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女不動産屋 柳本美土里

「美土里さん、うちのお客さんで、不動産のことでちょっと相談があるって人がいるんですけど、話を聞いてもらえます?」
ネイルアーティストの美希が、美土里の爪を磨きながら言った。

美土里は、父親の不動産屋を継いだ3代目だ。
東京の銀行に勤めていたのだが、父親の病気を機に関西に帰省し跡を継いだ。
身長170センチを越えようかという長身に、くっきりとした顔立ち、身体のラインが見て取れるスーツをまとった姿は、どう見ても不動産屋の社長には見えない。
そうした外見とは裏腹に、父親譲りのはっきりした物言いと勇敢な行動、そして聡明な判断で、不動産がらみの問題を解決してきた。

美土里は、手の爪にネイルアートをしていた。
そのため、定期的に本町のオフィスビルが立ち並ぶビルの4階にあるネイルサロン「ミューズ」に来るのだ。
そして、美土里の爪は、サロンのオーナーでもあるネイルアーティストの美希に任せている。
「いいわよ、どういう話かしら?」
「詳しくは聞いてないんですけど、実家の家を売りたいとか・・・いえ、実家といっても田舎じゃなくて、今住んでいる家の近くに、お母さんが1人で住んでおられるみたいなんです」
「で、この度、お母さんと同居することになって、実家の家が余ったみたいで・・」
「そう、その方はどの辺りにお住まいなの?」
「確か、吹田だったと思います・・」
吹田市は、関西の中心地大阪市からみると北に隣接した市だ。
1960年台に丘陵地に千里ニュータウンが建設され、大規模なベッドタウンになった。昭和45年に万国博覧会が開かれた町でも有名だ。

「わかったわ、じゃあ、セッティングしてもらえる?」
「場所は、ここでいいですか?」
「そうね、どうせならその家も見たいし、ご自宅に伺うことにするわ。先方の許可をもらって電話番号を教えてもらえる?そうしたら、私から電話をして話をさせてもらうから」
「わかりました、じゃあ美土里さんの爪が終わったら、連絡を取ってみますね」

美土里は、美希からお客さんの携帯電話の番号を聞き、3日後に伺うことを伝えた。

お客さんの名前は、「田川涼子」
本人は、自分の実家の近く、徒歩5分のところに暮らしているそうだ。
娘が二人いるのだが、1人は嫁ぎ、もう1人は東京の大学に通うため、家を出ている。
現在では、ご主人と二人暮しだ。
涼子の父親が10年前に亡くなってから、母親は独りで暮らしているのだが、80歳を目前にした年齢の母親が独りで暮らすのは心配だからと、この度、同居をすることを提案されたらしい。

「もちろん、一人娘の私は母親のことが心配なので、できれば同居したいと思っていたのですけど、嫁の立場上、主人にそんなことを言うのは憚られたんです。でも先日、母親が玄関で躓いて骨折をしたことから、主人が、一緒に暮らそうと言ってくれたんです」
涼子は、嬉しそうに語った。
「それで、一緒にここで母親と同居することになったので、もう使わない実家は処分してしまおうという話になったんです。まあ、土地も狭いし建物も古いので、いくらもならないと思いますけど、使わない家の固定資産税を支払い続けるのもバカらしくて・・・」
「そうですね、不動産を持っていると財産を持っているように思われますが、それを放ったらかしにするのは、とても損なことです。固定資産税がかかるだけのマイナス財産になってしまいますので・・処分するということ以外に貸すという方法もあるかと思いますが、そちらの方向での検討はなされましたか?」
美土里は、率直に訊ねた。

「いえ、貸すことは考えてません。貸すとなると改装をしたり、建物維持のために定期的に屋根の葺き替えや外壁に手を加えないといけなくなります。そうした費用を出してまで貸そうとは思っていないんです」
「そうですか、それではまず、いくらくらいで売れるか査定をさせていただきます。その上で、売却活動の価格をご相談させていただき、売却のご依頼をいただき、活動を進めていくという流れになります」
「承知いたしました。それでは、現地を見ていただいた方がよろしいですね」
「はい、お願いします」
美土里と涼子は、リビングのソファから立ち上がった。

涼子の住む家は、駅から徒歩15分にある開発団地内だ。
すっかりと冬空になった雲を向こうに見ながら、6mの道路に沿って綺麗に建物が立ち並んだ街中を、二人は歩き出した。

