トップページ > 2015年11月号 > マンスリー・トピックス

ラビットプレス+11月号 戦国武将の政治力に学ぶ現代ビジネス講・・・『部下への信頼とトップの判断!…荒木村重の限界に学ぶ』


浮世絵:歌川芳幾 太平記英勇傳/荒木摂津守村重

有岡城での抗戦の最中にもかかわらず、荒木家家臣、その家族を置き去りにして村重は一人子息の尼崎城へ脱出した。その時に妻荒木ダシが村重に送ったとされる歌である。

「霜がれに残りて我は八重むぐら 難波の浦の底のみくづに」
(私は霜枯れた路傍の雑草のようなもの。このまま難波の海の底に沈む水屑となるのでしょう)
これに対し、村重は、
「思ひきや あまのかけ橋ふみならし 難波の花も夢ならんとは」
(自分が築き上げてきたものは夢のようにはかなく、このようなことになるとは思わなかった)
の歌を返したと言われている。

時は天正6年(1578年)10月。それまで三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重だったが、有岡城(伊丹城)にて信長に対し、突如反旗を翻した。一度は信長の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)らに説得され翻意し、釈明のため信長の居る安土城に向かったが、途中、家臣の中川清秀から「信長に背いたものに命はあるまい」との言葉に動揺し、有岡城に戻ったとされる。
羽柴秀吉は、村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に幽閉した。


小寺孝高幽閉当時の勢力図(ジャンクワード.com)

それから村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返るなど、戦況は圧倒的に不利となった。兵糧も尽き始め、期待に反し毛利の援軍も現れず、窮地に陥ることとなる。
天正7年(1579年)9月2日、単身有岡城を脱出し、嫡男・荒木村次の居城である尼崎城(大物城)へ逃亡するのである。

【荒木村重の出世街道】
天文4年(1535年)、摂津池田城主、池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)の嫡男として、池田(現:大阪府池田市)に生まれ、池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り注1一族衆となっていた。
永禄6年(1563年)、城主池田長正が他界し、池田勝正が家督を継いだが、勝正は嫡男ではなかった(父を池田正久、正尚など諸説あり)ため、嫡男・知正との間に確執が生じ、池田家の騒動に発展した注2。
永禄11年(1568年)8月の猪名寺の戦いは茨木重朝・伊丹親興連合軍と池田勝正軍の戦いであったが、このとき村重は勝正を援護し、宇都宮作丞(うつのみやきんのじょう=伊丹方の武将)を槍で討ち取り、一気に敵方を伊丹城堀端まで攻め返したとされ、“池田家に村重あり”を轟かせたと言われている(『寛永諸家系図伝』において、村重の父=義村は、この戦いの功績を喜び、これにより村重に家督を譲り、以降、「信濃守」と称する~との記述がある)。

注1.「池田一族連署書状」の中に「池田信濃守村重」という名があり、村重が池田の姓を名乗っていることから、村重が池田家の婿であったことが推測できる一方で、「紀氏池田家系図」にも、村重の記録があり、長正筑後守、池田城主となる。永禄6年2月没。この後兄正久の子勝正が城主となる。勝正の娘は荒木村重の室となる、との記述からは池田勝正の娘が村重の妻である、ということになるが、嫡男・村次の年齢から、勝正の娘が母親であるというのは信憑性に乏しく、村重の正、側室については資料が無いため多くが不明である。

注2.池田知正方の池田勘右衛門という武勇の者が、勝正に相対する反主流派を牽引し、家臣団を二分。この池田勘右衛門と反主流派の8名を、酒宴の席にかこつけて謀殺したのが村重であったとされ、これを機に一気に勝正の信頼を得たとされる(『陰徳太平記』)。

永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛する。摂津近郊の諸大名は、その位置関係から三好党の勢力下にあったが、信長の侵攻により三好党が畿内を追われ、傘下の諸大名のうち池田氏と並ぶ勢力の伊丹氏が信長側に降ったため、その後多くがなびく様に信長に服した。摂津を掌握した信長は、和田伊賀守惟政を芥川城(現:大阪府高槻市)へ入れ、摂津守護に任じる。同時に池田勝正と伊丹兵庫頭親興注3も守護に任じ、摂津三守護として治世するよう命じ、同年12月、京都に留守部隊を残して岐阜へ戻った。
しかし、信長が引き揚げたことを知るや、永禄12年(1569年)正月(1月5日)、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らは将軍足利義昭が仮御所にしていた京都六条の本圀寺を攻撃した(本圀寺の変)。翌日、三好三人衆との激戦は、摂津諸大名(池田勝正、伊丹兵庫頭親興、和田惟政、茨木重朝など)らが三好三人衆と決別し、松永久秀と共に信長へ降った三好義継を立てて決戦に挑み、村重もその中の一人として武功を挙げている(桂川合戦、『信長記』に池田、伊丹と共に村重の名が記されているが、これはすでに池田家にあって相当の知名度を有していたことの証明でもある)。

