トップページ > 2015年4月号 > 女不動産屋 柳本美土里

女不動産屋 柳本美土里

木下は、駅前の立ち食い蕎麦屋で蕎麦を胃の中に流し込むと、目の前にある銀行へ急ぎ足で向かった。
給与振込がされている銀行口座は、会社から歩いて10分ほどの駅前にあるだけだ。
何度も合併を繰り返した銀行は、経営の効率化のために、力が弱い方の銀行の店舗は、ほぼ例外なく閉鎖されていったため、残った銀行の支店に顧客が集中してしまっていた。
会社から往復20分、立ち食い蕎麦を注文してから10分で食べ終えたので、残りは30分しかない。
普段ならATMの行列に並んだとしても、15分もあれば処理はできるのだが、いかんせん間の悪いことに今日は月末で、その上、金曜日なのだ。

シルバーの腰高のポールと、赤いテープで仕切られた順番待ちの列は、とぐろを巻く蛇のように長く続いていた。
10台ほどあるATMの前から1人が去ると、係員の案内で順番待ちの1人が空いたATMの前に進む。
列に並んでいる人の数は、ざっと40人ほどか、ATMが10台だから、1人平均5分で手続きを終えるとしたら、20分ほどで自分の番が訪れる。
とすれば、まあなんとか1時間の昼休みのうちに会社に戻れるだろう。

財布の中に入れたキャッシュカードと振込先を書いたメモを確認した後、順調に進んでいく列の前の人との間を詰めながら、父から貰ったクラシカルな腕時計の針をしきりにチェックした。
「すみませ~ん、ちょっと~」
最も奥にあるATMの前から、係員を呼ぶ中年の女性の声が店内に響いた。
ATMの故障だろうか、操作が判らないのだろうか、どちらにしても時間がかかることを疑う余地はなさそうだ。
「ちぇっ」イライラして、思わず舌打ちをしてしまった自分に驚いた。
どちらかと言うと、感情は表に出さないタイプだと自分では思っていた。
頭に来ることがあったとしても、冷静を装うこと。
それが、他人との摩擦を避ける秘訣だと。
いつも穏やかな表情で、少し微笑むくらいがいい。
それが、市役所の公務員を勤め上げた父の教えだった。
そうした父の教えに従い実践してきた木下を、他人は温和な人柄だと評価してくれている。
そんな自分が人前で舌打ちをするなんて、いつ以来だろうか。

「まあ、あのATMは仕方ない、あきらめよう。他の9台が順調なら、そう遅くなることもあるまい」
気を取り直してそんな計算をしながら、また腕時計の針の進み具合を確かめた。
「あの~」
次は、背の丸くなったお爺さんが、中年女性のATMから3台離れた機械の前から1歩後ろに下がり、しわがれた声で中年女性に操作を教えている係員を呼んだ。
「すみません、ちょっと待っていてくださいね」
女性係員は微笑み、優しくゆっくりとお爺さんに諭すように話した。
「他に係員はいないのか?お爺さんに返事をする言葉も、あんなにゆっくりと話す必要はないんじゃないか?これは、自分への嫌がらせなのか?」
急ぐ木下の苛立ちを、さらに掻き立てた。
横目で睨んだ先のお爺さんは、なす術もなく機械の前で棒立ちになってしまっている。
「はぁーっ!」短くため息を吐くと、木下は天井を見上げた。

「こんなことなら、昨日のうちに振込をしておけば良かった」
こんな忙しい日の混雑する時間帯に銀行に来た自分も悪いのだろうが、遅々として進まないこの行列には辟易とする。
「チマチマATMでお金の出し入れをする庶民に不便をかけて、不満を持って他の銀行に流れても構わない」とでも、銀行は思っているのではないだろうか?
そんな八つ当たり的な恨み節が頭を流れるなか、やっと自分の順番が回ってきた。
今日中に借地料を地主の口座へ振り込んでおかないと、あの地主のことだ、どんな言いがかりをつけられるかわからない。
振込の手順を間違わないように慎重に操作を終え、腕時計の針が昼休みの終了まで10分を切っているのを見て、木下は慌てて銀行を飛び出し駆け出した。

