トップページ > 2016年4月号 > 女不動産屋 柳本美土里

女不動産屋 柳本美土里

田んぼに霜が降りる日が、みるみる減ってきた。
傍に流れる小川の水は、まだ指先を切るように冷たいが、流れ吹く風には春の柔らかい香りが含まれている。
川沿いの陽だまりに立っている桜の木は、まだ満開にはなっていないものの、多くの花を咲かせている。

先祖は、江戸時代に藩主池田候により備前焼の窯元六姓に指定された家。
明治の時代に、本家窯元にて修行をしていた曽祖父のもとへ窯元家の娘が嫁ぎ、新たな窯元として柴原家ができた。

西洋文化が入り磁器がブームとなった明治の頃は、備前焼にとって厳しい時代であったが、農家をしながらも柴原家は、代々ひたむきに作り続けてきた。

自分も父の跡を継ぎ、備前焼作者としてやってきたものの、齢65歳に達し、二人の息子も家を継いでしっかりとやってくれている。
妻の敦子は、3年前に病気が原因でこの世を去った。
このあたりで引退して、そろそろ自分の時間を持ちたいものだ。

子どもの頃から慣れ親しんだこの場所。
山に囲まれているせいで、太陽が東の山から昇るのは晩く、西の山へ隠れるのは早い。
それでも、山の頂から少しずつ辺りを照らす光の色が時間とともに変わっていく朝。
徐々に赤く、そして紫に天を染めていく日暮れ。
棚田が並ぶ田園風景や、川のせせらぎの音に鳥のさえずり。
何十年もの間、毎日のように見て聞いてきた景色がここにある。

しかし、節夫の憧れる景色はここではない。
ないからこそ憧れるのかもしれないが、海沿いの街で暮らすのが夢だった。
子どもの頃に母親に連れられていった、従兄弟が住む瀬戸内海沿いの町で海岸線に沈む夕陽の幻想的な景色は、節夫の脳裏に焼きついていた。
いつかは、こんな場所で暮らしたい。
その思いが、ずっと心の底に張り付いていたのだった。

備前焼の展示会が終了し、仕事が一段落したことで、パソコンの前に座る時間がとれるようになった。
在庫管理や売上管理をする合間に、気が付けば海沿いの町にある不動産情報を見るようになっていた。
独り暮らしだから、大きな家は必要ない。
必要最小限の改装をすればいいのだから、古くても構わない。
バルコニーから海を臨める部屋がいい。

日々、インターネットでいくつもの部屋を見て、周辺の景色の写真を目にすると、イメージが膨らみ、節夫はいてもたってもいられなくなった。
不動産業者に連絡をとり、いくつかの部屋を内覧する予約をとると車を飛ばして村を出た。

「この部屋なら、ご希望の条件に近いのではないでしょうか?」
いくつか紹介してもらった部屋の中で、最後に案内された部屋。
バルコニーの窓際に立って外を眺めると、午後の柔らかな光にキラキラと光る海面を、緩やかに滑る船がある。
海の向こうには、島の輪郭がうっすらと見えている。

2DKの部屋は、田舎の家と比べると驚くくらい狭いが、生活に必要なものだけを置くようにすれば十分な広さだろう。
「ここに住もう」節夫は決めた。

「売主さんはお近くにお住まいですので、よろしければ明日にでもご契約はできますが、いかがなされますか?」
「もし、ご契約されるということでしたら、手付金として売買価格の1割の60万円と契約印紙代5千円、仲介手数料の半分の12万9600円の合計73万4600円と印鑑、それと身分証明書が必要となりますが、いかがですか?」
節夫は、そういうこともあろうかと、銀行通帳と印鑑も準備してきた。
翌日の売買契約を約束して、ビジネスホテルにチェックインした。

節夫は、ホテルのベッドで横になり、天井を見つめながら思った。
節夫の父が引退したのは、病気が見つかり体調を崩してからだった。
窯元の主が突然交代したのだったが、幸か不幸か入退院を繰り返す父が、節夫のやり方に口を挟むことはなかった。

でも、もし自分が引退して、息子たちの住む家に居たとしたらどうだろう?
仕事一筋でやってきた自分が、まだ元気な自分が、目の前の子どもたちのやり方に注文をつけないという自信はない。

なんとか口出しせずにいられたとしても、息子たちが何かにつけて近くにいる父親を頼ってしまうことも考えられえる。
それならいっそ、子どもたちから遠いところに離れてしまったほうが、彼らのためになるのではないだろうか?

