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ラビットプレス+6月号


小田原城(イメージ:資料提供・セントラル警備保障)

6月12日放映のNHK大河ドラマ「真田丸」第23話「攻略」を視聴された方も多いと思うが、高嶋政伸が演じる北条氏政の唸るような呟きに耳を疑った。

「伊達さえ来てくれたら…」

当主北条氏直と側近の多くは、豊臣に対する降伏を最良の策として進言し、父である氏政(御隠居様)の決断を急がせていた。

焦燥の色濃く、恐怖のあまり風呂に入ることも出来ずにひたすら打開策を思い巡らせる氏政の描写は、三谷脚本によって表現されているフィクションであるが、このとき氏政が置かれた状況で、伊達正宗の援軍を本当に期待していたのだろうか?
北条家滅亡へのシナリオについては、歴史学者等における通説、すなわち、秀吉の力量を見誤り、徳川、伊達に過度な期待を寄せたため上洛の期を逃し、八方ふさがりの状況を招いてもなお小田原城開城の決断が下せなかった政治力の欠如による結果であるという。
しかし、本編では歴史的重要度の高い第一次資料の分析は当然のことながら、凡庸とは決めつけ難い(そのような研究成果も多い)氏政、氏直親子の半生、小田原北条氏の歴史を踏まえ、彼ら親子が秀吉への臣従を最後まで拒んだ真意を見つけることを執筆の目的としたい。名門小田原北条家滅亡が眼前に迫るその時、氏政の脳裏に何があったのか。その思いが現代に生きるリーダー達に何を伝えるのか。


小田原城攻め包囲図解(小田原城歴史見聞館)

【北条氏政の生い立ち】
後北条注1第3代当主・北条氏康の次男(長男・新九郎が早世したために世子となる)。甲相駿三国同盟(天文23年・1554年)が成立した際に、武田信玄の娘・黄梅院を正室に迎えた。後に父・氏康の隠居により、後北条家第4代当主となるが、氏康はそのまま実権を握り、両頭体制とした(以下北条と記す)。

それから後、上杉謙信や関東諸将との戦いで各地を転戦し、永禄4年(1561年)小田原城の戦いでは、氏康のもとで小田原城に籠城して上杉軍の撃退に成功。第二次国府台合戦(永禄7年・1564年)では、北条綱成と共に南総の里見氏の背後を攻撃して勝利し武蔵の国を支配。その後も、上野の由良成繁・佐野昌綱・北条高広らが氏政に帰順し、上野一帯に勢力を拡大していった。
しかし、三船山の戦い(永禄10年・1567年)では上総の奪還をねらう里見氏を迎え撃ったが敗北し、上総での支配権を失っている。

翌年、武田信玄の駿河侵攻(永禄12年まで続く)が開始されると、信玄とは手切れとなり(正室・黄梅院と離縁)、上杉謙信と越相同盟を締結。同年、武田軍の小田原城包囲では氏康とともに籠城戦で撃退。敗走する武田軍を追撃した三増峠の戦いでは、弟の氏照・氏邦隊と挟み撃ちを試みたが、自らの遅参により失敗した。

父・氏康の死(元亀2年・1571年)を境に実質的な氏政政権となり、氏康の遺命に従って武田と甲相同盟を復活させ、上杉との越相同盟を破棄する。その後上杉派大方の勢力を関東から一掃し、宿敵であった里見氏とも房相一和で和睦(天正5年・1577年)した。

一方、上杉家に養子となっていた弟・景虎が上杉景勝との後継者争い(御館の乱、天正6-7年・1578-79年)の末敗死。武田との甲相同盟を破棄し、徳川家康と同盟を結んで駿河の武田領を挟撃した。天正8年(1580年)3月、時の勢いを読み、織田信長への臣従を示した結果、信長より隠居を命ぜられ、嫡男氏直に家督を譲り、父・氏康と同様に自ら実権は掌握しつつ隠居したのである。この時、氏直19才、氏政43才であった。


