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女不動産屋 柳本美土里

洗面所の方から聞こえてきた鈍く床を揺るがして響く音は、布団の中でまどろんでいる三津子の意識を目覚めさせた。
布団を跳ね上げ、三津子はただならぬ音がした方へ飛んでいくと、そこには裸のままの大男が倒れていた。
「救急車を1台お願いします」
落ち着いて緊急電話をしている自分が不思議でならなかった。
若い頃、看護士をしていた三津子には、突然起こる出来事に対して、冷静になるような職業意識がどこかに潜んでいたのだろうか?

男の名は戸田大二郎、国際貿易株式会社の社長だ。
三津子が戸田と出会ったのは、20年ほど前に務めていた病院だった。
自動車事故で脚を骨折した戸田が、三津子の病院に担ぎ込まれ、そのまま入院した。
担当看護士となった三津子は、熊のような大きな身体のわりに、細かい気遣いのできる戸田に惹かれていった。
とは言っても、彼には妻子がいる。
好感は持ったが、1人の男性として意識することはなかった。
「退院したら、お祝いに食事をご一緒してくださいね」
最初は、冗談だと思って三津子は適当に頷いていたのだが、退院が間近に迫り、念を押されて懇願されると、戸田の誘いを、どうしても断れなくなってしまった。
「はいはい、判りました。そんなことより、しっかりと治してください」
三津子は、戸田が横になったベッドの布団の乱れを直しながら答えた。
本当に、誘いに乗って病院の外で会ってもいいのだろうか?
三津子がそう思うのは、まさしく、それからの展開を心配するからなのだろう。

貿易会社の社長が招待してくれる店は、フレンチかイタリアンか?たいそう高級な店なんだろうか?
どんな服を着て、どんな態度で店に入り、どういった顔をして食事をすればいいのだろうか?
三津子は、期待よりもプレッシャーを感じていた。
約束の日。
意外にも戸田が選んだ店は、郊外にある小さな居酒屋だった。
「こんな店で、申し訳ない。でも、こういう店の方が、心を開いて話ができそうな気がして・・・」
三津子が気後れすることを酌んで、気楽な雰囲気の店を選んでくれた戸田の優しい心遣いと、店の家庭的な雰囲気が、三津子の心を温めた。
「今日は、献身的に看護していただいたお礼のつもりですので、心ゆくまで食べて飲んでください」二人はグラスを合わせた。
「ありがとうございます。でも私は仕事として看護させていただいただけですので、こんなことしていただくのは恐縮です」三津子は身を縮めた。

ビールから熱燗へと変わり、お酒の酔いが気持ち良くなった頃だった。
目の周りに赤みが差し、濡れたように瞳の焦点がずれてきた頃、戸田は呟いた。
「三津子さん、本当は、看護のお礼とかじゃないんです。僕は三津子さんに惹かれて、一緒に食事をしたかったんです」
お酒が入らないと、言い出す勇気が出なかったのだろう、戸田は恥ずかしそうに笑った。

「僕は、田舎の名家に育ったんです。父は、とても厳格な人で、昔の封建時代の家長そのもののような人だったんです。独り息子である自分が家を継ぐというのが、僕の決められた人生でした。嫁をもらうにしても、それなりの家格のある家でないといけないということで、両親に決められた相手と見合いをして、そのまま結婚したんです」
「もちろん、私も人並みの恋愛をしたことはあります。学生時代ですが、同じゼミの同級生の女の子と恋に落ち、付き合っていました。彼女は、とっても明るくて素直で人を疑うことも知らないような性格でした。自分の意見もしっかりと主張し、自分で自分の道を切り開いていく彼女を見ていると眩しいくらいでした」
「彼女は九州の炭鉱の村で育ちました。父親は炭鉱労働者で、手や顔を毎日炭で汚し、父親の入った後のお風呂は真っ黒になっていたそうです。いつ落盤して命を落とすかもしれない仕事にしては給金は僅かだったようで、彼女の家も村の他の家と違わず貧しかったようです。それでも、いや、それだからこそ努力を重ねたのでしょう、彼女は奨学金を受けて大学に入ったのです」
「彼女と過ごした時間は、僕にとって人生の中でかけがえのない素敵な時間だったことは確かです。でも、その素敵な時間は長くは続きませんでした。学校を卒業すると突然、彼女は僕の前から姿を消したのです。はじめは何がなにやら判らずに、彼女を探しました。でも、そのうち、それが僕の両親の差し金で起こったことだと判明したのです。彼女のことを興信所を雇って調べ、僕に、いや僕の家にふさわしい家柄かどうかを探っていたのでした。万一、二人の間に間違いがあって妊娠でもしては大変だと、方々に金を使って彼女が僕の前から消えるように仕向けたのです」
「彼女の友達は、僕の将来を考えて彼女は去ったと言っていました。間違ったことは嫌いな彼女のことです、金では動かないと考えた大人たちは、彼女の僕に対する気持ちを利用して諦めさせたのでしょう」

