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ラビットプレス+1月号


浮世絵:豊宣/新撰太閤記 織田信長・明智光秀・森蘭丸(古美術もりみや)

「あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめされ申候時、ほんのふ寺へ我等より先へはい入申候などといふ人候ハバ、それはみなうそにて候ハん、と存候。其のゆへハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、ゆめともしり不申候。其折ふし、たいこさまびつちうニ、てるもと殿御とり相ニて御入候。それへ、すけニ、あけちこし申候由申候。山さきのかたへとこころざし候へバ、おもひのほか、京へと申候。我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくニて候まま、いへやすさまとばかり存候。(本城惣右衛門覚書)」
訳:明智が謀反し、信長様に腹を召されよと申したと。本能寺へ我等より先に入りそう申されたなどと言う人が居るが、それは皆嘘である。その理由は、信長様を討つなどということは、夢にも知らず、太閤様は備中に、輝元殿(毛利輝元)と対峙しているので、それへ加勢すると明智は言っていた。山崎を超えて行くと思っていたら、思いのほか、京へ向かうと申された。我等は、てっきり家康様がご上洛されたのだと。相手は家康様とばかり思っていたのだから。

天正10年(1582年)6月1日、申の刻(15時から17時あたり)、居城である丹波・亀山城にいた明智光秀は、家臣たちと出陣する。目指すは羽柴秀吉が待つ備中高松城。これは、信長の命を受け、秀吉軍援護の派兵に基づく中国出陣であった、はずであった。光秀軍は、亀山から山崎へ抜け摂津へ向かうルートを申告していた(信長公記)。山崎は、現在の京都府乙訓郡。京と摂津の要所であり、申告通り進めば山陰道から長岡京、大山崎と抜ける。しかし、光秀軍は沓掛(くつかけ)から山陰道を東に向かう。辺りはすでに日が落ち、時刻は戌の刻(20時頃)。集結した軍勢。このとき、光秀は訝しがる家臣達に対し、あの有名な号令を発するのである。

『敵は本能寺に在り』


浮世絵:芳虎/本能寺の変(古美術もりみや)

光秀の決意を初めて知らされた重臣達は驚愕する。最初、家臣達は、家康を討つものだとばかり思い込んでいた(前述・本城惣右衛門覚書)。その真意を知るや、動揺が軍勢を駆け抜ける。謀反である。それも今や向かうところ敵無しの勢いで力を伸ばしている織田信長の首が標的であることなど、誰もが考えなかったことである。
動揺する家臣達に斎藤利三の激が飛ぶ。「今日よりして天下様になられる。出世は手柄次第だ。勇み悦べ!」と触れが出され(川角太閤記)、京へ向けて進軍を開始する。6月2日未明、「敵」を取り囲んだ光秀勢に、一斉攻撃が下知された。

下剋上の最たるもの。歴史上最大の謀反と言われ、400年以上の間、世紀の裏切り者扱いされてきた明智光秀の真意は未だに謎とされている。本編では、その謎解きに挑戦するのではない。動機はその後の行動に裏打ちされるが、結果として「本能寺の変」は成功し、一度は天下人の階段を上り始めたのである。問題は、その後の運命。「三日天下」の語源となった光秀の失墜の原因はどこにあったのか。一世一代の大博打に出た光秀に、どんでん返しを用意したのは誰か。光秀はそれに気づかなかったのか。それとも、光秀失墜に至るまでに歴史上で語られる数々の出来ごとは事実であって、そうなる運命と片付けられることなのか。
現代において、一世一代の賭けに出る瞬間は誰にも有るのかもしれない。その時、賭けに勝ったその後の生き方が重要なのであって、勝つことだけが目的という者には勝利の女神は微笑まない。しかし、勝利者を利用しようとする者が居た場合はどうか。身内が、仲間が、親友が、右腕の部下やパートナーさえも信用してはならないのか。光秀の計画と、表には出ない者達によって書かれたストーリーを暴き、貴方が一世一代の勝負を賭けるとき、必ずやお役に立てる最高の戦術を伝授する。


本能寺跡(京都市下京区四条西洞院通)

【光秀謀反の動機】
ともあれ、本能寺の変・その後を推測するには、謀反の動機に触れておかなければならず、歴史研究者等の成果に基づいた諸説から、その後、の顛末を検証するのに最も合理的な動機を柱として進めていくこととしたい。
その説とは、歴史研究家の明智憲三郎氏が説く「土岐氏(明智氏の出所)再興と唐入り(信長の海外派兵政策)阻止説」である。明智憲三郎氏は、光秀の末裔と自らを紹介し、これまでの研究で多く唱えられてきた「単独犯行説」「怨恨説(これは昭和33年に高柳光寿氏著「明智光秀」において野望説で否定している)」「野望説」「突発説」など諸説を膨大な文献と現存資料の証拠認定を積み重ねて否定した。