天正2年上杉攻撃諸注意の氏政書状(神奈川県立歴史博物館蔵)

注1
後北条氏は、平氏の流れを汲む室町幕府の御家人である伊勢氏の伊勢新九郎盛時が、関東へ下向し、小田原を中心に勢力を伸ばした際に、新しい氏を名乗ったことに始まる。正確には、「北条氏」だが、鎌倉時代の執権「北条氏」とは血縁関係にないため、後世の歴史家が「後」をつけて呼ぶようになった。

【北条家初代当主・北条早雲】
北条家の滅亡を語るとき、戦国時代中後期に焦点を当てた氏康、氏政から氏直の諸行と、小田原征伐に至る史実に基づく検討がなされ、特に氏政個人の人物像とその力量が晒される。これは江戸時代に盛んに出版された軍記物(北条記、北条五代記、佐久間軍記など)に登場する凡庸な氏政像が定着し、秀吉発給の条書(天正17年11月24日の宣戦布告状「北条文書」)によって歴史学上も確立されている。
しかし、歴史教科書上戦国時代と位置付けられる100年ほどの間、その端緒は室町幕府が衰退する契機となった応仁・文明の乱(8代将軍足利義政の継嗣争いに端を、複数の要因が絡んで発生し、室町幕府管領の細川勝元と室町幕府侍所所司(頭人)の山名持豊(出家後山名宗全)ら、当時の有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した内乱)以降顕著であり、室町足利将軍など中央権力と一線を画し、守護公権の有る無しに関わらず、国内(領国、分国)を独自に統一する力が台頭してきた権力集団の御屋形を戦国大名と位置付けるが、その先駆的存在が北条家初代当主となった伊勢新九郎盛時(早雲)である。


北条早雲像(小田原駅前)

康正2年(1456年)備中国高越城で出生(享年64才説・1432年生誕説もある)し、足利義視の近侍を経て幕府申次衆・奉公衆となる。
早雲の関東下向は、駿河(現・静岡県西部地方)守護である今川氏に嫁いだ姉(または妹の説あり)が、嫡男(龍王丸、後の今川氏親)を産んだことによって今川氏との結びつきが強固になり、その家督争いの調停のため、駿河へ下向。32才の時、興国寺城(現・静岡県沼津市)の所領を与えられ、駿河に駐留し、今川氏の家臣として甥である今川氏親を補佐した。また、幕府に叛いた堀越公方足利茶々丸を滅ぼし、伊豆一国を支配下に入れている。その後、相模小田原(現・神奈川県小田原市)の小田原城を領有し、60才で相模国全域を支配するに至ったあと、嫡男氏綱(北条姓を称するのは大永3年・1523年に改姓した氏綱からである)に家督を譲り、64才で没。相模国の中心である小田原城は、代々の北条氏の本城となった(早雲は、終生伊豆の韮山城をその居城としている)。
早雲は、伊豆・相模全域を領有したが、室町幕府から正式な守護と認められてはおらず、幕府の正式な許可なしに領国支配を治めた武将を戦国大名と呼び、確かに早雲はその嚆矢(こうし=先駆け)であったとされる。

早雲は、「早雲寺殿廿一箇条」という家法を定めたとされ(諸説あり)、後の分国法の祖形である。永正3年(1506年)に小田原周辺で指出検地(在地領主に土地面積、年貢量を申告させる目的で行った検地)を実施している。戦国大名による検地として最古の事例である。また、晩年に印判状を用いるようになり、印判状のない租税徴収命令は無効であるとし、郡代や代官による百姓・職人への違法搾取を止める体制が整えられたと云われる。


小澤富夫著(ぺりかん社:Amazon.com)