「失意の中、もうどうにでもなれ、と思っていた僕に、両親は見合い話を持ってきたのです。両親が気に入った人なら誰だってもういいやって思っていたのです」
「嫁は、お嬢様育ちですが、花嫁修業もしていたようで、家庭のことは何事も卒なくこなします。お互いに対して愛情があったかどうかというと、いきなり夫婦になり、自分自身にそんなことがあった直後に、他の女性に対して愛情を持てるという方が不自然でしょう。それは、結婚生活のうちに、おいおい出来てくるものなのだろうというくらいにしか考えていませんでした。多分、彼女もそうだったのでしょう」
「そのうち子供もできました。また、僕の父も母も亡くなったことで、やっと、やりたかった貿易の仕事を始めることができたのです。自分のやりたかった仕事をできる喜びは大きかったです。当初に考えていたような愛情を嫁との間に育むことはなく、子供ができると嫁は子供しか見えないようになり、私は仕事に夢中になっていました。そして、結婚してから10年が経ってしまいました」
「僕には妻も子供もいます。家族として彼女たちを守る責任が、僕にはあると思っています。僕を仕事に集中させてくれたことにも感謝しています。でも、もう自分の気持ちを偽りたくないんです。好きな人には、はっきりと好きって言いたいんです」

三津子は、戸田の熱意に打たれた。
良くないこととは判っていたが、逢うたびにお互いが近づいていくのを感じ、何度もの食事やデートを重ね、二人は男女の仲になった。
そして三津子は、戸田と一緒に居られることが何よりもの幸せとなり、戸田は三津子の部屋に泊まるようになった。
彼が自分のマンションから自宅へ帰るときには、どうしようもなく淋しくなるのだが、我儘を言って彼を困らせることはしてはいけないと思う。ましてや、彼の家庭を壊すことは、自分の本意ではない。
日常のように喧嘩をしていた両親を見て育った三津子は、元々結婚願望もあまりなく、世間から見ると日陰の身である立場でも、こうして時々彼と逢い、彼の愛情を感じて過ごす、この生活の方が自分に合っているようにも思えた。

そんな幸せな日々を、何度かの季節を繰り返した後のこと。
「あれっ、もしかして?」
三津子は、女性としてはかなり正確に月のものがくる体質だ。
なのにその月は、予定していた日より1週間を過ぎても、来るものが来なかった。
意を決して、三津子は病院に向かったが、陽炎が揺らぐ夏に、病院の壁の白さは眩しすぎた。
不安からなのか、夏の暑さからか、三津子は軽いめまいを覚えながら、診察室に入った。
「おめでたです」
医者から告げられた言葉は空気の塊となって、三津子の耳の横を通り過ぎた。
「ってことは、妊娠したってこと?」
突然に思考が停止した脳を、なんとか動かそうと、病院のロビーの空中の一点を見つめた。
「どうしよう?彼に、何て言われるのだろう?」その答えを想像するのも怖かった。
彼の分身である命を宿したことは、とても嬉しかった。
が、その反面、彼を苦しめるかもしれないと思うと、どうしても言い出すことができなかった。
でも、日々成長する命を無視し続けることはできない、どういう結果となろうが、自分は子供と生きよう、三津子はそう決意した。

