に行った立場だから、当然に兄さんが実家も継ぐものと思っていたんだけど・・・」
「兄さんか孝司君が実家に住むのなら、べつに権利を主張しようなんて思ってないんだけど」
「でも、継ぐって言ってもなぁ・・・」
兄は、10年前に実家の隣町に建てられた一戸建てを新築で購入しているので、住宅ローンも残っている。
今より交通の便が悪く狭い上に、築後30年以上経っている古家に移り住むことはありえないようだ。
そうなると息子が結婚してから住めばいいようなものだが、その頃には、本格的に建て替えをしないといけないくらいの建物になっているだろう。
それに、卒業してから就職した会社が転勤のある会社だったら、この地にとどまることはできないだろうし、ましてや結婚ともなると、何年先のことになるのかもわからない。
そんな可能性の低い将来を見越して、いつまでも固定資産税を払い続けて空き家にしておくことはできないと言う。
たしかに、兄の言うことはもっともだ。

「美智子のところが引っ越してきたらどうや?」
よくも簡単にそんなことを言ってくれるものだ。
都会のマンション暮らしに慣れているのに、わざわざ田舎に引っ込むなんてゴメンだ。
第一、せっかく頑張って桜をエリート幼稚園に入園させたのに、転園させるなんてできるわけがない。
「そんなの無理に決まってるわ。だったら、いっそのこと売ってしまったら?」
兄は、腕組みをした。
「そうは言っても、父さんと母さんが無理をして買って、子どもの頃から僕らが育った家なんだぞ」
この人って、そんなセンチメンタルだっただろうか?
そりゃ、安月給の父親と食品加工工場にパートに行っていた母親にとっては、建売り住宅でも購入し住宅ローンを払っていくのは大変だったに違いない。
実家に帰ると、ちょっとは懐かしい気持ちになるけど、ゴキブリがよく出ていた台所や脚を折った姿勢でないと入れないほど小さな浴槽など、手放しても惜しいと思えるような代物ではないのに。

兄は腕を組んだまま黙っている。
この人、本当に考えているのだろうか?単に、考えているふりをしているだけに見えるのだが・・・
他の方法としては、貸家として誰かに借りてもらうという手もありそうだが、そうなると、いろいろ手を入れないといけないだろう。
「もういいでしょう、売れるものなら売りましょうよ。持っていても固定資産税がかかるばっかりだし」
そこでようやく、組んでいた腕をほどき、兄はしぶしぶ首を縦に振った。

「でも、あの家の名義は親父のままだけど、売るのに大丈夫なのか?」
「さあ、そんなことは私にはわからないわよ」
兄はまた腕を組んで考え込んでしまった。
知らないことをいくら考えても、答えは見つからないではないか。
調べるか、知っている人に尋ねるしかない。
兄の態度に、美智子は苛立ちをおぼえた。
「わかったわ。じゃあ私が調べるから、いいわね」
美智子は、すっかり冷めてしまったお茶をいっきに飲み干すと席を立った。

「ねえ、あなた、私の実家の家を売ろうという話になっているんだけど、名義が亡くなった父のままなの。それって、そのままで売れるのかな?」
夫はビールの入ったグラスを持ったまま、テレビのプロ野球中継に釘付けになっていた。
「うん、ちょっと待って」
そう言ったすぐ後に、テレビから歓声があがり、ホームランを打たれてうなだれるピッチャーが画面いっぱいに映し出された。
「あ~あ、今日も負けやわ」
天井を仰ぐと、夫は勝負の行方も見ないうちに、他の局へとチャンネルを変えた。
「ところで、何の話だったっけ?」
やっと聞く姿勢になったようだ。
「私の実家のことだけど、売れるなら売ろうという話になっているんだけど、名義がまだ死んだ父親のままなのよ。それって、どうしたらいいのかしら?」
手に持っていたビールを飲み干すと、グラスをテーブルに置いた。
「たしか不動産の名義変更は司法書士の仕事だったと思うけど。でも、会社の同僚の父親が亡くなったときに、不動産の登記変更をしたって話を聞いたことがあるけど、戸籍謄本を取り寄せたり、結構面倒な話だったように思うけど」
「えっ、そうなの?それって、そのままで売ることはできないの?」
「どうだろう?そいつの場合は名義変更をしただけで、売ったわけじゃないからなあ。今度、聞いておいてやるよ」
そう言うと夫はグラスにビールを注いだ。

