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ラビットプレス+9月号 戦国武将の政治力に学ぶ現代ビジネス講・・・『腰ぬけの西軍総大将!?毛利輝元に見るリーダーの資質』


毛利輝元肖像(国立国会図書館所蔵)

関ヶ原の戦い後、毛利輝元らが木津屋敷に居た頃、長雨が続いたという。

「輝元と名にはいへども雨降りて、もり(毛利)くらめきてあき(安芸)はでにけり」

天下分け目の関ヶ原合戦において、西軍総大将の地位に在りながら戦わずして退却した輝元に対する強烈な皮肉と、落胆を評した落首注1である。

毛利輝元は、天文22年1月22日(1553年2月4日)、毛利家2代目当主・毛利隆元(毛利元就の嫡男)の嫡男として生まれ(母は尾崎局・大永7年(1527年)- 元亀3年(1572年)隆元の正室。内藤興盛の娘)、永禄6年(1563年)に隆元が急死したことで毛利家当主の家督を相続した。弱冠11歳であった。

当時の毛利家は、中国地方、九州北部での勢力拡大に向け、元就の時代から山陰の尼子、九州の大友氏らと争いを繰り返し、戦況を有利に進めていた。
ところが、天正4年(1576年)2月、織田信長によって京を追われた室町幕府将軍・足利義昭が毛利家領内の備後国に動座注2してきたため、鞆(広島県福山市鞆の浦)に御所を提供して保護した。その後、織田家とは義昭の処遇について折衝を重ねる等、友好関係を保っていたが、石山本願寺が挙兵(野田城・福島城の戦い)すると、本願寺に味方して兵糧・弾薬等を援助したことから信長と対立する。
足利義昭の反信長包囲網が進む中、強力な水軍を率いた毛利軍も木津川口の戦いで織田水軍を沈め、内陸戦では上月城の戦い(天正6年7月・1578年)において、織田方の羽柴秀吉・尼子氏連合軍との決戦に及び、上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし(羽柴秀吉軍は三木城の別所長治の反乱と、信長への援軍要請が叶わなかったことにより上月城を諦め転進)、織田側に対して優位に立つところまで来たが、第二次木津川口の戦いで鉄甲船(主要部分を鉄板で装甲したとされる安宅船(あたけぶね)で、信長が毛利水軍に対抗するため、伊勢志摩の豪族で織田水軍を率いた九鬼嘉隆に命じて作らせたといわれる)を擁して毛利水軍を撃破したことからその後の情勢が逆転し、天正7年(1579年)には毛利氏の傘下にあった備前国の宇喜多直家が織田に通じて離反し、天正8年(1580年)1月には、羽柴秀吉が三木城を開城させ、別所長治は自害。翌天正9年(1581年)には、因幡国の鳥取城を兵糧攻めにより開城させると、信長と通じた九州・豊後国の大友宗麟が西から、山陰からは南条元続が侵攻し、輝元は次第に追い込まれていくのである。

注1.落首(風刺・批判・あざけりの意を含めた匿名のざれ歌。 詩歌の形式による落書(らくしょ)のこと)
注2.動座(高貴な地位に在るものが座所を移すこと)


九鬼嘉隆の鉄甲船(Amazon.com)

【毛利輝元の決断~その1信長との和睦】
毛利家が戦国時代、最初の岐路に立たされたのが天正10年(1582年)4月の備中高松城陥落注3に伴う羽柴秀吉との和睦である。輝元は、吉川元春・小早川隆景らと共に総勢約4万の軍勢を率いて秀吉と対峙。睨み合いの最中、同年6月2日、京都にて明智光秀が謀反(本能寺の変)を起こし信長が討たれたとの情報をいち早く得た羽柴秀吉は、軍師・黒田孝高(官兵衛)らの進言により信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけた。秀吉から毛利家の武将のほとんどが調略を受けているとの情報が錯綜し、毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった(「秀吉と海賊大名」藤田達生著)。
そして備中高松城は開城され、城主清水宗治とその側近4名が切腹。表面上は互角の様相を呈していた毛利側も、実際は兵力、気力共に衰退を隠しきれず、秀吉軍に総攻撃を仕掛けられれば恐らく壊滅に近い状態になろうことは明らかであったが、秀吉側の状況が急変したために輝元は危機を脱したのである。

