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それは、体罰と呼べるものなのか?(共同通信)

大阪市立桜宮高校バスケットボール部主将の男子生徒=当時(17)=が、顧問の男性教員(47)から体罰を受けた後に自殺した問題から端を発した様々な分野での体罰に関する問題。
その後、現役オリンピック選手を含む複数の全日本柔道女子選手らによるJOC(日本オリンピック協会)への内部告発や、全国で明らかになる運動部顧問教諭等による体罰による処分報道。暴力でしか選手の指導方法は無いのか?暴力による指導もある程度は許されるべきでは?など、世論においても二分する感覚を持つ我が国の国民性は、どのような思想や経験から来ているのか。

そもそも、いじめや虐待といった、やはり暴力を媒介して被害者を支配する構造は、なにも運動部の伝統という範囲に収まる話ではない。今月号のコラムは、言葉の違いこそあれ、暴力による人間社会の支配構造を分析し、体罰問題に一つの道しるべを示すべく、考えてみようと思う。


【人のDNAから暴力傾向の根本的構造を探る】
「犯罪者の親は犯罪者の子を生む」。確かにその傾向はあるが、養子の場合は違う。デンマークで行われた大規模な調査によれば、善良な家庭から善良な家族へ養子に出された子が法的問題を起こす割合は、13.5ptだった。この割合は、受け入れ側の家族に犯罪者が含まれていると、ほんの僅か上昇して14.7ptになった。
ところが、犯罪者の家族の子が善良な家族へ養子に出され場合、この割合は20ptにまで跳ね上がった。養父母と実の父母の両方が犯罪者のときにはさらに高く、24.5ptだった。遺伝的な要因は、犯罪を生む環境と反応して犯罪を起こしやすくしているというのだ。(やわらかな遺伝子:マット・リドレー著)

ちょっとセンセーショナルだが、定義の不明瞭な統計として一蹴するのも簡単だが、「虐待を受けた子はその後暴力的犯罪に係わり易い」という研究成果と並べてみるとどうか。
それが遺伝によるものか環境によるものかを特定の遺伝子を基準にして振り分けたところ、活性の高いMAOA(モノアミン酸酵素)遺伝子をもつ者と活性の低いMAOA遺伝子をもつ者とに分けたところ、驚いたことに、前者に属する男の子は、虐待の影響をほとんど受けなかったのである。彼らは、幼いころ虐待されていても、あまり問題を起こさなかった。一方、後のグループの男の子は、虐待された経験があると、ひどく反社会的になった。MAOAの活性が低くて虐待を受けた男の子は、4倍も多くレイプや強盗や暴行に手を染めたのである。しかし虐待されていなければ、むしろ平均よりわずかに反社会的な性向が弱かった。(前掲)


薬物治療における脳内物質伝達図(イメージ)

要するに、子どもが暴力的になるためには、虐待を受けただけでは不十分で、活性の低い遺伝子ももっていなければならないというのだ。あるいは、活性の低い遺伝子をもつだけでは不十分で、虐待も受けなければならないと言ってもいいことになる。この遺伝子はマウスでの実験により、攻撃的な行動にかかわるものであることが分かっているという。この遺伝子は、どうやらそれ自体で暴力的傾向を示すのではなく、暴力への感受性に影響するものと言われている。

そして、面白いのは、このMAOA遺伝子が、X染色体上にあるということだ。
男性はこの染色体を一つしかもっていない。女性は二つもっているので、活性の低いMAOA遺伝子の影響を受けるおそれが少ない(暴力的傾向が小)。大半の女性は、活性の高いMAOA遺伝子を少なくとも一つはもっているのである。しかし、ニュージーランドのコホートでは、12%の女性が活性の低い遺伝子を二つもっていた。彼女たちには、幼いころ虐待されると思春期を迎えてから行為障害と診断されるケースが多い、という傾向が有意に見られた。

人間の性質は、生まれか育ちか、の議論はいとまが無い。例えば、女性と男性の性差を決定的だと見なす人々は、生まれによってその人間の性質が決定されるならば性別役割分業を正当化する。遺伝子によって人間の優劣が決まるとなれば、優生学への誘惑が強まるだろう。又、生物学的にはすでに捨てられている分類手法である「人種」間での優劣を根拠づけようと言うことにも繋がっていくだろう。遺伝子は確かに、人の多くの部分を規定する。遺伝子の命令によって脳や身体が形作られる以上、人間の様々な性質は遺伝子に端を発すると言えるだろう。趣味趣向、性格、行動、思考は脳の配線の仕方に原因を求めることができる。そう考えれば、その人のすべては遺伝子によって決定されていると考えられる。


