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女不動産屋 柳本美土里

住職の流れるような読経と、リズミカルな木魚の音が部屋に響いている。
美弥子は住職とたった二人きりで、夫の康雄の1周忌法要を自宅で行っていた。
脳をしびれさせ身体に染み入るようなお経は、肉体から離れた死者の魂を癒しているのだろう。
自分もいつか魂だけになったときに、こんなふうにお経で癒されるのだろうか。
美弥子はそんなことを思いながら、康雄とのこれまでの生活を思い出していた。

法事には、多くの親戚が集まるというイメージがある。
しかし、康雄の法事は妻の美弥子ただ一人だ。
それには、理由がある。
康雄は、兄と姉がいる3人兄弟の末っ子だったが、美弥子との結婚を家族に反対され、二人して駆け落ちしてからというもの、康雄の親や兄弟とは絶縁状態にある。
美弥子の両親は彼女が幼い頃に亡くなり、18歳で康雄と家庭を持つまでの間、母親代わりになって育ててくれた祖母も、既にこの世を去っていた。
そして、康雄との間に子どもは恵まれなかった。
美弥子と康雄は、ほぼ二人きりで結婚後の人生を過ごしてきたのだった。

「どうしてもあの娘と一緒になる言うんやったら、この家と縁を切って出て行け」
美弥子の出自に問題があるから、そんな娘と縁組してしまうと、兄の仕事の障害になり、姉の結婚の妨げになると、康雄の父親は言った。
だから、どうしても美弥子を嫁として家に入れることはできないと。
50年ほど前の田舎では、そうしたことも結婚反対の正当な理由とされていたのだった。
ましてや、村で役場勤めをする堅物の父親は、世間体というものが何よりも大切だったのだろう。
「親父の言いたいことはわかった。そやけど俺は美弥子と一緒になる。この家とは縁を切っても。美弥子と村を出て行くわ。」
康雄の言葉が、つい今しがた聞いた言葉のように美弥子の耳に残っている。
普段は無口で、自分の気持ちもうまく伝えられない性格の康雄が、親兄弟と縁を切っても自分を選ぶと、きっぱりと言ってくれたことに美弥子は驚き、心が震えた。

身の回りのものを持っただけの二人は、漠然と大阪を目指した。
大阪にあてなど無かったが、都会に出れば何かの仕事にありつけるだろうという単純な思いと、大阪まで行けば、村の人たちの目も届かないだろうと思ったからだ。
高度成長期の大阪ではあったが、何もないところから始めた二人の生活は厳しかった。
まずは、住む場所を確保しないといけない。
夫婦が住み込みで働かせてもらえるからと、新聞販売店で働くことにした。
朝は3時に起きて折込チラシを新聞にはさみ、配達、昼からはチラシの整理、夕刊の配達、その合間に、読者拡張という名の営業、月末になると集金と、休む間もなく二人は働いた。

初めの頃、美弥子は新聞を大量に積んだ重い自転車を操ることができずに、2回に分けて配達したものだから、最後の方に配達される家では新聞の到着が遅くなり、苦情の電話がかかってきたものだった。
口数も少なく、気持ちの優しい康雄は、拡張営業が苦手だった。
寒い冬の雨の日の配達では、雨合羽を通して冷たい雨が染み込み、配達から帰ってくる頃には身体の芯まで冷え切ってしまうため、店に戻ってきてからストーブの前で凍えをとかしてからでないと身体は自由にならなかった。
こうして二人の新婚生活は、新聞屋さんの2階にある4畳の部屋からスタートしたのだった。