「おまえ、たしか以前に相続で家の名義変更をしたって言ってたよな?それってどうやったんや?」
社員食堂でカレーライスを頬張っている大竹を見つけた健太は、隣の席に座り訊ねた。
「ああ、あの手続きは司法書士の先生にしてもらったんや」
「司法書士の先生って、おまえそんな知り合いいたんか?」
「いやいや、そうやない。あの家を貸し出すことにしたときに世話になった不動産屋さんが紹介してくれた司法書士の先生や」
なるほど、相続して家を貸家にしたのか。
「そういえば、あの不動産屋さんが相談会を開くって言っていたから、その相談会に行って相談してみたらどうや?」
「ちょっと待ってや」そう言うと、大竹はポケットからスマホを取り出し、ポチポチと打ち出した。
「これこれ」
突き出したスマホの画面には、不動産相談会の日時と場所が記載されていた。
「なんなら、俺から連絡してやろうか?何時からなら行ける?」
健太は時間を指定して、大竹に相談会の予約を依頼した。

「いらっしゃいませ。相談会にお越しいただき、ありがとうございます」
一緒に話を聞いたほうが決断も早くできるし、美智子が説明する手間も省けると思い、兄夫婦にも来てもらうことにした。
4人を迎えたのは、背の高いモデルのような美人と少し気が弱そうな小太りの男性だ。
男性よりも女性の方が少し年長か?
すらっと伸びた細長い指で渡された名刺には、「柳本不動産 代表取締役 柳本美土里」と書かれている。
この女性が社長なんだ。
受付の女性かも?と思っていた一同はちょっとビックリした。
「えっ、社長さん?」
健太が思わず、声に出して言ってしまった。
「はい。一応、柳本不動産を経営させていただいています」
「女性なのに不動産会社の社長なんですか?ってよく驚かれます」
「いえいえ、そういう意味じゃないのですけど」
それに続く、綺麗な女性が不動産会社の社長さんとは思わなかった、という言葉は横にいる妻の手前、言葉にすることはなかった。
健太は冷や汗を拭いながら席に腰を下ろした。

主に応対してくれたのは、河野という小太りの男性の方だ。
こちらも、相続人の1人である美智子が話をすることにした。
「では、奥様のご実家が空き家になったので売りたいということですね」
「ええ、そうなんですけど、名義がまだ亡くなった父のままなんです。そのままでも売れるんでしょうか?」
「はい、相続人全員の同意があれば売れますよ。でも、買主さんが現れて、最終的に所有権移転するときには、相続登記をして、相続人の名義に変えておく必要がありますが・・・お母様はおられるのですか?」
「いえ、母も2年前に亡くなりました」
「そうですか。ということは、お兄さんと美智子さんのお二人だけが相続人ということですね」
「でも、戸籍謄本を準備したりって、面倒なんじゃないんですか?」
健太が以前に大竹から聞きかじった話を、ぶつけてみた。
「そうですね、相続登記をするためには戸籍謄本も必要ですけど、それは司法書士の先生が職権でとってくれますから心配ないですよ。売却は名義が変わってなくてもできますので進めておいて、その間に相続登記をしてもらったらいいんじゃないですか?」
思っていたよりも、相続登記って簡単にできそうだ。

横から、美土里が口を開いた。
「相続登記って、買主が現れてから所有権移転をするときに同時にすることもできるのですけど、戸籍謄本をとったりして調べていくと、実は相続人が他にもいた、なんてことが、うちが取り扱った件でもあるんですよ。例えばお父さんに認知をした子どもが他にいたりして・・・そうなると、その現れた相続人にも遺産分割についての承諾をもらわないといけないので、面倒な話になったりするんです。万一、そんなことになって慌てないように、早めに相続登記の準備はしておいた方がいいでしょうね」
そんなドラマみたいな話が実際にあるのね。
でも、あの父に限ってそんなことは、あるわけないわ。

「では、いくらくらいで売れるのか?査定をしてみましょう」
河野は美智子の持ってきた資料を基に、パソコンを覗き込み、電卓をたたいて数字を計算した。
実家の近くで実際に成約した事例などを指し示し、そこから査定額の計算方法も丁寧に教えてくれた。
「・・・なので、600万円くらいになると思われます」
いくらでも売れればいいと思っている。
このまま持っていても、固定資産税がかかるばかりなのだから。
でも、売ったら売ったで、税金がかかってくるのでは?
美智子は、そんな疑問が頭に浮かんだ。
「売ったとして、税金はかかるんですか?」
「そうですね、昭和55年当時の売買契約書を見せていただくと、600万円で売ったとしたら、買ったときよりも値下がりして売るように思われますけど、建物については、減価償却といって使用してきたわけなので、その分の利益があったとみなされるんです。なので、減価償却分よりも土地の値下がり分が大きければ、売却損がでるということになりますので、税金はかかりませんが、その逆で、土地の値下がり分よりも建物の減価償却分が大きければ、売却益があったとして税金を支払う必要があります」

