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ラビットプレス+6月号

大坂城ライトアップ
豊臣秀吉亡きあとの政権を巡って(イメージ:大坂城ライトアップ)


「豊臣」という名の巨大コンツェルンを率いてきた総帥・秀吉が死んだ。
その創業者に見出され、引き立てられて出世街道を邁進してきた叩上げの武将・石田三成の不安と動揺は如何ばかりであったろうか。しかし、豊臣政権の中枢に在る者の一人として、嘆いている暇は無い。すぐにでも後継者をトップの座に据え、体制を立て直さなければならない。何故なら、三成の前には創業家から権力を奪い取り、次代の天下を治めようと画策する巨大な政敵が立ち塞がっていたからである。

『徳川家康』

慶長3年(1598年)当時、関東一円に250万石の禄高を数える大大名であり、且つ豊臣執行部の筆頭大老として押しも押されもしない地位注1に在った家康は、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと、秀吉が生前(文禄4年(1595年))に制定した無許可縁組禁止の法を無視し、次々と縁戚関係を結んでいくのである。
小牧長久手の戦(天正12年、1584年)から14年の沈黙を破り、遂に東国の怪物がその本性を現し始めた。
さあ、どうする、三成!

注1
天正15年(1587年)8月、再び上洛した家康は、秀吉の推挙により朝廷から8月8日に従二位・権大納言に叙任され、その所領から「駿河大納言」と呼ばれた。併せて秀吉から羽柴姓を下賜されている。
同年12月3日、豊臣政権の関東・奥両国惣無事令により、家康に関東・奥両国(陸奥国・出羽国、現在の東北の一部)の監視を託されている。同年12月28日、秀吉の更なる推挙により、朝廷から「左近衛大将」および「左馬寮御監(さめりょう/さまのりょうごげん/みかん、とも読む)」に任ぜられる(この官職は、武家の名誉職で、一般の大名が帯びられるものではなく、将軍の嫡子または実弟などにのみ許されていたものである)。このことにより、家康は「駿府左大将」と呼ばれていた。そして慶長元(1596年)年5月8日(1596年)、秀吉の推挙により「内大臣」に任ぜられる。これ以後家康は「内府」と呼ばれ、秀吉亡きあとにおいては、朝廷の官位では豊臣政権トップとなる。

徳川家康の花押(茨城県立博物館)
徳川家康の花押(茨城県立博物館)

【三成が最も危惧した男、家康…三成、政争を仕掛ける】
慶長3年(1598年)、豊臣の家督を継いだ秀頼はまだ5歳であったため、秀吉の遺命により前田利家、徳川家康らが傅役(ふやく=幼少の高位者のお守り役)を務めることとなった。
一方で家康は、伊達正宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を始め、松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)、蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘(家康の外孫で養女)、水野忠重(家康の叔父)の娘と加藤清正、保科正直の娘・栄姫(家康の姪で養女)と黒田長政(黒田如水の嫡男)らを次々と婚約させ、婚約した娘全員を養女にしていった。

斯様な専横に業を煮やした三成は、家康と対等の職に在った前田利家らと共に家康に対して、三中老のひとり堀尾吉晴注2らを問罪使として派遣するなどした結果、家康は慶長4年(1599年)2月2日、利家らと誓書を交わし、利家と家康が相互に相手方を訪問し合い、最終的に家康が向島(京都市伏見区向島(むかいじま))へ退去することで、この件は和解した。
注2
堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、生駒親正(讃岐高松17万石)、中村一氏(駿河府中14万石)ら3名が三中老に任命されたとされるが、当時の資料には三中老という役職の事実は確認出来ておらず、五大老五奉行の中間職という位置づけにも疑問視する声は多い。

前田利家像(尾山神社蔵)
前田利家像(尾山神社蔵)

