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お金とは金のこと?(砂金:ビクトリア州産)

日銀は2013年4月4日に決定した新たな金融緩和策を「量的・質的金融緩和」と名付けた。資金供給量の拡大が、国の財政赤字を穴埋めする「財政ファイナンス」と市場にみられるリスクを抱えながら、「2%の物価上昇率目標を達成する」とした黒田東彦(はるひこ)日銀総裁の決意の強さを示し、デフレ脱却へ向け力強い一歩を踏み出した形だ。(産経新聞)
黒田総裁は、「次元の違う金融緩和」への転換と称し、投資や消費に対する国民の気持ちが前向きになれば2年間程度でデフレから脱却できると見込んでいるが、本当にそうなるのだろうか(又、それが正しい経済の循環なのか)?経済とは、一般市民感覚では理解しにくい学問的見地が知識として必要であるから、本編では今回の「次元の違う経済政策」について、一般市民感覚で解き明かしていく。

【経済とお金の原則】
お金とはいったい何者なのか?経済を知ろうとするとき、入り口として必ずくぐらなければならない論理です。「物と物との交換価値を媒介する手段としての通貨である」という説明は、単に外形的な説明に過ぎません。
まず、お金には信用が必要です。物々交換は、交換当事者が互いの所有物の価値を認め合う(等価)ところから始まります。しかし、通貨という便宜上の媒体が交換価値の流通を支えるためには、その媒体に安心感(信用)が必要となります。つまり、通貨を持っていれば、いつでも価値のあるものと換えてもらえる、という安心感です。では、換えてもらえる、というのは誰に対して抱くのかというと、社会的な集合体である国家です。人間は群れで行動する哺乳類ですから、その群れを統治するボスに信頼を置くわけで、"隣のおっちゃんが交換してくれるから"というわけにはいかないですよね。そうやって、日本の歴史においても中世史上の国家形成期から「通貨」という概念が受け入れられてきたのです。一方で信用を付与する国家側としては、通貨を発行する権限を担うとどうしても沢山の通貨を発行したくなります。国家財政が安定するからですね。無くなればどんどん発行する"打ち出の小槌"方式で、市場に通貨が溢れると、物が少なくなり、需要と供給のバランスが崩れます。これがインフレーションですね。猫も杓子も通貨を沢山持っている状態は、一見して皆が富裕層になったように思える反面、心理的な不安感(通貨が価値を有していない)から、交換価値が下がっていきます。そして、国家をも信用しなくなります。昔の人も現代と同じで、そのような価値の循環をちゃんと分かっていたんですね。国を統治するぐらいの人たちですからそんなバカなことはせず、発行する通貨の量をちゃんと決めていたんですね。当時は日本の国の中だけが市場ですから、現代のように国際的な通貨の基準は関係なく、もっと単純ですが、市場経済の原理として「通貨供給量」をコントロールしていたわけです。


小判はいくらでも作れるのじゃ(イメージ)

いわゆる「お金」は、その昔は交換価値そのものを持っていなければならず、誰もが必要と感じ、又希少価値もあり且つ一定の供給量を均衡のとれた品質で供給できるものとして、日本では稲、米、布などが用いられました。中国では貝、ヨーロッパなどでは石なんかも通貨として使用されていたことはご存知ですよね。「値段」という言葉の語源は、稲の「ね」からきているというのも納得ですね。やがてもっと流通性に優れた通貨として、「貨幣」が開発され、銅や銀、錫、金など鉱物が使われるようになります。特に金は希少価値に加え、劣化しない鉱物ですので、後に説明しますがつい最近まで通貨の交換価値の基準として採用されてきました(金本位制)。

