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女不動産屋 柳本美土里

駅のターミナルビルを南側に出ると、電線を切る獣の声のような風の音が耳に届いた。
3日ほど前までは、春が来たんじゃないかと思わせるような暖かさだったが、今日は一転、雪雲が空を覆い、冷たい風が頬を切った。

いつの間に、こんなところにドラッグストアができたのだろう?
東側の角に銀行があるアーケードの商店街は、店の入れ替わりの激しい街中でも、自分が子どもの頃からやっている洋食屋さんやカメラ屋さんが、変わらず軒を連ねていたはずだが・・・
銀行から数えて3軒目のドラッグストアの派手なポップは、中国語と韓国語で書かれていて、ここは本当に日本か?と疑いたくなる。

さらに商店街の奥に進む。
小さなブティックや古本屋さんを通り過ぎ、通路まではみ出して商品をディスプレイしている鞄屋さんを南に折れたところに、大ぶりなタイルが入口を取り囲むビアホールが見える。
自分が生まれるよりも前に建築されたというビアホールは、以前はこの街に住む欧米系の外国人のたまり場になっていたのだが、地震で建物が倒壊して新たに建て直した後は、めっきりその姿は見えなくなり、店の外を闊歩するのは、アジア系の旅行者ばかりのように思われる。

アーケードの外に出ると、待ち構えていたように寒風が顔を直撃した。
この寒い日にビールはないだろう。
でも、ここの鶏の唐揚げとカニ爪のフリッターには、やっぱりビールが合うんだよな。

ドアを押して店内に入り、友人の名前を告げると、白いブラウスに赤いジャンパースカート、白いエプロンをした元祖コスプレのようなウエイトレスが、2階のフロアの席を告げた。
2階のフロアには、座っている人の顔も判らないくらい奥までテーブルが続き、行ったことはないが、テレビで見たことがあるようなドイツのビアホールを思わせる。
フロアの真ん中あたりのテーブルでは、北村がビールジョッキを手に座っており、すでに顔を赤らめていた。

「早いな。もう飲んでるんか?」
「いや、さっき来たところや。先にやってるで」
そういう北村が掲げた大ジョッキは、半分ほどがなくなっている。
この顔色からすると、すでに2杯目だろう。

北村とは、高校時代からの付き合いだ。
同じサッカー部に所属していたが、レギュラーに選ばれるほどの才能もなく、努力も嫌いというところが共通して、妙にウマが合った。
それでも、それなりの受験勉強を経て、それなりの大学に進学し、片や証券会社に、片や不動産会社に就職した。

「おい、河野。お前、会社を変わったらしいけど、どうや?」
「どうや?って・・・」
居心地のことか?待遇のことか?何のことだ?
この北村という男は、答えに困るような適当な質問をするやつだ。
曖昧な質問をすることで、答える側の最も興味のある話題を話させようというような高度な会話テクニックを使っているのか?と思ったこともあったが、実はそんな意図は全くなく、単に適当なだけのようだ。

「今度の会社は小さな不動産屋なんやけど、社長が女性で、それもとびきりの美人・・・」
北村は、女性社長で美人というところに食いついたらしく、ビールを飲むペースを落として女社長のことを尋ねてきた。
「まあ、そんな風なやり手の女社長やから、いい勉強させてもらってる。会社は小さいけど信用できる不動産屋って口コミで広がっているみたいで、結構忙しくさせてもらってるよ」
河野は追加で注文した唐揚げに塩をかけた。

たぶん3杯目のビールに突入した北村は、愚痴りだした。
「河野はええよな、独身やから。稼いだ金は全部自分のもんやからなぁ」
「俺なんか、去年2人目の子どもができたやろ?それを機会に家を買ったもんやから、小遣いも減らされて、もう大変や!」
赤くなった顔をさらに上気させた北村は、いくぶん声も大きくなってきたようだ。
「そりゃ、お前よりは自由になるお金はあるかもしらんけど、家に帰っても嫁さんが待ってるわけでも子どもの可愛い寝顔を見られるわけでもないからなぁ。それだけ寂しいってことでもあるで」
「その上、自分の家も持っているんやから、どんな文句があるんや?」
「そう言うけどな、去年お前から買うた家は、ほとんどローンが残ってるから、俺の家というよりも、銀行の家みたいなもんやで」
「給料も嫁に押さえられとるしな」
北村はジョッキの底に残ったビールをあおった。

