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ラビットプレス+9月号 戦国武将の政治力に学ぶ現代ビジネス講・・・『戦国一の武勇・柴田勝家…愛と忠義の武闘派が辿った出世道は?』


柴田勝家像(福井市北之庄城柴田神社)

時は天正11年(1583年)3月9日。勝家率いる柴田軍は北近江へ進軍する。そして北伊勢方面から戻ってきた秀吉軍と対峙することとなる。

柴田勝家は事前に、毛利家の庇護下にあった足利義昭に書状を送り、毛利を動かし秀吉討伐の協力を依頼していた。しかし、時代の形勢は秀吉に傾いていたから、結局毛利は動くことはなかった。同じく、高野山や各地の大名にも書状を送っていたようであるが、実を結ばなかった。

越前北之庄城の勝家のもとに、長浜城の落城、織田信孝(神戸信孝)の降伏などの情報が次々に入ってくる。しかし、豪雪のため軍を動かすことが出来ず、天正11年2月28日、雪解けを待ちきれず、前田利長を先鋒として出陣させ、続いて佐久間盛政、前田利家を、そして勝家自ら諸将率い、除雪をしながら北之庄城を出発した。勝家は、敦賀から木の芽峠を越えて近江に入り、刀根街道と北国街道を抑える位置にある玄蕃尾城(内中尾山)に入城した。

同年4月16日。織田信孝、滝川一益が再び挙兵した為、秀吉は岐阜へ向かう。
4月20日、佐久間盛政が秀吉軍・中川清秀の守備する大岩山砦を急襲。この知らせを聞いた秀吉が、意表を突く早さで岐阜大垣から引き返し(美濃大返し)、大岩山砦の佐久間盛政に反撃を開始。秀吉軍の反撃の前に佐久間軍が敗れると、前田利家は撤退。柴田軍主力部隊からは戦線を離脱する将兵が続出し、勝家軍は敗走する(賤ヶ岳の戦い)。

越前北之庄城に帰り着いた勝家は籠城を決意するが、秀吉軍の攻城の前についに力果て、正妻・お市の方を道連れに自刃。4月24日、北之庄城落城によって柴田家は断絶した。

辞世の句
『夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす』
享年62歳であった(年齢は異説多数)。

キリスト教宣教師のルイス・フロイス(ポルトガルのカトリック司祭、宣教師。イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見した記録が残る。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』の著者の一人)による勝家像は、1584年、イエズス会宛の書簡で、「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」と評し、日本報告では、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い後、越前北之庄城での勝家は、離反した家臣に対して恨み言は言わず、最後まで付き添ってきた家臣には、生き延びることを許し、むしろそれを喜ぶこと、また、今生においては、これまでの家臣たちの愛情に報いるすべがないことへの嘆きを収載しており、勝家の温情ある人柄を伝えている(「信長の血統」山本博文著)。本編では、勝家の勇猛果敢で無骨な生き様からは想像し難い、愛に溢れた人柄と人心把握のテクニックを学び、信念を貫き通して出世道を開いた少数派の敗因を探る。


勝家の人物像を探る…(左柴田勝家・右織田七郎佐衛門:提供春亭)

【逆賊からの出発】
柴田勝家の名前が初めて史料に登場するのは、織田信長の父、信秀が亡くなった際の『信長公記』の記事である。それによると、この時勝家は、信長の弟で後に信長によって滅ぼされる織田信行(信勝)の家臣筆頭として記されている。 若くして織田信秀の家臣として仕え、尾張愛知村上社村を領していた。天文20年(1551年)、主君の信秀が没すると織田信長が家督し、勝家は信長の弟・信行の家老となった。弘治2年(1556年)、信行を信秀の後継者にしようと、林秀貞と共に共謀し、織田信長の排除を試みたが失敗し、8月に信長との戦いに敗れて、降伏した(稲生の戦い)。
信長の性格から察すれば、信行とその一党の斬首は免れない謀反の結果を覆したのが信長、信行の母である土田御前(どたごぜん)の懇願であった。信長に赦免された信行、勝家、津々木蔵人は、墨衣で清州城に上り、信長及び土田御前に礼を述べたと記されている。この時以後、勝家は剃髪し、信長に心を寄せ始めたが、弘治4年(1558年)、再び信行と津々木蔵人らが岩倉城の織田信安に通じ、信長暗殺を企てたことから勝家が信行を見限ったとされ、信行謀反を信長方に密告した。
※信長は信行に罠を仕掛け、「信長病床に伏す」の知らせを信行に届けた。信行は勝家にその真偽を尋ねたが、勝家は、「病床の信長に家督の譲り状を書かせ、織田家の当主に」と耳打ちし、11月2日、信行自ら清州城に信長を見舞うのであるが、清州城北櫓天主次の間には川尻秀隆、池田恒興らが待機し、信行が訪れたところを急襲し暗殺したのである(信長公記:異説には信長の面前で自刃したと言われる)。