≪慶長小判と元禄小判≫
将軍徳川家康公は、天下統一を知らしめるために貨幣を発行しました。これが慶長小判です。この小判は、金の含有量が多く(重さ17.85gに対して84.5%)広く流通していましたが、明暦の大火(1657年・明暦3年)により江戸の6割と江戸城を焼失。 江戸の町を再建するため、幕府は財政負担を強いられます。又、1664年(寛文4年)の金輸出解禁に伴い、金や銀がオランダ貿易を通じて海外へ流出します。 全国の金山の産出量も減少していく中、1680年、将軍職についた5代徳川綱吉公ですが、浪費家であり幕府の収入以上に散財し、家康が残した江戸城御金蔵(200万両)をも食いつぶしてしまいました。なんとか資金を捻出しなければならない時の幕府は、勘定吟味役の荻原重秀に財政立て直しを命じ、通貨の改鋳を行いました。このときに造られたのが元禄小判であり、慶長小判と同じ量目で金含有量を54.7%に落としました。そして、慶長小判との交換レートを1:1.01(1%のプレミア)として流通を試みましたが、当時の貨幣は秤量(しょうりょう)貨幣(貨幣の金含有量に価値がある)であり、元禄小判が粗悪な造りであったため思惑通りの流通がなされなかったのです。そこで、荻原重秀は交換レートを1:1.20に引き上げを行ったところ、20%のプレミアに両替商や商人たちは飛びつき、またたく間に元禄小判が流通(慶長小判の回収)しました。幕府は回収した慶長小判を使って元禄小判の鋳造を進め、莫大な出目(=利ザヤ、500万両ともいわれる)を稼ぎ出すことに成功しましたが、江戸は超インフレに陥り庶民の生活は楽にはならなかったと言われています(元禄バブル)。そうそう、荻原重秀はこのとき莫大な私腹を肥やしたそうです。今の世も政治家は同じですねえ。


当時の小判鋳造の様子(お金の歴史雑学コラム)

≪金・銀本位制から変動相場制へ≫
「経済」という言葉自体、非常に新しい言葉です。幕末の鎖国解禁から明治維新後の諸外国文化が流入してきた頃、様々な言葉の概念も流入してきました。「economy=エコノミー」という言葉は、中国の「経世済民」という熟語から(経)と(済)を採って訳しました。一方では「理財」という訳し方もあります。経済とは、お金の流れと、資源資材や商品の流れを調べること。つまり、物の流通とお金の関係をいうのです。

我が国の経済を語るときは、明治以降の近代日本のお金の歴史を知ることが必要となります。鎖国を解き、海外貿易が経済にとって非常に重要となりました。そのころの日本は、文明の近代化に必要な技術や資源は輸入に頼り、日本の伝統産業である繊維産業を中心として綿や絹を輸出します。このころの貿易決済手段は金と銀で、国際通貨はイギリスのポンドです。我が国は、銀本位制を敷いていたのですが、ヨーロッパでの銀の暴落(銀産出量の増加と銀貨放出)から始まった金貨の高騰に伴い、世界の潮流は次第に金本位制へと移行していくのです。

第二次世界大戦の真っ只中、1944年7月、アメリカのニューハンプシャー州、ブレトンウッズという小さな町に世界45カ国の金融担当の関係者が集まり会議を開きます。戦争が終わり、世界貿易が再開されたとき、お金の支払い(貿易決済)をどのようにするか、国際通貨をどうするかが話し合われました。太平洋戦争の最中、アメリカはすでに戦争後の世界経済の秩序について国際会議を開いていたのです。戦後の国際通貨体制のことを、この町の名にちなんで『ブレトンウッズ体制』と呼びます。ヨーロッパは第二次世界大戦により大きな被害を受けており、イギリスの力も衰えていましたので、アメリカが世界のリーダーとして台頭していました。この会議により、国際通貨はドルになり、ドルと他国通貨の交換レートや金本位制が確立されることになりました。具体的には、ドルの対金価格を金1オンス:35$とし、日本円は1$:360円となりました。


アメリカが世界の中心となった(イメージ)

こうしてアメリカが世界の金融の中心として君臨したわけですが、その栄華も1971年のニクソンショックで崩れ去ることになります。当時のアメリカ大統領であったニクソンは、長引くベトナム戦争でドルを大量に放出した結果、危機的な金不足に陥っていたため、ドルと金の交換停止を決断します。このとき、長く続いた金本位制は崩壊し、ドルは単なる紙切れ同然となりました。ドルの信用失墜を回避するために他国通貨の対ドルレートの見直し(スミソニアン協定・このときは1$:308円)なども行いましたが、世界の不安は解消されず、1973年世界の通貨はついに変動相場制へ移行したのです。これにより、お金は物と物との交換手段から「商品」になりました。


こうして円は強くなっていった(投資家のための金融史)

現在の外国為替市場で、お金とお金を売り買いし、自国通貨が高い、安いと評されるのは変動相場制による市場原理が通貨そのものを商品化したということなのです。
ここまでで、お金とはいったい何なのか?ということがすっきりしたと思います。