「ちょっと話があるんですが・・・」三津子は、戸田に向かい合った。
「どうした?深刻な顔をして、何か大変なことでも起こった?」
戸田は、なかなか言い出せない三津子を心配した。
「実は・・・赤ちゃんができちゃって・・・」今にも泣き出しそうな顔をして戸田の目を見つめ、三津子は告白した。
「そっか、それは良かった。僕がいない日でも、子供ができたら三津子は淋しくなくなるよね。僕が三津子と子供のことは、一生面倒をみるから安心して元気な赤ちゃんを産んでくれ」
そう言って戸田は三津子を抱き締め、同時に三津子は堰を切ったように泣き出した。
生まれてきたのは、女の子だった。
「美子」という名前は、戸田が名づけた。
心も見た目も美しい女性に育って欲しいと願ったのだ。
三津子は、美子に淋しい思いをさせないように気をつけてきたつもりだ。
それでも成長の過程で、美子は自分の境遇を恨んだこともあっただろう。なのに、そうした素振りは微塵も出さず、真っ直ぐで素敵な女性に育ち、夢を持ってネイルアーティストの道に進んだ。

倒れた戸田が病院に運ばれ、家族に連絡がなされると、正妻と子供たちが病院に駆けつけた。
「申し訳ございませんが、ここは私たちで看ますので、どうぞお引取り下さい」
正妻は、前々から三津子の存在に気付いていたのだろうか、丁寧な言葉の中には、返す言葉も遮る強い拒絶が含まれていた。
そして、翌日の朝を待たずに、戸田は息を引き取った。
戸田の通夜も葬儀も、三津子や美子の参列は叶わなかった。

それから半年ほど経ったある日、戸田の家族の代理人という弁護士が美子に話があるとやってきた。
「美子さんは、戸田大二郎さんの子供としての認知を受けています。そこで、大二郎さんの相続人となるのですが、大二郎さんのご家族は、美子さんの相続放棄を望んでおられます、放棄いただけますか?」
丸い眼鏡を人差し指で持ち上げて、弁護士は美子に言った。

「美子ちゃん、最近どうしたの?心配事でもあるの?」
ネイルアーティストでオーナーの美希は、スタッフの美子の様子がおかしいのを見て取り、声を掛けた。
「ええ、ちょっと家庭のことで・・・もう、どうしたらいいか判らなくて・・・」
美子は、自分の家庭のこと、父親のこと、そして弁護士がやってきたことを話した。
「う~ん、そう。だったら美子ちゃんも知っているでしょう、柳本不動産の美土里さん、あの人に相談するといいわ。あの人なら、法律もよく知っているし、仕事でも相続の問題を扱うこともあるみたいよ、ちょっと待ってて」
美希は、携帯電話をバッグから取り出し、ボタンをプッシュした。
「ああ、美土里さん、こんにちは。うちの美子ちゃんが困ったことになっているようなの、ちょっと話を聞いてくれませんか?うん・・・うん・・・判りました。じゃあ明日の夕方、連れて行きますね」
「美子ちゃん、明日の芦辺さんのネイルが終わったら、一緒に柳本不動産に行くわよ」
「ええ~明日ですか?私の予定も聞いてくださいよ・・・」美子は、困った顔をした。
「どうせ、大した用事はないんでしょう?こんなことは早く手を打たないといけないのよ」
「は~い、判りました。どうぞよろしく、お願いします」美子は、しぶしぶ頭を下げた。

「やっ、おいっしょ、ほんとイラつく~」
柳本不動産の引き戸の前で、照りつける太陽の日差しの中、美希は悪戦苦闘していた。
その年代物の木製ドアは、年を経るごとに建て付けが悪くなり、来訪者が開こうとしても、なかなか言うことを聞いてくれない。
「バン!」
内側からドアを蹴るような音がして、スルスルと魔法のようにドアが滑って開いた。
「美希さんいらっしゃい」
笑顔で迎える美土里に、美希は悪態をついた。
「そろそろドアを取り替えたほうがいいんじゃないですか?ドアを開けられないお客さんが帰っちゃいますよ、ほんとに~」
美希はハンカチで吹き出た汗を拭いながら、美子と柳本不動産に入っていった。
「はあ~涼しい、中は極楽やね、こんなに暑かったら外に出るのが嫌になるわ。夏ってこんなに暑かったかしら」
美希は、出された麦茶を一気に飲み干した。