あの部屋なら、子どもたちの自立と、海の見えるところで暮らしたいという自分の淡い夢も、同時に実現できる。
あの海の見える部屋を買うことに、節夫は何の迷いもなかった。
自分の役割を果たし、一段落したような安心感に包まれて眠りについた。

「最近の父さんの行動って、なんだかおかしくないか?」
2つ違いの弟が、昼飯のために戻った居間で口を開いた。
「この前も、急に泊まりで帰れないってことがあったし・・・遠方への商談に行くときなら、前もって泊まる日数も知らせてから行っているよな。もしかして、これでもできたか?」
弟は笑いながら顔をしかめ、小指を立てた。

「まさか、あの人に限ってそれはないだろう」
僕は即座に否定したが、たしかに最近の父は様子がおかしかった。
これまでなら、率先して自分がしていた仕事も、僕たちにさせるようにしたり、なにかと理由をつけて家を空けることも多くなった。
身体の調子が悪いようには見えないけれど、仕事へ意欲をなくしているのだろうか?

それなら、いっそのこと父の仕事を自分たちで受け継いで、隠居をしてもらうように勧めてみようか?
普通の会社員なら既に定年退職して、年金生活を楽しんでいる歳でもある。
仕事で困ったことが起こったとしても、傍に居てもらえればアドバイスももらえるだろうし安心だ。
好きなように老後を楽しんでもらえるなら、少しは親孝行にもなるのではないだろうか?
でも隠居を勧めるなんて、よほど上手く持っていかないと、父がへそを曲げかねない話ではある。
長男の誠は、父にどう切り出したらいいのか悩んでいた。

そんなとき、父から話があると、弟の彰とともに居間へ呼ばれた。
父の口から何が飛び出すのだろうか?
父は、煎茶を入れた湯のみを手の中で動かしながら、言い出しにくそうに口を開いた。
「実は、おまえたちも十分成長したし、わしはそろそろ引退しようかと思っている」
予想していたことだったが、父の口から直接聞かされると、この窯元を継ぐという責任が自分に圧し掛かってくるようだ。
それでも、いつかは通る道。
父が、もう大丈夫と決めたタイミングなのだから、謹んで受ける他はあるまい。

父は言葉を続けた。
「仕事についてはお前たち2人にほぼ引き継げたと思う。わしは、海の近くの町で暮らすことにしたから、あとは2人が協力して自分たちの思うようにやっていってくれ」

海の近くで暮らすって、どういうこと?
引退は想定内だが、離れて暮らすということは考えてもいなかった。
聞くと、すでに部屋は見つけているらしい。それが自分の夢だったとも。
黙って父の思いを尊重するべきなのだろうか?
でも・・・

「彰、お前はどう思う?」
誠は、弟の意見を聞くために作業場の裏に呼び出した。
「引退は仕方ないと思うけど、離れて暮らすのはどうだろう?今はまだ元気だからいいようなものの、もっと歳をとって弱ってきたら、独り暮らしをさせておくわけにはいかんやろ?」
「そうだよな、もし突然倒れたりしたら、どうしようもないし」
「でも、もう部屋を買ったって言ってたよな」
「よくもまあ、あの親父!ひとことの相談もなく、そんなことしてくれるよな」
彰は、吐き捨てるように言った。

「まあ、そう言うなって。海の近くの町で暮らすことが、あの人の夢だったみたいやから」
「でも、なにも買ってまで住まなくても・・・海が見たいのなら、旅行に行けばええんや。独りにさせるのは、俺はやっぱり反対やな」
「そうやな、誰かが傍にいたら、万が一倒れたりしても、すぐに対応できるしな」
兄弟の気持ちは同じのようだ。

「お父さん、部屋を買ったって言ってたけど、もうお金を払ってしまったんか?」
節夫は、売買契約は済ませて手付金や費用に70万円余り使ったこと、残りは1ヵ月後に支払って引渡しを受けることを話した。
「お父さん、あのな、彰とも相談したんやけど、やっぱり離れて暮らすのは賛成でけへんわ。万一のことがあったら、悔やむに悔やまれへん。海が好きなら、旅行で行ったらええんちゃうか?宿に泊まるのやったら、独りでも安心やし、僕らも一緒に行けるときは付き合うから」
父親は、腕を組んで考え込んだ。

「社長、先日ご契約いただいた柴原さんから、キャンセルしたいって連絡があったんですけど・・・」
柳本不動産の新人営業マン、河野が残念そうに社長の柳本美土里に告げた。
「ええ~、なんですって?キャンセル?」
美土里も少し声が上擦っている。
「キャンセルってどういうことよ!」
美土里は、大きくて、かつ切れ長の目で河野を睨んだ。
「そんな~、僕に怒られても~・・・」

柴原さんの家族から大反対を受けたということで、契約はしたけれど、解除したいという意思を伝えてきたという。
「そうなの、まだ手付解除ができる期間だから、手付金を放棄したら契約の解除はできるけど・・・仲介手数料も必要だし、そういうことは話したの?」
「はい、それは話しました」
「それを納得の上なら、仕方ないわね~」
美土里は売主に電話を掛け、話があるからと、伺う旨を伝えた。