田舎から出てきて数年が経過し、新聞販売店での仕事にも慣れ、生活も落ち着いてきた頃に、康雄はポツリと言った。
「実は俺、喫茶店をするのが夢なんや。美弥子と二人で喫茶店をしたいんやけど・・・」
唐突に出てきた康雄の言葉に、美弥子は何も言えなかった。
やっと安定してきた生活を、捨てるというのだろうか?
康雄の言葉の意味するところが、その時はすぐに理解できなかった。
「そやけど喫茶店するいうても、そんなお金も無いやん」
貧しいけれど、やっと落ちついてきた今の生活を優先して、つい否定する言葉を投げてしまった。
「そやな、これは夢や。いつか喫茶店ができたらええな~と思っただけや」
微笑みながらも寂しそうに俯いた康雄の顔を見て、なんだか自分の言葉が康雄の夢を遠いものにしたように思えて、美弥子は悔やんだ。
と同時に、それが康雄の夢なら、なんとしても絶対にかなえてあげたいと思った。
今は、どうしたら喫茶店をすることができるのか解らないけれど、調べて考えて、お金も貯めて、きっとかなえてあげたい。
頑張って康雄の夢を実現させてあげることは、親も兄弟も捨てて自分を選んでくれた康雄に、これまで何もしてあげられなかった自分がお返しできることなんだと美弥子は思えた。

喫茶店をするには、もっとお金を貯めないといけないし、喫茶店で経験を積んだり、ノウハウを得たりしないといけないと思う。
お金を貯めるためには、新聞販売店での仕事でなく、もっとお給料の高い仕事をしないといけないと思ったのだが・・・
かといって、自分勝手に店を辞めて他の仕事につくことは、行くあてのない二人を雇ってくれて、こうして人並みの生活ができるようにまでしてくれた新聞屋の店主に迷惑を掛けることになってしまうのでは?という思いが、二人を悩ませる日々が続いた。

そして、二人は意を決して、揃って新聞販売店の店主の前に正座した。

店主は、学生時代に柔道をしていたというだけあって、立派な体格をしていた。
大きな顔に、ぎょろりとした大きな目と、大きな声が特徴的だ。
康雄が働き始めた頃に勝手がわからずミスをした時なんぞに、その大きな声でどやされると、縮み上がったものだ。
半端ない威圧感だが、面倒見がよく、田舎から出てきて途方にくれていた二人を、優しく迎えてくれた恩人でもあった。
年齢は康雄の父親と同年代で、店ではオヤジと呼ばれていた。
「オヤジさん、折り入って話があるんですが・・・」
「おお、康雄、二人してあらたまってどうした?」
「ええっと・・・」
迫力のある店主の前で、気も身体も小さな康雄は言い淀んでいた。
横から美弥子が突いても、いっこうに話し出さない康雄に痺れを切らし、美弥子が口を開いた。
「実は私たち、いつか二人で喫茶店を持ちたいと思っているんです。それで、そのためにはもっとお金を貯めないといけないし、喫茶店をやっていくノウハウも勉強していかないといけないと思っているんです」
「それで、恩があるオヤジさんには、不義理で大変申し訳ないことだとは思うのですが、お店を辞めさせてもらいたいんです」
途中で話を止めると続けられなくなりそうだったので、いっきに美弥子はしゃべった。
オヤジさんは、腕を組んだまま、大きな目でジッと二人を見据えた。
康雄も美弥子も、オヤジさんの口から出てくる言葉を恐れて、さらに縮こまった。

「そうか、二人にはそういう夢があったんか。そやな、うちでは出せる給料もしれてるからな。喫茶店を出すほど貯めようと思うと、厳しいもんがあるやろう。そやけど、せっかく仕事にも慣れたのに残念やな」
オヤジさんは、腕を組んだまま目を閉じ、口を一文字にして眉を寄せた。
そして、思いを決したように口を開いた。
「二人がうちに来るようになった事情も聞いてる。わしはお前らを自分の子どもやと思ってこれまで来たんや。夢を持つことはええことや。貧乏な新聞屋やから大それたことはでけへんけど、できる限りの応援はしたるから、康雄も美弥子も頑張って夢をかなえるんやで。そやけど、まだ次の行き先は決まってないんやったら、今すぐに出て行くことはないからな。それまではうちで働いてくれたらええから。なんやったら2階に住んだまま働きに出てもええねんで」
怒られるとばかり思い込んでいた二人は、オヤジさんの思いがけない優しい言葉に、涙が溢れ、膝を濡らした。
オヤジさんの言葉はありがたかったが、転職をするのに新聞屋さんの2階に住み続けることはできない。
二人は、けじめをつけて新聞販売店の2階の部屋から、近くの長屋へ引越しすることにした。