「やっとひと息ついたようね、で相談って何?」
美土里は、3色ペンのノックを指先で順番に押し込みながら訊ねた。
「そうそう、美土里さん、うちの美子ちゃんが相続のことで、なんだか困っているみたいなの、相談に乗ってあげてください」
「なんだが、雲を掴むような話ね、どういうことか順番に説明してくれない?」
そこで、美子が身を乗り出した。
「はい、実は私の父親が半年ほど前に亡くなったんです。でも、父には本妻がいて、母は父の愛人という立場だったんです。で、私は愛人の子ということなんですが、私のことを父は自分の子と認知していたらしくて、父の財産相続を受ける権利があるようなんです。それで、本妻側の弁護士がやってきて、相続放棄をして欲しいと言ってきているんです」
「ほんっと、腹立つわ。あんまりにも酷い話じゃない?そうでしょ、美土里さん」
美希は、当の美子を差し置いて、自分のことのようにテーブルを叩いて訴えた。

美土里は、美希を無視して、美子に向いたまま言った。
「そう、それで、お父さんの財産ってどれくらいあるのかしら?」
「さあ、国際貿易株式会社の社長だったみたいだから、それなりにあると思うんですが・・・自宅は芦屋の山手にありますし・・・」
「え~、それってもしかして、凄い高級住宅街じゃないの?」
美希は飛び上がらんばかりにビックリして、細い美子の腕を掴んだ。
「ちょっと~美希ちゃん、静かにしてよ、話が聞けないじゃない」
呆れたように言う美土里の言葉に、美希は身体を縮めた。
「それで美子ちゃんは、どうしたいって思っているの?」
数秒目を閉じてから大きな目を開いて、美子は口を開いた。
「私は、どっちでもいいんです。そりゃ、お金はあるに越したことはないんですけど、今は私も働いているから何とかやっていっているし・・・でも、日陰の人生を歩んで不遇の身だった母に渡してあげたいんです」
「なのに母は、戸田家に迷惑を掛けるのは良くないから、財産を貰うなんて考えなさんなと、あっさりしたものなんです」
世間では、親兄弟でも財産をめぐって相続争いになることは多い。
そこには外から短絡的に考えるお金だけの問題じゃなく、故人や他の相続人への感情的なものが、相続を難しくしているのだろう。
例えば、故人の財産形成に自分が協力したのに・・・とか、故人の病気の面倒を自分以外の誰も看なかったのに、相続財産に対する主張だけはしっかりしてくる・・・とか。
美子の母は、本妻やその家族に対する気遣い、もしくは自分の中の凛とした思いがあって、戸田の財産を受けることを善しとしないのだろう。
そして、母を想う娘の気持ちが、割り切れない感情になっているのだろう。

「ところで、お父さんは遺言はしていなかったのかしら?」
「ええ、弁護士の話では、遺言はしていなかったみたいなんです。何せ突然倒れて亡くなったものですから」
「そう、遺言でもあったら、亡くなった人の意思が明らかになるから、それに従うことが故人の想いを実現することになるんだけどな~。まあ、ないなら仕方ないよね」
「お父さんは、どう思っていたんだろうね?」美土里は、美子に問いかけた。
「父は、とっても優しい人でした。子供の頃にあった父親参観なんかも、仕事で忙しい合間を縫って必ず来てくれたものです。世間的には肩身の狭い思いをしている私たちに申し訳ないと思っていたのでしょうか・・・経済的な面での苦労だけでも掛けまいとしてくれていたようでした」
美子は天井を見上げて、亡き父親を思い出して目を潤ませた。

