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ラビットプレス+4月号


千利休図/長谷川等画(正木美術館蔵)

『人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛』(読み:じんせいしちじゅう りきいきとつ わがこのほうけん そぶつともにころす ひっさぐる わがえぐそくのひとたち いまこのときぞ てんになげうつ)
訳:人生ここに七十年。えい、えい、えい!。この宝剣で祖仏もわれも、ともに断ち切ろうぞ。私はみずから得具足(得意の武器)の一本の太刀を引っさげて、いま、まさに我が身を天に抛つのだ(迷いも晴れた、すっきりした心境)。
中央公論社「利休の死」小松茂美訳

千利休(幼名・与四郎、法名・宗易 大永2年(1522年)~天正19(1591年)年2月28日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけてのわび茶(草庵の茶:当時は「侘び数寄」「わび数寄」と称されていた)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲注1」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道の三千家(武者小路千家、表千家、裏千家)として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近であり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった人物である。

 

和泉の国堺の豪商(屋号・「魚屋(ととや)」倉庫業)に生まれ、父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母は宝心妙樹、祖父は、足利将軍家の同朋(八代将軍・足利義政の茶同朋であったという説)で千阿弥といい、北向道陳・武野紹鴎に茶道を習い、天正13年(1585年)の禁中茶会(皇居での茶会)に参加するにあたり、正親町(おおぎまち)天皇より許されて居士号「利休」を勅賜、祖父の名から千姓を名乗ったと言われる。


利休の茶の師・武野紹鴎像(堺市大仙公園)

戦国時代にあって、武将に非ずこれほど歴史上に存在感を放つ文化人は見当たらない。信長、秀吉の天下統一に最も寄り添い、その事実を見続けてきた人物が、茶の湯という具足(武器)をもって何を成そうとしていたのか。
現代の永田町界隈にひしめくタレント議員や文化人議員などとは次元の違う利休の政治力とは如何なる力であったのか。本職を以て政治を操り、そのうえで茶の湯における自身の夢を見事に達成した利休の能力を、とくとご覧あれ!

注1「利休七哲」
千利休の高弟7人を指す呼称。利休の曾孫にあたる表千家の江岑宗左(逢源斎)の記した「江岑夏書」(こうしんげがき)の中で挙げられているが、後世になって呼ばれたもの。蒲生氏郷、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山監物、高山長房(右近)。
【織田信長と茶の湯】
信長が本格的に茶の湯に興味を示したのは、足利義昭を奉じて上洛した頃と言われている注2。永禄11年(1568年)、上洛に際して帰属してきた松永久秀は、信長に大名物「九十九髪茄子(つくもなす・室町幕府の三代将軍足利義満が所有した唐物茶入)」を献上して忠誠を誓ったと言われる。また、堺の豪商・今井宗久は、名物「松島の壺」と大茶人・武野紹鴎(たけのじょうおう・利休の茶の師)遺愛の「茄子茶入」を信長との近づきのしるしに献上した。これらによって信長の茶道具に対する価値観は大きく変わったと言われ、翌永禄12年(1569年)には、松井友閑と丹羽長秀に命じて、大文字屋宗観から「初花肩衝茶入」、祐乗坊から「富士茄子茶入」、法王寺の竹の茶杓、池上如慶の「蕪なしの花入」など、天下の名物といわれる茶道具を入手させている。


九十九髪茄子(つくもなす)当時1000貫(約8000万円)の値が付いたといわれる

当時の交易の中心と文化の発信地は堺であった。堺は領主を持たず、町人が独自に政治を行う自治都市として発展していた。ここに目を付けたのが信長であり、上洛後直ぐに堺を織田家直轄地として制圧。豊富な財力の後ろ盾も堺の豪商から得ることに成功した信長は、茶の湯の流行に着目し、自身も数寄大名として茶の湯をたしなみながら、名物狩り(名物進上令)と称される触れを出し、高価な茶道具の蒐集を始める。信長は、それまで単に接客手段としての遊興であった「茶の湯」を政治の手段に用い、名物と称される茶道具を中心に、土地や金銭に代わる新たな価値基準に設定することを創作したのである。これにより、茶道具の相場は高騰し、堺商人にも莫大な利益が転がり込んだ。信長の国策が利益を生むことで、堺の豪商らはこぞって信長政権支持へ回った。
一方、茶道具の多くはかつて足利義政が所有していたものだったと言われ、信長は、義政の茶道具を茶会の席で使うことで、自らが足利幕府の後継者であることを武将たちに知らしめる効果を演出した。また、武功を立てた家臣には茶をふるまい、名物の茶道具を下賜し、茶の湯によって家臣を統制するための「御茶湯御政道」を定め、信長の許可なく茶会を開くことを禁じた。更には、家臣に茶会を主催できるか否か等の序列を決め、京や堺の町衆を掌握するために、度々茶会を開催している。そこでは信長が蒐集した高価な茶道具が披露され、織田家の豊富な財力と権力を誇示することに利用し、信長から茶道具を下賜されることはこの上ない名誉であり、それは一国一城にも匹敵する高いステータスを与えることとなった。織田家有力家臣であった、明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興らも信長に感化され、こぞって茶の湯を愛好し、茶道具の蒐集に没頭している。
そして、信長の配下で茶の湯全般を取り仕切る職制である、「茶頭(さどう)」を配置し、今井宗久・津田宗及・千利休(当時はまだ田中宗易として活動)らを任じ、それらを利用した。利休が信長の茶堂となったのがいつの頃か正確な史実は不明だが、天正元年(1573年)頃には信長の下で仕えていたと思われる。
こうして武家社会の中で茶の湯が正式儀礼として認知され、政治的権威が付与されたため、茶匠たちは武士階級からも尊敬される社会的地位を得ることとなった。

