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認可しません!って言ったけど撤回しました。(時事通信)

田中眞紀子文部科学大臣の大学新設不認可発言は、一転して対象となった3大学について認可するとし、世間でも、国会においても物議を醸したことは記憶に新しい。大臣は、就任以前から我が国の教育制度や大学設置基準について改革の必要性を考えていたと言う。「朝鮮学校」の授業料無償化問題や学校経営に対する親方日の丸的な体質を改善しなければとの強い思いが有るという。
そもそも、この国の教育制度は今どのような状況にあり、これからの日本をどう導こうとしているのか。歴史的背景から国際的視野を含め、複雑化してしまった教育政策を検証する。

【教育基本法。その歴史を知る】
教育基本法は、平成18年12月22日に全面改正され、公布された。その前文には次のように記されている。
※教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の全部を改正する。
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

日本が近代国家としてのスタートを切った明治以降、歴史的に振り返ると教育制度の本質と目的が何であるかが実に明瞭である。我が国における学校教育制度の誕生となるのが、明治5年の学制頒布であり、全国を8つの大学区に分け、それぞれの大学区を32の中学区に分け、全国には256の中学区を造った。それぞれの中学区をさらに210の小学区に分けた結果、全国で53,760の小学校があったといわれる。フランスの学校制度をモデルにした全国を学区に分けていくという制度は、学校を全国に均等に設置していくという発想に基づいている。いわゆる地域内教育の制度化である。


旧開智学校(長野県松本市)

※学事奨励に関する被仰出書(おおせだされ書)明治5年。
人々自(みずか)らその身を立て、その産を治め、その業(ぎょう)を昌(さか)んにして、以てその生を遂ぐる所以(ゆえん)のものは、他(た)なし、身を修め、智を開き、才芸を長ずるによるなり。而(しか)してその身を修め、智を開き、才芸を長ずるは、学にあらざれば能(あた)はず。これ学校の設(もうけ)ある所以にして、日用常行(にちようじょうこう)・言語(げんぎょ)・書算(しょさん)を初め、士官(しかん)・農商(のうしょう)・百工(ひゃっこう)・技芸(ぎげい)及び法律・政治・天文・医療等に至る迄、凡(およ)そ人の営むところの事、学あらざるはなし。人能(よ)くその才のある所に応じ、勉励してこれに従事し、而(しか)して後(のち)初めて生を治め、産を興(おこ)し、業を昌(さか)んにするを得(う)べし。云々

これは、学問を修めることによって生を遂り、算を修め、業を盛んにする。立身治産、出世してお金を儲けるためには学問が必要だということである。学問を学ぶ所はどこなのか?それが学校である。学校をなぜ開いたのか。学問を教える所であるから学問を教えて学べば、出世してお金を儲けることができる。として、広く臣民に教育の必要性を説いた。

教育令の発布:
明治12年に出された「教育令」は、町村が学校運営の主体となるという改革であった。地方分権の色彩の強い教育令であり、国家統制の色彩は弱かった。教育令は後の時代に自由教育令と呼ばれるようになったが、この自由教育令はたった1年で改訂されてしまう。
翌年の明治13年には「改正教育令」が出され、国家の管理統制の強い内容に大きく軌道修正された。学校運営は国家の管理統制の下におこなうことになり、中央集権色の強いものになった。なぜ、一年でこうした方針転換が行われたのか。それを理解する鍵は、この改正教育令と同年に出された「教学聖旨(きょうがくせいし)」にある。教学聖旨は元田永孚(もとだながざね:幕末、明治前期の儒学者・明治天皇の側近)によって作成されたが、これは儒教道徳を教育の中心に置くべきだとするものであった。明治の初年頃には開明政策の時期であったために欧米の進んだ文化を取り入れていくことが求められたのに対し、10年を過ぎる頃にはその反動として復古主義の時代を迎えるのである。教育内容をめぐっては、明治一桁の時期の教育内容が実学中心であったのに対し、明治十年代は儒学者たちの復職・復権を求める動きと重なり合って儒学中心の教育内容へと転換していくことになる。