注3.備中高松城の戦い(毛利氏と織田側羽柴秀吉との最後の戦いとなった舞台。低湿地帯に在る難攻不落の高松城を、足守川の水を堤で堰き止め人工湖を造り孤立させるという、前代未聞の水攻めという奇策によって開城させ、後に毛利にとって重要な起点となった秀吉との和睦を成立させる原因となった)


高松城水攻めの堤築造絵図(岡山市立中央図書館蔵)

【毛利輝元の決断~その2秀吉への臣従】
秀吉は明智光秀を天正10年(1582年)6月13日からの山崎の戦いで破り、信長の実質的な後継者の道を歩むことになる。
秀吉の実力を良く知る輝元は、秀吉との和睦を維持し、その覇業を支援した。後に豊臣政権の五大老が定まると、輝元と隆景はその一員となっている。
信長の死後、覇権争いは秀吉と柴田勝家の一騎打ちとなる。清州会議での後継指名によって織田家内部での趨勢が一気に秀吉に傾くと、柴田勝家は秀吉自らが政権樹立を目論んでいることを知り、織田家存続の為に滝川一益、前田利家、佐久間盛政や四国の長宗我部元親や紀州雑賀衆(さいかしゅう)の援護を受けて、天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳(しずがたけ)付近で美濃から急遽戻った羽柴秀吉と激突するのである(賤ヶ岳の戦い)。

賤ヶ岳の合戦後、輝元は急速に秀吉との距離を縮める政策に出る。柴田勝家に勝利した秀吉に戦勝の祝いを贈り、毛利元総(秀包)や吉川経言を人質として差し出すなど、臣従を示している。その後、天正13年(1585年)の四国攻略、翌年の九州征伐には秀吉の命を受け先鋒として参戦し、多くの武功を挙げることに成功し、天正16年(1588年)7月、上洛し、従四位下参議に任官。そのとき、豊臣姓と羽柴の名字を秀吉から与えられ、「羽柴安芸宰相」と称された。
こうして、豊臣時代の到来と戦国時代の終焉を見極めた輝元は、慶長2年(1597年)、それまでの功績を認められ小早川隆景と共に五大老注4に任ぜられ、翌年秀吉の臨終の際には豊臣秀頼の後見補佐を託されるまでになっていた。

注4.五大老(豊臣政権下の最高の職名。秀吉が晩年、五奉行の上に置いた五人の大老。徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景(死後は上杉景勝)・宇喜多秀家の五人。豊臣秀頼成人までの政治運営にあたって、前記有力大名五人(既に病没していた小早川隆景を欠く)と石田三成ら豊臣家吏僚による合議制をとることを遺命し(「秀吉遺言覚書体制」)、「五大老・五奉行」が制度化された。輝元は、家康に対峙する西方筆頭として任命されている)


秀吉が五大老に宛てた遺言状・秀頼の行く末を懇願している(毛利博物館蔵)

【毛利輝元の決断~その3家康への対抗】
慶長5年(1600年)。ついに石田光成と徳川家康の闘争が現実のものとなる。同年6月、家康が上杉景勝討伐に会津へ出陣すると、翌7月に三成は挙兵する。このとき、三成自身は総大将に就かず(大谷吉継の進言があったとされる)、家康に匹敵する所領と兵財力を持つ毛利輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策、安国寺恵瓊をして説得をさせる。そして輝元は、総大将就任を独断で受諾するのである。