「春先は、不動産屋は忙しいんとちゃうんか?」
「まあ、賃貸の入れ替わりとかがあるから、普段よりは忙しいかな。まあ、税理士さんほどではないかも?やけど」
「税理士?なんで税理士が春先に忙しいんや?」
「え?」
こいつ、とぼけてるのか?
河野はまじまじと北村の顔を見た。
少しも笑っていない目からすると、冗談を言っているのではないようだ。
学校を卒業してからずっとサラリーマンをしていた北村は、もしかして確定申告なるものを知らないのか?
「この時期は確定申告の時期やろ。そやから税理士の先生は1年で一番忙しい時期やって。知り合いのゴルフ好きの税理士の先生でも、3月だけはゴルフがでけへんって嘆いていたほどや」
「確定申告ね~」
なんだが違う世界の話のような返事だ。
普通のサラリーマンにとっては、確定申告ってそんなに実感がないものなのか?

「北村、お前も今回の確定申告は関係あるんやで」
は?なんで?
北村はビールの力で緩慢になった瞼を無理やり開いて河野を見た。
「お前、去年に住宅ローンを借りて家を買ったやろ?」
「ああ、お前に買わされた」
「いやな言い方するやつやなぁ」
「お前が家を買ったときに、納めた所得税から税金の一部が返ってくるという住宅ローン控除制度っていうのがあるのを話したやろ?」
「そんな話、聞いたかな~?」
ほんま、ええ加減なやつや。
「言うたで。住宅ローン控除が適用される条件はあるけど、お前の場合は適用されるんやから。そやから、今回は税務署に行って確定申告をすることで、いくらか税金が返ってくるんやから、ちゃんと確定申告しときや」

「ほんまか。そやけど、税務署で手続きするって面倒くさいな。税金が返ってくるって、どれくらい返ってくるんや?」
北村は、カニ爪のフリッターをかじった。
「たしか、3000万円の借入れやったよな。去年の年末では、ほとんど元金は減ってないから、ほぼ3000万円近いローン残高があるやろ。で、たしか所得税は25万円ほどやったかな?」
「お前、よく人のふところ事情知ってるよな」
「住宅ローンの借入れのときに、手伝ったやろ?そのときの必要書類で会社からとってもらった源泉徴収票を見たらわかる話や」
「ローン残高3000万円やったらその1%の30万円まで、所得税を25万円納めてるから、その全額25万円そっくり返ってくる。それに控除しきれなかった5万円も、翌年の住民税から還付されるはずや」

「え?そんなに貰えるんか?」
いや、貰えるんじゃなくて納めた税金が返ってくるってことなんやけど・・・
まあ、そこの説明はええか。
「それが10年間続いて、あの家の場合では、最大で400万円の税金を返してもらえるってことなんや。実際はどれだけ税金を納めているか、どれだけローンが残っているかによって返ってくる金額は変わるから、400万円になるかどうかはわからんけどな」
「あの家が、長期優良住宅に認定されてる家やったら、この金額が最大で500万円になるんやけどな」
「なんでそんなこと、もっと早く言うてくれへんかったんや!」
いや、住宅ローン控除のことは言うたよ。
お前が聞いてなかったか、忘れただけやろ。