しかし、予てから病床にあった前田利家が翌3月3日、死去する。

【反三成、七将らとの確執】
文禄慶長の役における前線部隊の将であった加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明らと、朝鮮奉行衆の石田三成、小西行長、毛利輝元、宇喜多秀家らとの確執は多く語られるところである。
秀吉の朝鮮出兵に関しては、その真意は別として、総勢16万とも言われる軍団を渡海させ、大国明を相手に壮絶な戦を続けていた。歴史ドラマなどで描かれる文禄・慶長の役の様相は、勇敢に戦う加藤清正や福島正則隊を後目に、戦地へ赴くことなく国内にあって戦況報告を改竄し、秀吉に対して讒言(ざんげん=告げ口)する石田三成の陰険さが時として描写されるが、秀吉の命に従い戦術を巡らせ、三成自らも渡海して指揮に当たっている史実注3と、第一線で加藤清正ら以上に戦闘を繰り広げていた小西行長ら第一次連隊の多くの指揮官全てが反三成派に与したわけではなかったことを見れば、三成にはそれなりの考えがあっての諸行と考えるべきではないか。
詰まるところ、三成ら奉行衆の大方の考え方には、遠く日本を離れた朝鮮の地で、得体の知れない(当時の情報技術では明国の全体が掴めないのは当然)大国に対する侵略行為がもたらす計り知れないリスクと、当時の武将に最も強く影響した心情、つまり分国(自分の出身母体である領地領民、家臣家族)への思いが日に日に増していく中で、将に留まらず兵士たちにも戦意喪失は時間の問題であり、重ねて兵站(へいたん=兵糧や弾薬)の供給の難しさなど、実質的には「この戦は勝てない」という結論に至っていた。
注3
三成は、文禄の役では最前線にあって、特に文禄2年1月26日(1593年)明の大軍を相手に勝利し、その後の講和に結びつけた碧蹄館(へきていかん)の戦いでは、宇喜多秀家を総大将とする日本軍の本隊ニ陣を任されて戦いを勝利に導き、また幸州山城の戦い(同年2月12日)では自らも負傷している。
 

加藤清正像(熊本城内)
加藤清正像(熊本城内)

他方、三成と加藤清正、福島正則らとの確執が取り沙汰される軍記物が主流であるが、真実は加藤清正と小西行長の確執がそもそもであるという。
二人の出会いは秀吉が長浜城主だった近習の時代に始まり、以来、戦の前線で活躍する加藤清正と、主に後方支援を担当してきた小西行長は、共に秀吉の天下統一の重要な歯車となる。
小西行長は、永禄元年(1558年)和泉国堺の豪商(薬商)・小西隆佐の次男として京都で生まれ、魚屋弥九郎(はなややくろう)という倉敷業(倉庫業)や両替商を手広く営む商人の養子として、宇喜多直家の城下町・岡山に住んでいた。若年でありながら、行長は当時から宇喜多家中に自由に出入りし、軍用金の調達などを担当していたという記録が残っている。その才覚から宇喜多家に召抱えられ武士の道を歩むこととなった。
天正7年(1579年)9月、行長に転機が訪れる。時は信長の全盛期であり、秀吉を総大将とする毛利攻めの真っ只中。毛利攻略の鍵を握っていた宇喜多直家は織田側に付き、講和の使者として直家の名代を行長に努めさせた。当初から知恵者を好む傾向の強かった秀吉は行長を即刻気に入り、幕下へ登用したのである。
その後、天下人として秀吉は四国を平定する際、行長に対して播磨(兵庫県)の室津と瀬戸内海に浮かぶ小豆島、塩飽(しわく)諸島を領した(天正14年(1586年))。さほど戦での功績がない行長に瀬戸内の支配権を与えた理由は、次なる九州征伐に必要な海上輸送の布石と共に、信長から受け継いだ秀吉の朝鮮出兵に対する準備注4だったと推測する。更に秀吉は行長の父・小西隆佐と石田三成を堺奉行に抜擢し、商都・堺と瀬戸内の通商を併せた貿易による商業利益を一手に握る経済戦略も実現させるのである。

注4
小西一族は薬種商として朝鮮で朝鮮人参を買い付けてきたから、朝鮮語に巧みで朝鮮通であることを、秀吉はよく知っていたとされる(小西行長-裏切り続けた男・商人の心を持った武将の決意とは-2015.2.13泉秀樹)

小西行長像(宇土城祉内)
小西行長像(宇土城祉内)

秀吉は、立身出世の原動力として財力を背景に天下人にまで上り詰めたのであるから、農民の出身らしく、武士階級の家柄に対する自らのコンプレックスを客観的に捉え、政務を司る部署(政所)には知将(石田三成、小西行長、増田長盛、長束正家、前田玄以、千利休など)を配し、侵略侵攻には闘将(加藤清正、福島正則、浅野長政、細川忠興など)をそれぞれ巧みに用いて、豊臣政権の基盤を揺るぎないものとしていったのである。
また、秀吉は天正15年(1587年)の九州征伐、天正16年(1588年)の肥後国人一揆の討伐に功をあげた加藤清正と小西行長に対し、肥後の半国(熊本城を中心に北半分を清正の領とし、南半分を行長に)をそれぞれに与えた。
そして文禄の役に至って、第一陣の先鋒を競っていた二人に対し、秀吉は小西行長に大黒の馬を贈り先鋒を命じ、加藤清正を二番手に指名。清正の行長に対する嫉妬が頂点に達した瞬間でもあった。

