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小保方さん、今や時の人(共同通信)

ソチ冬季オリンピック・パラリンピック開催間近の1月の終わり、科学の世界で日本人がまたもや金メダルを獲得した。
体のさまざまな細胞になる新たな万能細胞「STAP細胞」開発の成果が30日付の英科学誌「ネイチャー」に発表され、海外の研究者からは「革命的だ」「また日本人科学者が成果」と称賛が相次いだのは記憶に新しい。STAP細胞(初期化技術)発見の立役者は、独立行政法人理化学研究所・再生科学総合研究センター(神戸市)の細胞リプログラミングユニットのリーダー、小保方晴子氏らの率いるチーム。すでに今年のノーベル賞候補No.1との声も挙がっている世紀の発見に、「また日本人が」とか「なぜ日本人が」などの驚嘆が漏れ聞こえるのだが、科学の分野では独創性や発想力が求められる中、それらの能力開発が不得手ではと囁かれてきた我が国にあって、実は全く逆で、日本人DNAには元来備わっている能力であることに改めて気付かされた。
その能力開発を如何なく発揮させ得る研究施設がこの国には在る。それが「独立行政法人理化学研究所」である。本編では、これまでに何度となく世紀の発見を世に送り出してきたスーパーサイエンスラボの存在にスポットを当てる。


スパコン「京」もここにある(資料:富士通)

【理化学研究所の歴史…創始期】
我が国の科学分野での草分け的存在であった高峰譲吉(1854年(嘉永7)富山県高岡の蘭方医の家に生まれ、金沢で育った。1879年、工部大学校(現東京大学工学部))を卒業(第一期生)世界初のホルモン物質発見(後にアドレナリンと命名したのが高峰であるという有力な説がある)が科学の発展が産業の発展に不可欠として国民科学研究所の設立を提唱したことをきっかけに、大正2年6月渋沢栄一(江戸時代末期から大正初期にかけての日本の武士、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる)ら財界人と政、学、官界が一体となり、「理化学研究所設立協議会」を開催。同4年、理化学研究所創立が決定され、第37回帝国議会において法案が成立し、国庫金補助及び民間寄付、また皇室からの御下賜金によって同6年に伏見宮貞愛(ふしみのみやさだなる)親王殿下を総裁として、わが国産業の発展に資するため、物理学、化学の両面から純正科学を振興し、国力の強化に貢献することを最大の使命とした「財団法人理化学研究所・設立認可農商務省指令第3692号」が設立された。


東京駒込にあった財団法人理化学研究所(資料:理研88年史)

【黄金期】
学界はじめ各界の大きな期待を担って発足した理化学研究所ではあったが、第1次大戦後の経済不況のために財界からの寄付金が予定通り集まらず、設立後3年ほどで財政的に行き詰まってしまった。
財政危機に直面した第3代所長大河内正敏(明治11年12月6日生まれ。母校東京帝大の教授を経て、大正10年理化学研究所所長となる)は、主任研究員制度を実施しテーマ・予算・人事などについて大幅な自由裁量を認める〈研究室制度〉を導入して研究の活性化を図る一方で、〈科学主義工業〉の理念を掲げて理研における研究成果の工業化・商品化によって財政基盤の強化に努めた(昭和2年・理化学興業株式会社設立)。
理化学興業は、理研の研究成果の工業化を担当し、各種製造工業部門への進出を開始した。理研の発明・特許を利用した医薬品(ビタミン剤など)、食料品(合成酒など)及び機械類を製造販売する企業が次々と設立された。大河内はそれら企業を取り纏めた一大コンツェルンを形成した(理研コンツェルンは当時63企業121工場を擁した)。多岐にわたる製造部門は、軌道に乗ると逐次独立会社として分離され、昭和8年の理研マグネシウムを皮切りに、理研ピストンリング、理研コランダム、理研感光紙、理研光器、理研酒販売、理研特殊鉄鋼、理研ゴム工業などを相次いで設立し、理化学興業を中核とする企業グループの色彩が強くなっていった。