「行く行く、すぐ税務署に行く!そやけど、税務署がどこにあるかわからへんし、手続きのやり方もわからへんから、お前も一緒に来てくれ」
「すぐ行く言うても、住宅ローン控除の申告をするには、いくつかの書類が必要やから、先にそれを用意しとかないとな。言うからメモしとけよ」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
北村は隣の座席に置いている鞄の中から、システム手帳を取り出した。
仕方ない、後学のためにも北村と一緒に行って手伝ってやってもいいか。
「まずは、源泉徴収票。それから、銀行から借入金の年末残高証明書が家に送られてきているはずやから、それ。あと、土地と建物の登記簿謄本、売買契約書の写し、住民票やな。それと申告書に捺印する印鑑かな」
「源泉徴収票は会社に言うたら出してくれるわな、住民票は市役所で取れるな、売買契約書はコピーしたらええんか?」
「そやな、コピーでええけど、念のため原本も一緒に持って行ったらええわ」
「年末残高証明書ってのは、家に送られてきてるんか?」
「ああ、送られてきてると思う。奥さんが保管してるかもわからんし、確認してみたらどうや?」
「もし、なかったら?」
「なかったら、銀行で再発行してもらえるから、その時は銀行にどうしたらいいのか聞いてみよう」
「登記簿謄本はどこで取れるんや?」
「登記簿謄本は法務局で取るんやけど、お前の家のエリアを管轄する法務局は、もうコンピューター化してるから、正確に言うと登記簿謄本やなくて、登記事項証明書やな。これは仕事のついでに僕が取っておくわ」
「印鑑は、実印やなくてもええんか?」
「ああ、大丈夫」
「ほな、税務署からお金も貰えることやし、もう1杯飲もうか!」
「お姉さん、ビール2つ!」
北村は、上機嫌で叫んだ。
いや、貰えるんじゃなくて、返ってくるってことなんやけど・・・

確定申告書の提出時期は、3月15日までなので、それに間に合うように書類を準備し、北村が代休をとった平日の朝に、待ち合わせをすることにした。

コーヒーの香りが店内に充満している駅前の喫茶店は、2人が高校時代にもよく通った店だ。
マスターの髪は既に銀髪、それがまた店のレトロな雰囲気とマッチしていた。
高校の頃には、平気で完食していたサンドイッチとおにぎりがセットされたスペシャルモーニングセットは、まだメニューには残っていたが、朝からそんなボリュームのあるものを食べているような若者の姿はどこにもない。
どう見ても、マスターと同じくらいの年代の男性が2人、別々のテーブルでバタートーストとゆで卵のモーニングを食べ、新聞を読んでいるだけだ。

「登記事項証明書はとったけど、他の必要書類は準備してきた?」
「これ、言われたものは準備したけど、ちょっと確認してくれ」
北村は、地元の店の宣伝が載っている市役所でもらった封筒を取り出し渡した。
源泉徴収票、年末残高証明書、契約書のコピーと原本、住民票。
念のため印鑑を持ってきているかも確認した。
「まあ、これで大丈夫やろ」
相変わらず無口なマスターに会計を済ませてもらって、茶色のドアを押して外へ出た。

喫茶店を出て、西へまっすぐ進み5分ほど歩いたところにある図書館の横が税務署だ。
北村は税務署の玄関で立ち止まった。
「なんか俺、緊張してきた」
なんで税務署に行くのに緊張するんや、べつに悪いことする訳でもないのに。
サラリーマンにとっては、税務署は非日常やから、緊張するものなのか?
「ほら、行くで!」
友の背中を押して建物の中へ入っていった。

「こんにちは、確定申告ですか?」
受付の順番がやってきてカウンター越しに対応したのは、30歳を少し過ぎたくらいの、いかにも育ちの良さそうな、ゆで卵ような白い顔の女性だ。
普通のセーターにフレアスカートの姿からして、アルバイトなのだろう。
「はい、住宅ローン控除の申告をしたいのですが・・・」
自分にふさわしくない場所に連れて来られた犬のように、柄にもなくモジモジしている北村に代わって、言ってやった。
ゆで卵の顔の女性は、申告者が給与所得者かどうかを確認すると、申告用紙一式を手渡し、笑顔で言った。
「こちらでご記入されるのでしたら、後ろのカウンターをお使いください。提出は、あちらの列にお並びくださいね」