これこれ!DNAの二重らせん構造ね(イメージ)

しかし、遺伝子は言わば人体のレシピだ。そのレシピのスイッチがonになり、レシピに応じたアミノ酸、タンパク質の生成が行われなければならない。更に、遺伝子のセットからは常に同じものが生成されるわけではなく、スプライシング(注1)という工程によって、ある遺伝子からは幾つものレシピを引き出すことが可能だという。遺伝子が同じだとしても、どのレシピが機能し、何が生成されるかはその時々の環境の影響を強く受ける。遺伝子は環境を通じて発現する、ということだ。(前掲)
マット・リドレーはこれを「生まれは育ちを通して」と表現した。遺伝子は決定ではなく、可能性である(スティーブン・J・グールド【Stephen Jay Gould、1941年9月10日 - 2002年5月20日】はアメリカ合衆国の古生物学者、進化生物学者、科学史家)という。
(注1)蛋白質のアミノ酸配列は基本的に遺伝子の塩基配列で決定される。しかし、多くの真核生物の遺伝子内にはイントロンと呼ばれる配列が存在し、これがアミノ酸をコードする配列を分断している。このため余分な配列であるイントロンの除去を行わない限り、そのままでは正常なアミノ酸配列へと翻訳することができない。スプライシングは、DNAに変更を加えるものではなく、転写されたRNAであるmRNA前駆体(pre-mRNA)に対してエキソンが再結合される過程をいう。


スプライシングの図解(イメージ)

【歴史的背景から暴力支配の社会構造を探る】
暴力の概念は、実質的行為(殴る蹴るなど)に留まらず、広義に捉える必要がある。「身体や財産を傷つける行為」という包括的な概念で犯罪的暴力、国家的暴力、構造的暴力に分類して論じなければならない。

「犯罪的暴力」
通常一般的にイメージしやすい暴力として、法的な犯罪要件をみたすというだけでなく、大多数の人びとの非難を招くという意味で用いる。これはデュルケム(Émile Durkheim、1858年4月15日 - 1917年11月15日。フランスの社会学者)の「我々はそれが犯罪だから非難するのではなく、我々が非難するから犯罪なのだ」という発想に基づいている。それが故、犯罪的暴力は正当性が無い。

「国家的暴力」
合法的暴力とも解されるが、そもそも国家が合法的な暴力を所有しているというよりも、むしろ正当化された暴力を所有している組織体を国家と呼んでいるのである。これについてはマックス・ウェーバー(Max Weber、1864年4月21日 - 1920年6月14日、ドイツの社会学者・経済学者)による明晰な国家定義がある。「国家とは、ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」。故に、個人や集団は、国家の側で許された範囲内でしか、物理的暴力行使の権利が認められない。これは近代的な現象である。かつては、さまざまな集団(階級的氏族)が、物理的暴力をノーマルな手段として使用していた。
この「国家によって独占された正当な物理的暴力」とは、具体的には戦争、警察、死刑の三つである。

「構造的暴力」
犯罪的暴力と国家的暴力は比較的見え易い暴力である。ところが、社会にはもっと見え難い暴力も存在する。例えば、ここに犯罪もなく戦争もない社会があるとして、そこに本当に暴力はないと言えるだろうか。「平和な日本」といわれるけれど、現実には結構「暴力的」と思われるようなことが多々あるだろう。例を挙げれば、給食を残す子供に、食べ終わるまで帰宅させない教員の行為とか、理不尽な職務上の要求を突き付ける上司の行為(パワーハラスメント)、金銭的理由から適切な医療を受けれず死亡するなども含まれるのではないか。そう考えると、犯罪的暴力と国家的暴力だけでは不十分である。社会の「権力作用」のレベルに見合った暴力の存在をも問題にする必要があり、これを「構造的暴力」と言う。


警察権力の行使も「暴力」の一種(イメージ)