注3.伊丹親興は三好三人衆と不和にあったため、最も先んじて信長に与したとされ、兵を出して信長に呼応している。信長は伊丹親興を兵庫頭と賞し、三万貫を給した。


永禄11年5月信長の禁制(京都府立総合資料館蔵)

しかし、桂川合戦では、池田勢が途中で退却しているという記録が残っている(『細川両家記』)。三好義継と共に三好三人衆に挑んだ池田勝正は、「利非ず」と判断して池田城に退却したという。池田氏は長らく三好党に属しており、信長が去った後、あっという間に巻き返してきた三好三人衆が勝者になると読んだのかもしれない。このことが翌年の村重クーデターの直接的な引き金となったのではないかという説もある。

【村重・絶頂期へ…下剋上】
元亀元年(1570年)6月、村重は一時自らが排除した池田知正を擁立し、主君の池田勝正を追放する。クーデターである。これにより実質的な池田家運営を乗っ取った村重は、再び三好三人衆に通ずる。クーデターの理由は、勝正の無能さに行く末を案じたと言われているが、桂川合戦の敵前逃亡が理由とも考えられる。池田勝正は、当時信長に任命された摂津三守護の一人である。これを追ったことで、信長の印象を害し、それがため和田、伊丹氏との対立の溝も深くなって行ったため、反信長の筆頭格であった三好三人衆に通じたとされる。
元亀2年(1571年)8月、信長から摂津を任されている和田惟政は、敵対する池田家を討伐するため池田領に隣接して砦を築き挑発する(白井河原の戦い)。結果は池田軍(実質的には荒木、中川連合軍)の圧勝に終わる(8月28日)。村重の従兄弟にあたる中川瀬兵衛清秀が和田惟政の首を討ち取り、茨木重朝は村重に討ち取られたとされている。
勢いのまま、高槻城を高山右近の兵と荒木一党によって包囲し、松永久秀、久通父子と篠原長房も攻囲軍に加わり、城下町を2日2晩かけてすべて焼き払い破壊したとされる(フロイス『日本史』)。しかし、これを知った信長は、同年9月9日に佐久間信盛を使者として戦地へ派遣し、村重らに高槻城からの撤兵を勧告したが動かず、重ねて同年9月24日に明智光秀が1000兵を率いて調停に乗り出した(山科言継『言継卿記』)。さすがの村重も、ここに撤兵を決意し、以後、村重は伊丹城に、中川清秀は茨木城に入り、それぞれ威勢を誇ることとなった。


茨木城址(現在は茨木小学校)


太平記英雄伝・中川瀬兵衛清秀(落合芳幾画:国立図書館)

元亀4年(1573年)3月29日、上洛してきた信長を近江山城の境、逢坂において出迎え、謁見することとなった。
村重は池田勝正を追放し、信長の敵、三好三人衆に通じている。また、高槻城主であった和田惟長(惟政の子息)を高山友照・重友(右近)を通じて高槻城から追っている。和田は、伊丹氏と共に信長が摂津支配を任せた三守護である。そのような境遇にあって、信長に謁見を請うとは大した度胸である。

~太平記英雄伝による荒儀摂津守村重~
「摂津の国は十三郡分国にて、城を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命を賭して鎮め申す」と村重は言上した。信長に拝謁したときの一幕である。
これに対し信長は、腰刀を抜き、その剣先に盛ってあった餅(饅頭という説もある)に突き刺し、「食してみろ」と村重の目の前につき出した。周りにいたものは皆動揺し、青ざめてしまったが、村重は、「有難く頂戴します」と口を開け、剣先が貫いた餅を一口で食べたという。それを見た信長は、大声で笑い、「摂津は村重に任せた」と言い放ったという。


太平記英雄伝・荒儀摂津守村重(歌川国芳画:国立図書館)

元亀4年は、7月に信長により天正と改元される。将軍・足利義昭と信長は、この時期すでに修復不可能なまでに関係が悪化していた。そして、将軍・義昭の画策した反信長包囲網が最盛期を迎えていた。
信長からその性格を気に入られた村重は、三好家から織田家へ移ることを許され、茨木城主となった。その後、足利義昭攻めに際して信長を迎え入れ、若江城の戦いで武功を挙げた。
一方、将軍・義昭方に属していた池田家当主・池田知正は、信長に降って村重の家臣となり、ここで完全に池田家を乗っ取る形となった(下剋上)。天正2年(1574年)11月5日、伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、遂に摂津一国全てを任された(石山本願寺の寺領を除く摂津一国、凡そ35万石が村重の所領とされた)。
以後も信長に従い、石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)や紀州征伐などでも武功を挙げ、信長の信頼を勝ち得ていったのである。