その行長と共に、朝鮮出兵の統括指揮(総奉行)に当たっていた石田三成に対する清正や福島正則の心情は手に取るように明白である。緻密な計算の上で戦略を立てる手法や、兵站の補給作戦などは奉行衆の担当であり、槍働きの衆とは自ずと距離が開いていく。補給や輸送が上手く行かず、度々奉行衆とぶつかることもあったであろうし、命を張って剣を交える者たちからすれば、机上の理論で指図する奉行衆たちに対する不満は最高潮に達する中での戦である。やがて戦局も行き詰まることとなり、三成ら奉行衆は本国の意に反して講和の方向へ舵を切る注5。更には慶長3年(1598年)8月、主君・秀吉の死を伏せたまま朝鮮からの撤退注6を指揮するとあっては、三成らへの不満は恨みとなって海を渡ることとなる。

注5
この時、加藤清正の朝鮮での行動(オランカイ偵察による軍評定遅参など)に関し、三成、行長らから秀吉への訴状の結果、帰国謹慎処分を申し付けられ伏見に蟄居していたとされる清正であったが、それが事実(同じ時期に他の武将にも帰国の動きがあったことから、清正の帰国は和平の進展と明使節の来日に対応するためという説・中野等著・唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向「九州文化史研究所紀要」)だとして、実直で闘争心の塊のような清正の存在が明との講和に及ぼす悪影響を懸念した三成らの策略により、必要に迫られての清正外しと見ることも出来よう。それほど三成は清正の武力を認めていたと解しても好いかもしれない。
注6
慶長3年(1598年)8月28日毛利輝元・宇喜多秀家・前田利家・徳川家康の四大老(上杉景勝は帰国中)が朝鮮在陣中の黒田長政らに対して送った連署の書状(「黒田文書」中村孝也「前掲書」中巻325頁)

しかし、三成は清正や正則らに対し、数々の諸行に関する言い訳も弁明もすることはなかった。

福島正則肖像(東京国立博物館蔵)
福島正則肖像(東京国立博物館蔵)

【関ヶ原へ続く三成の失脚…家康、大詰めに動く】
三成の、豊臣の心の拠り所であった前田利家の死後僅か数時間の後に、歴史を大きく動かす事件が勃発する。
慶長4年(1599年)3月4日未明。黒田長政・浅野幸長・福島正則・池田輝政(蜂須賀一茂)・細川忠興・加藤嘉明(藤堂高虎)注7は、大坂天神橋の加藤清正の屋敷に集結し、石田三成襲撃の計画を実行する。そこから大坂城の北隣、備前島(現・大阪市都島区網島町)の三成邸へと向かった一行は、三成邸内に踏み込んだが、三成の兄・正澄(まさずみ)らわずかな手勢以外、三成の姿はなかった。
このときすでに三成は秀頼の家臣・桑島治右衛門より襲撃を知らされており、信頼していた常陸(ひたち)水戸城主・佐竹義宣を頼り自邸を抜けて佐竹邸屋敷に身を隠していた。しかし、三成邸を出た清正らは付近の大名屋敷を虱(しらみ)潰しに当たり始めたため、再び佐竹邸を出て五大老の一人である宇喜多秀家の玉造の屋敷へ逃げ込んだ。その後、追手を避けて伏見城内にある三成の上屋敷へ向かい難を逃れたとされる。

洛中洛外屏風図に描かれた伏見城
洛中洛外屏風図に描かれた伏見城

一方、三成を取り逃がした清正ら一行は、伏見城堀端に立ち、三成上屋敷と対峙して睨み合ったが、さすがに秀吉の居城であった伏見城内へ押し入ることは躊躇したようで、城の南に位置する巨椋(おぐら)池に浮かぶ向島に陣を張った。この向島こそ、前田利家との話し合いの末に退去した徳川家康の居城であった。清正らは家康に三成の引渡しを依願したが、このときすでに、佐竹義宣を通して、家康に清正らとの調停を依頼していたとされ(「譜牒余録」「浅野家文書」)、家康は清正らの求めを一蹴し、「太閤殿下の喪も明けぬときに、この騒ぎは如何なる所存か!」と清正ら七将を戒めたのである。家康にとっては七将の求めに応じ、三成を引渡すこともできた。もしそうしておれば、三成を抹殺することはできたのである。しかし、家康の考えはもっと先を読んでいた。