【分国法】
分国法は、分国統治のために大名権力(公儀)によって制定された恒久的な一国平均の集成法である。その形態は、地域性や家柄などが反映され、家法的なものから法典的なものまで実に多様に作られた。
戦国大名は、集落・農村を形成する中小土豪を配下に統合することによって広範囲の地域を統括支配するものであったから、それぞれの所領の境界の所有権争いや内争、年貢等に関する規定も多く、領内で商業の発達した地域では、債権・債務関係の調停が盛り込まれていたりもする。また、領内秩序の維持のためには、朝廷や幕府に代わる強い上位権威としての役割が下位の中小勢力からも求められ、刑罰や喧嘩両成敗等の量刑が規定され、名目だけではなく実効力の伴ったものとなっている。

法律は一般的に二つに分けられる。
一つは成文法で、もう一つは不文法(不文律)である。成文法は一定の手続を経て制定公布される法で、不文法は慣習的または過去の事例を引いた文字化されていない判例法である。
北条氏は、個別の判例法を国法として位置づけ、家中及び百姓・町人に至るまでお屋形様(国主)の上位下達を厳守させた。
また、幕府将軍家(足利家)並びに古河公方と同様に自ら分国の公権力の象徴として「公方」を称し、公権力の正当性を判例に於いても誇示させた注2のである。

注2
弘治2年(1556年)8月10日、武蔵小机城主・北条三郎に宛てた条目で、氏康自身の権力を「公儀」宣言している。また、小田原評定衆の訴訟判決文にも「公儀」と書かれている。

また、北条氏の定書にはすでに「御軍法」と記されており、鑓(やり)や甲冑の戦仕立てについての規定から、籠城戦準備のための法度、軍役(軍役人数や禄高別の戦闘装備基準)などが細かく規定されている。


天正7年の判決書北条氏印判状(資料:川口市立文化財センター)

上記のように、小田原北条家は幕府や朝廷の中央集権政治から離脱し、領国内における独立した国家観形成が見られ、早雲の理想国家建立理念が氏綱、氏康そして氏政へと受け継がれていくのである。

【絶対君主制と合議制…小田原評定の本質】
《小田原評定=豊臣秀吉の小田原征伐のとき、北条方の和戦の評定が容易に決定しなかったところから長引いて容易に結論の出ない会議・ 相談(大辞泉)》
これは故事成語として無駄な会議を揶揄するときに使われているが、その使用の出所は、享保11年(1726年)成立の「関八州古戦録」で、その後の「松屋筆記」、「管窺武鑑(越後史集 上杉三代軍記集成)」など、この三巻をもって故事のような通説が浸透していったと言われている。

実際には、北条氏評定衆(家老職の重臣)による合議制の原型であり、北条家では原則月2回開かれた行政機構である。これによって北条家は絶対君主のトップダウンではなく、重役たちの意見集約として会議結果を尊重する仕組みを早期に実現しており、これらがため五代続けて重臣等から裏切り者を出さなかったし、各当主の兄弟等との争いも皆無に近かった。所謂北条氏の結束の固さの根源と評価されている。


秀吉が関東の北条氏直にあてて発した宣戦布告状(笠岡市蔵)

天正17年(1589年)11月23日付、秀吉からの条書(宣戦布告状)を受け、天正18年1月、出撃か籠城戦を敷くかで評定が開催された。ここでは籠城が採択され、同年6月の評定では、降伏か最終決戦かが議論されて、降伏を氏直が決断している(天保8年・1841年成立の「改正三河後風土記」による)。
時間的経過から見れば、最終的に降伏し開城するのであれば、一年前に上洛しておけばよかったものを、と憐れむことも当然である。二つに一つの答えがことごとく北条氏滅亡に繋がる選択であったがため、氏政、氏直の凡庸さと小田原評定の弊害が後世に残ったのである。

【上洛拒絶…そのとき氏政が動かなかった理由とは】
本編に於いて、北条家初代当主・早雲の実績を紹介したのは他でもない、北条家滅亡に繋がる大きな岐路に立つ氏政、氏直他北条家重臣(氏照、氏邦、松田憲秀、大道寺政繁など)の面々に流れる北条早雲の精神ともいうべき家訓が存在したからである。