歩いて5分くらい行っただろうか、開発団地から外れた場所に、高度成長期にミニ開発されたらしい6軒の家が見えた。
そのうちの2軒は、既に最近に建替えされたようで、まだ新しい外壁にはサイディングが施されていた。
その6軒のうちの1軒が、涼子の実家だという。
ミニ開発は、元々の大き目の土地に前面道路から進入路を土地内に作り、その道路に面するように数区画が作られる。
涼子の実家は、まさにそのような区画の進入路を入った2軒目の家だ。
土地面積は25坪、建物は築後40年。
築年数の割には室内は丁寧に使われているようだが、このままでは売り物にはならない。
引越しの後、不要な家具は処分されたらしく、がらんとした部屋にはテーブルも無かった。
美土里と涼子は、涼子の自宅に戻って話をすることにした。

自宅のドアを開けた涼子が、玄関に靴を見つけた。
「お母さんも帰ってきているようですので、一緒に話を聞いてもらいましょう」
「お母さん!」奥の部屋に向かって涼子の声が届くと、母親の民江が小さな身体を現した。
「お母さん、こちら不動産屋さんの美土里さん。向こうの家を見てもらってたの」
「そうですか、お世話になります」
民江は少し曲がった腰をさらに下げた。

美土里は、周辺の取引事例を基に、土地の値段を坪あたり30万円、建物価格は0円として査定した。
つまり、査定価格は750万円。

「はい、解りました、値段はお任せします。住宅ローンもとうに払い終わってますし、特にいくら以上のお金が要るということもありませんから」
「お母さん、いいわね」
涼子は母親の民江に同意を求めた。
「はい、任せるよ」民江は頷いた。
結果的に、美土里の提案で790万円から売却活動をすることとなった。

美土里は涼子の家から市役所に向かった。
物件の調査をするためには、都市計画法や建築基準法などの法的な規制や、どういった道路に面しているのか、上下水道の配管はどうなっているのか、等々の情報は市役所にある。
市役所での調査をひと通り終えた後、美土里は法務局に行った。
法務局では、不動産に係わる権利の調査のために謄本や、公的な図面などを請求した。
「あれ、あの物件、まだ父親名義のままのようね」

父親は10年前に亡くなっていると聞いている。
所有者本人が亡くなっても相続の登記をせずに、そのままの名義にしているケースは、よく見られることだ。
住んでいるだけなら特段の問題もないのだが、売却をするとなると、相続の登記を行い、所有者全員の同意が無いとできない。
美土里は携帯電話を取り出した。
「すみません、柳本不動産の柳本です、先ほどはありがとうございました。ところで、ご実家のほうですが、名義がまだ亡くなられたお父さんのままのようなんですが、相続人はお母さんと涼子さんだけですか?他にご兄弟がおられたり、遺言があったりしませんよね」
「ええ、遺言もありませんし、私は一人っ子で兄弟もいません」
涼子はそう答えた。
「そうですか、承知しました。まだ相続登記がされていないようですから・・・それなら特に問題は無さそうですね。司法書士を紹介しますので、相続登記を先にしておきましょう」
美土里がそう進言し、涼子も承知した。
涼子との話を終えた美土里は、そのまま橋元司法書士に電話をし、涼子と連絡をとって相続登記をしてもらうよう依頼した。

さて、この家をどうやって売っていこうかと美土里は思案した。
この辺りでの売れ筋の家は、土地面積が35坪から50坪程度、敷地内に駐車スペースを2台以上、延床面積30坪前後の2階建て建物、新築から築後15年くらいまでなのだ。
建物が古ければ取り壊して注文住宅用地もしくは建売をするというのが一般的になるのだが、涼子の実家はそのために必要な土地の広さが不足している。

では、どうしたら売り物になるのだろうか?