注7
括弧内は七将の異説・翌3月5日、家康が七将に送った書状は丹後少将殿(細川忠興)、蜂須賀阿波守殿(蜂須賀一茂)、清州侍従殿(福島正則)、藤堂佐渡守殿(藤堂高虎)、黒田甲斐守殿(黒田長政)、加藤主計頭殿(加藤清正)、浅野左京大夫殿(浅野幸長)の七人宛であった。

「今、ここで三成を成敗させてしまえば、三成派の小西行長、毛利輝元、宇喜多秀家らは黙ってはおらぬであろう。そうなれば加藤清正ら七将との小競り合いでは収まらない。遠方の豊臣恩顧の大名も動き出し、天下が再び乱れることは明白であるし、この機に豊臣に反旗を翻すことは決して得策ではない。ならば、ここは三成に恩を売り、政権中枢から追放した上で徐々に三成ら文治派(秀吉が庇護した知将たち)の権力を弱めていくことができれば、自ずと徳川に風が吹くに違いない。」
そこで家康がとった措置というのが、三成の命を助ける代わりに奉行職を退くこと及び、三成の居城・佐和山城での謹慎の勧告を突き付けたのである。

「澤山城図」(提供:長浜市長浜城歴史博物館)
「澤山城図」(提供:長浜市長浜城歴史博物館)

「生きてさえおれば…」

三成が家康の条件を呑み、近江長浜の佐和山城へ退去したのは、前田利家死去から僅か7日後のことであった。

【三成の真実2…人望】
名のために 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば
 平塚為広
契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも
 大谷吉継

関ヶ原合戦の真っ只中、戦況が大きく東軍に傾いていた。奮戦虚しく、精根尽き果てた平塚為広は自身の最後を歌に込め、敵将・樫井太兵衛(山内一豊の家臣)の首と共に吉継に辞世の句をおくる。 その句を聞き、戦況の全てを悟った吉継もまた、「六道注8の辻で待っていてくれ」と、為広に返した歌であると云われる。

注8
六の巷=六道(六界)。仏教語。衆生の業(ごう)によって赴く六種の世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)

大谷吉継(絹本著色大谷吉継像1984年前田幹雄作)
大谷吉継(絹本著色大谷吉継像1984年前田幹雄作)

早くから小早川秀秋の寝返りを予想し、その対策として大谷吉継、嫡男・吉勝、木下頼継ら大谷一族と平塚為広、戸田勝成軍併せて5700の布陣を小早川隊の陣取る松尾山の北の藤川台に置いていた。慶長5年(1600年)9月15日。正午頃、一向に参戦しない小早川隊に向けて家康陣営から威嚇射撃が放たれた。それを合図のごとく、西軍に布陣していた小早川隊15000の兵が一斉に大谷隊へ攻め込んだのである。

豊臣家家臣として秀吉から全幅の信頼を得ていた三成と吉継であったが、吉継は秀吉の死後、家康の近衆として加藤清正、福島正則らと行動を共にすることも多かった。つまり、家康に与して豊臣家の安泰を望んでいた。
家康の上杉景勝に対する謀反成敗の号に従い、関ヶ原本戦の2ヶ月前には敦賀から1000の兵(一説には3000とも)を仕立てて出立している。家康軍との合流の途中、美濃垂井に三成を訪ねた(三成が使者を遣わせたとの説もある)吉継は、家康討伐の挙兵を知らされ、再三に亘ってその無謀を説き、思い留まらせようとしたが、三成の意志は強固であり、7月11日再び佐和山城に入り、吉継と為広は三成との同盟を約束したのである。

平塚為広は、吉継と互いに信頼し合い、一説によるとハンセン病を患っていた吉継の目となり、手足となって戦ってきた。また、吉継は為広に自軍の指揮を執らせるほどの関係であったと伝えられ、知略に長けた吉継が「徳川には勝てない」ことを身をもって知りながら、盟友三成に対し、親友平塚為広共々命を賭ける決心をしたのである。三成には人望が無かった、と多く伝わるが、関ヶ原本戦に挑むに際し、最終的に東軍を凌ぐ(東軍74000兵力、石高968万石)西軍82000兵力、石高1124万石を擁して対峙していることを考えれば、(その後本戦での寝返りや裏切りが勝敗を決定付けるが)、三成に人を動かす魅力が無かったはずはないと考えるのが自然である。

三成が諸大名に送った内府ちかひの条々(福岡市立博物館蔵)
三成が諸大名に送った内府ちかひの条々(福岡市立博物館蔵)