【我が国の伝統的金融緩和政策】
日本の経済は、高度成長期を経て落ち着いていたように見えますが、高い技術力と高品質な商品力は依然世界でトップの座を占めていました。1980年代は、貿易黒字、とりわけ対米黒字が膨大であり、アメリカの国内産業は疲弊し、危機的な状況にありました。そこでアメリカはニューヨークのプラザホテルにおいて先進5カ国蔵相会議を開催し、ドル安誘導への協定を迫りました。これが「プラザ合意」と呼ばれる為替操作(ドル売りの協調介入)によるアメリカ経済の立て直しです。その結果、日本円は高騰し、輸出産業は大打撃を受けました。そこで日本政府と日銀は、景気対策として金利を引き下げます。これが我が国の伝統的な金融政策です(ケインズの雇用と利子及び貨幣による一般理論)。公定歩合の操作で銀行からの融資を引き出しやすくし、市場にお金が出回ることで経済を活性化させようとする手法です。この政策によって、株式市場や債券市場、不動産市場にお金が大量に流出し、国民はこぞって「投資」「財テク」へと走り出し、バブル経済が起こったのです。


すべてのものが投資対象とされたが…(投資信託協会)

1991年以降の我が国は、時の大蔵大臣橋本龍太郎による金融の総量規制(銀行の貸出総額の規制)によってバブル景気が崩壊し、不良債権処理に翻弄される失われた10年がやって来ます。ここからは皆さんよくご存知の金融再編成(大手証券や地銀の相次ぐ倒産、都市銀行の合併など)がなされ、景気回復の政策である公定歩合の引き下げが幾度となく繰り返されたのですが、一向に景気は回復せず、その間の経済状況から日本はデフレスパイラルに陥ってしまいました。

≪円高とデフレスパイラル≫
デフレは日本の代名詞となった今、皆さんもデフレのメカニズムはお分かりでしょう。物が売れない(景気の先が不透明、企業業績の悪化、購買意欲の減退)ので価格を下げる→心理的不安感により更に消費は落ち込む→更なる商品価格の引き下げへと螺旋階段を転げ落ちるような経済状況を言いますね。このデフレーションは国内経済の疲弊感が作用するだけではありません。世界の金融市場は、特に先進国の経済状態には敏感で、好不況に関係なく、マネーゲームを仕掛けてきます。先に述べた「お金の商品化」による為替取引によって、莫大な利ザヤが稼げるからです。
普通の市民感覚からすると、日本は不景気で大企業も倒産するような時代、なぜ円が買われるのか??と思われる方が多いと思います。通常は逆ですよね。このからくりはというと、デフレ=物の価値が下がる=貨幣価値が上がる、という論理によるのです。つまり、日本国内でデフレが進めば進むほど円の価値が上がるので円が買われ円高になる。円高になると輸出が落ち込み景気が悪化、又デフレが進行する。そうすると他の通貨の円に対する価値は下がるので、利ザヤが生まれる(例:1$100円で円を買う→1$70円のときに円を売る(ドルを買い戻す)=手元には1.428$が入る)ことになります。こうして外国為替市場では円がとても人気で、どんどん円が買われたため、一向に円安にはならなかったのです。

政府は、デフレ脱却のために、景気回復策としての公共工事への投資や金利引き下げ政策を進めます。日銀が公定歩合を下げることで銀行の金利も下がり、眠っているお金が投資に利用されることや、銀行からの借金も金利が低いので借りやすくなるなど、世の中にお金が出回るだろうと期待しました。しかし、公定歩合(注1)は1995年についにゼロ%台となり、これ以上の金利政策は出来なくなってしまいました(流動性の罠:貨幣供給量を増やすために金利を下げる政策の無効)。

(注1)金融の自由化に伴い、市場金利が基準となったため、公定歩合は政策金利ではなくなり、2006年以降は「基準割引率及び基準貸付金利」と呼ぶ。短期金利であり銀行の決済性短期借り入れ金利をいうが、現在では短期金融市場(無担保コール翌日物)のほうが低い金利となっている。

