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ラビットプレス+4月号

石田三成の旗印『大一・大万・大吉』
石田三成の旗印

『大一・大万・大吉』(読み:だいいち・だいまん・だいきち)
意味:大は天下の意なり、一人は万民のために、万民は一人のために。それがすなわち天下万民全てに幸福がもたらされるのである。

石田三成の旗印として引用された「大一・大万・大吉」は、平安後期の武将・石田為久が使用していたとされる。為久は、『三浦系図』(『続群書類従』第六輯上系譜部所収)によれば、三浦義明の弟・芦名三郎為清の子である三郎二郎為景の子に「号三浦石田次郎」為久が記されている(為久には「木曽義仲討取者」との傍注もあり、「石田次郎」とは、相模国愛甲郡石田郷(現:伊勢原市石田)を名字の地とした、三浦一族の石田次郎為久のことである)。三成は、この石田為久の末裔であるという説もあるが、出自は定かではない。

佐和山城跡の三成像
佐和山城跡の三成像

石田三成という武将の像は、秀吉の信任厚く、秀吉政権下で五奉行の筆頭として辣腕を振るい、秀吉の死後、関ケ原の合戦に破れ、処刑された。「奸臣(かんしん・権力を振るう横柄者)、佞臣(ねいしん・口先だけで主君にへつらう者)」「陰謀家」「冷血漢」etcというイメージで語られることが多かった。一方、三成の所領、佐和山(現:滋賀県彦根市)一帯には、三成の善政に対する領民の好感が強く、城主としての政治手腕には定評があることも事実である。徳川時代到来後、長きに亘って反徳川の象徴として誹謗されてきた石田三成であるが、家康の孫である徳川光圀(水戸の黄門様で知られる)は、その家臣がまとめた『桃源遺事(徳川光圀に関する逸話などを集大成したもので、三木之次の孫・三木之幹の他、宮田清貞、牧野和高らによって元禄14年(1701年)に編纂)』の中で、「その主のためにとして義をもって、心を立てておこなったことは、たとえ敵であっても憎むべきではない」と、三成を高く評価していたと考えられる記述も見られるほど、真実は称賛に値する能力の持ち主であったことが伺えるのである。

本編では、その才能を如何なく発揮したステージである「豊臣時代」における三成の生き様を検証し、豊臣と共に歴史舞台から消失した三成の「義」に対するプライドの本質を知り、現代人が持つプライドとの異質を語ろうと思う。

【秀吉との出会い…三成、入社する】
三成と秀吉の出会いのエピソードは、「三献の茶注1」の逸話が有名であるが、これは江戸期の俗書の類である「砕玉話(武将感状記)」に掲載されており、その信憑性は低いと言われる。また、三成の実子が記した、寿聖院「霊牌日鑑」では、三成が秀吉に仕えたのは、18才の時に播磨の国、姫路であるとの記載も在り、いずれの真偽も定かではないとされる。しかしながら、三成の人柄や忠義、気配りなど、高い評価を得ていたからこその作り話であると見ることは出来る。
注1.「三献の茶」
石田三成ハ、アル寺(米原市大原・観音寺と長浜市古橋・法華寺が有力で、観音寺には「三成茶汲みの井戸」が残る)ノ童子ナリ。一日、放鷹ニ出デ丶喉乾ク。其ノ寺ニ至リテ、誰カアル、茶ヲ点ジテ来レ、ト所望アリ。石田、大ナル茶碗ニ七、八分ニヌルクタテ丶持マイル。秀吉、之ヲ飲ミ、舌ヲ鳴ラシ、気味ヨシ、今一服トアレバ、又タテ丶之ヲ捧グ。前ヨリハ少シ熱クシテ、茶碗半ニタラズ。秀吉之ヲ飲ミ、又試ニ今一服トアル時、石田、此ノ度ハ小茶碗ニ少シ許ナルホド熱クタテ丶出ル。秀吉、之ヲ飲ミ、其ノ気ノハタラシヲ感ジ、住持ニコヒ、近侍ニ之ヲ使フニ才アリ。次第ニ取立テ、奉行職ヲ授ケラレヌト云ヘリ。(砕玉話)