戦国大名による分国の法制定の先鞭を付けた北条早雲は、その「早雲寺殿廿一箇条」の14条で領国領民に対する家臣の応対について次のように訓示している。
一、上下万民すべての人々に対して、言半句たりともうそをいうようなことがあってはならぬ。いかなる場合でも、ありのままに申しのべることが大切である。うそをいっていると、それが習慣となって、ついには信用をも失ってしまい、物笑いの種となるのである。己れがいった言葉について信が置けず、他人から聞きただされるようになっては、一生の恥と考えて、かりそめにもうそはいわぬように心掛けなくてはならぬ。

氏政、氏直の代に在っては凡そ100年も昔の先祖の遺訓である。
早雲が駿河へ下向し、堀越公方(足利茶々丸)を討伐した後、相模、伊豆を領国として建国を試みたのは前述のとおり中央政権からの離脱であり、地方分国を主体とする新しい政治(現代なら本意の地方分権というべきか)の確立である。早雲は足利幕府=中央集権的統治機構の地方に対する脆弱さを悟り、これからは当主の目の行き届く範囲を領国とする地方自治こそが主流であると信じていた。だから、自身の没後、僅か数十年で再び且つ本格的に天下統一を掲げる織田信長や豊臣秀吉が世に現れることなど思いもよらなかったであろう。
そのことは時を経てなお、氏政の政治感覚にも色濃く表れており、早くから信長の趨勢を見極め、姻戚関係を嘱望した事実も、実のところ織田家と共に天下統一を目指すことへの臣従の証しなどではなく、領国への侵略を回避するための同盟関係であり、自国を戦火から守ることを最優先としていたのではなかったか。それは、小田原北条氏の歴史が、隣接大名との同盟の歴史注3であることを見れば自明である。
従って、秀吉の勢力や軍事力等を甘く見て、危機意識が欠如していたのでは決してない。その証拠に、秀吉との関係に緊張が見えだした天正15年(1587年)氏政、氏直は小田原本城の堀と土塁の惣構約9キロメートルに及ぶ造営を開始し、秀吉侵攻に備えた大掛かりな対策を早々に講じているのである。


町全体を土塁・空堀で囲んだ「惣構」の遺構(小峯御鐘台下の大堀切)

注3
駿河今川、後に徳川、甲斐武田家、越後山内上杉家、南総里見家など、隣接大名家との同盟は時勢によって締結と破棄が繰り返されてきた(三国同盟、越相同盟、甲相同盟など)。

室町時代後期の「節用集(国語辞書)」に「天下は一人の天下に非ず、すなわち天下の天下なり」の文章が登場している。中国周の太公望の選集と言われている兵法書の「六韜(りくとう)」からの掲載であるが、日本の戦国時代の辞書に「天下」の文字が登場していることは注意すべきである。
現代語訳としての天下は、一国全体や国家全体を表すが、戦国時代における天下は主に朝廷=京都を中心とする五畿内を指していた注4。室町幕府、将軍家は「天下再興」という言葉を多用したが、これも京都における将軍政治の復興を意味していた。

注4
スペイン人貿易商アビラ・ヒロンの「日本王国記(1619年)」には「五畿内と呼ぶ天下の五つの国を支配し、中略、天下の絶対的な領主で、全国王の最大権力者」として三好長慶を紹介している。また、ジョアン・ロドリゲースの「日本教会史」にも天下とは「国王の所在する地方区」「中央の地域」とし、「天下を治めていたのは三好殿」と書かれている。両書ともに、京都と畿内を支配した三好政権を評価した内容であるが、これらに使われた「天下」は、京都及びその周辺の特別区(五畿内)のことをはっきりと記している。