<<アラカルト>>
豊臣家(秀頼、淀)は西軍支持か、東軍支持か…!?
当時、大坂城にはまだ幼い豊臣秀頼公が居城しており、留守居役として秀頼後見人の徳川家康の家臣・佐野綱正が居た。毛利輝元は、佐野綱正を大坂城から強制的に排除し城内西の丸に入るのである。そのとき、豊臣秀頼と淀殿は如何なる対応を採ったのか。
そもそも関ヶ原合戦に至る原因は、石田光成、大谷吉継が「家康は秀吉の遺命に背いている」ということを前面に出すため、上杉討伐が豊臣政権の公儀ではなく家康の私情によるものであると言いがかり(家康の上杉討伐は、秀頼の正式な承諾を得ている)を付けて、慶長5年(1600年)7月17日、「内府ちかひ(違い)の条々」(徳川家康の豊臣家に対する背信行為を13条に記した書状)を長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行名(前田玄以は、榊原家史料に依れば「廻文に署名しなかった」とされている)で全国の諸大名に送り、それに対して家康が、三成の挙兵こそ秀吉の「惣無事令」を破るものだとして上杉討伐から急遽踵(きびす)を返し、関ヶ原で正面衝突したのである。


三成らが作成した「内府ちかひの条々」(福岡市博物館蔵)

豊臣家では、三成の挙兵を当初「謀反」としていた(7月14日秋田実季宛榊原康政書状による)形跡はあるが、「内府ちかひの条々」が形式的に豊臣公儀の体裁を整えたものであり、それが秀頼のいる大坂から発せられ、軍事動員されたということから、石田三成・大谷吉継の謀反ということではなく、家康追討のための公権力の発動(本多隆成『定本徳川家康』)という政治的見地で判断し、大義は西軍に在り、と考えても不思議ではない。勿論、毛利輝元を大坂城に招き入れたのは秀頼=淀殿ではないことは事実のようであるし、西軍総大将の居る中で、家康支持を表明することは難しかったであろう。そのような状況下で、淀殿の態度ははっきりしている。つまり、大坂城内では家康追討を公儀とし、西軍、東軍いずれが勝利した場合であっても豊臣存続に繋げていくため、西軍支持を公表しないという態度を貫いたと言えるのではないだろうか。


9月15日、霧の立ち込める早朝。東軍井伊直政とそれに続く福島正則軍が宇喜多秀家部隊に対して銃撃を開始し、合戦の火ぶたが切って落とされた。

「敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う」(「慶長記」太田牛一記)。戦局は一進一退、西軍が地形の利を活かしてやや有利に進めていた。そして、松尾山の小早川秀秋隊1万5000と南宮山の毛利秀元隊1万5000、その背後に栗原山の長宗我部盛親隊6600と、合計4万7000の兵が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利は確定的となるはずであった。
しかし、西軍島津義弘は三成の使者の無礼を理由に参戦を拒否、毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できず、結局、最後まで南宮山の毛利軍など3万3000もの大軍は参戦することなく、正午過ぎになって突然、小早川秀秋軍が東軍に寝返り、それに呼応するかのように脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら合計4200の西軍諸隊も大谷吉継の軍勢に脇から襲いかかった。小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅、その後の宇喜多軍の総崩れにより、合戦の勝敗はほぼ確定してしまったのである。


毛利不戦の密約書・本多忠勝、井伊直政の起請文(重要文化財:毛利博物館蔵 大関ヶ原展)

西軍敗戦後も輝元は豊臣秀頼を擁して大坂城に在った。毛利秀元や立花宗茂は大坂城に籠城しての徹底抗戦を主張(秀頼の大義を利用し、篭城のうえ徹底抗戦が行われた場合、秀頼に対して矢を向けることを躊躇する諸将が相当数離反することも想定し、家康が一転窮地に陥る可能性に賭けることを進言)したが、毛利家臣の吉川広家が、「西軍総大将受託には輝元自身が関わっていない」ことを家康に得心させたことが伝わり、開城を迫る福島正則・黒田長政に加えて、家康家臣の本多忠勝と井伊直政が、家康に毛利家領地安堵の意向があることを保障する起請文を輝元に差し出した為、9月24日、輝元は大坂城西の丸を退去した。
その後、家康は、吉川広家に対し、輝元が積極的に西軍総大将として活動していたという証拠の数々を突き付け、所領安堵の意向を取り消して「毛利氏は改易し、領地は全て没収する」と通告したが、再び広家により、自身に加増予定の周防・長門(山口県)を毛利輝元に与えて欲しいという嘆願により、所領二国、120万石から36万石の減封にはなったが、毛利本家改易を逃れたのである。そして輝元は萩で出家し、家督を嫡男である毛利秀就に譲り隠居する。


