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新企画!戦国武将の政治力に学ぶ現代ビジネス講・・・『偉大な父を持った息子の苦悩…武田勝頼のマネージメントとは!?』


武田勝頼肖像画(勝頼錦絵:国立国会図書館蔵)

武田勝頼は、甲斐の国(今の山梨県周辺)を中心に関東甲信越地方に広大な領地と絶大な権力を誇った武田家第20代当主で、武田晴信(信玄)の嫡四男である。勝頼は、ともすれば父・信玄の偉大さの傍ら、織田信長、徳川家康連合軍との長篠の戦で致命的な大敗を喫し、武田家の滅亡を招いた張本人として語られることも多く、名だたる戦国大名の中でもその評価は二分する。


偉大な父とは…(イメージ:世界のNEWS)

【生い立ちから武田家第20代当主襲名まで】
勝頼がその手腕を振るうまで、出生から家督を継ぐに至った経緯を知っておく必要がある。
父は言わずと知れた武田信玄である。母は信玄の父、武田信虎が晩年に同盟関係を構築していた信濃諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人(実名は不詳、乾福院殿)であり、信玄の嫡男で第4子。天文10年(1541年)6月に信玄は父・信虎を追放して家督を相続すると諏訪氏とは手切れとなり、天文11年(1542年)6月、諏訪侵攻を行い諏訪頼重・頼高ら諏訪一族は滅亡する。


武田信玄の旗指物(軍旗)に記された風林火山(資料:楽天市場)

勝頼は、信玄の長男・義信が謀反を企てた罪で自刃(じじん)するまでは、「諏訪勝頼」を名乗っていた。これは、勝頼が武田家の家督を継ぐ可能性は無かったということに他ならない。
大名家においては、一門衆(直系もしくはそれに近い血縁親族)、譜代衆(一門衆以外の親族及び代々の本家家臣)、国衆(譜代衆以外の家臣や領地内の配下武士団など)で組織され、それに加えて領地拡大に応じて傘下に入った土豪(上層名主・小領主・中世地主などとも言われ、特に戦国期の社会変動を推進した土着の豪族を言う)など、先衆として組み入れたピラミッドを形成していた。
その家臣達が、たとえ大殿といえど武田が滅ぼした諏訪の娘を側室に歓迎するはずはなく、最初から武田家の本流ではなかったのである。

信玄の長男・義信は謀反、二男・信親は盲目故に出家(竜芳号)、三男の信之は天文22年(1553年)に夭折(ようせつ:幼くして死去)していた(養子説があるが)ことから、全く予期しない順番が回ってきたのである。これには武田家一門衆や譜代衆が反発するのも必至であったため、信玄は遺言で勝頼の長男・信勝を家督相続人に指名し、成人までの間、その陣代として勝頼に家中取り仕切りを任せたのである。
そうして名門武田家当主の座に就いた勝頼は、「歓迎されざる権力者」としての苦難の人生を歩むのである。


甲斐武田家略系

【別名:伊奈四郎・勝頼の自負とは】
武田家第20代当主として歩み始めるまでに、勝頼の心情に少しでも近づくため、知っておかねばならない事実が在る。
勝頼は別名、「伊奈四郎」とも呼ばれていた。諏訪頼重の娘と信玄の間に生まれた勝頼は、諏訪勝頼として諏訪家の家督を継ぐ可能性が高かった。しかし、諏訪姓を名乗りながらも、武田家を継ぐまでの間、勝頼が統治していたのは高遠(たかとお)・箕輪の領土(伊奈地方)だけであり、諏訪地方を治めてはいなかった事実がある(平山優著『長篠合戦と武田勝頼』)。武田家の正当な後継ぎではなく、諏訪家の支配権も与えられずの勝頼にとって、武田信玄の嫡男であり、名門諏訪家の誇りを持ち合わせてなお、中途半端な生き様に対する自身の強い上昇志向があったと見て不思議ではない。その自負と、信玄現役の代に上野・箕輪城攻略(永禄6年・1563年)を初陣に各地を転戦し、徳川家康軍を破った三方原の戦い(勝頼は大将を務めた)など、「戦に強い武将」としても、武田家繁栄のために命を懸けたといえるのである。