大河内正敏(理研88年史)日経ビジネス:宮田親平著

当然、当初は研究費を捻出するための方策であったが、元々科学者でもある大河内は、我が国の優秀な研究が工業化されずに闇に葬られることを嘆き、それでは工業力を向上させることはできないと考えていた。我が国がこれまでの欧米依存の体質から脱し、自らが見出した研究成果と技術をもって産業の発展を図る必要があり、そのために発明の成果をもとに営利会社を設立、製品化して得た報酬を研究所の研究費に充てるという内部循環システムが欠かせないと考えたのである。こうした考えのもとに大河内の提唱する「科学主義工業」を展開した。当時の資本主義工業は、低賃金の労働力を頼りに生産原価を切り詰めていくもので、「科学を活用して生産性の向上を図り、良品を廉価で製造する」ことという大河内の考え方は、一歩先を行くものであった。

設立の動機はどうであれ、コンツェルンは理化学研究所が新しい科学技術史を切り拓いていく礎となり、大企業の創出にも結びつき、我が国産業の振興に大きく貢献した事実と、今日のようなベンチャービジネスや大学等が推進するTLO(Technology Licensing Organization(技術移転機関)の略称。大学の研究者の研究成果を特許化し、それを企業へ技術移転する法人)の原型にもなった。大河内は、「我が国の科学技術の振興を政府に代わって成し遂げた希有の傑出した民間人」なのである。

【戦争・終戦・苦難の時代へ】
昭和16年に勃発した大東亜戦争による海外からの情報の閉鎖、輸入の激減は研究資材や研究者同士の情報交換も大幅に不足した。やがて戦火も厳しさを増し、昭和20年になって本土空襲も頻繁に行われるようになった。4月13、14の両日の東京大空襲によって、駒込にあった研究施設の建物の3分の2、設備の大半を失う事態になった。同年8月の終戦以降は、収入の道も途絶え、電力、用水ともに不足する中で細々と研究を続ける状況であった。
そのような中、理化学研究所トップの大河内が、戦犯容疑者として巣鴨拘置所に収監され、同年10月に所長を辞任。次いで主任研究員の仁科芳雄(物理学者。岡山県生まれ。東大卒。渡欧してラザフォード・ボーアのもとで研究。コンプトン散乱に対するクライン-仁科の公式を導いた。帰国後、理化学研究所に入り、原子核・宇宙線・素粒子論の分野で日本の物理学の発展に指導的な役割を果たす。昭和19年に日本初のサイクロトロン(イオン加速器)を建設)が第4代所長に就任するも、GHQは昭和22年12月、過度経済力集中排除法(財閥解体法)の施行により、理研コンツェルンを財閥とみなし、解体する。


GHQによって東京湾に海中投棄される仁科製粒子加速器(仁科加速器研究所蔵)

昭和22年の戦後第1回国会に提出された「財団法人理研に関する措置に関する法律案」に基づいて、財団法人理化学研究所を解散し、「株式会社科学研究所」が設立される。仁科芳雄ほか11名が設立準備発起人となり、新会社に財産の現物出資を行うことにし、昭和23年3月1日、初代社長に仁科が就任した。仁科は、研究を生きるための手段に変えることによって生じる利益で、研究部門の維持発展を図るという厳しい方針を打ち出し、昭和23年からペニシリンの製造量産、25年には結核薬のパス、ストレプトマイシンの開発に成功、また低圧酸素製造装置の開発と実用化を開始するなど、事業に邁進したが、理研精神の存続と復興を願いながら、過労の末に病に倒れ他界した。
株式会社組織での学術研究は、政府や民間から研究費や補助金を求めることは難しく、運営は容易ではなかった。科研はその後、研究部門と生産販売部門の分離や経営基盤強化など、3次にわたり変遷していくが、そのこと自体、自力更生がいかに難しかったかを如実に示している。

【栄光の理研・復活と発展】
理研の第3幕となる新生・理化学研究所は、昭和33年10月21日に科学技術庁(現文部科学省)所管の特殊法人として再出発し、「理化学研究所法(昭和33年4月24日公布)」という単独の法律によってつくられた法人(特殊法人)として歩み始める。
理化学研究所法では、理事長1名、副理事長1名、理事5名以内、監事2名以内を置き、理事長、副理事長、理事の任期はそれぞれ4年とし、監事は2年とした。理事長および監事は内閣総理大臣が任命し、また副理事長および理事は、内閣総理大臣の認可を受けて、理事長が任命することとした。資本金は、政府出資金、民間出資金からなり、政府出資金は理研法により常時、研究所の資本金の2分の1以上に当たる額とした。年間予算は、政府出資金や民間出資金、寄付金、政府からの研究補助金、受託研究収入などを加えた額で組むことになった。
理化学研究所の目的は、理化学研究所法第1条に次のように定められている。
「理化学研究所は、科学技術(人文科学のみに係るものを除く)に関する試験研究を総合的に行い、新技術の開発を効率的に実施し、並びにこれらの試験研究および新技術の開発の成果を普及することを目的とする」
つまり、新生・理研は、研究部門と開発部門の2本立てで推進することを明確にしたのである。その後、開発部は昭和36年に新技術開発事業団(現独立行政法人科学技術振興機構)として分離独立している。これに伴い、理研法第1条は、新技術の開発に関する部分が削除され、「理化学研究所は、科学技術(人文科学のみに係るものを除く)に関する試験研究を総合的に行い、その成果を普及することを目的とする」と改正された。(理研88年史第Ⅰ編第3章理研精神の承継と発展・特殊法人組織により)