織田信行の居城跡(龍泉寺:名古屋市守山区龍泉寺)

一度は信長に命を救われたにも係わらず再び謀反を企てようとした信行に、主君としての尊敬が崩れ、自らは信長への恩義を忠誠で報いるべきとする勝家の実直さを表した出来事であったが、見方を変えれば勝家が主君を裏切る行為でもあり、戦国の世の常とは言え、勝家が信長の度量と権力に圧倒された結果、自身の生きる道を信長の重臣となることに求めた、とも言えそうである。そうであれば、主君を売ってでも自身は生き延びようと考える勝家は、なかなかの策略家であって、俗に言われる「槍働き(戦闘要員)だけが取り柄の猛者」ではなかったと言える。

暗殺された信行の領地(尾張)を与えられた勝家は、末盛城主となり末盛衆旗頭となった。しかし、信長は当然に勝家を信用し、重宝したわけではなかった。
その後の桶狭間の戦い(1560年・対今川義元)や尾張統一、美濃・齋藤氏攻めにおいても勝家の主だった起用は無かった。が、勝家は与えられた仕事を黙々とこなし、負け戦に大将として駆り出されても精いっぱいの働きをしてみせた。その忠誠心が徐々に信長に認められるようになり、永禄11年(1568年)の信長上洛作戦になって重用され、畿内平定の戦などでは織田軍の4人の先鋒武将(坂井政尚、池田恒興、木下秀吉、柴田勝家)として参加し(勝竜寺城の戦いなど)、信長の重臣として武功を挙げ、「かかれ柴田」「鬼の権六」と異名を取った。
こうして、勝家は着々とその地位を確立してゆくのである。


見るからに無骨そうな勝家(肖像画:福井市立郷土歴史博物館)

【織田家No2への道】

永禄12年(1569年)1月、三好三人衆による本圀寺の変(ほんこくじのへん)の際に、信長と共に再度来京し、4月上旬まで京都・畿内行政にあたった。又、同年8月、南伊勢5郡を支配する北畠氏との戦にも参加する。

元亀元年(1570年)1月、信長は第15代将軍足利義昭に将軍権限を規制する『殿中御掟』を認めさせ、3月には将軍と離れた立場で正式に昇殿し朝廷より天下静謐(せいひつ=静かに穏やかな様)権を与えられるなど、「天下布武(僧・沢彦から与えられた印文で天下統一を宣言する信長のキャッチコピー)」を掲げて絶大な力を振るっていた。

信長の朝倉攻めに対し、同盟を築いていた浅井長政が朝倉不戦の約束を反故にされたことを理由に朝倉方へ加担し、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の合戦(姉川の戦・1570年6月)に勝家は従軍する。同年8月から9月の野田城・福島城の戦いで、三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支え、畿内で活動した三好長逸・三好政康・岩成友通の3人を指す。いずれも三好氏の一族・重臣で、浅井長政、朝倉義景、本願寺顕如や六角義堅らと通じていたとされる)が四国から攻め上り、一方で石山本願寺が突如敵対し攻撃を開始する。その後、朝倉・浅井連合軍が3万の大軍で、京都将軍御所を目指し進軍。山科、醍醐を焼き打ちにしながら御所へ向かう。勝家は事態を重視し、信長に進言し、9月23日、野田、福島で三好三人衆と対峙していた勝家らはそこから退却し、強行軍で同日夜半に京都に戻り(「言継卿記」による)、浅井・朝倉連合軍を迎え討つ。信長が最も苦戦を強いられた戦、「志賀の陣」である(同年12月、信長は朝倉・浅井と和睦し、兵を引いた)。
そのころ(同年の9月)、本願寺の反信長蜂起(石山合戦)に伴って、長島でも門徒が一斉に蜂起。これに呼応して「北勢四十八家」と呼ばれた北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻し、一揆に加担した(長島一向一揆)。数万に及ぶ一揆衆は、伊藤氏が城主を務める長島城を攻め落とし、続けて11月には織田信興の尾張・小木江城を攻撃。信興を自害に追い込み小木江城を奪い、さらに桑名城の滝川一益までも敗走させた。翌元亀2年5月12日、落ち着き始めた近江を見て、ようやく信長は5万の兵を率いて伊勢に出陣。軍団は三手に分かれて攻め入った(第一次長島侵攻)。勝家は西河岸の太田口を任され、氏家卜全・稲葉良通・安藤定治ら美濃衆を中心とした軍の殿を務めている。その後ニ度の長島攻めも難攻し天正2年(1574年)10月頃まで続いたが、全ての戦に勝家は殿として参戦している。