「赤井さん、この度は大変申し訳ありません。こういった事情で、買主さんが契約を解除したいって言われているんです」
美土里は頭を下げた。
売主の赤井女史は、父親が残した不動産資産を引き継いだ資産家の娘さんで、自らもビルやマンションを増やしたり入れ替えたりして、いくつもの不動産を所有している。
娘さんといっても、年齢は美土里の父親くらいではあるが。

「あなたが担当の河野さん?」
赤井女史に睨まれて、河野は身を小さくした。
「もう少し、詳しく話してちょうだい」
河野は恐縮しながらも、買主さんが息子さんたちに反対されたこと、反対の大きな理由が父親の独り暮らしが心配だからということなどを話した。
「じゃあ、契約上は、どういう処理になるのか教えてちょうだい」
赤井女史は、表情を崩さずに言った。
河野は、契約書のコピーを手にし、該当する条項を指差しながら説明を始めた。

「はい、契約は完了しましたが、まだ手付解除の期間内ですので、買主は手付金を放棄して契約を解除することが可能です。つまり、手付金の60万円は赤井様が受け取り、お部屋はまた売り出すことができます。ただ、この場合も仲介手数料はかかってきますので、受け取られた手付金の中から弊社に仲介手数料を支払っていただくことになります」
「そうなの」
肯定の返事なのか、不満を含んだ言葉なのか、わからない口調で赤井女史は言った。
「で、買主さんからも仲介手数料は取るのよね」
「はい、契約は済んでいますので、仲介としての業務は行っています。これも契約書の条項に記載されていますので・・・」
河野はそう言うと、契約書の該当条項を読み上げた。

しばらくの間、赤井女史は腕を組んで考えていた。
そして、結論に至ったのだろう、顔を上げて河野に向かって話し出した。

「私の父は、晩年は心臓に病を抱えながらも、仕事であちらこちらに飛び回っていたの。その頃は、既に私もいい歳になっていたけれど、独りで全国に出掛けていく父に、ハラハラさせられていたわ。もう仕事はいいから、早くゆっくりして欲しいと思ってたのに、仕事が自分のやりがいだからって言うことを聞いてくれなかった。そして結局、出張先で倒れて、そのまま帰らぬ人になってしまって・・・」
「もし、私がもっと強く引退を勧めていたら、独りにさせなかったら、と思うと悔やまれて仕方がなかったわ。だから、買主さんの息子さんたちの気持ちは、ほんとよくわかるのよ」
赤井女史は父への慕情を思い出したのか、辛そうに口元を引き締めた。

「手付金は要らないわ。返します」
河野は驚いて、赤井女史と美土里を交互に見た。
すると、河野と赤井女史のやりとりをじっと聞いていた美土里が、ゆっくりと口を開いた。
「そういうことでしたら、私どもも、赤井様にも買主の柴原様からも、仲介手数料はいただきません。買主さんから受け取った仲介手数料の半金も、お返しします」
赤井女史は美土里を見つめ、柔らかく微笑んだ。

「社長、本当にあんなこと言って良かったんですか?」
赤井女史の事務所から戻る車の中で、河野は美土里に尋ねた。

「あのね、河野君。赤井さんが手付金を受け取らずに返すと言われているのに、うちだけ手数料をもらうわけにはいかないのよ。契約に向けて調査もして、動きもしたわけだから、うちとしてもそれなりの費用はかかっているけれど、新たな買主を探せば、仲介手数料はまた貰えるでしょう。目先のお金に捉われるんじゃなくて、気持ちには気持ちで応えないと」

美土里の言うように、柳本不動産と赤井女史との間には、これまでの長い付き合いがあり、お互いに信頼関係が築かれているのだろう。
そして、今回の逃した手数料以上の取引が行われており、これからも行われるのだろうと思う。

河野は事務所に帰ると、すぐに買主の柴原さんに、赤井女史が預っている手付金を返したい気持ちだということ、自社も受け取った仲介手数料を返す旨を伝えた。
柴原さんは、自分の側に非があるのだから、手付金も放棄するし、仲介手数料も支払うと言い張った。

そうしたやり取りを察して、美土里が口を挟んだ。
「河野君、ちょっと電話を代わってちょうだい」
美土里は、売主の赤井女史の気持ちを汲んであげて欲しいということを丁寧に説明し、それならと、最後は柴原さんも納得した。

手付金と仲介手数料の返金処理をした後、しばらくして、赤井女史からの電話が鳴った。
赤井女史のもとに、柴原からお礼の手紙とともに、ひとかかえもするくらいの大きな備前焼の花器が贈られてきたそうだ。
その電話を受けていると、柳本不動産の木製の引き戸がガタガタと音を立てて開き、ワレモノ注意のシールが貼られた荷物を運び入れる宅配業者が現れたのだった。(完)

このドラマはフィクションであり、実在の団体や個人とは何の関係もありませんので、ご承知ください。