建物を残して大規模なリフォームをして売るか、敷地が隣接している隣の土地所有者に買ってもらうか?
大規模リフォームをして売るとしたら、売主に費用を出してもらってリフォームをして販売するか、買取業者に買ってもらって業者がリフォームをして売り出すか?
涼子との話から、売却について費用をかけたくないという思いがあるようだった。
かと言って、買取業者に売るとなると、かなり買い叩かれるだろう。

隣地所有者に買ってもらう場合は?
隣の土地も、涼子の実家と同じくらいの大きさしかなく、駐車スペースも軽自動車用のものしかない。
この隣の土地を購入すれば、建物を壊して駐車スペースにすることもできるし、建物を倉庫代わりにしたり、このまま建物に手を加えて、親や子供を住まわすこともできる。
つまり、隣同士に親子が住むことも可能になるわけだ。
将来的に売却をすることになったとしても、2区画合計すると50坪くらいになり、需要にマッチした売りやすい物件になるだろう。
隣地所有者に買ってもらうのが売主にとって一番だと、美土里は考えた。

「こんにちは」
美土里は、日曜日の昼下がり、涼子の実家の隣の家を訪問した。
まずは向かって右手の奥の家のチャイムを鳴らした。
室内に人がいる気配がない。
販売用に作ったチラシと、名刺をポストに落とした。
その直後、美土里の左手で玄関ドアの開く音が聞こえてきた。
涼子の実家の左手、角地にあたる家だ。
出てきたのは60歳手前くらいの男性だ。
この家の主人と見られる男の手には盆栽があった。
「こんにちは」
「はあ、どちらさまですか?」
いきなり見知らぬ女性から挨拶をされて、主人は訝しんだ。
「はい、柳本不動産の柳本といいます。実はお隣のお家が売りに出されることになりまして、ご挨拶に伺ったんです」
美土里は、名刺とチラシを手渡した。
男は、手にもった植木鉢を玄関の横に置き、名刺とチラシを受取った。
「へえー、不動産屋さんの社長さんなんや、えらい別嬪の社長さんやね~」
「ありがとうございます」

美土里は微笑みながら、玄関の表札と男の姿をチェックした。
表札には、大場と。
大手の会社の課長もしくは部長くらいだろうか?ラフな格好だが、カラーのシャツの上にはラルフローレンのセーターを着、パンツはチノクロス、それなりにきちんとした身なりだ。
「ほう、お隣さん、売ることにしたんや。娘さんとこに行くって言うてたからな~」
隣どうし、それなりの近所づきあいがあったのだろう。
男は、チラシを見ながら言った。
「どうですか?お隣ですし、買われませんか?」
どうせ即答で答えはないだろうが、感触を確かめるために、美土里は率直に問うた。
「いやいや、うちにお金はあらへんから、なかなか買えませんわ」
そう言いながらも、チラシを見る目が真剣なのを美土里は見逃さなかった。
「そんなご謙遜を。今日はご挨拶だけですので、またお伺いさせていただきます」
美土里は、丁寧に挨拶をして、玄関を後にした。

「大場と言いますけど、柳本美土里さんはおられますか?」
そう電話が掛かってきたのは金曜日だった。
美土里は、大場という名前と、その声の主に覚えがあった。
それを隠して電話の応対をした。
「はい、柳本美土里は私ですが・・・」
「あ、やっぱりその声はそうでしたか、先日、隣の家が売りに出されるという話で、名刺を貰った者ですけど・・・」
「はい、大場様ですね、先日は突然に失礼しました。で、どうされましたか?」
美土里は、大場の電話の用件に気付いていた。
先日、名刺と一緒に手渡したチラシを真剣に見ていた姿に、美土里は大場がこの物件を欲しがっていることを感じ取っていたのだ。
そして、週末にオープンハウスを行う旨をチラシに記載し、大場の家のポストに放り込んでいたのだ。
そのオープンハウスの前日の金曜日に大場からの電話だ。

「明日からオープンハウスをするってチラシでみたんですが、もし買いたいって人が来たら、それで決まってしまうんですかね?」
「そうですね、申込をいただいてから契約するまではどうなるかは判りませんが、物件を気に入られて申込をいただいた順番で売主さんにお話し、ローンなどの問題が無ければ契約に進みます」
「そうですか・・・・」大場は少し考えているような沈黙を挟み、「買いたいんですけど」と続けた。
「よしっ!」美土里は心で叫んだ。
「そうですか、それでは購入の申込書を記入していただき、それから売主さんにお話させていただきます」
「その申込書を書いたら、明日以降に買いたいって人が現われても、大丈夫なんですね」
「ええ、大場さんが1番手になりますので、それ以降は買いたいって人がいても、2番手になり、大場さんが優先されます。ただし、ローンの問題があったり、売主さんのご意向と反していたりすると、契約は難しくなりますが・・・」
「その点は、大丈夫だと思います。ローンは使いませんし、お隣さんとは特にトラブルもないですから」
「そうですか、承知しました、それでは購入申込書を持ってお伺いします」
すぐにでも来て欲しいという大場の気持ちに従い、愛車のボルボを走らせた。