「結果的にどうするかは、美子ちゃんが決めることだけど、権利としてどういうものがあるのかを話しておくね。お母さんは法律的には夫婦ではないし、戸田さんの戸籍にも入っていないから、いくらお父さんの大切な人だったとは言え、残念ながら遺言がない場合は、相続する権利はないの。美子ちゃんは、戸籍上の夫婦から生まれた子ではなく、それ以外の女性が産んだ子で、父親が自分の子供として認知した子ということで、法律的には非嫡出子ということになるの。それに対し、戸籍上の夫婦から生まれた子を嫡出子というの。嫡出子も非嫡出子も、その父親の相続をする権利はあるのだけど、以前は民法900条によって非嫡出子の法定相続分は嫡出子の2分の1となっていたのよ。それが、平成25年9月に最高裁判決で、その内容が違憲とされたの。つまり、この規定は法の下の平等を定めた憲法に違反するとして、非嫡出子の相続分も嫡出子の相続分と同じにすることになったの」
「でも、父が亡くなったのは、平成25年の2月ですけど・・・」
「ええ、お父さんが亡くなった時には、まだこの最高裁判決は出てないわね。でも、平成25年12月5日に最高裁判決のように民法が改正され、法務省は最高裁判決のあった9月4日以前の相続であっても、遺産分割が9月5日以降になっているものは、改正後のものが適用されるの。だから美子ちゃんの場合は、本妻の子供たちと同じ分だけ相続する権利があるのよ」
「そうですか、よく判りました、ありがとうございます。では、母ともう一度話をして、考えたいと思います」

それから1週間ほど経って、戸田家の弁護士から連絡があった。
相続についての話し合いをしたいから、美子と母と二人一緒に、戸田の家まで来て欲しいと。
「やっぱり、相続放棄を迫られるのかな?」不安げに訊ねる美子に、母の三津子は答えた。
「あなたは、もう大人になったんだし、よく考えると、これはあなたの権利だから私がとやかく言えることじゃないのよね。でも、お母さんはお父さんの困ることはしたくなかったし、戸田の家にとっては私の存在自体が迷惑なのでしょう。だからそれ以上に戸田の方たちに迷惑を掛けることもしないって思って生きてきたの。その思いもあなたにわかって欲しいの」
自分が権利を主張することを望んでいない。
それに反してまで財産を手に入れたからって、母は決して喜ばないのだろう、だったら潔く相続放棄をしよう、そう美子は心に決めた。

初めて入る戸田の家は、門から玄関まで配された飛び石のアプローチの周りには砂利が敷かれ、建物南側に広がる庭に向けては枕木が伸び、その脇を手入れされた植栽が立ち並んでいた。
4枚扉の玄関引き戸を開けると、磨き上げられた一枚ものの敷台が二人を迎えた。
「ようこそ、お越しくださいました。お待ちしておりました、どうぞお上がりください」
居住まいを正して座り、和服姿で丁寧に挨拶をする戸田の正妻に、二人は緊張を高めた。
水墨画が掛けられた床の間のある、奥の客間に通され、三人が座ると間もなくお茶が運ばれてきた。
戸田の正妻は、背筋を一度延ばし口火を切った。
「戸田が病院に運ばれた際は、失礼しました。なにせ突然のことで、私も動揺しておりまして。救急車を呼んでいただき、病院へも付き添っていただいたこと、本当に感謝しております。甲斐なく戸田は、意識を取り戻すことなく帰らぬ人となりましたが・・・通夜や葬儀の参列につきましては、体面もありましたので、お酌みいただきご容赦ください」
感情を表に出さずに話す様子を見て、この人の感情はどこに隠されているのだろうか、自分の家族に対しても、こういう物言いをするのだろうか?と美子は考えた。
「今日、お呼よび立てしましたのは、戸田の相続の件です。こちらが、戸田とあなた様の間にできた子供の美子さんですね」戸田の奥様は、手のひらを美子の方に出し三津子に訊ねた。
「はい、そうです」三津子は、それだけを言うと俯いた。

「美子さん、先日は当方の弁護士がお伺いし、失礼なお話をしたようで、本当にごめんなさいね。あれは、息子が先走ってとってしまった行動で、私の本意ではないんですよ。言い訳するようですが、子供たちには異母妹の存在は、戸田が亡くなるまで隠しておりました。戸田の死去によってそれを知った息子が、会社の経営に影響を及ぼすかもしれないと早合点し、弁護士を差し向けたという次第なんです」
「息子は、父親を継いで国際貿易の経営をしています。国際貿易は戸田が創ったオーナー企業ですので、その株式の全部は戸田家のものです。その株の一部が他の人に渡ることを、恐れていたのです」
「子供たちには、よく言い聞かせましたので、許してやってくださいね」
許してやってくれというのは、どういう意味なのだろうか?
相続放棄を迫るつもりではないのだろうか?美子は首を傾げた。