史上に初めて登場する天下人・三好長慶錦絵図(徳島県立博物館蔵)

また、信長の朱印に用いた文字「天下布武」についても諸説云われたが、現在では足利義昭を奉じて上洛し、義昭に対して政権を委任するよう規定した永禄13年(1570年)の条書にも「天下の儀」が使われていることなどから、天下=京都とした表現であるとするのが通説とされる。

つまり、氏政や氏直を始め北条の重臣達においても、「天下=京都」という概念が強く、秀吉の上洛要請に対する真意が理解出来なかったのではないかと考えられる。京都から遠く離れた関東、東北や九州の制圧など、どれほどの現実性があるのか。また、天正10年(1582年)3月の甲斐武田勝頼攻めに際した信長の扱い注5から、一層関東全域における基盤の強化を進めている。北条氏は、京都との接触を最低限にとどめ、平将門以来関東にあった「中央からの独立政策」を具現化することを早雲以来国是としており、関東管領職(対朝廷)の継承に固執した(本能寺の変後、即座に上野へ侵攻し、滝川一益を排斥している=神流川の戦)のはそのためであったと言われる。
中央と地方分国の良好な関係構築に依って実現される新しい地域主権国家を目指していた北条氏にとって、豊臣秀吉が夢みる天下統一とは相容れない思想であったのかもしれない。


信長・天下布武の朱印(京都大学総合博物館蔵)

注5
織田信長は、武田攻めにおける北条氏政の論功を一切認めず、それどころか織田家重臣・滝川一益を関東取次役に任じ、上野一国と小県・佐久郡支配を許すなど、北条氏の北関東勢力を抑制されたことは、氏政にとって天下統一志向と北条の政策の違いを改めて明確に意識したと考えられる。

【現代版小田原攻めに見る決断の時】
地域密着の営業方針を貫き、複数店舗を展開するミニスーパーにとって、大規模店舗の進出は脅威である。今はまだ地域住民の台所を支える不可欠な存在として消費者の強い支持を受けている自負と責任感に漲る経営者の元に、出店予定の大規模店舗マーケティング責任者が訪れた。
「うちのフランチャイズとして新規店舗の一角を使い生鮮食料品部門を担当しませんか?勿論、小田原屋の屋号は使ってもらって結構ですよ。これから先、どんどん出店計画がありますから、業績が良ければ新規出店の際の部門も任され、県外進出も夢ではありませんよ!」
経営者は悩みに悩む。小田原屋創業者の残した経営理念。
「地域経済の支えになることが商売人の本意。決して目の届かない拡大路線を選択してはならない。名店とは、規模の大小で決まるものではない。お客様の顔を如何に覚えているかによって、お客様から頂く評価である。」
その教え通り、四代に亘って確たる地位を築いてきた。しかし、時代は変わっている。インターネットに販路を移して成功している同業者も知っている。小田原屋はこのままで良いのか。まだ駆け出しの五代目の忙しい背中を見ながら、社長は腕を組み、目をそっと閉じた。


(イメージ:ショッピングモールとハルネおだわら)

一方、大規模店舗を全国に出店しているグループの総帥は、このマーケティング部長をCEOルームに呼んで耳打ちした。
「小田原屋は必ず邪魔になる。フランチャイズを渋るようなら、その時は…一気に潰せ!」

この章のお話はフィクションです。

主要参考文献:
•「後北条氏研究」 (小和田哲男)吉川弘文館
•「北条早雲と家臣団」 有隣新書 (下山治久)有隣堂
•「小田原北条記 上下」 教育社新書 (江西逸志子/原著)教育社
•「戦国大名」 教育社歴史新書 (小和田哲男)教育社
• 「関八州古戦録」、「信長公記」、「今川仮名目録追加」、「六角氏式目」
•「戦国大名」 教育社歴史新書 (黒田基樹)平凡社
•「戦国大名の正体」(鍛代敏雄)中公新書