桑名市願證寺「長島一向一揆殉教之碑」

天正4年(1576年)、勝家は北陸方面軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治らの与力を付けられ、90年間一揆持ちだった加賀国の平定を任される。
天正5年(1577年)、越後国の上杉謙信が加賀国にまで進出してきたが、勝家は軍議で羽柴秀吉と衝突、仲違いし、秀吉は信長の許可を得ることなく戦線を離脱。対上杉の足並みが乱れる事態となった。
天正8年(1580年)、石山本願寺10年の戦いに終止符を打つ。信長と本願寺との間に講和が結ばれたのである(3月)。一方、北陸方面では勝家が一向一揆の司令塔・金沢御堂を攻め、軍を北加賀・越中境まで進めた。そして一向一揆を制圧し、同年11月、ついに加賀を制定する。その勢いを利用して、能登国・越中国も傘下に収めた。このとき、佐久間信盛が失脚した(石山本願寺攻略不成就の責任を取らされた)ことによって、名実ともに(実は、佐久間信盛の失脚を機に、近畿地区で織田家最大の大軍団を統率することになったのは明智光秀であり、その後の本能寺の変に向かう転機となったと言われる)織田家の筆頭家老の地位にまで辿りつくことになる。


石山本願寺は後の大坂城(大阪城公園内)

【盟主信長の死と清州会議】

天正10年6月2日(1582年)、明智光秀の謀反による本能寺の変が勃発し、織田信長が横死した。その知らせは、北陸方面軍司令官であった勝家の元にも届いたのだが、6月5日のことであった。
前述のとおり勝家は上杉軍(景勝)を追い詰め、越中魚津城で対峙していたので、直ぐには動くことが出来なかった。上杉討伐を佐々成政や前田利家らに任せ、居城(北庄)へ戻ったのは6月16日。羽柴秀吉が山崎で明智光秀と雌雄を決してからすでに3日が経過していた。時すでに遅し。

距離的には秀吉が毛利攻めを行っていた備中・高松城(岡山市北区)と越中・魚津城(富山県魚津市)から京まではさほど変わらない。季節は6月であり、雪に閉ざされていたわけでもない。勝家が遅かった、というよりは秀吉が速過ぎたのである。しかし、明暗を分けた決定的な要因は、秀吉が毛利と和睦して京へ向かったことと、勝家は和睦せず、上杉に背を向ける備えとして、佐々成政らを越中に残して帰らざるを得なかったことである。実際のところ、毛利も上杉も織田軍に攻め入られ、敗北寸前であった。魚津城は越中における上杉の最後の砦であり、この拠点を抜けば、本拠地である越後へ侵攻できる戦況であったことと、織田軍の圧倒的な戦力の前に殲滅(せんめつ)も時間の問題であった上杉景勝に対して、和睦など必要ない、というのは誰しも思うことであろう。
しかし、秀吉の「中国大返し」成功の要因はまさに和睦にあった。勝家のように後ろを気にしつつ上京するのと、和睦して背後を気にすることなくひたすら京へ向かうのとはわけが違う。
もう一つ、備中・高松城攻めから一転、和睦に成功し、本能寺の変を知りながら毛利軍が秀吉軍を後追いしなかった裏には、秀吉の政治工作や諜報戦に活躍した黒田官兵衛のような軍師参謀や、毛利家側外交担当の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)など、秀吉の情報機関の存在が大きい。しかし、勝家にはそれが無かった。
秀吉が明智光秀を討ったことで、織田家の勢力図は大きく塗り替えられることとなる。