実家は、父が勤める市役所にも近く、国鉄の駅にもそう離れていない便利な場所だからと、36年前に、地主より土地を借りて家を建てた。
木下が中学3年生の頃だった。
借りた土地は20坪くらい。
3DKの間取りの木造2階建ての家は、決して大きくはないが、家族3人が暮らすには充分だ。
木下はその家から中学、高校、大学に通い、大阪梅田の会社に就職した。
人並みに恋愛も経験したが、どういう訳か結婚までには至らず、実家から会社に通う独身生活が続いた。
そんななか、母が60代半ばで突然亡くなり、母の1周忌を過ぎた頃から、父の様子がおかしくなった。
父の診断結果は「認知症」だった。
幸いにも症状は重篤ではなく、危なかしく目を離せないという程ではない。
そういうことで、JR新大阪駅の近くにある家から梅田の会社まで30分もかからないということもあり、極力残業はしないように会社に便宜を図ってもらって父の介護と仕事を続けてきた。
そんな父親が6年前に亡くなると、木下はすぐに東京への転勤を命じられた。
父親の介護を理由に転勤を見逃してもらっていたのだが、その必要がなくなると拒否する理由はなくなり、しかたなく実家を離れることになった。

東京へ引っ越したからといっても、実家は借地であることに変わりない。 毎月、地代を払わなければならないのだ。
その頃の地代は、木下にとってそんなに負担になる額ではなかった。
それが、先代の地主が亡くなってから、後を継いだ息子がいけなかった。
地代を倍以上に値上げするという通知が来たのは、代替わりして直ぐのことだった。
びっくりして電話で問い合わせた木下に、新しく地主となった息子は声を荒げた。
「やかましいわ!ガタガタ文句言うな!うちの父親が甘かったばっかりに、これまで安い地代で長いこと住まわせてやった恩を感じろ!今は住んでない?そんなこと知ったことやないわ、あんたはしっかりと地代を納めたらええんや!」
木下は、毎月3万円を超える金額を地代として納めないといけなくなった。
その金額が高いのか安いのかは判らない。
実家の近くの不動産屋に聞いてみると、「その辺りならそれくらいの地代はするんじゃないですか?」とそっけなく電話を切られた。

どうしたものか?
あの家を貸し出すという手もあるだろうが、新築してから36年も経っている。借りてもらえたとしても、屋根はいつ雨漏りがしても不思議ではないし、定期的に外壁塗装もしないといけないだろう、そうした費用を考えると頭が痛くなる。
貸し出したとしても、あちらこちらに手入れが必要なると、結構な費用がかかるだろう。それに、入居者が出て行ったら、次の入居者が入るまでは地代の全てを負担しないといけない。
父親が地主と契約した土地の貸借契約書を引っ張り出してみた。
契約期間は20年間、申し出がなければ自動的に契約は更新され、さらに20年の契約期間となる。
次の契約更新時期は4年後だ。
契約更新をしないとなれば、建物を取り壊して更地にしないといけないらしい。
となると、いっそ取り壊して更新しない方が楽なように思える。
でも、あの息子が、簡単に契約解除に応じてくれるのだろうか?
考えるほど、気分が滅入ってきた。

その日は、木下が所属する総務部と経理部の合同の送別会で渋谷にいた。
完全個室が売りの居酒屋で、2時間食べ飲み放題3980円プランなら、定年退職する先輩たちにちょっとした贈り物をしても、ひとり頭5000円ほどで収まる。
20人ほどのメンバーで、お疲れ様の杯を合わせると、それぞれが送られる先輩のもとへ挨拶に行き、別れの言葉を交わすのがいつしか会社の慣わしとなっていた。
「それにしても木下君は独身で悠々自適で羨ましいよ。僕なんか娘はまだ大学生だし、年金がもらえる年齢になるまで、まだまだ働かないといけないんだから」
そう話してきたのは、10年ほど前に銀行から転職してきた経理部長だ。
銀行からやってくる上司というものは、大抵がろくに働きもしないのに偉そうな態度で部下にあたる輩が多い。
その中で、この経理部長は誰に対しても丁寧な言葉遣いをし、自分の役割をしっかりと踏まえてきちんと仕事をこなす人だ。
部員からの信頼も厚く、個人的にもいろいろな相談に乗っているという話も聞いている。

「部長、そんなことないですよ。僕だって大変なんですから・・・大阪にいた頃は父の介護とかで大変でしたけど、父の年金もあったし、自宅通いで家賃もいらなかったし・・・でも、東京に転勤になってからは、マンションの家賃は高いし、物価も大阪に比べて高いし・・・それに大阪の実家には誰も住んでないのに借地だということで毎月地代を払わないといけないんですよ、もうそれが大変で・・・」
少し酔いが回ってきたのか、木下は地代を振り込むために行った、先日の銀行での出来事を話の種とし、銀行出身の部長に愚痴った。
「木下君、今はネットから振込もできるんだから、そうすれば支店で並ぶ必要もないだろう。手続きをすればいいよ。で、大阪のご実家は誰も住む人がいないのなら貸せばいいんじゃない?」
「部長、そんな簡単に言わないでくださいよ。貸すって言ったって、いくらくらいで貸せるのかも判らないし、あちこち修理する必要もあるだろうし、もう面倒だから借地契約を解除したいんですけど、それもうまくいくかどうか・・・」
酒のせいもあってか、木下はうな垂れた。
「そうか、気楽そうに見えても木下君もいろいろあるんだな。そういえば、僕がいた銀行の後輩で、関西で不動産屋をしているのがいるから、なんなら紹介してあげようか?きっと力になってくれると思うよ。ちょっと気が強い女性だが、なかなか有能な女史だから」