美弥子の意見で、仕事を覚えるために康雄は喫茶店で働き、美弥子は金を稼ぐため、キャバレーの女給をした。
美弥子をキャバレーで働かせることには、康雄は最後まで反対していたが、喫茶店の開業資金が貯まるまでだからという美弥子に、結局は押し切られてしまった。
酒に強くない美弥子が、アルコールの臭いをさせて酔っ払って帰ってきたときなどは、妻にこんなことをさせてまで自分の夢をかなえることに意味があるのだろうか?と、康雄は決心が揺らぐことがあった。
「やっちゃん、ごめんね。うちがお酒弱いばっかりに、やっちゃんに心配かけて。毎日お酒飲んどったら、そのうち強うなるから、あんまり心配せんといて。酔っても、このお酒が、やっちゃんと私の夢に近づく1杯やと思うと、気持ちよく酔えるんよ」
新聞を敷いた洗面器にもどしながら、そんなことを言う美弥子は、どう見ても気持ちよく酔っているようには見えないのだが、それでも、いつも最後は美弥子の強い意志に引っ張られて、康雄は思いを新たにするのだった。
そうした頑張りを経て、3年間の喫茶店修行と貯金を基に、二人は喫茶店を開いた。

自家焙煎のコーヒーを提供するという康雄のこだわりと、美弥子の親しみある笑顔での接客は、折からの喫茶店ブームに後押しされて常連客を増やし、順調な滑り出しをすることができた。
それから10年の間に、二人は大阪市内に喫茶店を3店舗持つまでになり、安定した経営ができるようになった。

二人の年齢が50代後半に差し掛かった頃に、バブル経済が巻き起こり、喫茶店が入っていたビルの立ち退きを求められたり、営業権を買いたいとかという連中がやってきたりした。
「やっちゃん、どうする?これまでずっと頑張ってやってきたけど、そろそろゆっくりしてもええ頃とちゃう?」
「そやな、美弥ちゃんにも苦労かけてばっかりやったからなあ。どうせ継ぐ子どももおらへんことやし、これからは今までなかなか行かれへんかった旅行とかに一緒に行ったりして楽隠居しよか?」
二人は3店舗を売って、喫茶店の仕事を終えた。

リタイヤ後に始めたゴルフが、二人の共通の趣味になった。
月に2度はラウンドし、年に3回は海外旅行に行く優雅な生活を続けていたのだが・・・。

そうした生活を10年ほど送った後に、康雄の身体に癌が見つかり、2年の闘病生活の後にあっけなく他界してしまった。
「嫌や、やっちゃん先に逝ったら嫌や~!」
まだ温かい康雄の身体をゆすり、抱きついて美弥子は叫んだ。
覚悟していたこととはいえ、康雄の生体反応が無くなった時には、美弥子は取り乱してしまった。
二人で生きてきたのが、この瞬間に独りぼっちになってしまった。
そう感じたときに、どうしようもない寂寞とした気持ちが突き上げてきたのだ。

葬儀や骨上げ、初七日などの法要など、人が他界した後に行ういろいろなことは、残された人に悲しむ暇を与えないために作られたものではないだろうか?
悲しむ暇も無く1周忌を迎えた美弥子は、そう思えた。

家には、康雄との思い出が詰まっていた。
田舎のひまわり畑で一面に黄色い花が咲いていたのを思い出すねと言って、庭にひまわりを植えたこと。
玄関に飾っている掛け軸は、二人で中国旅行に行ったときに買ったものだ。
そう言えば、飛行機から降りると、待っていてくれるはずの旅行社のガイドが見当たらなくて、二人して心細い思いをしたこともあった。
北海道に行ったときには、餌を口で受け取る熊牧場の熊が面白くて、何度も餌を投げ入れたこと。
その北海道でお土産に買った熊の彫り物も、奥の和室の箪笥の上に鎮座している。
トイレに入っても、照明が切れたときに康雄に取替えを頼んだら、脚立から落ちて足を捻ってしまい、しばらく杖が必要な生活になって難儀していたことを思い出す・・・。
美弥子は、それらを思い出すたびに、独りの寂しさがこみ上げてきて、そこで自分が立ち止まってしまうことに気がつくのだった。