【今昔・権力の本質とは】
ハンナ・アーレント女史(ドイツ系ユダヤ人政治学者)は、「現在使われている専門用語において、『権力』(power)、『力』(strength)、『強制力』(force)、『権威』(authority)、さらには『暴力』(violence)といった基本用語の間にはっきりした区別がつけられていないことは、現在の政治学の貧困を反映している」と嘆いている(ハンナ・アーレン著『暴力について』)。マックス・ウェーバーは、『権力』を「ある社会関係の中で、抵抗を排除してまで自己の意志を貫徹させる可能性」と定義している。
戦国時代の大名に求められた権力とは、領土内の領民(百姓、土豪)の行動を抑制し、家臣の統制を維持する内面的、外見的な能力とでも言おうか。
勝頼の父・信玄には絶大な権力が備わっていた。
第一に、戦にめっぽう強かった。晩年期には信濃、西上野、飛騨高山、駿河、三河、遠江(とおとうみ)にまで勢力範囲を拡大させ、支配した。戦勝に次ぐ戦勝は、家臣や領民に無類の信頼感を与えることとなった。
第二に、家臣からの箴言を受け止める度量を持っていた。若年の一時期、信玄は父・信虎追放に安堵したのか、その罪深き行いを悔いていたのか、酒に溺れ遊興にふけって政治を放棄していたとき、当時の宿老(古参の臣や家老など重要な地位に就く者)・板垣信形の諌めに対し、「諫言無礼!手打ちに致す」とはならず、素直に聞き入れて以後名将の道へと導かれることとなった。
第三に、神輿に担がれてその座に至ったということ。父・信虎は恐怖政治を信条とし、家臣であっても構わず手打ちにするような武将であったため、自ずと家臣の信頼は失われていく。そこで家臣達が信玄に頭領を懇願し、信虎を追放した。つまり、信玄待望論に呼応して頭領となったわけである。このようなトップの座り方は、担いだ側の責任も生じる。我が々、成りたい々、だけのトップは、下の者に対して責任を持たない。従って失策を犯したとしても体を張って主君を守るほどの部下は育たないのである。
第四に、戦に強い武田信玄の名声である。他国にその名が知れ渡り、外交戦略にも有利であった。結果、近隣諸国においては特に武田家を無視できなくなり、同盟関係においても武田優位で進めることに繋がる。
これらの相乗効果が好循環となって、信玄の影響力は増幅し、益々信玄に権力が集中していったのである。


1573年頃の戦国大名勢力図

一方、勝頼はどうか。
勝頼も戦には強かった。ただ、神輿に担がれた大将ではなく、逆に歓迎されない当主であったことは前述した。従って、家臣にその実力を認めさせ、自らの権力を誇示しようとしたとき、自ずと得意な戦に傾注することとなる。何のための戦かという大義より、勝つための戦に明け暮れ、強引な戦法も厭わずに戦えば、当然家臣の犠牲も多くなる。結果として家臣の不満は募り、諫言も受け入れられない度量の小さな武将と陰口を叩かれるようになる。勝頼の焦りは、権力の本質を見失うと共に内部崩壊を誘発していくのである。


信玄を中心に纏まっていた頃の合戦陣営(資料:武田家武将名鑑)

【大詰め・長篠の戦に敗れた後の勝頼外交】
長篠の戦に敗れた勝頼は、武田家再建の為の策を練る。多くの兵を失い、攻城戦に近い状況(攻城戦はより単純な兵力差が影響する)を感じ取った信玄以来の重鎮たちの撤退進言を無視した結果が招いた大敗によって、家臣達の勝頼に対する忠誠心は揺らぎ、信頼は崩れ去っていた。この状況下で武田家の再建を成し、家中の権力基盤を回復強化させる為には、織田、徳川連合軍の打倒は必定であった。従って、勝頼は関東に勢力を張る北条氏との同盟を強化することで安全保障を確保し、織田、徳川にあくまで抗戦する姿勢を崩さないという方法を選択したのである。これは、国内の不満分子の目を逸らし、外敵への強権姿勢を見せることで国内不安を治めていこうとする外交戦略であって、現在でも隣国の政権によって国内世論の批判を仮想敵国へ向ける政治手法として利用されている。

北条氏との甲相同盟(甲斐、相模)は、信濃、駿河を中心に領国とする武田家にとっては格好の相手であったのは事実である。その後はしばらく織田、徳川の攻略も静まり、武田家の安定は取り戻されつつあった。