また、古橋・法華寺には、秀吉亡き後、関が原の合戦に敗れた三成が古橋山中に匿われ、村人の保護を受けていたが、徳川方の追及厳しく、村人に難儀が及ぶのをはばかり、自ら捕縛されたと伝わっている。当地では、三成の善政を慕い、代々三成の遺徳が語り継がれている。

三献の茶像の三成(JR長浜駅)
三献の茶像の三成(JR長浜駅)

いずれにしても、三成の少年時代に秀吉と縁を持ち、その後家臣に登用されたのは史実である。

【立身出世・賤ヶ岳の戦い…三成、昇進する】
天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で繰り広げられた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と織田家重臣・柴田勝家との戦いである。この戦いでは、織田家勢力を二分する激しいものとなり、羽柴秀吉はこの戦いに勝利する。そして信長体制の正統な継承者となることを決定づけたと言われるほど重要な戦であった。
天正10年(1582年)の本能寺の変後、清洲会議で織田家跡目争いに敗れた柴田勝家であったが、長浜の支配権を獲得し、勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城した。12月2日、秀吉は毛利氏対策として山陰地方に宮部継潤を、山陽方面には蜂須賀正勝を置いた上で、10月の勝家との和睦を反故にして、大軍を率いて近江に出兵、長浜城を攻撃した。
北陸は既に雪深く、勝家は援軍が出せず、柴田勝豊は、わずか数日で秀吉に降伏。秀吉軍はそのまま美濃に進駐し、稲葉一鉄などから人質を収めるとともに、12月20日には岐阜城の織田信孝(信長の三男)を降伏させた。翌天正11年(1583年)正月、伊勢の滝川一益が勝家への加勢を明確にして挙兵し、関盛信・一政父子が不在の亀山城、峯城、関城、国府城、鹿伏兎城を次々と諜略。亀山城に滝川益氏、峯城に滝川益重、関城には滝川忠征を置いたあと、一益自身は長島城で秀吉を迎え撃つ。秀吉は、一時京に自軍の兵を退いていたが、翌2月に大軍を率い、滝川勢力への攻撃を再開した。

余呉湖を見下ろす記念碑(イメージ)
余呉湖を見下ろす記念碑(イメージ)

未だ豪雪の為に越前北ノ庄から動けずにいた勝家であったが、しびれを切らせ、2月末に近江へ向けて出陣。柴田勝家、前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて布陣する。
一方、秀吉は、滝川一益の長島城包囲を織田信雄(のぶかつ)と蒲生氏郷の軍勢を残し、3月19日には6万とも言われる兵を率いて木ノ本に布陣。世に言う「賤ヶ岳の戦い」が幕を開けるのである。

七本槍(イメージ:冨田酒造ラベル)
七本槍(イメージ:冨田酒造ラベル)

戦況は一進一退から前田利家の戦線離脱で秀吉軍が攻勢に転じ、勝家の敗走によって幕を下ろすのであるが(賤ヶ岳の戦いの詳しくはラビットプレス+2015年9月号「戦国一の武勇・柴田勝家」を参照されたい)、秀吉方で功名をあげた兵のうち、賤ヶ岳七本槍衆や先懸之衆など、その後の豊臣政権を担う重臣を生み出している。その先懸之衆と呼ばれた、羽柴家家臣の14人の若手武将の名前の中に石田三成も含まれており、彼等が最前線で武功を挙げたと「一柳家記」に記録されている。三成23才の初夏であった。