注2
尾張時代、信長の守役、平手政秀に茶の湯の手ほどきを受けていたとされ、茶の心得は以前からあった(兼見卿記)。


国宝:大井戸茶碗「喜左衛門」(大徳寺蔵)

【【秀吉と茶の湯】
信長の死後、政権の座についた豊臣秀吉もまた茶の湯を政治に利用する「御茶湯御政道」を引き継いでいる。

天正15年(1587年)10月1日。京の北野天満宮において秀吉主催の大掛かりな茶会が開催された。上記の茶会案内によれば、10月1日より天候が良ければ10日間、大茶の湯を開催し、茶の湯を嗜む者の他、若者、町人、百姓など身分を問わず、道具など無くても構わない。座敷は畳二畳分、日本人は言うに及ばず、茶の湯を好む者なら唐人でも参加でき、遠方から来る者達のために10日間続けるように…。ここまでして茶会に参加しない者は、今後茶を点ててはならぬ。また、茶の心得ある者には、秀吉自ら御手前すると仰せである、と書かれた立て札が畿内の要所に立てられた。世に言う、「北野大茶湯」である。
このとき、豪華絢爛な衣装を身につけ、小姓や家来を引き連れた秀吉は、早朝から北野の森へと出向き、到着したその目の前には、昨夜、天満宮の拝殿に組み立てられた、「黄金の茶室」があった。それを背に秀吉が座ると、その両側に、今井宗久、津田宗及、千利休らをはじめとする茶頭や、前田利家などの武将ら15名が着座し、おもむろに秀吉が濃茶を点て、茶会が始まった(「北野大茶湯之記」)。


北野大茶湯はここで開かれた(北野天満宮)

秀吉は利休を相談役として傍らに置き、茶の湯による政治を信長からもう一歩前に進めた。利休は、秀吉が天皇を招いた禁中茶会にも同席し(天正13年前述)、小田原征伐にも同行するなど、茶人としてだけでなく、政治においても秀吉の片腕となっていく。
九州の大名、大友宗麟が島津攻略の援軍要請に上坂し豊臣秀長を訪ねた折に、「公儀の儀は宰相(秀長)、内々の儀は宗易(利休)存じ候(公のことは秀長に、内々のことは利休に相談せよ)」と言われたという国元へ送った宗麟の手紙が残っている。

【天下の茶人、そして邪魔者へ】
天正2年(1574年)のある日、当時長浜城(滋賀県長浜市)の領主であった秀吉は、放鷹に出た帰りに休息のため観音寺(滋賀県米原市朝日)に立ち寄り、佐吉という少年と出会った。佐吉は近江・坂田郡北郷村大字石田の村長・正継の子に生まれ、観音寺に寺小姓として預けられていた。
秀吉が茶を所望したところ、1杯目は大ぶりの茶碗にぬるめの湯を入れて出し、2杯目にはそれよりもやや小ぶりの茶碗に少し熱めの湯を、3杯目には小ぶりの茶碗に熱い湯を注いで出した。この心配りに感じ入った秀吉は、住職に掛け合って小姓に取り立てたという。観音寺で修行をしていたこの佐吉こそ、後の石田三成、13歳のときであった(逸話・三献の茶)。
その後、豊臣政権の中枢にまで上り詰め、五奉行の中心として政権の官僚組織化を目指していた中央集権派の三成は、如何に秀吉のお気に入りであろうとも、商人の意見が採用される事態を憂えて、利休を快く思ってはいなかったとされる。


鍵を握る男?(石田三成像:白川亨氏所蔵)