信越の雄、上杉謙信が天正6年(1578年)没。上杉家の家督争い(共に養子の上杉景虎と景勝の跡目争い)が勃発する。
景虎は北条氏康の子であり、景勝は長尾正景の子である。北条氏政は、同盟関係の勝頼に上杉家の内紛調停を委託し、景虎の家督相続を期待したが、景勝の「国境五箇村献上」の条件を受け入れ景勝側に肩入れし、景虎を自刃に追いやることになった。このことはすなわち、北条氏を裏切ることであり、上杉家との同盟と引換えに北条氏を敵に回すこととなる。

これが後に反動となり、武田家を滅亡へと導いていく※1。

※1 天正7年(1588年)9月、武田家と北条家は完全に手切れとなり戦闘状態に入るや否や、北条氏は徳川家と同盟を結ぶ。勝頼は北条氏を抑えるべく常陸の佐竹氏と同盟し、北条氏の領内へ攻め入り小競り合いを繰り返す消耗戦を展開していく。その間、勝頼は主敵・織田信長と和睦を試みるが時すでに遅し。信長は武田討伐を決定しており、取り合うことはなかった。天正10年1月、木曽義昌が謀反。翌2月には伊奈方面から織田信忠が、駿河方面から徳川家康が総攻撃を開始し、武田信豊は織田信忠の加勢を得た木曽義昌軍に敗北。更に、武田家重鎮で信玄の時から一門衆筆頭家臣であった穴山信君が織田・徳川に内通し、駿河の江尻城を明渡すことで一気に東西から勝頼軍を追いこむことに成功する。3月、逃げ場を失った勝頼は、新府城に火を放ち、重臣であった小山田信茂が待つ岩殿城へ向かい援軍を要請するが結局裏切られ、3月11日、天目山において自害する。勝頼36歳の生涯を妻子(妻は北条氏政の妹・桂林院で当時19歳、子は武田信勝で当時16歳)と共に終えたのである。


天目山での最後(天目山勝頼討死図:国立国会図書館蔵)

【勝頼から学ぶべきマネージメントの奥儀】
勝頼が武田家当主として抜擢され、組織を維持し領地拡大と権力基盤の強化を図って来た過程は、現代社会において企業の後継者として本流以外から登用された二代目社長や、組織の中で思わぬ昇進を果たした外様のやり手営業マンなどが抱える苦悩と同様の状況と捉えることが出来よう。

  • 昔:歓迎されないリーダーとしてその座に就いた勝頼は、自らの得意とする戦(いくさ)を戦略の柱に据え、転戦する。
  • 今:カリスマ的創業者や前任者の後継として役職に就いたものは、廻りに自分の存在を認めさせようとしゃにむに仕事をこなすであろう。
  • 昔:戦に次ぐ戦を繰り返す勝頼には、常勝という宿命が背負わされている。負けることはすなわち、当主としての技量を疑われ、求心力の崩壊に直結する、と勝頼自身が思い込んでいた。
  • 今:成績を上げることが自分の価値を認めさせる唯一の手段であると信じ、仕事の鬼と化す上司の廻りに良好な人間関係は築かれず、成績至上主義がもたらす孤独から、当然に部下への配慮は失われていく。
  • 昔:信玄の重臣として武田家を支えてきた者たちには、勝頼に対する嫉妬が根強く、戦績を上げれば上げたで「やり過ぎ」と諌め、敗れようものなら「それ見たことか!」と批判に転じる。
  • 今:突然の昇進に面白く思わない同僚や上司などは、成績が上がっても下がっても、それなりの批評を浴びせ足を引っ張ることに終始する。
  • 昔:先代の側近として重要な地位を占めていた重臣・穴山信君は、勝頼への箴言などが疎まれて、政権中央から遠ざけられてしまう。それがやがて徳川との内通へと向かうこととなる。
  • 今:二代目社長を支えるべき重役たちには、創業者へ抱いた忠誠心ほど強い思いは生まれてこない。まして古いものを悪とするがごとく改革を進めようとする新参経営者には、協力体制すら放棄してしまう。それまでの会社に対する愛情は失せ、残り少ないサラリーマン生活の中で、私利私欲に埋没する者まで現れる始末。これでは企業が発展するどころか、内部崩壊を来して倒産の憂き目に。


全社一丸となって…(イメージ画像)