教育勅語:
改正教育令が出された10年後の明治23年には、「教育に関する勅語」すなわち教育に関する「天皇のお言葉」が発せられた。井上毅が提案者とされるが、この教育勅語の内容は儒教の教えを基盤とする忠君愛国の教育、忠良な臣民の育成が目指されたものである。
教育勅語がつくられた背景には、「富国強兵」という近代化政策を急がねばならなかった当時のわが国の政治的・経済的事情があった。そのためには国民精神を一つに纏めなければならないと考えた政府が近代化を推し進め、そのための手段として教育が位置づけられた。つまり、お上からの近代化教育を通じて国民の精神を一つに纏め、愛国心を植え付けようとしたのである。
近代化を達成するために目指された教育は、一定の知的レベルを形成することと、国民としての纏まりを作ることであった。国民が同じ言語を話すことで纏まりを形成しようとし、同じ宗教を信仰することで管理統制を行いやすくすることに明治政府は国家神道で統一しようとした。言語も宗教も国民が共通に持つ要素が増えるほど国民国家の形成には役だった。


わが国における公教育制度が完成するのは、明治5年の学制の発布から30年近くたった明治33(1900)年のこととなる。この年、義務教育の授業料廃止が行われ、義務制、無償制、宗教からの中立性の3条件が成立する。その結果、明治35年には就学率が92%にまで上がった。近代の公教育制度の国家的確立には、欧米で約100年を要しているのに対し、日本の場合、僅か30年の間に公教育制度が成立している。これは江戸時代から庶民のための寺子屋があり、庶民の間でも識字率が高かったことが背景としてある。(参考:学制と義務教育制度)


教育勅語(東京大学所蔵)

教育基本法:
戦後の教育制度改革は、終戦(1945年8月15日)から昭和27年にサンフランシスコで調印後公布された「日本国との平和条約」の成立によって独立するに至るまでは、国政がすべて占領行政のもとにあって行なわれていたため(この間に各分野にわたって改革の実施が要請された)、教育改革はその中でも特に重要なものの一つとして行われた。これは教育を改革することによって、国民の思想や生活を改変し、これを新日本建設の土台とすることを基本方針としていたことによる。この間に実施された教育改革は、戦時下の教育の後をうけた特殊な方策によるものであって、常時の教育改革と同様にみることはできない。又、占領政策の一部として行われたので、それらが全て我が国独自の方策によるものではなかった。
しかし、これらの教育改革の中には、それまで我が国における近代教育の発展を妨げていたものを、外圧により正常な発展の路線に就かせ、更に進展させたものも少なくなかったことは事実である。

これらの教育改革を行なうに当たって、基本となる教育の理念や改革実施の方策及び実施案を、新しい民主的な方式によって決定することとした(教育刷新委員会)。これは、新時代の動向に基づいたものであり、教育界は勿論、一般に新しい教育改革の理念や方策を周知させるためにも有力なものとなった。その最も基本となるものは日本国憲法に、教育についての条文を掲げたことである(旧憲法には教育に関する条文は全く含まれていない)。これによって戦後教育改革の基礎が定められることとなった。
次に、どのような教育を行なうかについては、戦前の教育勅語は廃止とし、新しい立法で、「教育基本法」が制定されたのである。(※教育勅語は昭和21年10月に、学校教育においては用いないこととしたが、その後国会においても教育勅語の失効についての決議がなされた)
教育基本法においては教育の目標を定め、さらに教育実践の基本となる思想を簡明な条文として示し、条文に示された一つ一つの教育実践のための命題は、民主社会の教育のために必須なものとなって影響力を持っている。この教育基本法のもとに「学校教育法」、「社会教育法」、「教育委員会法」などの立法が行なわれ、これらが戦後教育の体制をつくりあげる基本規定となった。


昭和22年頃から始まった学校給食(朝日新聞)