この家は、独りでは大きすぎる。
それに、いつまでも立ち止まってないで、そろそろ前を向いて歩きなさい、と康雄も言っているような気がしていた。
引きずっている気持ちを自ら断ち、美弥子はこの家を処分して引越しをすることにした。

「ごめんください、自治会長さんからご紹介いただきました、柳本不動産です」
玄関先には、背の高い黒いワンピースを着た女性が立っていた。
不動産屋といえば、お腹の出た強引な感じのオジサンだと勝手にイメージしていたのに、少し面食らった。
「ようこそ、お越しくださいました。こんな素敵なお嬢さんが来られるなんて、びっくりしました」
そう言いながら、美弥子は美土里を招き入れた。

「自治会長さんからは、ご売却を検討されていると聞いたんですが」
「ええ、そうなんです。主人も亡くなったことだし、この家は独り暮らしには大きすぎると思うんです。この家を売って、便利な場所のマンションを買ってもいいかなって思ってるの」
リビングのソファで、二人はウエッジウッドのティーカップを挟んで向き合った。
「そうですか、承知しました。では、すこし建物や敷地を見せていただいてから、査定させていただきます」
「ところで、ご主人様がお亡くなりになられたということですけど、この家の名義は現在は奥様名義になってるんですか?」
「名義ですか?いえ、まだ主人のままで何も変えてませんけど、それって売るのに問題あるのかしら?」
美弥子は心配そうに首を傾けた。
「いえ、売却活動をする間は、相続人全員の売却についての同意があれば問題ありません。でも、買い手が決まって、所有権移転をするには相続人の名前で登記を変更しておかないと、亡くなった方の名義のままでは、所有権移転ができないんです。だから、それまでに名義変更をしておいていただきたいんです」
「相続っていっても、私たちには子どももいませんし、主人と二人家族だったので、私の名義に変更するのって簡単じゃないんですか?」
美弥子は、少し安心したように笑顔を向けた。

「ご主人様のご両親とか、ご兄弟はご存命ですか?」
康雄の両親は、既に亡くなっていることは、以前義兄から簡単な手紙が来て、美弥子は知っていた。
「両親は亡くなっていますが、義兄と義姉が生きているのか死んでいるのかは、恥ずかしい話ですが絶縁しているのでわからないんです」
「でも、主人と二人だけで頑張って建てたこの家を売るのに、主人の両親や、まして兄弟なんて関係あるんですか?」
美弥子は、憤慨したように訊ねた。
「そうですね、奥様のお気持ちは、もっともだと私も思います。でも、遺言がなく法定相続を行うとすれば、お子さんがいない場合、両親や兄弟も相続人になってしまうんです。それが、何十年も行き来のない間柄でも」
「えっ!?ということは、主人の兄弟の承諾がないと、この家は売れないってことですか?」
「はい、残念ながらそういうことです。売却に同意してくれたとしても、相続放棄でもしてくれない限りは、法定相続分の財産を渡さないといけなくなると思われます」
「何ですって・・・」美弥子は絶句した。
「ご主人様のご兄弟が、法定相続分の権利を主張されるとしましたら、お兄さんとお姉さんに、ご主人の相続財産の8分の1ずつが認められることになると思います」
美土里は、喉に引っかかるのを感じながら言葉を吐き出した。
「そうなんですか・・・」
名義は康雄のものだが、実際は二人で働いて建てた家だし、喫茶店にしても二人で作り上げてきたものだ。
それを、どうして半世紀も前に縁を切った兄弟に分けなければならないんだろう?
それ以前に、そんな話をこちらからしないといけないということにも我慢ならない。
美弥子の気持ちは、一面に広がった黒い雲が海面に迫るように重くなり、力が抜けて身体がソファに沈み込んでいくようだった。