理研の変遷(理研88年史)

新生・理研は、研究部門の運営制度の確立、研究陣容の若返り、研究員の増員とそれに伴う研究室の新設、招聘研究員制度の創設、研究設備の近代化など、特色ある総合研究を担う理研にふさわしい陣容を固めていくことになる。特殊法人理化学研究所のその後の業績は、重イオン加速器から大型放射光、ライフサイエンス、脳科学、ゲノム、ポストゲノム、ナノサイエンス・ナノテクノロジーといった我が国の科学技術の広範な分野で主流を成し、且つ最先端研究分野で主導的な成果を次々と打ち出し、学術、産業の両面にわたって極めて重要な役割を果たしていった。また、外部の優れた研究者を、任期を決めて採用する制度や、外国人を含む外部の識者に研究運営を丸ごと評価させ、その後の施策に反映するシステム、「理研アドバイザリー・カウンシル(RAC)」をいち早く立ち上げるなど、我が国の研究システムを大きく変革する仕組みを相次いで構築し、平成15年10月1日、「独立行政法人理化学研究所」に引き継がれた。

【世界に誇る理研とは】
財団法人時代から連綿と受け継がれてきた研究者精神と、それを支える理研の理念構造(主任研究員制度)が多くの世界的研究成果と名だたる科学者たちを輩出してきた。理研は日本の研究システムを革新してきたと言われる。研究機関で初めての任期制と定年制導入、研究室の一身制、連携大学院制度、理研ベンチャー(研究主導の起業と産業連携)、基礎科学特別研究員制度(若手研究者の育成と自立促進)、海外研究所(国際連携)、RAC外部評価システム(前述)、そして研究所の理想像である「中央研究所」組織の構築など。また、このような仕組みづくりが外圧や机上の論理で行われてきたのではなく、研究者自らが発案し、提言して作り上げてきたというところに確固とした基盤を感じるのである。


放射光施設Spring8も理研(理研播磨事業所:兵庫県)

我が国においては、明治維新以後、産業立国を目指す中、欧米の科学技術の成果を吸収し、それを元手に産業の近代化を進めてきた。しかし、科学技術を外国からの輸入に依存し、効率的に吸収し、消化し、実践するという模倣が蔓延したため、独創性は軽視されたと言われる。だが、すべてが外国の模倣ばかりではない。ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹の中間子理論、同じく朝永振一郎の超多時間理論をはじめ、日本の十大発明に挙げられている高峰譲吉のアドレナリン(前述)、池田菊苗のグルタミン酸ソーダ、鈴木梅太郎のビタミンB、本多光太郎のKS鋼など、世界的に高く評価された業績は多い。

科学技術の振興が我が国の産業にとって不可欠な要素であることは誰しもが認めるところだが、その政策を強力に推進し、バックアップする制度が確立されるまでに、理研が歩んできた苦難の道程がある。湯川秀樹が「理研はどこの大学を卒業したとか、どこに所属しているかとか、専門は何かといった縄張り意識などは少しもなく、同じ問題に興味を持つものが自由に集まって気持ちよく議論することができる。こうしたことが学問の進歩にとって非常に大きな意義があると思う」と述べている(科学技術庁振興局・日本短波放送を通じて放送した連続放送講座の座談会昭和34年当時)。
この理研風土から生み出された世紀の技術発見のひとつがSTAP(刺激惹起性多能性獲得技術)であり、研究者たちの個体能力も勿論であるが、「なぜ日本人が、また日本人が」の理由の一つと言えるのではないだろうか。