【村重・奈落の底へ…謀反】
摂津池田家の家臣として始まり、自ら武功を立て、また様々な諜略に翻弄されながらも着実にその地位を高めることに成功した村重は、遂に信長にも認められる大名としてその名を歴史上に刻むまでになっていた。戦国史上、数ある不思議の中でも、荒木村重の謀反はその代表格でもある。

村重の下剋上を成功させた傍には、常に中川清秀、高山右近ら側近の協力があったことは事実である。先にも述べたが、池田家家臣から摂津国人(地の有力小大名)一帯を従えて国守となるまで、目まぐるしいほど主君を変遷し、時には一度追放した当主を再び担ぎだす(池田勝正→知正→勝正を臣従、三好→織田→三好→織田など)政治手法は、武勇を武士の真髄とする考え方の持ち主である村重の策であったとは考え辛い。そこには、幼少から父の姿を見続けてきた中川清秀の生い立ちと政略に多大な影響を受けてきた村重の姿があったのではないか。


キリシタン大名だった高山右近(岩手県立美術館蔵)

中川清秀の父は、高山重清といい、高山右近の父である友照と兄弟であるという説もある。重清は常陸の国(現在の茨城県を中心とする北関東)の出身であり、天文4年(1535年)頃、京都に上ったとされ、その後摂津国の中川清村に仕えた。中川清村の嫡男・清照の戦死によって後継ぎが途絶えた清村は、高山重清と娘を結婚させ、重清を養子として迎える。重清は中川家当主(稲田城主)となり、桓武平氏から源氏に改めている。
地方の小大名であった中川重清の領地経営は安定しておらず、当時強大な勢力を誇っていた池田家(勝正)に従属して凌いでいたが、池田家騒動の末に再興した稲田城を村重によって攻略され降伏。以後村重配下となった。この時はすでに清秀が当主であったと推測される。

村重謀反の原因は特定される由もないが、有力な説注4に、中川清秀の家臣に石山本願寺に通じる者があり、信長が石山本願寺を攻めている際に、兵糧を密かに流していたという情報が信長の元に知れたということが言われている。
当時の情報技術では諸国の戦況がつぶさに把握できるはずはない。各地に配した隠密や家臣の見聞きした報告を基に自らの家を守らなければならず、そこに裏切りや諜略という妨害が入り乱れる中で戦略を立てなければならない。一つ間違えば命は保証されない時代である。一族のみならず、領地領民にも重大な危機をもたらすこととなるが故、当主は悩み、苦しみ、時には残虐とまで言われるほどの粛清も行わなければならなかった。
その中で、主君荒木村重が信長支持に回り、高山右近らと共に転戦を繰り返してきた有能な武将であったはずの中川清秀の身に降りかかったもう一つの謀反の嫌疑である。このまま村重を安土へ向かわせた場合、どうなるのか。村重以上に清秀に恐怖と絶望感が駆け巡ったであろう。
安土へ向かう村重は清秀の居城茨木城に立ち寄ったとされているのだが、清秀は何が何でも村重と接見する必要があった。偶然に立ち寄ったのではなく、事前に使者を送り、安土への途中、必ずお越し下さいと懇願してでも会いたかったはずである。事実、村重謀反の情報には様々な憶測が流れていたにもかかわらず、信長は当時の家臣の中でも最高幹部クラス(明智光秀、松井友閑、万見重元)を有岡に派遣し、謀反の本意を確かめ説得することを命じていることから、この時点では村重に対する期待は薄れていなかったものと推測出来、事の次第によっては清秀粛清を条件に村重を放免することも考えられたのではないか。

注4.石山合戦で、石山本願寺へ毛利勢と通じた村重が兵糧を密かに搬入したとの噂が流れた。また、信長の命により石山本願寺に和睦の交渉役として出向いた時に、交渉を有利にすすめるため、独断で米100石を提供したという説(『陰徳記』)。また、『武功夜話』によれば、神吉城攻の際、内通者であった神吉貞光(藤太夫)が荒木村重と旧知の間であったことから村重に懇願され、羽柴秀吉は貞光の助命を許した。しかし、貞光は放免直後に別所長治のもとに合流し、秀吉軍と対することになった。このことで、貞光と村重は通じており、村重も疑われることになったという説などあるが、真偽は定かではない。