「あれっ?還付金の振込口座を書くようになってる。そっか、うっかりしてた、そりゃ必要や」
「振込みで還付金が返ってくるみたいなんやけど、銀行の口座番号ってわかる?」
「え~っと、何番やったっけ?」
北村は天井を見上げた。
「キャッシュカードとか持ってるやろ?そこに口座番号が書かれてるはずやから」
北村は財布からキャッシュカードを引っ張り出すと、申告用紙の横に置いた。
「この口座に25万円もの金が振り込まれるんか?」
嬉しさ半分、とまどい半分の表情で北村はキャッシュカードを指差した。
「ああ、特に問題なければ、振り込まれるはずや。ま、もともとは会社を通して自分が納めた税金やけどな」

さすがに確定申告の時期だ。
申告を受け付けるテーブルが3つ出されて、それぞれに職員が対応しているものの、フロアには長い列があった。
意外にも早く受付テーブルにたどり着き、書類一式を差し出すと、手馴れた動作で職員が確認し、ポンと税務署のはんこを押し、申告用紙の控えを渡された。
書類を差し出してから控えを受け取るまで、ほんの1分もかかったかどうか?
あまりにあっけなく住宅ローン控除の申告は終わった。
「え、申告ってあれだけ?」
北村も拍子抜けしたような表情で、申告書控えを手にしていた。
確定申告の受付は、書類の不備がないかのチェックをするだけで、内容の確認は後でするようだ。
そこで問題があったら、連絡があるわけだが、特に問題がなかったら処理された順番に還付金が振り込まれるらしい。

「でも、教えてもらってて助かったわ。もし、この申告をしてないとどうなってたんや?」
「住宅ローン控除にしても他のことにしても、還付金請求っていうのは、申告があって初めて還付されるんや。だから、申告しないで放っておくと、1円も戻ってこないって訳。税務署がいちいち還付請求してくださいよーなんて言うてはくれへんからな」
「ええ~!じゃあ、25万円がパーになるってことかいな」
「ほんま、お前のおかげで助かったわ。じゃあ、お礼に今からちょっと行こか?」
北村は親指と人差し指を立てて、杯を飲み干す仕草をした。

休み明けの出勤日。
「河野君、おはよう。昨日はゆっくり休めた?」
柳本不動産の女社長、柳本美土里は、コーヒーを入れたカップを両手でかかえ、最近忙しそうにしている社員の河野を気遣った。
「社長、実は昨日は友人に付き合って、税務署に行ったんですよ」
「あら?税務署?そういえば、確定申告の時期だものね。お友達は個人事業主とか?」
河野は、友人に付き合って住宅ローン控除の申告に行った話をした。
「住宅ローン控除の申告ってあっけないものですね」
「そうね、書類さえ整っていたら、特に問題もないしね」
「あいつ、すごく喜んでて、申告の後にご馳走になったんですよ。奥さんから小遣い制にされてるから、毎年これだけのお金を自分がこっそり受け取れるなんて、めっちゃ助かるって」
「あら?毎年こっそり受け取れるって?」
美土里は、コーヒーカップをテーブルに置いた。
「え?申告したときに記入した銀行口座に還付されるんじゃないんですか?」
「河野君、サラリーマンの場合は最初の還付金だけで、来年からは年末調整で還ってくることになるの。会社によって違うけど、普通はお給料と一緒に、もしくは年末調整として別に給与口座に入ることになるのよ。だから、奥さんに内緒っていうのは無理だわね」

そうだったのか?
北村に、糠喜びをさせてしまった。
税金が還付されることで、奥さんと小遣いの交渉をするように言ってやろうか。
でも、還付金があるという話をすると、藪蛇になって、初回の還付金まで取り上げられたりして。
さて、北村と会って、奥さんに対しての策を練る必要がありそうだ。(完)

このドラマはフィクションであり、実在の団体や個人とは何の関係もありませんので、ご承知ください。