社会の多層的な暴力的現実を具体的に支えているのは、私たち自身である。というのも、私たち自身のなかに、暴力的現実を正当化する論理が働いているからだ。それを「暴力のダブル・スタンダード」と呼ぶ。
ダブル・スタンダードとは、集団の内部と外部とで道徳基準を使い分けることである。ウェーバーはこれを「対内道徳(Binnemoral)と対外道徳(Aussenmoral)の二元論」と呼んだことがある。この両者が区別されるのは、しばしば両者がまったく正反対を示すことが多いからだ。例えば、夫の浮気は「甲斐性」といわれ、妻の不倫は許されずに離縁の理由とされた戦前の日本のような男性中心社会では、性行為に対する規範が男と女でまったく違っていた。

暴力もまたダブル・スタンダードになりがちである。
暴力はいけないといいながら、現実に暴力を行使した集団に対しては、暴力で制裁することを認めることは多い。凶悪犯人は「暴力的で残忍だから死刑にすべきだ」とか、「正当防衛理論」もその表れである。隣国に侵略した国家は「暴力的で非人道的だから総掛かりで攻撃しよう」というアメリカの反応もそれだ。このような発想がある限り、世界の平和なるものは達成されないだろう。

【体罰の概念を定義しなければならない】
体罰と虐待的暴力行為をここでは概念的に整理して、区別することが必要である。人間の生理的感情に支配された暴力行為を正当化する為の「教育的指導」とか「愛情を持った暴力」という理由づけは後者の分類に入る。
そもそも体罰とは、「罰」である。罰の対象は当然「罪」であらねばならない。罪を犯した者に罰を与えるというのは、国家的暴力の一種として捉えているが、それが個人においても正当性を有するかどうかの問題である。ウェーバーの定義にもあるように、国家が許した範囲内であれば、正当化出来るという論理なら、この種の問題解決には法整備が必要となる。体罰の禁止は、明治以降一貫して法令で明文化(注2)されているが、体罰の定義がなされていないために、具体的な事件の中で、具体的な行為によって解釈の余地が大きくなっている。
例えば、教員による体罰の問題では、有形力の行使がイコール体罰であると位置づけられてきたが、近年の裁判例や文部科学省の通達を見ると、個々の状況毎に個別に判断すべきことと示されている。個々の事件が千差万別である以上、個別に判断するということは法解釈として妥当性があるが、それはすなわち解釈の結果によっては正反対の評価となり、事件の実質的な解決に相当の困難が生じる危険性を併せ持つことになると言われる。

(注2)明治12年教育令46条、現行法では、学校教育法11条但書により、教員が児童・生徒に対する懲戒の方法として体罰によることを禁止している。

社会構造の中での暴力は、定義された体罰のスキームにおいて正当化される。結局は支配と服従の関係が構造の中心をなすからである。支配が成立するためには「服従者の服従意欲」というものが決定的に重要である。結局人びとの支持と具体的な協力がなければ支配は成り立たない。だから、支持と協力のシステムを断ち切るのが、支配層にとって最も大きな打撃になる。従って、暴力行為を否定し、暴力による体罰を無くして行く為には、抵抗が非暴力でなければならない。その理論的理由は、相手の正当性根拠を崩すことにある。つまり、〈自発的服従〉をコントロールすることによって、暴力現象や権力の不正義をコントロールするというパラドキシカルな方法しか無いのだと言う。


支配と服従…(イメージ)

「支配と服従」の関係が存在しない社会構造は成立するのかという議論は、おそらく人類永遠のテーマとして語られることであろう。人間とは、実に難解な生き物であって、生物学的にも証明された暴力的な資質を遺伝子の一つとして持ち、常に群れをなして行動する為に、自ずと自己以外の人間と接しながら生きている。そこに支配と服従は自然であり、ルールを形成する過程で様々な権力行使の方法が規定され、ルールに背く相手には有形力も正当化してきたのが歴史である。故に、今、体罰は是か非か、の議論ではなく、体罰と呼ばれる(呼ぶことを許される)有形力の行使についての定義がなされていないことの本質を議論すべき時ではないかと考えるのである。それは、学校現場や、スポーツ界に留まらず、海上保安庁や消防庁、警察庁もさることながら、自衛隊等においての「教育」方法も対象とすべきである。


例えば自衛隊には…?(イメージ)