朝起きて、ハンガーに掛けられたスーツを羽織ると、胸ポケットに違和感を感じて探り出すと、1枚のメモが入っていた。
昨夜、部長が不動産屋を紹介してやろうと言って、連絡先を書いてくれていたのだ。

「もしもし、初めまして、藤堂さんに紹介されました木下と申します」
「ええ、お聞きしております。柳本不動産の柳本美土里です」
ハキハキした電話の声からの印象は、藤堂部長が言われていた通りの才女を思わせた。
「実は、新大阪にある実家について悩んでおりまして・・・ご相談に乗っていただきたいんですけど・・・」
木下は、実家の住所を告げ、借地である実家には今は誰も住んでいないこと、あと4年で借地契約が更新時期を迎えること、できれば借地契約を更新したくないこと、とんでもない地主だということ、などを話した。
「そうですか、だいたい解りました。旧法の借地権になりますね。とりあえず契約書をFAXしてください」
木下は、週末に一度大阪へ帰って詳しく話を聞き、進めていくことを約束した。

柳本不動産は、木下の実家から電車で30分ほど行った駅前にあった。 店の前に立つと、木下は思わず笑ってしまった。
「なんとも、レトロな不動産屋さんだ」
築36年経った実家でさえ、玄関はアルミサッシだ。それが柳本不動産の入り口は、木製の引き戸である。
それに玄関の上には、欅の扁額に「柳本不動産」と流れるような書体で書かれていた。 引っかかりのある引き戸を、なんとか押し開けた。
「ごめんください、木下と申します」
木下の目に飛び込んできたのは、自分と身長が変わらないくらい背の高い女性、たぶん170センチは軽く超えているだろう。濃いブルーのスーツに女性らしい曲線の身を包んだ姿で、カウンターに置いてある物件資料を整理しているところだった。
「はい、いらっしゃいませ、柳本美土里です」
「あ、あなたが柳本さん?」
木下は、学校の先生のような女性を想像していただけに、まさかこのモデルのような女性が柳本不動産の社長!?それに、藤堂部長からは、柳本美土里はセクハラ上司の頭を張り叩いて辞表を叩きつけた豪傑女史だと聞いていたのだが。
驚いて言葉が出ない木下の胸元に、美土里の名刺が差し出された。

「建物を解体撤去し更地にして借地契約の更新をしないということをお考えのようですが、一般的に旧法の借地権は、借り手に有利にできていますので、借地権付き建物として売るという方法も選択肢として考えられるんじゃないでしょうか?それならば、解体撤去をする費用も不要ですし・・・」
「そんな、地主の承諾なく勝手に売ることってできるんですか?」
木下は、品性の欠片もない、あの地主の承諾を得るなんて、とんでもないと考えていた。
「もちろん、地主の承諾は必要です。でも、地主が承諾しない場合には、裁判所に訴えて地主に代わる許可を得ることもできるんですよ」
美土里の言葉で、木下は少しホッとした、それならあの地主と直接に関わらなくて済む。
「それと、契約期間更新時期までにはあと4年あるんですよね、とりあえず定期借家契約という形で、ご実家をどなたかに貸されてはどうですか?そうすれば、月々の地代の負担も軽減されるでしょうし・・・その間に、借地契約を更新しないという方法をとるか、借地権付建物を売るかを検討されてはどうですか?」

定期借家契約?
「定期借家契約は、期間を限定して貸すというタイプの賃貸借契約です。契約期間が満了すると基本的に借主は退去しなければならず、貸主にとっては、一定期間を経ると必ず返してもらえるという契約です。でも双方の合意があれば、契約満了後に再契約をすることも可能なんです」
「今回のケースでは、もし木下さんが地主さんとの借地契約更新をしないとすれば、建物を解体撤去して更地にする必要があるので、それまでに入居者は退去しておいてもらわないといけませんよね。だから、定期借家契約で貸せば、期限が来たら退去してもらえるし、その期間は地代の負担は家の借主からいただく賃料で賄えます」
「もし、木下さんの気が変わって借地契約を更新するとして、家の借主にそのまま入居も続けて欲しいと思うなら、入居者の意向のもとで定期借家契約の再契約もしくは普通借家契約に移行させることもできますから」
「また、借地権付き建物として売却する場合でも、購入した買主が自分で住みたい場合は、家の契約期間満了を待てばいいことだし、そのまま借りていて欲しいと思われるのなら、家の借主と話し合いをすることも可能だと思われますから」