【豊臣政権下での異彩…三成、執行役員となる】
天正13年(1585年)、秀吉が関白に任官されると、三成も従五位下治部少輔(じゅうごいのげ・じぶのしょうゆう)に叙任された。翌14年には全国諸大名に対する上洛謁見の触れにより、越後の上杉景勝上洛の斡旋を仕切り、堺奉行に任命される。
天正15年の九州平定後は博多奉行注2として赴任し、翌年には薩摩島津氏(義久)の秀吉への降伏謁見を取り次いだ。天正17年(1589年)からの太閤検地では、美濃の国検地を担当し、翌年、小田原征伐(北条氏直)に参戦し、後北条氏領土の攻略戦において支城の館林城、忍城攻撃を行う。特に忍城攻めでは、元荒川の流水を忍城周囲に引き込み(水攻め)、その時の遺構が「石田堤」として現存している。関東各地の後北条氏の支城の殆どは、本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城だけは小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた(和田竜の小説「のぼうの城」で有名)。

三成の行った太閤検地(検地帳:国立茨城大学図書館蔵)
三成の行った太閤検地(検地帳:国立茨城大学図書館蔵)

更に、三成は取次として、常陸国の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後、奥州検地奉行を務めるなど、確実に実績を重ね、吏僚(事務方を司る官吏、役人)としての功績を積み上げていった。

注2
秀吉の軍師、黒田孝高、博多の豪商、神屋宗湛(かみやそうたん)らと共に博多の町割り(太閤町割り)、戦災復興に従事している。

秀吉の朝鮮出兵が三成の人生の岐路となる。

日本と朝鮮半島との間は歴史的に関わりが深く、戦争や侵略の経験も相互に持っていたことは、秀吉が生きていた当時も大部分は認識されていた。
西暦663年に、唐・新羅連合と大和朝廷・百済連合が起こした「白村江の戦い(大和・百済側が敗北)」以後、大和朝廷は朝鮮半島への直接介入を行っておらず、日本側から大規模な出兵は約千年近くされることは無かった。

文禄の役、平壌・碧蹄館・幸州の戦い(提供:戦国未満)
文禄の役、平壌・碧蹄館・幸州の戦い(提供:戦国未満)

天正19年(1591年)8月、秀吉は「唐入り」を宣言し、総勢15万8800人に上る兵を組織(一番隊~九番隊まで)し、準備に入る。
文禄元年(天正20年・1592年)4月12日、小西行長率いる一番隊1万8700が釜山浦に上陸する。戦国の世に鍛えられ、多数の火縄銃(鉄砲隊)を装備した日本軍は、その日の内に釜山城を攻略すると北上を開始した。これに対して朝鮮側は、急遽8000の兵を編成し、漢城の南方約100Km(忠州)で日本軍を迎撃しようとするが、4月27日、日本軍の鉄砲隊による一斉射撃を浴びて壊滅する。
朝鮮軍大敗の報後、朝鮮国王は首都漢城を放棄して平壌に移り、5月1日、一番隊は漢城を無血占領。
4月17日に上陸した加藤清正の二番隊は、5月3日に、そして8日までに八番隊までが漢城に入城。
日本軍は、朝鮮八道(朝鮮王朝の行政区分)を分担して統治することを決定(加藤清正はいざという時の参集に支障が出るとこれに反対している)。
6月16日、平安道担当の小西一番隊が平壌を占領し(朝鮮国王は鴨緑江へと逃れた)、二番隊は咸鏡道に進軍。その時、同地に避難していた朝鮮国王の王子二人とその付き人を捕虜にした。

朝鮮戦役海戦図屏風・太田天洋
朝鮮戦役海戦図屏風・太田天洋

一方、海上での戦況は日本軍の苦戦が強いられていた。
朝鮮の名将・李舜臣(イシュンシン)率いる朝鮮水軍は、5月2日に玉浦沖で、同月29日には泗川浦で日本水軍を撃破。7月7日に閑山島海上で91隻の朝鮮水軍と脇坂安治艦隊73隻が戦闘するも、脇坂艦隊