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憲法9条解釈や集団的自衛権行使是非に揺れる夏が来た(イメージ)

安倍政権の経済政策ばかりが一般庶民にはもてはやされているが、現政府の大きな施策にTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加と集団的自衛権行使を可能とする憲法改正がある。
去る5月11日、政府は、集団的自衛権の行使を容認するため、1972年の政府見解「集団的自衛権と憲法との関係」(以下72年見解)を根拠に、憲法解釈を変更する方針を固めた。72年見解は、外国による武力攻撃で国民の権利が根底から覆される事態に対処するため、「必要最小限度の範囲」で自衛権を行使出来るとしている。近年の安全保障環境の変化で、「必要最小限度の範囲」に集団的自衛権も含まれるようになったとの考えを打ち出すと報道された(毎日新聞)。
我々国民は殆ど知らないことだが、この集団的自衛権という概念は最近のものではない。太平洋戦争終結後、我が国が新憲法の下で新たな歩みを始めたばかりの1950年頃、朝鮮戦争勃発と対日講和(占領国統治終了)時期において我が国の国会でも集団的自衛権の議論が始まっている(初めて国会で言及されたのは1949年12月の第7回国会の衆議院外務委員会・西村熊雄外務省条約局長答弁)。そしてついに1972 年の決算委員会資料(72年見解)及び1981 年の政府答弁書において、集団的自衛権が現在に定式化される形で公に概念化されたと言えるのだ。
この議論は当然、憲法9条解釈と改憲論を伴うのであるが、ここにきて安倍首相は、正面からの憲法改正論議を一旦外して、憲法解釈を72年見解から変更する方針に打って出たのだ。

我々日本国民は、戦後60余年の戦争を知らない時代を経験し、今を取り巻く国外情勢の大きな変化に対応しなければならなくなった時期にあって、この問題(集団的自衛権行使と憲法改正)を一般国民の位置でどこまで理解し、知っておかねばならないのか。本編において解説する。


先ずは憲法の基本理念を共有しなければ!(国会公文書図書館蔵)

【定義:集団的自衛権と個別的自衛権】
1956年、我が国は国際連合(United Nations)に加盟した。国連は集団的安全保障という手段を採用し、「国際社会又は一定の国家集団において、それに属する諸国が互いに他の国に向かっての不可侵を約束し、反して武力行使を実行した国家に対して、他の国は協力して被害国を支援し、加害国に対して経済的圧力や軍事行動の強制的制裁措置を加え、諸国の結集した力による威圧により戦争を防止・抑圧する制度」という定義の下で運用されている。我が国でも湾岸戦争でのイラン対策や今の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、ロシアに対する経済的圧力制裁には、国連加盟国のこういったコンプライアンスが働いているのである(国連憲章第7章の下・非軍事的経済措置)。

個別的自衛権とは、外国からの違法な侵害に対して自国を防衛するために緊急の必要が有る場合、それに武力をもって反撃する国際法上の権利をいう(香西茂他著「国際法概説」有斐閣)。一方、集団的自衛権は、基本的に他国が武力攻撃を受けた場合、これと密接な関係にある国が被攻撃国を援助し、共同してその防衛にあたる権利を意味し、個別的自衛権共同行使説、個別的自衛権合理的拡大説、他国防衛説の三つの解釈によって成立している。我が国政府は、個別的自衛権合理的拡大説(注1)の立場を採っており、学説上の議論はあるが、国連加盟国であれば当然に有する権利であるとしている。

注1.個別的自衛権合理的拡大説:集団的自衛権は、自国と密接な関係にある他国に対する攻撃を、自国に対する攻撃と看做し、自国の実態的権利が侵されたとして被攻撃国を守るために攻撃行動をとることが出来る権利であるとする(田畑茂二郎「国際法Ⅰ新版」有斐閣、佐藤功「日本国憲法概説全訂第5版」学陽書房など)。
この考え方は、原則として他人に対する防衛を正当防衛とは認めず、密接な関係にある者に対する防衛のみを正当防衛と認める英米法的な考え方に由来するという(畠基晃「憲法9条-研究と議論の最前線」有斐閣)。