さすがプロだ、思ってもみなかった提案がどんどん出てくる。
「毎月の地代負担も大変でしょう?まずは定期借家契約での借主を探しましょうね。それから、借地権付き建物がいくらなら売れるかを査定させてもらいますので、家の買主を見つけましょう」
美土里の心遣いが心地良かった。

周辺の取引事例から、すぐさま募集条件の設定をして提案してくれた。
「定期借家契約の事例っていうのは、そんなにありませんので、条件設定は難しいのですが、賃料は普通借家契約の成約事例から導いた6万5千円からまずはやってみましょう。借主の初期費用が高くなる敷金や敷引きというスタイルはとらずに、貸主が取りきりの礼金タイプにして、これを少し低く、例えば2か月分くらいに設定することで定期借家契約の借主側デメリットを抑えることができるのではないでしょうか?」 目の前にデータを広げて美土里が話す内容はどれも納得がいくもので、木下は首を縦に振るばかりだ。
「では、お願いします」
美土里に実家の鍵を託して、木下は東京へ戻った。

家の借主が見つかり、契約となったのは2週間後だった。
「ありがとうございます。こんなに早く決まるとは思いませんでした」
「そうですね、よかったです。春の異動の時期だったのも良かったのかもしれませんね。それと、礼金を2か月分に設定したのも当たりだったのかも。でも、なによりもご実家の立地が良かったんだと思いますよ」
賃料は6万5千円だから、地代を払っても3万円あまり残る。
「ほんと、良かった。このまま修繕とかする必要がないのなら、借地契約も更新して、ずっと家を借りてもらっててもいいんだけどな~」
なんて、都合のいいことを考えたりした。

借主が入居を完了した頃、美土里から電話が入った。
「木下さん、借地権付き建物の売却の方ですけど、500万円なら買ってもいいっていう業者がいるんですが、いかがですか?」
「500万、そんなになるんですか?でも、以前にお話した名義書き換えとかはどうなるんですか?」
「ええ、それについては弁護士の先生にもちょっと相談してきました。名義書き換えの承諾については売主である木下さんにしていただく必要があるんです。とは言っても、地主さんと直接話をするのが嫌なら弁護士の先生に代理を依頼されてもいいと思います。承諾が得られなければ承諾に代わる許可を裁判所に求めることになりますが、承諾料の相場としては約180万円、裁判費用が約170万円くらい掛かるだろうということです」
「だから、500万円で売ったとしても、承諾料と裁判費用、仲介手数料や登記関係費用を差し引くと、125万円ほどになっちゃうんですけど・・・それに、売却後の譲渡税も計算しておかないと」
「そうですか、半分以下になっちゃうんですね」
でも、借地権の更新をしないという選択をするとすれば、建物の解体撤去をして更地にしないといけないのだから、その費用は100万円以上は軽くかかるだろう。
マイナス100万円と100万円以上のプラスとを比べれば、天と地ほどの開きがある。
木下は決めた。弁護士に依頼して借地権譲渡に進もうと。
「わかりました、それじゃあ売却の方向でお話を進めさせていただきたいんですが、柳本さんがご相談されている弁護士の先生を紹介いただけますか?」
「ええ、承知しました。ただひとつお話しておきたいのは、裁判所に申し立てをしても、地主には優先的に借地権を買い取ることもできますので、地主の判断よっては、そうなることもあるということです。まあ、どちらにしても木下さんに損はないでしょうけど、その辺りの詳しいところは弁護士の先生に聞いてくださいね」

「藤堂部長、柳本さんをご紹介くださいまして、ありがとうございました。お蔭様で、実家を借りてくれる人を探してくれまして、月々の負担もなくなり、毎月小遣いをもらっているみたいですよ」
「おいおい、まず部長っていうのは止めてくれよ、もう退職したんだから」
挨拶に行った部長の家の応接間で、藤堂は恥ずかしそうに手を左右に振った。
「それに売却の話も進みそうで・・・こちらはまだ裁判手続きとかがあるみたいですが・・・」
「でも、良かったよな、なんだかうまくいってるみたいで。家賃収入が入ったからって、小遣いと思って浪費したらダメだからな。それって不動産所得だから確定申告をして納税しないといけないんだから」
「あっそうか。浮かれて税金のこと忘れてた」
「おまえ、相変わらずだな~」
2人の笑い声がシンクロした。(完)

※このドラマはフィクションであり、実在の団体や個人とは何の関係もありませんので、ご承知ください。