秀吉軍の中国大返しルート

天正10年(1582年)6月27日。清州会議。
織田家の跡目を決める会議が清州で行われた。この会議を招集したのは秀吉ではなく、勝家だと言われている。山崎の戦いに間に合わなかった勝家は、政治的に劣勢で、「織田家筆頭家老」職を維持する為には、秀吉優位を覆さなければならなかった。ここから勝家の政争が始まる。

清州会議のメンバーは、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人。もう一人の織田家重臣、滝川一益は関東方面へ出陣中であったため参加していない(先の神流川の戦いでの敗戦を受けて外されたとの説はあるが、真偽は定かではない)。
この会議は、信長の死後、明智光秀の所領も含めた領地配分を分配することと、今後の治世における織田家当主を決定する重要な審議も兼ねていた。
現代風に表せば、絶大な権力を誇り、威光を放った初代創業者が倒れ、家督を継ぐはずであった長男も亡くなった企業において、専務と常務がそれぞれ三男と長男の嫡男(創業者の嫡孫)を後継者に担ぎ出し、社内勢力を確たるものにすべく挑んだ重役会議である。

勝家は、織田家家督について、信長の三男「織田信孝」を後継に推挙する。これには勝家なりの策略があった。織田家筆頭家老として信孝に近く、信孝が家督を継げば勝家の織田家での地位は安泰する。勝家には、明智光秀討伐以降、急速に力を付けてきた秀吉を抑えるには、信孝当主の道が最善策であった。そして、この指名には自信もあった。それは、光秀討伐の際の秀吉軍の総大将は、誰あろう、この信孝であったからである。

<< アラカルト >> 信長の次男は何処へ行った?・織田信雄(のぶかつ)とは…。
信長の嫡男(長男)、信忠は信長の生前に織田家の家督を継ぎ、本能寺の変の時点では織田家当主であったが、京都二条城新御所で明智軍迎撃の際に自刃している。清州会議では信長の次男、信雄の名は登場しなかったのは何故か。信雄は信長の北畠攻略に際し、和睦条件として北畠家の養子となり、家督を相続している。その後、多くの戦には参戦しているが、伊賀惣國一揆攻めを信長に無断で挙兵し、あげく大敗を喫した(第一次天正伊賀の乱)頃から信長に冷遇され、織田家中でも評価がおもわしくなかったようである。又、本能寺の変後、安土城とその城下に放火し、焼失させたのは信雄の指示であったと言われており(前述・フロイス日本報告「信長の子、御本所(信雄)は普通より知恵が劣っていたので、何ら理由も無く、邸と城を焼払う様命ずる事を嘉し給うた」)、秀吉や勝家に当主として担がれることは無かったのである。
しかし、関ヶ原合戦の際に一転して家康軍に加担(それまでは豊臣方総大将の声も上がっていた)し、功績により大名(大和国宇陀郡、上野国甘楽郡など5万石)に取り立てられ、自らは京に隠居し悠々自適の半生を送っている。なお、江戸時代も大名として織田家を継承したのは、信雄の系統だけであるのは皮肉である。


清州城(復元模型:愛知県清須市)

信孝擁立の政略に反論できるはずはないと踏んでいた勝家だったが、秀吉は動じず、幼少の「三法師(信忠の嫡男=信長の嫡孫・後の織田秀信)」の名を挙げた。そして光秀討伐の功労者でもあった丹羽長秀と池田恒興も秀吉に同調する。これには勝家も愕然としたであろう。
合議の結果、三法師の家督が決まり、信孝はその後見人とされた。当然、所領の配分においても秀吉優位で進められ、次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃国を相続し、信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝は、明智光秀の旧領である丹波国を相続した。
家臣団への分配では、勝家が越前国安堵の上で、秀吉の領地である長浜城と北近江三郡の割譲が認められ、長浜城は養子の柴田勝豊に与えられた。丹羽長秀は若狭国を安堵の上で、近江国の二郡(高島、志賀)を、池田恒興は摂津国から三郡(摂津、池田、有馬)を、それぞれ加増。三法師には近江国坂田郡と安土城を相続させ、秀吉は播磨に加え丹波、山城国を獲得した。
得た所領の多少に係わらず、この配分にはその後の秀吉の政略が隠されていたと言われる。秀吉は、共に戦ったその他の織田家家臣達にも応分の所領を分け与え、自らの後援者囲い込みに清州会議の結果を利用している。又、勝家に与えた旧所領の近江長浜一帯は、秀吉が大切に守って来た地域であり、清州会議の翌年に起こる賤ヶ岳の戦いでは、その領民が秀吉のために食料を提供運搬するなど秀吉の為に働いたと言われ、勝家に協力することは無かった(長浜市立長浜城歴史博物館「秀吉と湖北・長浜」)。勿論、秀吉の豊富な資金投入もあったであろうが、赴任後1年足らずの勝家には、領民の心は掴めなかったし、勝家の限界がここにあったと言える。