光秀は岐阜県可児市広見・瀬間の明智城(長山城)に生まれたとされ、美濃の守護の土岐頼芸(よりなり)は斎藤道三によって追放されたが、光秀につながる家系は絶えなかったことから、道三側に付いたと思われる。「明智氏一族宮城家相伝系図書」という家系図には、光秀の叔母にあたる女性が、斎藤道三に嫁いだという記述がある。道三側に付いた明智家は、道三と対立した斎藤義龍に攻められ明智城は落城。光秀も美濃を追われることになる。
その後の光秀は、各地を転々としながら、越前一乗谷の朝倉家で任官に採用されている。そして、この越前の地で、朝倉家を頼って落ち延びてきた足利義昭や細川藤孝と親交を持つようになるのである。
そして、足利義昭の上洛に一向に動かない朝倉家を見限り、当時、日の出の勢いの織田信長のもとに足利義昭を連れて行き、自らも信長に仕官するのである。光秀は美濃出身であるし、明智氏一族系図が正しければ、信長の正室の濃姫とは従兄妹(いとこ)の関係になるので、信長との縁もそれなりに濃かったのである。早速、信長は足利義昭を奉じて上洛する。時を置かず、光秀は京都奉行の役職を担い、これを見事に勤め上げていることから、高い教養と実力を身に付けていたものと思われる。更には、吉田兼見や、勧修寺晴豊など公家との繋がりも出来、朝廷との連絡役も執っていた。信長の重臣に出世していた光秀の武功は相当なもので(裏切り者として長きに亘り事実は隠ぺいされていたが)、坂本城をはじめ、丹波一国の領主として信長家臣№2の座まで登り詰めていた光秀は、近畿一円の最高責任者であったことは事実であろう。
その光秀が、突発的な理由や信長への怨恨で謀反に走ることは、やはり考え難いのである。


当時の勢力図(資料:IRONNA)

石山本願寺との戦(石山合戦)が続いていた頃、信長と長宗我部元親は同盟関係にあった。信長からすれば、石山本願寺を挟み撃ちに出来る地理的関係の四国・長宗我部氏との同盟は有益であった。長宗我部にあっては、四国統一にあと一歩と迫り、阿波の三好氏に対する侵攻を始めていた。そもそも三好は、将軍足利義輝を討った三好三人衆で、義輝の弟の義昭を担ぐ信長とは敵対関係に在った。この織田・長宗我部同盟の仲介役が光秀であった。その後、天正9年(1581年)までに長宗我部の勢力は拡大し、土佐、讃岐、伊予を制圧して阿波の三好に迫っていた。一方、天正3年(1585年)に信長に服属した三好康長は、四国の三好勢力に影響力を発揮し始めたため、信長は三好と長宗我部の両立に方針を転換する。これに不満を募らせた長宗我部元親と信長の関係は悪化し、石山本願寺が織田に降伏した翌年(天正9年)に、信長は長宗我部との同盟関係を覆す。信長は、長宗我部の支配を認めるのは土佐と阿波の一部のみと通告し、信長三男の神戸信孝(かんべのぶよし・この後、三好康長の養子となる話も進んでいたといわれる)や、丹羽長秀らに長宗我部征伐を命じた。信孝に与えた朱印状には、四国仕置・信孝に讃岐、三好康長に阿波を与え、土佐、伊予については信長が沙汰すると書かれている(天正10年5月7日付)。そして、長宗我部征伐軍の四国渡海の日程を、6月3日、つまり本能寺の変の翌日としていたのである。
実は、この長宗我部元親と光秀の関係には重要な人物が存在する。石谷頼辰(いしがいよりとき)である。石谷家は美濃国石谷郷(岐阜市石谷)を本貫とする一族で、鎌倉時代、清和源氏の土岐光行の功績でこの地に入った。室町時代には、将軍側近の奉公衆を務めた(永禄6年諸役人附に光行の子・石谷兵部大輔光政の名前が記されている)名門である。元親はこの石谷家から光政の娘を正室に迎えていた(永禄6年1563年)。光政は13代足利義輝に仕えたが、永禄8年(1565年)、義輝が松永久秀らに暗殺されたことから、娘の嫁ぎ先である長宗我部家を頼って土佐に渡った。石谷氏は代々幕府高官の奉公衆であり、美濃豪族斎藤氏とも姻戚関係がある。元親はこの人脈を活用し、四国制覇を早い時期から目論んでいたと考えられる。光政には嫡男が居なかったため、明智光秀の重臣である斎藤利三の兄の頼辰を養子に迎えた。つまり、元親と頼辰は義兄弟である。更に最も重要な関係が、明智氏も石谷氏も土岐氏一族なのである。土岐氏一族は固い結束を誇る一族で、加えて明智氏、土岐氏は共に幕府奉公衆として代々の繋がりがあるのだ。幕府役人の名簿には両氏の人物名が揃って書かれている。奉公衆としても同僚であったと思われる。このような関係がある光秀と頼辰の間も深く、信長の長宗我部征伐を何とか回避させようと、光秀や斎藤利三、頼辰が元親説得に奔走した記録が残っている。裏を返せば、光秀にとっても長宗我部氏の協力は土岐氏再興に必須の後ろ盾であり、再三に亘って四国渡海を中止させようと信長に取り合ってきたのであるから、もはや6月3日の出陣を阻止する為には時間が無さ過ぎたのであろう。