【終焉・三成の真実3…徳川家康との差】
巨大コンツェルン「豊臣」の生え抜き執行役員であった石田三成が挑んだ敵は、カリスマ創業者の亡き後、内政を乱し、豊臣本体の乗っ取りを目論んだ外部筆頭副社長の徳川家康であった。最終的な勢力としては、三成に有利であったにも拘らず、何故三成は敗れてしまったのか。裏切りや寝返りの結果論ではなく、勢力とは裏腹に、最初から勝てない理由が存在する。現代の企業においても然り。M&Aを仕掛ける側と、必死で現体制を守り抜こうとする側との戦いに勝利する鍵は何処に。関ヶ原の戦いには、結果論ではない「三成の真実」がそれを証明している。

関ヶ原の戦いは、戦国史における一大武力闘争であったが、表面上の戦記以外にこの時代特有の社会的勢力の変化と、集団や組織における、その勢力に対する行動心理が、決戦の結果とその後の徳川政権への臣従を裏付けている。
三成と家康。二人に共通の能力と評価に対して、家康が勝り三成が劣っていたものとは何か。本編の纏めにあたり、その差を考えることとしよう。

  1. 人を動かす論功行賞(行政的権力)
    三成〇 秀吉政権下での五奉行筆頭の地位と、秀頼とその生母淀殿をバックボーンに豊臣の財力を利用した行賞は信用されていた。
    家康〇 現役筆頭大老の地位に加え、関東250万石の実力。政権の座に就けば権力、財力は意のままとなる。
  2. 大義名分の正当性(関ヶ原の戦い)
    三成〇 全国統一を果たした秀吉の正統な後継者である秀頼を中心に、永劫豊臣の繁栄を願うのは、国家安泰の条件である。それに反する徳川家康を討伐するのは当然である。
    家康〇 秀頼公の傅役として豊臣家を守るのは筆頭大老の徳川。上杉景勝謀反の嫌疑に、秀頼公の名代として出兵するのは当然。
  3. 個人的能力(この人に付きたいと思わせる魅力)
    三成× 背景に秀吉が在り、組織の一員として権力を行使してきた三成の、その背景が失われた今、それまでの官吏的政策執行に対する不満分子は多い。それなりの武功も所詮は組織の戦闘員。個人的な脅威は無い。
    家康〇 姉川合戦、長篠の戦、小牧長久手の戦いなど、徳川の為の戦いに代表される戦闘能力は脅威。250万石の所領は他の大名にとっては雲上の存在。家康に準拠しなければ生き残る道はないと思わせる組織力は絶大。
  4. 集団を纏め上げる力(勝利への執念と勝利の根拠)
    三成× 西軍大名が最終的に決断した根拠は、「総大将・毛利輝元」「大老・宇喜多秀家の参戦」「三成陣営の規模」など、三成陣営に関する情報の影響が大きい。つまりは、三成の力ではない。「家康憎し」はそれほど浸透しなかった(上杉景勝、真田昌幸以外、徳川を敵視する勢力はすでに存在していなかった)。
    家康〇 三成個人への憎悪(加藤清正、福島正則、黒田長政、小早川秀秋など)を利用し、東軍の戦意を高揚させることが出来た。加えて三成陣営の寝返りを誘う諜略や、優柔不断派(毛利、島津など)の存在など、時の運までも味方した。

以上の分析結果から、三成には最後まで自分の為に戦ってくれる勢力において、家康とは圧倒的に差が付いてしまっていたのである。関ヶ原の戦いには、表面上の勢力だけではなく、数字に表せない非戦力的要素が勝敗を分ける鍵となっていたのである。
現実的な勢力分布における差を前に、一大決戦で勝利しようとした三成であった。

強大な勢力に対抗する為には、時間と労力を掛けて相手の勢力を剥いでいき、自分の側へ引き寄せる根気と努力が必要である。そして自前の勢力を十分に確保した上で、弱った相手を一気に潰す、もしくは相手を丸ごと呑み込む。これが本来の政治力である。
三成の政治力は、豊臣秀吉という庇護の下で発揮できたものであり、その高い能力も豊臣政権を動かすことに費やされ、三成自身の勢力を創り上げることには廻されなかった。これが真実である。

これは正に全国を呑みこんだM&Aだった(イメージ)
これは正に全国を呑みこんだM&Aだった(イメージ)

参考文献:
酒井忠勝原撰「関ケ原合戦始末記・実録天下分け目の決戦」教育社、小和田哲男「大谷刑部と石田三成」花ヶ前盛明編 新人物往来社、三池純正「義に生きたもう一人の武将 石田三成」宮帯出版社、今井林太郎「石田三成」吉川弘文館、瀧澤中「『戦国大名』失敗の研究」PHP文庫、旧参謀本部編「日本の戦史・関ヶ原の役」、ルイス・フロイス「完訳フロイス日本史」松田毅一・川崎桃子訳 中央公論新社他