豊臣政権下では、茶頭職を利休一名に絞ったこともあり、利休の名声は全国諸大名にまで馳せていくこととなる。利休の弟子になることが大名としての箔を高めるとして人気となり、利休の元には巨額の金銭が舞い込んだ。また、茶道具の品評において、利休が名物と鑑定した品物には高額な値が付いた。このとき60歳になっていた利休であるが、冨と名声と、政治的権力までをも手中にしていたのである。
他方、信長の価値観と政治手段としての茶の湯においては、茶人としての利休の考えは封殺され、政治的判断の下での茶の湯信仰に重点を置いていたことは当然であった。しかし、秀吉は利休の哲学にも共鳴を示し、全幅の信頼を置いていたことが伺われる。その哲学とは、「貴賎平等」であり、茶の湯の前に在っては身分階級、貧富の差は無く、相客は一人の人間として扱われる。利休の師、紹鴎が編み出した四畳半の茶室(書院造から村田珠光の茶室へと変遷後)を更に昇華させた利休の茶室は、わび茶しか出来ない草庵風を言い、二畳という小さな空間に結実させた(京都山崎の妙喜庵の待庵が利休自ら手掛けた茶室として唯一現存)。秀吉もこの茶室に招かれ、すっかり魅せられて、大坂城内に二畳敷の茶室を造った。こうして秀吉の時に、「わび茶、草庵の茶」が、茶の湯の主流となって行った。


重要文化財 妙喜庵 国宝茶室 待庵(京都府乙訓郡大山崎町)

一方で秀吉の政策には太閤検地(天正10年~慶長3年)や刀狩(天正16年)に表される身分階級制度の確立があった。特にこの検地において尽力したのが石田三成であった。政権安定を目指す三成は、秀吉が政策実行に関する忠言を利休に求めていたことに危惧し、利休追放の諜略を進めていたという有力説もある。

【政商利休の原動力】
堺は当時、国外貿易の拠点として港も整備されていた。ポルトガルから種子島に鉄砲が伝えられた直後、堺の商人・橘屋又三郎が種子島を訪れ、鉄砲の製法を学んできたのが、堺で鉄砲が作られるようになった始まりといわれている。
その要因は、又三郎が「鉄砲又」といわれるほど鉄砲作りの技術を磨いており、また、堺には平安時代から鋳造・鍛造の高度な技術が伝えられていたこと、火薬の原料となる硝石を国外から輸入できたことなどである。
信長が堺を実質的に統治して以降、秀吉による環濠埋め立て(天正14年・1586年)まで、東洋のベニスと称賛された堺の総合商社の二代目でもあった利休には、茶人として以外の重要な仕事を総括していたのではないか。それが、「火薬」の製造である。


天文12年初伝来の火縄銃(種子島鉄砲館)

茶の湯に使用される茶は抹茶であり、通常の石臼では微粉末の茶は挽けない。それ専用の茶臼(茶磨、茶碾とも書く)が必要で、最高級の石は京都宇治の朝日山産と言われている。当時、茶臼は非常に高価なものであり、専門の職人が存在していた(茶磨師)。
種子島に鉄砲が伝来したのは、天文12年(1543年)、それ以降日本では鉄砲製造技術が急速に進歩した。戦国時代の日本は、鉄砲の技術水準もその所有数も世界一だったとある(ノエル・ペリン著『鉄砲をすてた日本人』(紀伊国屋書店1984)。鉄砲は堺の刀鍛冶の技術がべースになった。伝来から約30年後の長篠の合戦では、織田・徳川の連合軍が鉄砲隊を組織して、戦国最強を誇る武田の騎馬軍団を撃破した。戦国の武将たちは、この新兵器を手にいれるのに血まなこだった。しかし「鉄砲も火薬なければタダの筒」。鉄砲伝来当初には、火薬のひとつの原料である硝石を、堺の商人を通じて外国から輸入(まもなく国産化)した。黒色火薬は、硝石75、木炭15、硫黄10の割合で混合したもので、いずれも細かい粉末である。硫黄や硝石は粉にしやすいが、木炭を粉にするのは難しく、技術次第で鉄砲の性能が左右される。鉄砲の口火用の高性能火薬は茶磨以外では出来なかったのである。


武田信玄公愛用の茶磨いぼ丸(曹洞宗大泉寺蔵)

天正12年(1584年)頃のものと推定される利休書簡に、「返すがえす、茶臼のこと頼み申し候。中略・茶臼のこと、茶を入れ侯わずとも、挽かれ候て給うべく候。そのほうに茶なく候わば、参るべく候。かしく」(『定本千利休の書簡』東京堂版昭52年、山形県河北町谷地、細谷理右衛門氏蔵)と書かれている。堺の発掘調査では、茶磨が沢山発見されているが、堺の商人たちも茶磨を手に入れていたことがわかる。戦国の武将たちにとって茶磨がある特別な意味をもっていたことは、茶磨山(茶臼山)と呼ばれる山が全国に200以上あることからもうかがえる。その大部分が当時の城跡や戦陣跡であったことが知られている(『茶磨の日本史』粉体工学会)。
利休は、茶の湯に使う抹茶と、戦に使う鉄砲火薬を、同じ茶磨で惹き、抹茶で政治を動かし、火薬で巨万の富を築いたのである。この財力が利休の原動力であった。そうして利休は一町人の身でありながら稀代の政治家として日本史にその名を刻み、一茶人として「わび茶」」を完成させ、現代まで主流をなす千家を残したのである。亨年70歳。切腹の前日にしたためたと伝わる巻頭の辞世の和歌に謳った心情から、まことしてやったりという痛快さすら感じられるのは、全てを成し遂げ未練の欠片も残っていない利休の本心であろうと思うのである。