~ブレイク~
2014年6月、土佐(高知)の戦国大名、長宗我部元親が四国の領有権をめぐり、本能寺の変の直前、10日前に織田信長の命令に従う意向を示した手紙が「石谷家文書」の中から見つかった。斎藤利三に宛てた書状で、信長の四国攻めを回避するため、信長に同心しようという元親の心情が浮き彫りになっていた。


元親が斎藤利三に宛てた信長への同心を表明した書(資料:林原美術館蔵)

【三日天下…光秀失墜の原因とは】
何とか謀反を成し遂げた光秀は、すぐさま信長居城の安土城へ進撃する。本能寺で茶会を催し(天正10年6月2日)、その後の6月4日には、直ぐに中国(毛利)制圧に出陣すると各方面に告げていた(5月29日御上洛の御触れ)ことは史実に残っている。しかし、これは家康を油断させておく為のカムフラージュだった(明智憲三郎・本能寺の変はこう仕組まれた158項)。本来であれば、安土城には中国出陣を控えた織田軍勢が待機しており、本能寺の変から直ぐに疲弊した光秀軍が向かっても勝ち目があるとは思えない。明智憲三郎氏の説に沿えば、信長の策略は徳川家康討ちを目的とした一連の流れから起こったものであるという。
天下布武をほぼ手中に収め、いよいよ海外遠征にまで夢が現実味を帯びてきた信長は、やはり優れた武将であった。当時は信長に服していた徳川氏の力と知略、家康の野望はすでに見抜いていたのであろう。特に唐入りが現実となったときには、国内に有力な家臣が不在となることが安易に想像出来、その隙を突かれて攻め入られることは予想できる。利口な家康を心底信用していない信長には、やはり家康の存在は危険であったのだ。だから数々の準備と綿密な計画、何重にもカムフラージュした芝居を重ね、家康を安土城で饗応注1し、堺見物まで行かせておいてから、帰路の途中に本能寺へ呼び寄せ茶会に招待すると見せかけ、中国へ秀吉援軍として向かわせたはずの光秀が本能寺へ戻り家康を討つ。更に家康と同時に呼び寄せた筒井順慶と合流し、安土城経由で徳川領に一気に攻め入る計画であった。
注1 饗応:食事でもてなす接待

このような重要な計画を実行するには、本当に信頼する重臣のうちでも極少人数の家臣にしか打ち明けられない。その最も信頼できる家臣が光秀であった。光秀は、この家康討ちを逆手に取り、見事に謀反に利用したのである。


栄華を極めた安土城(復元模型:安土城郭史料館)

だから、光秀は安土城に出陣に備えた織田軍など居ないことは承知の上であった。光秀は、信長を討ちとったあと、安土城を制圧して騒ぎを抑え、続いて上洛し朝廷へ報告する手はずは周到に練っていたはずである。光秀の政権安定には朝廷の信任は不可欠であったからだ。
キリスト教イエズス会宣教師ルイス・フロイスの「日本史」で光秀についての人物像が描かれている。
「前略、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。中略、戦いに熟練の士を使いこなし、人を欺く為の72の方法を深く体得し、且つ学習したと吹聴していた。その才略、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた。主君とその恩恵を利することをわきまえていた。自らが受けている寵愛を保持し、増大する為に不思議な器用さを身に備えていた。絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得る為には、彼を喜ばせることを万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないように心がけた。信長は、奇妙なばかりに親しく彼を用いた。殿内にあって彼は余所者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」。
家を断たれ、流浪の身から驚異的なスピードで立身出世を果たしてきた光秀にとって、身につけた才能と経験は並はずれていたことが分かる史料である。そんな光秀が何故三日天下で終わったのか。