【気配り、目配り、金配り】
勝家は、自らの所領に関する限り、統治能力には優れた知将であった。槍働きばかりが表を飾る勝家だが、領国では新田開発や街道整備などを積極的に行い、自国領民の刀、槍などを召し上げ、鋳造し直して農具を作り与えた施策などは、秀吉の「刀狩」の先駆とも言われ評価されている。
又、明智光秀や羽柴秀吉もその職に就いていた、京都奉行にも任命されているし、一向一揆の際に、一部の門徒を本願寺から引き離す内部工作を成功させるなど、もてる手腕を発揮している史実もある(「名将言行録」「国史大辞典」)。何よりもあの信長が、単に勇猛なだけの武将を筆頭家老に取り立て重用するはずがない。
では、何故勝家は敗北したのか。
義理人情に厚く、人一倍勇敢で戦にも強く、領国統治の政治手腕も持ち合わせていた人物であれば、信長の後継として時代を担うことも不可能ではなかった。しかし、秀吉と勝家には決定的な違いがあった。


当時の築堤痕(左)と水攻めの全容模型(岡山市北区)

備中・高松城の水攻めは有名な史実だが、その際、秀吉は工事の人手を確保するため、土俵一俵につき銭100文、米一升という破格の報酬を出し、士卒や農民を使って僅か12日間という工期で東南約4km、高さ8m、底幅24m、上幅12mに亘る土塁堤防を完成させ、足守川から水を引き込み人造湖を造って、高松城を湖の中に孤立させることに成功した(総工費は現在価値に直すと300億円超と言われる)。
又、賤ヶ岳の戦いでも、前述のとおり勝家が当主の近江・長浜にあって、資金力にものを言わせて反陣営へ食料等を廻させているし、その前の鳥取城攻略でも、兵糧攻めに備えて近江商人を使い、因幡の米の買い占めを行っている。

秀吉のこの手の逸話は枚挙に暇がないが、勝家には全くといってよいほど聞えてはこない。共に信長という大きな後ろ盾、道標を失った二人の明暗を分けたのは、常識を逸した金の使い方で、城内外に分厚い人脈を形成してきた秀吉、現政権下でトップの威光と庇護に依存して生きてきた勝家、それぞれの危機意識の違いであるといえよう。言いかえれば、秀吉は信長と共に「天下統一」を夢み、勝家は信長の「天下統一」を夢みていたのである。信長亡き後の立て直しに当たっては、その時点で雲泥の差が開いていた。勝家は、すでに秀吉と戦えるレベルではなかったのである。


金は使うことに意味がある!(イメージ)

読者諸君が組織の中に身を置き、それなりのポジションを確保している状況であるなら、今後の展望に何を期待しているのかを考えて頂きたい。
自ら目的を持ち、その実現に努力しているなら、人脈形成を怠ってはならない。今の状況はどうして造られているのか。その状況が変わった時、自分はどう動くのか。それを他人の力の下で続けるというなら、従う相手を間違えてはならない。又、自らが立つべき時期が来ることを覚悟するなら、過去の自分を振り返り、厚い人脈が形成されているかを検証しなければならない。
貴方は部下や同僚、部外のブレーンに酒を奢ったことがあるか!?
仕事以外の悩みの相談に心を割いたことがあるか!?
普段の日常において、上司や部下への言葉遣いに配慮しているか!?
常に謙虚で、時には手柄まで他人に譲る度量があるか!?

気配り、目配り、金配りは、出世の極意であると心得よ!