萩城跡の輝元公像

【輝元が毛利家に残したもの】
関ヶ原の戦いでは、家康と三成の対決が取り沙汰されてきた。それはそれで全てが間違いではないのだが、歴史上はやはり、毛利輝元・西軍総大将率いる豊臣政権擁護派の大義と、徳川家康・東軍総大将に呼応して参戦した家康派諸大名の三成謀反に対する成敗の大義との戦である(家康もこの時点では、政権奪取を表向きは目論んでいなかった)。
結果は東軍勝利に終わり、毛利家に残ったものは本領安堵どころか、本家改易に等しい減封と、西軍総大将として、また毛利家当主としての輝元に対する非難であった。歴史研究においては、一連の輝元の行動と判断について多くの分析がなされた。リーダーとしての資質、判断力の欠如、経験不足からくる戦略の失敗等、輝元失政に関する評価は枚挙に暇が無い。
若くして毛利家当主に就任したが、祖父毛利元就の院政によって支えられ、毛利両川を守護する有能な叔父たち(吉川元春、小早川隆景)にも当主としての尊厳を踏みにじられてきた注5精神構造が、性格形成にどのような影響を及ぼしたのかは興味深い。

注5.「吉川家文書」によれば、小早川隆景は、家臣の目がないところで輝元に折檻するなど、躾はことのほか厳しかったようである。又、尼子家家臣の山中幸盛殺害に際し、叔父らの忠告を無視した輝元を、「大将の器に非ず」と憂えたとされる。

しかし、一方では領地拡大に奔走し、元就、隆元(早死)政権時代から懸案であった中国地方制覇を成し遂げ、名実共に西日本最大の勢力として君臨したのは輝元である。その後、秀吉に与してからも、毛利の国力を後ろ盾に、豊臣政権では最高職の五大老に抜擢されていること(秀吉が単に毛利と言うだけで無能な輝元を最高位の要職にまで就けるとは考えにくい)から、「無能なおぼっちゃま」という評価は甚だ疑問である。更には、関ヶ原合戦に際し、東軍に与した四国の阿波、讃岐、伊予地方の統治(西軍の敗戦で撤退した)も一時的ではあるが戦勝の後の領地獲得を計画しての動きも見せている。
そして自らの行動においては、当時の通信、交通の実情から察すれば、西軍大義は豊臣政権の維持発展であるから、当主・秀頼公の警護と、本拠である大坂にその身を据えることは大将として当然であり、その後の動向に細心の注意を払って戦況を見極めた結果、想像を遥かに超えたスピードで合戦の終結を迎えたのであって、大将の出番が無かったことにどれほどの理由があろうかと思うのである(家康は、自らが上杉討伐に動くと見せて、三成をおびき寄せる戦法を敷いたのであるから、野戦覚悟の実働であったし、三成側から再三に亘り秀頼と共に参戦を促されたとしても、幼少の当主を危険に晒すわけにもゆかず、当然淀殿の猛反対も想像出来ることから、秀頼出陣は最終手段として留まっていたことも容易に想像出来、それ自体、ある意味総大将として正しい判断ではなかったか)。


毛利家紋(毛利博物館)

戦後処理においては、吉川広家の機転と忠義な働きによって、毛利本家改易を免れ、かろうじて命拾いした輝元の醜態が取り沙汰されるが、これについても別の見方が成り立つのであって、そこまで主君に忠義を尽くす家臣を育成出来たのは、輝元の人物によるものであるという見方も出来るのではないか。
戦国の下剋上は、主君に見切りを付けて敵方に寝返る者、出奔(しゅっぽん=逃げ出すこと)する者は数え切れず、そのような時世にあって、命を賭して主君を守るというからには、それなりの魅力が輝元に備わってなければ、広家の行動に説明がつかない。事実、輝元にはその人柄を褒める当時の記録も残っている(朝鮮李王朝の官吏であった姜沆の『看羊録』には、慈悲深い輝元の性格を称えている)。
他方、輝元には冷静且つ冷酷な一面もあった。慶長19年(1614年)から始まる大坂の役において、豊臣方支援の目的で密かに重臣の内藤元盛を「佐野道可」と名前を偽らせて大坂城に送り込み、(軍資金を提供したとする記録も有る)情報収集に当たらせたが、戦後その事実が徳川に知れるや否や、同人のみならず元盛の息子二人も自害させるなど、真相を闇に葬る手段をいとわなかった(佐野道可事件)。
これら一連の諸行は、無能且つ我が身を守る為には家臣の命など虫けらのように切り捨てる非道の君主として輝元像が描かれるのであるが、結果から見れば、本家取り潰しをニ度三度に亘って回避し、毛利の血を絶やすことなく後世へ繋げたという点で、輝元以外にそれが出来たかと言えば、NOと言わざるを得ないのかもしれない。