【集団的自衛権が議論される背景】
我が国は、日本国憲法制定以来、個別的自衛権における解釈は一貫している。憲法9条の戦争の放棄は、直接的には自衛権を否定していない。しかし、同条第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めていない結果、自衛権の発動としての戦争も、交戦権も放棄したという解釈であり(吉田茂首相発言。1946年6月26日第90回帝国議会衆議院議事速記録第6号)、これを基本として現在まで個別的自衛権に基づく自衛隊の存在理由となっている。
一方、集団的自衛権については、1949年第7回国会において中曽根康弘議員の「前略・集団的自衛権というものを総理大臣はお認めになりますか」という質問に対し、時の吉田茂首相は、「当局者としては、集団的自衛権の実際的な形を見た上でなければお答え出来ない」と答弁するに留まり、解釈を明確にするような議論や答弁は見当たらないが、以後1951年の旧日米安保条約締結から政府がこの問題について公に議論を開始し、第10回国会参議院外務委員会で議員の質問に対し、「一つの武力攻撃が発生した場合に、その武力攻撃によって自国の安全に対する被害を受ける国が数多くある場合には、その数多くの国は各々国際法上当然自衛権を行使し得るわけであるが、これらの国が自衛権を所謂共同して行使するという場合、そこに集団的自衛権というものがあると解釈するのが一番妥当かと思われる」とし、又「(国連憲章51条の集団的自衛権)提案者は、国家固有の権利としての集団的自衛権の概念を以て作ったと考えている(1951年2月27日西村熊雄外務省条約局長)」と言及して、政府が集団的自衛権を国家固有の権利として捉えていること、一国の武力攻撃に対して個別的自衛権が共同して発動されるものと考えていることが初めて示された。

しかし、我が国では、集団的自衛権について、独立国家である以上、その保有は当然であるという反面、それらの実際上の行使については、前述した憲法解釈の観点からも、憲法学説においても現行第9条の下では許容される実力行使の範囲を超えるもので許されないとの立場を採っている(個別的自衛権発動については、1.急迫不正な侵害の存在、2.侵害排除に他の方法が無い、3.行使については必要最小限であることの三要件が必要とされている。1973年第71回国会衆議院内閣委員会議録第32号吉国一郎内閣法制局長発言)。
これが巷で言われる、「持ってはいるが使えない」という権利であるから、現代の国際情勢や日米関係等を鑑みたときに、政府はどうしても「使える権利」としてその解釈を変更する必要があるとし、現在の議論に至っているのである。

【憲法9条改正議論を知る】
日本国憲法 第二章(戦争の放棄)
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

本章はこの9条のみで構成される。全文11章103カ条に上る日本国憲法にあって、たった1カ条のみで構成される章はこの9条とあと一つ。96条のみである。
日本国憲法 第九章(改正)
第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2.憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。


この事実から推測しても分かるように、日本国憲法起草者の思い入れが際立っているのがこの二つの条文である。
正に今、この9条と96条の改正が争点となっているのも予言めいた因縁を感じざるを得ない。

自民党が2012年4月27日に発表した日本国憲法改正草案では、憲法96条を改正し、発議要件を各議院の総議員の三分の二以上から過半数の賛成に緩和することとしている。これは単に9条改正のみを対象とした議論ではないが、同時進行的に集団的自衛権の行使における解釈の変更が議論されることから、国民の目もメディアも、諸外国に至ってまでもが、「憲法改正を容易に実現できる基盤を作ったうえで、その後、憲法9条や人権規定、統治規定を改変する意図があるからにほかならない」と色めき立つのも無理からない。本編では、憲法改正論議における持論を展開する目的ではないので、それには触れないが、我々国民は集団的自衛権の法解釈と72年見解の変更(必要最小限度の範囲に集団的自衛権の行使を包含する)という、現行政府自民党の理論構成を十分に読み解き、判断するリテラシーを鍛えておかなければならないのである。

『憲法誕生・激動の記録』
日本国憲法は、当時のGHQによる押し付けであるとか、英文の和訳であるとか言う人々もおられるが、実態は果たしでそうだろうか。


サンフランシスコ講和条約調印(戦争と平和:イメージ)

1945年8月、広島・長崎への原爆投下やソ連の参戦を経て、8月14日に第2次世界大戦が終結した。そして翌日、日本はポツダム宣言を受諾する。日本政府はポツダム宣言の受諾にあたり、大日本帝国憲法(明治憲法)上の天皇の地位に変更を加えないこと、すなわち「国体護持」を条件にすることを求めた。しかし、ポツダム宣言では、「平和的傾向を有する責任ある政府の樹立」、「民主主義的傾向の復活強化」、「基本的人権の尊重の確立」などを要求しており、これを受諾することは、自ずと明治憲法の根本的な改革を迫られることであった。
終戦直後から、政府においては法制局と外務省が、いち早く憲法問題に気づき、その検討を始めており、法制局では、入江俊郎第一部長のグループが非公式に憲法を見直すための事務的な検討を行った。又、外務省条約局は、日本自らの意思で民主主義体制を整備する必要があるとの判断から、独自の検討を進めた。しかしこれらの動きは、内閣の消極的な姿勢のもとで具体的な成果には結びつかず、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは10月4日、「自由の指令」(注2)を出す一方で、近衛文麿元首相と会談し、憲法の改正について示唆することにより、近衛を、佐々木惣一元京大教授と共に内大臣府御用掛として、憲法改正の調査に乗り出させる。その一方でマッカーサーは、10月11日、新任の幣原首相との会談において、「憲法の自由主義化」について触れ、幣原内閣は、内大臣府が憲法改正問題を扱うことへの反発もあり、政府としてこの問題に対応することになり、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(所謂松本委員会)が10月25日に設置され、政府側の調査活動もスタートさせた。こうして短期間のうちに政府案(私案含む)31、政党、民間私案15に上る憲法草案が出されたが、1945年12月16日からモスクワで始まった米英ソ三国外相会議で、極東委員会(FEC)を設置することが合意され、対日占領管理方式が大幅に変更された結果、日本の憲法改正に関するGHQの権限は、一定の制約の下に置かれることがマッカーサーに知らされた。
そこでGHQ民政局長ホイットニーは、マッカーサーに対して、「極東委員会が憲法改正の政策決定をする前ならば憲法改正に関するGHQの権限に制約がない」と進言し、GHQによる憲法草案の起草へと動き出した。所謂マッカーサー三原則を盛り込んだGHQ草案である。