「それって、どれくらいなんですか?」
河野は、また電卓を叩いた。
「そうですね、ざっくりとですが、40万円くらいになりそうですね」
そうか、そんなに税金を支払わないといけないのか。
でも、固定資産税を支払いながら持ち続けても、この先、値上がる見込みなんてないだろうし、さっさと売った方がいいわよね。
そう考えている美智子の目の端に、美土里が首を傾げているのが見えた。
傾けた頭の中にある情報をなんとか引っ張り出そうとしているみたいだ。
「河野君、ちょっと待って」
そう言うと、美土里は美智子の持ってきた資料を捲りだした。

「建物は昭和55年築ですよね。で、相続してから誰も住んでいない・・・」
美土里は独り言のように呟いた。
「この平成7年の年末に行っている改装工事って、もしかして耐震補強工事ですか?」
美土里の目が光った。
「ええ、わずかに増築もしましたけど、その年の初めにあった地震で怖い思いをして、壁とかに少しひびが入ったりしたものですから、この際に地震に強い家にしようと、壁をとっぱらって補強してもらったように思います。え~っと、たしかこの見積りの最後に、その図面もあったように思うんですが・・そう、これこれ、これが工事をした箇所の図面です」

その図面を手にして、美土里は何度も頷いた。
「たぶん、これなら売却益が出ていたとしても、譲渡税は支払わなくていいかもしれませんよ」
「えっ、それって、この工事が関係しているんですか?」
美土里はニッコリと笑った。
「はい、そうなんです。この4月から、空家対策のひとつとして、一定条件を満たした空家については、譲渡益があったとしても、その課税価格から3000万円を控除した残りの金額についてのみ譲渡税がかかるということになっているんです」
「つまり、一定条件を満たすと、不動産を売って儲けた金額が3000万円以下であれば、税金がかからないってことなんです」
「で、その一定条件って、どんな条件なんですか?」
「はい、それは、こういった条件なんです」

  1. 1981年5月までに建てられた一戸建て住宅
  2. 亡くなった人が一人暮らしをしていて空き家になった
  3. 相続発生後、住んだり、貸したり、事業に用いたりしていない
  4. 相続発生から3年後の年末までに売却
  5. 建物を解体するか、新耐震基準を満たすように改修して売却
  6. 売却価格が1億円以下

「お聞きしていると、全ての条件にあてはまりそうなので、この“相続をした空家の3000万円の特別控除”が利用できそうなんです。であれば、譲渡税はかからなくなりますから」
「でも、新耐震基準を満たしているかどうかというのは、どうやって証明したらいいんですか?」
「はい、新耐震基準に適合するかどうかは、建築士の先生に耐震の調査をしてもらって適合証明書という書類を作ってもらわないといけないのです。先生によって値段は違いますが、費用はそんなに高くはないでしょう。もし40万円くらい譲渡税がかかるのだとしたら、やる価値はあると思います」
「なんと!」
健太と美智子、そして兄夫婦は互いに顔を見合わせた。
お金にこだわっているわけではないが、合法的に税金の支払いを逃れることができるのなら、それに越したことはない。
税金のこともこんなに詳しくて、こちらにとって有利な方法を検討してくれる不動産屋さんなら、任せても安心だろう。
それまで、じっとやりとりを聞いていた兄が口を開いた。
「じゃあ、売却をお願いします」

「はい、承知しました。それでは、ご売却の依頼をいただくための書類のご説明をさせていただきます」
美土里がそう言って河野に目で合図をすると、河野が書類をテーブルに出し、説明を始め、売却依頼の手続きは完了した。
「ありがとうございました」
「どうぞ、よろしくお願いします」
そう言って相談会の会場を出ると、少し日差しの和らいだ透き通る青空を背にした兄の足取りが軽くなっているのが美智子にはわかった。
「兄さんたら売却依頼をしただけで、もう終わったみたいに安心しちゃって」
美智子は可笑しくて、笑いだしそうになるのを堪えているのを兄嫁に見つかり、美智子の笑いの原因に勘付いた兄嫁と視線が合うと、思わず吹き出してしまった。(完)

※税金の計算や申告等につきましては個別の状況により異なりますので、専門家にご相談の上で行ってください。

このドラマはフィクションであり、実在の団体や個人とは何の関係もありませんので、ご承知ください。