兄弟と縁を切ったというのは、相当の理由があったのだろうと美土里は察した。
とすると、財産の一部でも兄弟に持っていかれるのは耐え難いことなのだろう。
自分ができることは、この依頼者のためには、どうすることが1番いいのかを提案することだ。
美土里は、背筋を伸ばし座りなおして話を始めた。
「残念ながら、法的にはご主人様のご兄弟も相続権があるのです。もし、これをそのままにしていたら、ご主人のご兄弟のお子様が、この権利を引き継ぐことになります。お子様が複数おられるとしましたら、それぞれに権利を持つことになりますので、この家の所有権を持つ人が、時間が経つことで、どんどん多くなってしまうことになりかねません。そうなってしまうと、売るにしても貸すにしても、権利を持っている人の意見がまとまらず、どうにもできない状態になってしまって、トラブルになりかねないんですよ。それを避けるためにも、このタイミングできちんと相続をしておくことは、大切なのではないでしょうか?」
「ご兄弟がどう言われるかはわかりませんが、縁を切られて長い年月が経っているのであれば、もしかして相続放棄をされるかもしれませんし、財産分与を主張されるのであれば、このさい渡すものはさっさと渡してしまって、すっぱり縁を切るというのもひとつの方法かと思われますけど・・・。それでも、納得できないということでしたら裁判をして決着するという方法もあります。もしご自身で遺産分割協議をしたくないということでしたら、弁護士に依頼されてみてはいかがでしょうか?とりあえず先方の出方をみてから、どうされるかを考えてみられてもいいのでは?弊社と懇意の弁護士を紹介させていただきますよ。もちろん、平行して物件査定はさせていただきますし」
温かい笑顔で話す美土里のアドバイスに従ってみようと美弥子は決めた。

ポケットの携帯電話が鳴ったのは、勝が庭の雑草を抜いて隅に押しやり、散水栓の水で手を洗っていた時だ。
腰のベルトに巻いた手ぬぐいで慌てて濡れた手を拭うと、ポケットから電話を引っ張り出した。
「勝兄ちゃん?節子です」
「ああ、節子か、どうした?」
「どうしたじゃないわよ、お兄ちゃんのとこに弁護士から電話あった?康雄の遺産分割の件でって」
「おう、あったあった」
「なんか、他人ごとのような返事ね。で、どうするつもり?康雄の遺産をもらうの?」
この口ぶりでは、節子は康雄の遺産を欲しいと思っているのだろうか?
それならば、できるだけ当然のことのように話をした方がいいと勝は思った。
「そんなもん、貰うわけないやろ。康雄は家の体面のために、50年も前に縁を切って追い出したんやぞ。そんな弟が自分の才覚で作った財産を、わしらが貰えるわけないやろうが。親父やお袋が亡くなったときにも、康雄の意思も聞かずに一方的に相続放棄の手続きをさせたんを忘れてないやろ。そんなわしらが、康雄の財産を貰うなんて下衆い真似できるわけないわ。弁護士に相続放棄するって言うたぞ」
確かに、その通りだ。
康雄が自分で頑張って作った財産に、自分たちは何の関与もしていない。
これまで康雄に何もしてやっていないし、いやそれ以上に康雄が受け取る権利のある両親の財産でさえ、家と縁を切ったということを理由に放棄させた過去がある。
法的にどうこうではなく、自分たちが康雄の財産をもらう道理がない。
本音としては・・・もらえるものは欲しいけど・・・
でもそんな素振りをみせたら、康雄の嫁にどう思われるだろうか?
節子は、考えただけで恥ずかしかった。
やっぱりそんなことはできない。
「そ、そうよね。私たちが貰えるわけないわよね。放棄するって私も連絡しておくわ」
ちょっと未練が残っているような声でもあったが、節子は心を決めたようだった。

「美弥子さん、良かったですね。これで問題なく家の売却ができますね。いい買主さんが見つかるよう、私も頑張って売却活動していきます」
「お引越し先もご紹介させていただきますよ。これからの生活スタイルをイメージしながら、それに適したお部屋を探していきましょう。お任せください」
コーヒー豆を煎る芳醇な香りの漂う喫茶店で、美弥子と美土里は手を取り合った。
そこは、かつて康雄と美弥子が働いていた、思い出の喫茶店だった。(完)

※このドラマはフィクションであり、実在の団体や個人とは何の関係もありませんので、ご承知ください。