高性能火薬はキメが細かい(イメージ)

【エピローグ・利休切腹の謎に迫る】
天正15年(1587年)頃から、利休の茶の湯に対する意識も集大成へと向かっていく。わび茶を極め、文化とも言える一つの世界を創りだすことは、茶人としての目的であったからだ。天正19年(1591年)、茶会で秀吉の嫌う黒の茶碗を使用して点前を行ったのは、利休の覚悟の表れであったと推察できる。

利休切腹に至る過程には、確固たる史実が存在している。一つは大徳寺三門利休木像安置、もう一つは茶湯道具目利き不正売買の罪状が、世間に広く周知されたということである(利休の木像を一條戻橋で磔にし、高札で罪状を事前に公示していることや、切腹後にその木像の足で踏ませた形で利休の首を獄門にかけるなどした)。しかし、その罪状によって切腹賜ったというには世俗的であって、種々の考察が歴史学者らによって加えられてきた。その諸説あるなか、それらを全て批判的に検討検証し、史料記述及び切腹における「特異性」の分析・検討を踏まえて、新たな視点角度から利休切腹の真相を究明した、桃山学院大学文学部・福井幸男氏の博士論文を採用すれば、利休切腹の真相は次のとおりである。


大徳寺利休木像(当時の利休像は非公開)

先ず、前述した二つの罪状は、「処断当局者による公示罪状である」ということに注意を促している。「処断当局者による前代未聞の木像磔や、切腹にもかかわらず獄門、しかも木像の足で踏みつけると言う特異性は、武門として密かに一目置いている徳川家康に対する官位による威圧」と結論付けた。さらに、「切腹直前の利休屋敷の厳重警固(上杉景勝率いる三千人の兵動員)は、側近官僚に捏造された『反唐入り(朝鮮出兵)密談』に利休が一枚噛んでいる、という疑いに対する警告及び伊達政宗上洛直後、利休は家康、政宗らと妙覚寺で茶会に臨んでおり、万一不穏な動きがあれば断固処断するという、警鐘メッセージとして秀吉の家康に対する見せしめの措置であった」と結論付けている。
本稿では詳しく触れないが、前月号に書いた明智光秀謀反の裏に徳川家康の同盟が存在し、この頃から家康が本格的に天下人への準備を始めていることから、聡明な者同士の光秀と利休にも親密な関係があったことは当然注3、利休にも通じていたと見るのが自然であろう。

注3
光秀の三女・細川玉子(後に洗礼を受けガラシャと改名)の亭主、細川忠興は利休七哲の一人で最も信頼された高弟(利休切腹の沙汰の際、淀の船着き場まで見送りに行った話は有名)であったし、利休十哲の一人である荒木村重の嫡男・村次に嫁いだのは光秀の長女・倫子(信長への謀反の前に離縁され光秀の元へ帰されている)である。

茶の湯を通して内政に深く関わり、いずれの大名、武将よりも秀吉に直言を許され、失言など全く恐れない(「宗易ならでは関白様へ一言も申し上人無見及申候」と宗麟に言わせるほど)利休は、天下人となった関白秀吉にとって、もはや疎ましい存在であり、むしろ、待望の世継ぎ・鶴松の将来のため、豊臣家の態勢固めを念頭に、利休に代わって身近に石田三成ら権力派を重用し、さらに唐入りに野望を馳せる今となっては、利休は無用の長物とさえ思えてきたのも当然であろう。
「秀吉の参謀として、態勢を固めたい三成ら中央集権派は、武門として一目置く徳川家康への牽制も兼ねて、最大の擁護者・豊臣秀長が亡くなったこの機会に千利休を政治的に謀殺する計画を隠密に進め、口実として大徳寺三門利休木像安置を不敬罪とし、茶湯道具目利き不正売買の風評をでっち上げ、三千石の知行に処せられた身分を建前として利休の切腹を秀吉に進言した。その首謀者が石田三成であったことを浮かび上がらせた。」(『千利休切腹の背景~伊達政宗と徳川家康』前田秀一)

そして、利休を最も恐れた男と、最大限利用した男が、後に天下の雌雄を決することになるのである。