【次元の違う政策…量的・質的緩和と信用緩和】
ケインズのいう流動性の罠にすっぽりハマってしまった日本経済の立て直しには、どのような方法が残されているのか。

まず、これまでの政府、日銀による金融緩和策は市場に影響力を及ぼせなかったということです。ケインズ理論(マクロ経済学)を原理として、金利政策を景気対策の中心においてきた日銀は、中央銀行としての独立性を明確にした1998年の法改正以降、「通貨の番人」としての責任を果たすため、政府の圧力にも屈せず、ある意味健全な価値観で金融緩和策を模索し続けてきたのです。しかし、結果的に経済はデフレからの脱却はおろか極端な円高に苦しみ続けることになってしまいました。
そして、黒田東彦総裁率いる新生日銀が「量的・質的緩和」に踏み切った4月4日、白川方明前総裁とは次元の異なる大胆な姿勢がいきなりの株高をもたらし、市場は歓迎ムード一色に包まれたのは記憶に新しいところですね。しかし、この緩和策転換(レートコントロールからマネタリーベースへ)は、これまでの日銀がためらい、成し得なかった「超えてはいけない一線」を越えることだったのです。その一線とは「通貨価値を意図的に下げる」ということです。物に対するお金の価値が相対的に高い状態をデフレと定義すれば、お金の価値を意図的に下げればいいということですね。つまり、際限なくお金を出し(無限の量的緩和)、リスクのある資産を日銀が買えばいい(質的緩和)わけです。そうすると、市場には必然的にお金が出回り好循環をもたらすということです。

ではなぜそんな簡単なことが日銀には出来なかったのでしょうか。
それは、「お金の信用は都合よく落とすことなどできず、一気に失墜する」(幹部)という懸念や、ほどよく通貨価値が落ちなければ「悪性のインフレになる」(日銀OB)ことが考えられるからです。これらの慎重論は日銀の中では主流であり、日銀出身ではない黒田氏であったからこそ踏み越えられた一線であるといえるわけですね。

さあ、これからどんな現象が市場に起こるのでしょうか。
2012年末のマネタリーベース(日銀の当座預金と市場流通通貨の合計)は約138兆円、日銀の発表通りに進めば2013年末には200兆円、2年後には270兆円に膨らみます。日銀は、市場から長期国債や上場投資信託(ETF)、不動産投資信託(J-REIT)などのリスク性資産の購入(平成22年に導入した「資産買い入れ基金」を廃止。又、日銀の国債保有残高に上限を設けた「銀行券ルール」についても、一時的に停止する)も拡大しますから、お金はどんどん銀行や証券会社に流れます。銀行も日銀の準備預金にお金を置いているだけではゼロ金利ですから、そのお金を貸し付けるなどして運用しなければならず、お金が国民のところまで回ってくるのではないかと期待されるわけです。


日銀金庫に積み上げられた紙幣は日の目を見るのか(日銀資料館)

しかし、です。実はこれまでもこの量的緩和は行われてきましたよね。ご存知でしたか?2001年3月から2006年3月まで、日銀は量的金融緩和政策の採用によって日銀 当座預金残高を2001年2月頃の4兆円程度から徐々に引き上げ、最大では30兆円から35兆円に維持することが政策目標となったのです。これによって、ベースマネー(ハイパワードマネー、マネタリーベース)の伸びは大きく高まったのですが、ITバブル崩壊の影響から投資案件は低迷し、銀行が積極的に企業への投資や融資を行わなかったため、これらの資金の多くは国債の購入に振り向けられただけで、マネーサプライ(市場への通貨供給)の伸びは低迷を続けました。結局は、国民にお金が回らなかったわけです。
ですから、今回の量的緩和には、質的緩和だけではなく信用緩和が必要であると思うわけです。1985年以降のバブル期とは違う、金融緩和です。

例えば全国の銀行のATMや窓口で徴収される振り込み等の手数料は、いったいどれくらいの利益になっていると思いますか?2011年3月の某メガバンク1行における連結決算(支店等含む)では、手数料等(振込、送金手数料のみを判別できないが)だけの利益で約3530億円に上ります。1行だけでこの利益ですよ。全国に銀行は幾つありますかねえ。そうすると数兆円規模じゃないでしょうか。ですから、銀行はこの手数料を無料化する。するとこれだけの利益を失うわけですから、本来の融資業務(貸金利益)等に求めなければなりません。そうすると貸し渋りなんてやってる場合じゃなくなる。中小零細企業であっても、しっかりとした経営理念の下で運営されている企業に対し、財務諸表だけで門前払いなど出来なくなります。それが本来の貸金業たる所以であり、健全な金貸しの仕事ですよね。人の金預かって、国の税金まで無利息で借りて、地域や地場産業の発展に尽力もせず、マネーゲームに参加して自行の利益のみを肥やすことに走るなんて許されることではないでしょう。国民はそこまで言わないとだめですよ。


外為市場では今日も世界のマネーが飛び交う(イメージ)

だから、今回の金融緩和は次元が違うというなら、信用緩和まで日銀と政府が責任を持って銀行にやらせる。これが出来なければお金は日銀に死蔵され、通貨の価値は暴落し、インフレだけが国民を襲うという最悪のシナリオに行き着くと思うのです。