勝頼が歩んできた道は、武田家当主という華々しい出世の裏に隠された「歓迎されざる権力者」としての苦悩と、命を懸けた戦いの毎日であった。勝頼は武将としての才覚に優れ、戦国最強の武勇を誇る実力者であり、武田家史誌「甲陽軍艦」にも"強すぎたる大将"との記述が残るほどであった。
しかし、武田家と領地、領民を守り、発展させていくためには腕力だけではどうにもならない。緻密な計算力と対外的政治力は言うに及ばず、家臣に対する包容力、カリスマ性を求められる当主の素養は残念ながら発揮されなかった。

さて、読者ご自身はどうであろうか。
それぞれの立場が、組織のどの位置を占めるかによって差異があるかもしれないが、概ねどの立場にあろうと、武田家の顛末が参考にならないはずはないと筆者は考える。
ビジネスの世界では、売上、成績至上主義である。企業の人事担当者によれば、仕事に対する意識調査で、「社会貢献」と答える若者が増えているという。聞えは素晴らしいが、本末転倒。入ったばかりの小僧に社会貢献を御旗に仕事をされてはたまらない。人間社会は、それこそ50億人全人類の相関関係で出来あがっている。一人一人の存在価値は、社会全体の中で認められ、関連付けられているから社会は維持されている。つまり、不要な人間など、人間社会の中ではいないのであるから、人は誰かの為に存在し、他人の生活に影響を与えている存在なのである。「社会貢献」という意識はビジネス社会の潤滑油にはならない。

閑話休題。
ビジネス社会におけるヒーローはトップセールスマンである。営業成績を認められての立身出世は、同位者らの羨望を集め、目標とされることも多い。しかし、組織の上層部からは「出る杭」として疎まれ、成り上がり特有の扱いを受けたりもする。

人生の岐路を決定づけるポイントはこの時である。


昇進!本当の勝負はここからだが…(イメージ:共同通信)

人並みの出世を望む程度なら、ここから勝頼のごとくがむしゃらに突っ走るのだが、本編では勝頼に学ぶというのであるから、ここで能ある鷹の爪をぐっと隠さなければならない。とにかく自らの地位を不動のものとし、将来的に所属する組織を支配していこうとするなら、サラリーマンなら係長、課長クラスの地位を得たときからそれまでのスタイルを変えるのである。つまり、『自分の成果は上司にくれ、部下の失敗は自らが責任を負う』のだ。TBS系のドラマ・半沢直樹(原作:池井戸潤「オレたちバブル入行組」「オレたち花のバブル組」)で、香川照之扮する東京中央銀行の大和田常務が念仏のように唱える、「部下の手柄は上司のもの。上司の失敗は部下の責任!」と同意に解釈されては困る。何故なら、意識の主体が真逆だからである。押し付けられて辛抱するのではない。自ら進んで実践するのだから、周囲の感覚は全く異なってくる。勿論時間は必要である。地を這い、汗を拭い、人知れず努力を怠ることなく、それまでの営業力を発揮しながらも表舞台に立とうとせず(辛抱はここでする)、それでも輝きを失わない存在感を醸しながら時を待つのである。
そうなるとチャンスが巡ってくるのは必然で、自らが行動せずとも他人が貴方を必要とする循環が生まれ、何かにつけ「依頼」されることが多くなる。

他人から物事を頼まれるようになることが飛躍のシグナルである。


周りを見渡せ!(イメージ)

マックス・ウェーバーは権力の定義において「ある社会関係の中で、抵抗を排除してまで自己の意志を貫徹させる可能性」と言った。権力を示し、目的を実現させるには抵抗が付ものである。その抵抗を自身で排除するとなると労力は無限大で、勝利したとしても疲弊は免れない。そこに隙が生まれ、リベンジの敵に晒されることもしばしばである。しかし、依頼されて頭角を現す、つまり「神輿に担がれた」権力者は、自ら槍を取らずとも周りが抵抗を排除する楼閣を築いていく。これは依頼者が自分の利益を確保するため当然に執る行動である。このような人の集まりが組織化されていくと、磁石が釘を引き寄せるように連鎖が起き、最も力のある企業内派閥として認識されるのである。

さて、今回は戦国時代随一の武勇を誇った武将であったにも関わらず、名家武田家を自らの代で滅亡させてしまった『武田勝頼』の後悔は何処にあったのかを、勝頼から学ぶ組織マネージメントという切り口で解析を試みた。ビジネス社会という荒野で生きる貴方の指針となれば幸いである。