【リーダーは常に天下を目指さねばならないのか】
リーダーには常にトップを目指す気概が有って欲しいと部下や家臣は思うものかもしれない。しかし、その時々の時世によって、また所属する組織や環境によって求められるステージは違うだろうし、本人が目指すものも違う。
戦国時代。群雄割拠の世にあれば、それなりの組織を率いるリーダーはともすれば分不相応な夢を描くこともあろう。だが、全てのリーダーが頂点を目指していたということではないはずである。


リーダーとマネージャーは別物?(イメージ)

輝元の甥にあたる毛利秀元は、共に関ヶ原合戦に出陣した吉川広家とは対照的で、西軍に参加し、毛利が総大将を務めるとあらば、武功を挙げることが毛利家臣の本懐であり、尚更、家康と最終最後まで戦うべし、と奮戦し、広家の家康への忠誠の勧めを一蹴して大坂に戻り、即座に輝元に籠城を進言したことは有名である。
歴史にタラレバは無い。だからもし進言を受け入れていたらどうなったかという話ではなく、確率は生きるか死ぬかのニ分の一であって、輝元らが破れていれば当然毛利家は消滅している。その選択を輝元は生き恥を晒しても存命に賭けたとも考えられる。


リーダーは何処にいるのか(イメージ)

企業において、大小組織の中で所属する部課のリーダーに優れた人心把握と人情味あふれる長が居たとしよう。部下はリーダーを尊敬し、このリーダーの為なら残業も休日出勤も苦にならない。そしてリーダーに花道を歩かせることが部課員の目標にもなり、組織は纏まり社内でも優秀な成績を収めることが出来る。当然、リーダーは出世し、順調に階段を上って行くのだが、全てそのような人材が企業のトップに就任するわけではない。ある者は部長止まり、またある者は役員に抜擢されたがそれ以上の輝きを放つことは出来なかった。係長のときは、課長の席に在った時は素晴らしい上司であったのだが、出世に従いその手腕が薄れていくことなど、掃いて捨てるほど現代社会でもお目に掛れるのである。それは何故か?
部下に慕われ、部下を上手く操り営業成績を伸ばすことと、組織本体を運営することとは全く異なる資質が求められるからである。誰もが会社のトップになり、誰もが頭取に、総理大臣になるはずもない。リーダーには複数の種類が存在するのである。肝心なことは、自らの分を知り、分をわきまえ、何のために自分が人の上に立っているのかを自覚し、そのためにどうすべきかを考え、選択し、決断する。そして評価を求めない。結果は直ぐに出るものもあれば、十年後、五十年後、否何百年後でないと判断できないものもあろう。そのような永遠の課題を追い求め、人知れず、後世の人々に何かを残すことを本来の目的とする。それが多様なリーダーに共通する唯一の資質なのだと筆者は思うのである。


それぞれのリーダーの下で…(イメージ:関ヶ原合戦屏風絵図・京都便利堂)

時代は移り、関ヶ原の戦いからニ百数十年を経た江戸末期。

皮肉にも江戸徳川幕府の終焉を演出したのは、毛利家由来の長州藩を中心とした倒幕勢力であったことは、輝元の知るところではなかったろう。しかし、あのとき、家康に毛利家が滅ぼされていたとしたら、歴史はどう変わっていただろうか。