《原因その一…秀吉の中国大返し》
光秀が本能寺の変の直後に安土城へ進軍することは信長の戦略として決まっていた。その傍らには本能寺で合流する予定の大和・筒井順慶の軍勢が居るはずであった。しかし、実際は順慶の軍は奈良興福寺にあった(蓮成院記録)。その頃、毛利との和睦に成功した羽柴秀吉軍勢が猛烈なスピードで京へ向けて引き返していた。世に言う、「中国大返し」である。6月8日に光秀が、「明日、摂津へ手勢を出す」と兼見卿記に記されていることを見れば、用意周到な光秀のこと、備中高松の秀吉の動きを監視していたと思われる。秀吉対策の為であろう。しかし、秀吉の動きは光秀の想像を超えていた。


大山崎の戦い・天下分け目の天王山(資料:大山崎町)

《原因その二…同盟者の相次ぐ離反》
光秀も9日には上洛し、細川藤孝、忠興親子に援軍要請の書状を送った。しかし、一旦は同盟者であった細川藤孝は、信長に弔意を示し結いを落としているなど、光秀に離反の意を示していた。同じく筒井順慶も光秀から離反の動きを固めていた。「多聞院日記」には、光秀加勢の為に河内出陣から急遽、居城の郡山城に籠城したことが書かれている。
10日。摂津制圧に動いた光秀であったが、摂津の守護・池田恒興、中川清秀や高山右近は、キリスト教支援者であった信長を謀反した光秀を許さないイエズス会宣教師オルガンティーノらの力が働いており、すでに秀吉に与することを決めており、光秀は摂津を諦めるしかなかった。そして前線を山崎まで退却させた。


1588年版ルイス・フロイスの「日本通信」(京都外国語大学蔵)

《原因その三…遠すぎた徳川》
6月4日、堺に居た家康が三河へ帰着している。岡崎で家康は休む間もなく甲斐、信濃の織田軍切り崩しに動く(「天正壬午の乱」)。明智憲三郎氏によれば、家康は5月の安土表敬訪問の時点で光秀、藤孝、斎藤利三と信長討ちの同盟を結んでいたので、帰着後光秀に援軍を送る準備はしていたようである。徳川では、居城である岡崎より東に向けた陣営を東陣、西に向けた陣営を西陣と呼んでおり、前述した旧武田領への進軍を速やかに準備しながらも、西陣の兵を配していたことが松平家忠の「家忠日記」に書かれている。当初家康は直ぐには西陣を動かさなかった(東陣に相当戦力を割いていた為、兵が揃わなかった)。しかし、京から戻った水野忠重の知らせにより、秀吉軍の状況が伝わり、風雲急を告げて、急遽光秀援軍を出陣させる為に東陣の兵を加え、10日に陣触れを発令している。しかし、それでも未だ陣容が整わず、結局出陣は14日に延期された。家康の慌てぶりが光秀救援の真実味を物語っている。
このときすでに、光秀の息は絶えていた。


推測される伊賀越え行程(三河家康館)

【石橋を叩いてもなお、渡らない】
光秀失墜の経過を辿れば、ほんの数日で大勢が見る見る崩れていくのが分かる。信頼していた同盟者の相次ぐ離反、謀略の後手と予期せぬ勢力(イエズス会)の働き、まるで待っていたかのようなライバル(羽柴秀吉)の素早い行動、援護タイミングのずれ、など、これらが数日の間に一挙に現れたのである。
現代において、一世一代の勝負を仕掛けようとしたとき、光秀が陥った状況を見逃してはならない。勝負事が大きければ、他人の力を借りなければならない。
しかし、それは信頼の上に成り立たない関係。つまり利害の一致のみが他人の力を引き出すということなのだ。奴が勝負に勝てばおこぼれに与れるという目算の蓋然性が高ければ高いほど他人は自らの利害の為に働くのである。決して自分の為に働いてくれるのではない。

敵を欺くには味方。化石の様な兵法だが、時を経た今でも褪せることのないセオリーである。

そして難しいのは、争いの渦中に無い敵を想定すること。静観している外野の外の外までアンテナを張り巡らせ、そして対策をしておくことである。

更にはハゲタカやハイエナのごとく漁夫の利を耽々と待っているライバルが居ることを忘れてはならない。そんな輩に綺麗事は一切通用しないのである。

一世一代とは、勝負に勝つことが目的ではない。一代尽きるまで成功を維持しなければ意味が無い。その期間が歴史を動かす時間なのだから。