学校制度改革:
戦後の教育改革のうち、最も注目を集め、その実施と成果に期待を掛けたのは六・三・三・四制による学校体系の大改革である。戦後の義務教育は六・三制である。この六・三制は米国教育使節団報告書(昭和21年3月31日・ジョージ・D・ストダード博士を団長とする米国教育界代表27名より成る米国教育使節団の纏めた日本国の教育改革に関する報告書)の中にも望ましい学校体系として記されていたが、教育刷新委員会はこの問題をとりあげ、従前の学校体系の改善を要する諸点を検討し、教育民主化の精神を学校制度に実現する方針で六・三制による改革を決定した。旧文部省はこの方針によって学制改革に着手し、小学校から大学にまで及ぶ全学校体系の改革を行い、明治5年の学制頒布以来の大きな改革となった。

教員養成制度においては、新制大学制度下において、教員養成を主とする学芸大学または学芸学部か教育学部に改編された。教員となるためには教育職員免許法(昭和24年5月31日法律第147号)によって教員免許状を必要とする制度とした。更に、新しい制度ではこれらの教員養成を主とする学部だけではなく、他学部であっても必要とする単位を修得すれば教員となることができる開放的制度をとった。これによって明治初年以来、教員は師範学校だけで養成するとしてきた閉鎖性を破った方策をとったのであった。

教科書問題:
戦後は、極端な国家主義や軍国主義を教育現場から排除する指令が出され、それまで使用されていた教科書を全て回収することとなった。それと共に、戦時中に行われていた国定教科書制度の見直しも行われた。新学制実施と共に、教科書は民間において編集し、文部省がこれを検定する制度に順次移行する方法がとられた。中等学校・師範学校の教科書は明治時代から検定制であったが、戦時中は国定制へ移行する政策がとられていた。教科書を国定制から検定制へ移行させることは、教育内容についての行政として大きな改革であった。教科書を検定したり、学習を指導したりするには教育内容の基準となるものが示されていなければならない。学校教育法においては、教育は学習指導要領によることと定められたのである。学習指導の方法については、新学制による学校の授業を刷新する目的で、改善の方向を指示し、児童・生徒の学習を指導する方法原理として新しい考え方を取り入れた。それは、児童・生徒の学習活動を尊重し、自律的活動を進めるための討議法が新しい方法の一つとして奨励され、討議をとおしての学習活動に期待した。又、個人の能力を伸ばすようにして個人差に応ずる学習ができる方法を奨励した。経験をもととした学習内容を展開する方法としての単元学習では、教材を単元に編成する方法を用いた。学習は教科書・教材を学ぶばかりでなく、児童・生徒が地域において具体的に見聞し経験した内容を尊重する立場から、経験的学習活動を展開できるようにする方法(実験・観察・資料の収集など)が必要であるとされ、視聴覚教材の利用についても奨励し、教育方法についての新しい方向が検討されたのもこの時期である。


現在の教育関連法令(資料:筑波大学)

【これからの日本、これからの教育】
今の世界はインターネットの普及により膨大な量の「知識」が氾濫している。このような状況を教育現場でどう対処するかがこれからの教育を指し示す大きなポイントとなろう。数十年前、知識の源泉は家族(主に父親や祖父母)であり、教員であった。しかし現在では、パソコンのモニターに表示される膨大な量の知識に太刀打ち出来る者はいない。人間として、年輩者を敬い、父の話に興味を抱き、学校の授業を楽しみにする子供たちは果たして存在するのだろうか。大学の教育レベルが低下し、存在そのものの価値を問わねばならないと先の文部科学大臣は言う。大学だけではない。というより、それまでの初等、中等教育が崩壊している。これまで見て来た日本の教育の歴史から、その時代に応じて真摯に検討され、教育の理念の下で制度化されてきた教育のスキームは、もはや制度疲労の末期であると認識しなければならない。小手先だけの教育改革は全く通用せず、全ての制度を白紙に戻す革命的改革が必要ではないか。地方分権や、自由化がもたらす社会構造の変革に対し、教育においても国民の公平性、統一性は破られなければならないと感じる。地域性のある教育。これは現在の社会の閉塞感を、ある意味で大きく打開するかもしれない。国民がそれぞれに応じた教育理念を選択し、移動することで経済や社会が動く。簡単なことではないが、一考に値するものとして教育制度改革に提唱する。


今こそ、原点に(資料:国立図書館)

<執筆日:2012.11/14>