注2. 反体制的な思想や言動を厳しく取り締まっていた日本政府に対し、1945(昭和20)年10月4日、GHQが、自由を抑圧する制度を廃止するよう命じた指令。正式には「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」という。「人権指令」とも呼ばれる。


GHQ本部が置かれた第一生命ビル(イメージ)

1946年2月13日、外務大臣官邸において、ホイットニーから松本国務大臣、吉田茂外務大臣らに対し、先に提出された日本政府案要綱を拒否することが伝えられ、その場で、GHQ草案が手渡された。松本は抵抗したが、GHQの同意は得られなかった。日本政府は、2月22日の閣議において、GHQ草案に沿う憲法改正の方針を決め、2月27日、法制局の入江俊郎次長と佐藤達夫第一部長が中心となって再度日本政府案の作成に着手した。3月2日、試案(3月2日案)が出来上がり、3月4日午前、松本と佐藤は、GHQに提出し、同日夕方から、確定案作成のため民政局員と佐藤との間で徹夜の協議に入り、5日午後になって全ての作業を終了した。日本政府は、この確定案(3月5日案)を要綱化し、3月6日、「憲法改正草案要綱」として発表した後、ひらがな口語体での条文化が進められ、4月17日、「憲法改正草案」として公表された。

3月6日の「憲法改正草案要綱」は「日本政府案」として発表されたものだが、GHQが深く関与したことが明白であったため、日本の憲法改正に関する権限を有する極東委員会を強く刺激することとなった。
極東委員会はマッカーサーに対し、「日本国民が憲法草案について考える時間が殆どない」という理由をつけて、4月10日に予定された総選挙の延期を求め、さらに憲法改正問題について協議するため、GHQから係官を派遣するよう要請したが、マッカーサーはこれらの要求を拒否し、極東委員会の介入を極力排除しようとした。
しかし、衆議院における「帝国憲法改正案」の審議が始まる6月21日、マッカーサーは、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」、「国民の自由意思の表明」の三原則が必要であると声明した。これら議会における憲法改正審議の三原則は、極東委員会が5月13日に決定した「新憲法採択の諸原則」と同一のものであったことが後に分かるが、衆議院で委員会審議が始まったばかりの7月2日、極東委員会は、新しい憲法が従うべき基準として、「日本の新憲法についての基本原則」を決定したその内容は、先に米国政府が作成した「日本の統治体制の改革」(国務、陸海軍三省調整委員会文書SWNCC228)を基礎とするものであり、マッカーサーが極東委員会の要求をある程度受け入れたことを意味している。又、 1945年12月26日に発表された憲法研究会の「憲法草案要綱」では、天皇の権限を国家的儀礼のみに限定し、主権在民、生存権、男女平等など、後の日本国憲法の根幹となる基本原則を先取りするものであり、その内容には、GHQ内部で憲法改正の予備的研究を進めていたスタッフも強い関心を寄せたと言われている。


新憲法が国会で承認(国立国会図書館蔵)

その後GHQは、極東委員会の意向に沿う形で改正案の修正を日本政府に働き掛け、その結果、「主権在民、普通選挙制度、文民条項」などが明文化され、1946年11月3日、「日本国憲法」が公布されるに至ったのである。

参考 国立国会図書館『日本国憲法の誕生』、豊田穣著『人間交響楽 2: 人間天皇と憲法 : 苦悶する日本列島』講談社 1985年、児島襄著『史録日本国憲法』(文春文庫)文芸春秋 1986年同社1972年刊の文庫版、1997年oジェームス三木著『憲法はまだか』角川書店 2002年、鈴木安蔵著『憲法制定前後 : 新憲法をめぐる激動期の記録』(青木現代叢書)青木書店1977年

<執筆日:2014.5/11>