「実は、戸田から私宛の手紙が残されていたのです。とはいっても、遺言というものではなく、戸田の思いを託したもの、といっていいのでしょうか?これが、その手紙です」
正妻は、文箱から手紙を取り出し美子に渡した。

「この手紙を見るのは、僕が死んだ後なのでしょう。君はもう気付いているでしょう。僕は、君との間に生まれた息子や娘とともに育んできた家族とは別に、もう1つの家族を持っています。彼女の名前は川上三津子、子供は美子といいます。君が両親が与えてくれた僕の幸せだとすると、彼女とは天に決められた絆なのでしょう。君に対しては申し訳ない気持ちがあったものの、僕は彼女を愛してしまいました。しかし、そのために君や僕たちの子供を見限ることも僕にはできません。どちらも投げ出すことができない自分は、なんて弱い男なのだろうと思ったこともありました。でも、僕には、どちらも守るべき責任があるのだということも痛いほど感じていたのも事実です。勝手な言い分かもしれませんが、僕にとってはどちらも、とっても大切な人たちなんです。そこで君にお願いがあります。僕が死ぬと、君たちにはそれなりの財産が残されると思います。でも籍の入っていない三津子たちは、たちまち経済的に困ることになると思います。彼女たちの生活が困ることが無いように、君に便宜を図ってもらいたいのです。美子については認知していますので、相続権が発生すると思いますが、果たしてそれで彼女たちの生活を保つことができるのか心配です。また、美子に相続をさせることにより、君や子供たちの生活基盤が崩れるのも危惧します。僕が遺言によって、しっかりと財産分けをすればいいのでしょうが、死んだ後まで自分の勝手に分配してしまうより、最期に永年生活を共にしてきた君を信じて全ての差配を託したいのです。そして、その差配については、だれにも文句を言わせないでください。これが僕の気持ちですから」

美子は、手紙を読み終えると、堪えていた涙が嗚咽とともに溢れ出した。
父は、こんなにも自分たちのことを考えてくれていたのだ。
それに釣られるかのように、三津子も唇を噛みしめて震えた。
「本当にバカな男ですよ」そういう正妻の目にも光るものが見られた。
「これが戸田の気持ちですから、私にはこれを実現する責任があります。ここに財産目録がありますので、ご覧下さい」

「自宅と国際貿易の株式、それに駐車場がいくつかと、貸しビルが2棟、国際貿易以外の株券証券が1億、預金が1億円ほどあります。総額で8億円ほどになります。このうち、国際貿易の株式は、経営のこともありますので息子が全部引き継ぎたいと申しますので、ご容赦ください。美子さんには、評価が9000万円の貸しビル1棟、そして現金で5000万円、これで1億4000万円くらいになります。このビルからは年間900万円ほどの賃料が入ってきます。法定相続を少し越えるくらいの金額になると思いますが、それで宜しいでしょうか?」
美子は、声を出すことが出来なかった。
相続放棄を迫られると思い込んでいたのに、蓋を開けると、1億4000万円もの相続を言われたのだ。
「でも、やっぱり・・・」そういう三津子の言葉を、正妻は遮った。
「いえ、これは戸田の遺志なんです。私に差配が任され、それに対して誰も文句を言うなというのも戸田の遺志なんです。だから、三津子さんは何もおっしゃらないでください」
奥様は、きっぱりそう言うと、大切そうに手紙を文箱にしまった。

「私どもの子供も、三津子さんの子供も、戸田からすれば血を分けた同じく可愛い子供です。それぞれも、母親は違っても、兄弟姉妹であることも確かです。戸田を中心とした縁があるのだと思えば、いまさらどうこう思う気持ちはありません。これからは、法事の折にでもお越しいただいて、親戚づきあいをしていただきたく思いますので、どうぞよしなに」
三津子は、これまでのいろいろな思いが噴き出したように、テーブルに突っ伏して泣き崩れた。
正妻は、最初に会ったときとは別人のような、慈しみの笑顔で美子を見つめていた。(完)

※このドラマはフィクションであり、実在の団体や個人とは何の関係もありませんので、ご承知ください。