多説を採った場合、謀反は村重単独の意思によって決断されたものとなる。しかし、無骨で一本気な性格と言われた村重であれば、自らの不始末は切腹覚悟で対処するのではなかろうか。それを考えれば、茨木城における清秀の説得が村重の行動を決定づけたと推測することが自然であろう。
また、この後の信長軍との戦いにおいて、有岡に帰城した村重と共に清秀は茨木城で籠城するのだが、信長軍に対し早々と無血開城に応じ、その後信長に帰服していることを見れば、我が身安堵の為に村重を諜略し、それに従った村重を見捨てたといっても過言ではなかろう。


有岡城の戦い布陣図(伊丹市立博物館蔵)

有岡城を包囲した信長軍は、石山本願寺との和平交渉を打ち切り、天正6年(1578年)11月14日、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就、稲葉良通、羽柴秀吉、細川藤孝軍と荒木村重軍の先鋒隊が激突したことを皮切りに、約10カ月に及ぶ戦いが始まったのである。
そして、信長の恐ろしさを天下に轟かせた荒木一門その他家臣一族を含め、処刑された総数約670名とも言われる残虐極まりない惨劇へと向かうこととなる。


尼崎七松城祉に立つ六百二拾余人の慰霊碑(尼崎市)

【村重・生き恥を晒す…】
謀反の嫌疑を被り、家臣の進言に心中を揺らし、信じた毛利をはじめ中、西国諸将、石山本願寺にも見捨てられた村重は、自らの判断を悔やみ、何度も何度も自刃の最期を考えたことだろう。
しかし、村重は生きた。生き恥を晒してまでも生き、毛利を頼って安芸に逃れたと言われている。尾道の西郷寺という「時宗」の寺で仏門に入り、自らを「道糞」と号し、茶の道に没頭する毎日を過ごしていたが、大坂に出、千利休に取り立てられ、再び世に出ることとなる。秀吉の時代になり、千利休の高弟となっていた村重は、茶人として再び武人とかかわることとなる。

企業の大小を問わず、経営者に求められる究極の能力は的確な判断と決断力である。時に経営者は非情でなければならず、常に企業の目的を見据えることが必要である。
村重には、常に側近と呼ばれる有能な家臣(高山右近、中川清秀、中山新八郎ら)が居た。順風に乗り、為すこと全てが成功している間は、彼らに絶大な信頼を置き、用意された戦略に判断を下すだけで結果は転がり込んできたのだろう。しかし、船が傾き始め、風が逆風となった時、家臣達全てにそれまでの期待を持ち続けてしまったことが村重の限界であったのかも知れない。家臣とて人の親、人の子である。究極は我が身の保全であることに、誰も責めることは出来ない。
創業時から社長の手足となって頑張ってくれた社員。企業が順調に業績を伸ばし、それなりに地位と報酬を得て会社を支える存在と認識されると、やがて自らの人生に目を向け始めるのは人の常である。企業の成長過程では、多くが創業者と志を一つに心身を捧げ、がむしゃらに働く戦士であっても、所詮使われる身の儚さはサラリーマンの性なのである。
その企業に危機が訪れたとき、彼らには私財を擲ってでも会社を守る義務は課せられないのである。それを決断するのはトップだけである。そこで、トップの限界が試されるのだ。身の保全を優先的に考える社員とトップの方向性に狂いが生じてくるのはこの時である。
さて、貴方は有能な重臣たちの真意を見抜くことが出来るだろうか?トップとして、何を守り、何を犠牲にすることが何のためになるのか。どうすべきが未来へ続く正解なのか。荒木村重の生き様を通して、人生のターニングポイントを意識出来れば、道は開かれると信じたい。


イメージ(講談社オンライン・江上剛著)

昭和34年、愛知県江南市旧家・吉田家土蔵から発見された前野家文書「武功夜話」に村重の言葉が記録されているという(内容の真偽は不明)。
「摂津守(村重)曰く、其元等の諫言至極に候。悉く存知候さりながらそれがし思うに信長諸国を取り、仏意に背き諸法地を焼きはらい、数多の僧、法師を殺し暴悪の所業浅ましき候 狼藉の法敵信長 弥陀の利剣をもっ手誅陸あるべき 我たとえ天涯一人になるも信長行路見定めん」と。
果たしてそうであったのだろうか。

没年天正14年(1586年)5月4日・法名「心英道薫禅定門」

参考文献:
摂津の守護と有岡城~荒木村重と摂津上の時代~   瓦田 昇氏著
信長記、信長公記  大田牛一著
言継卿記  東京大学資料編纂編集所
イエズス会日本年報 上  村上直次郎訳
完訳フロイス日本史  ルイス・フロイス著松田毅一・川崎桃太訳
荒木村重の謎  工藤章興
伊丹再発見~有岡城と荒木村重~  NHKオンライン神戸放送局