「この人がね、自宅だけじゃ盆栽を置く場所も狭いからって、どうしても欲しいって言うんですよ」
大場の奥さんがそう言って旦那を見て、苦笑いした。
「そうですね、お隣さんの敷地と併せたら、結構な広さになりますから、盆栽を置くのにも駐車場にも十分な広さですよね」
美土里は、大場の隣地購入後をイメージして言った。
「そうよね、お隣さんはうちからしたら南側になるから、建物を取り除いたら、陽あたりも良くなって明るくなるでしょうしね」
奥さんも、隣家の購入にまんざらでもなさそうだ。
「でもね、お値段の方、もうちょっとなんとかならないかしら?お隣さんのことだから、あんまり無茶なお話はしたくないんだけど、うちも老後のことがあるし・・・」
率直に言うと、まけてくれということらしい。
老後のことは、単なる理由付けなのだろうが、買い手側としては少しでも安く買える方が嬉しいという気持ちは判らないでもない。
ならばということで、790万円の売値から20万円を差し引いた770万円で購入申込を記入してもらった。

査定価格は750万円、それよりも20万円高い770万円の申込書だ。
涼子と母親に購入申込書を提示すると、その場で快諾をもらった。
売り出して早々に申込が入ったことや、知らない仲でもないお隣さんからの申し出だということも功を奏したようだ。

大場の購入は現金だということだったので、売主側の準備ができていれば、契約と決済引渡しを同時に行うこともできたのだろうが、売主側の相続登記もまだなので、契約から決済引渡しを契約から1ヵ月後とした。
そして、売買契約は翌週末に無事完了した。

橋元司法書士から電話があったのは、契約から2週間後のことだ。
「あの~、先日の相続登記の件なんですが・・・」
橋元は、話をしづらそうにしていた。
「どうされたんですか?」
「いやあ、実は出てきたんですよ」
うん?出てきた?
「え?何がですか?お化け?」
美土里はふざけているつもりは無いのだが、時々、ピントの外れた会話をすることがある。
「美土里さん、何言っているんですか?違いますよ、他に相続人が出てきたんですよ」
「え~、だって相続人は奥さんとお嬢さんだけで兄弟はいないって言っていたし、そんなこと嘘をついても仕方ないことでしょう」
「ええ、お嬢さんはご存知なくて、奥さんもよく覚えてなかったみたいなんです」
「どういうこと?」
「亡くなったご主人には、奥さんと結婚される前に付き合っていた女性がおられたみたいなんです。で、その女性との間に子供ができた。具体的な理由は判りませんが、亡くなられたご主人とその女性とは結局、結婚はできなかったようです。それでも、ご主人は子供は自分の子だからと、認知されていたんです」
「したがって、その認知された子も、ご主人の相続人の1人となるわけです」
「う~ん、となるとその相続人にも売却の許可を得ないといけないし、売却代金について分割の必要が出てくるわね」
それに橋元は答えた。
「そうですね、相続の前に遺産分割協議書を作るのですけど、そこで、その相続人から相続放棄の印鑑をもらえたらスムーズに行くと思うんですけど・・・」
「わかったわ、ちょっと売主さんと話をしてみるから、待ってて」
美土里は、すぐに涼子に連絡を取り、向かった。

「司法書士から聞いてビックリしたんですけど・・」
そう涼子に言うと、
「そうなんです、私も知らないことでビックリしました。母に聞いても、そういえばそんなことあったかね~なんて言うんですよ、ほんとに・・」
呆れたというように、涼子は母親を見ながら話をした。
「ということは、その父に認知された子供は、私の異母兄弟ってことになるんですよね」
「そうですね、司法書士の話だと、年齢は涼子さんよりも5歳くらい年上で、神戸に住まれているようですね」
「どうしたらいいんですか?」
涼子は不安げに尋ねた。
「本来、その方にも相続権がありますので、亡くなられたお父さんの相続財産は、その方にも相続する権利があります。亡くなられたときに、ご自宅以外に財産はありましたか?」
美土里の問いに、涼子が母親の顔をのぞいた。
「いや、自宅以外の現金とかの財産はほとんどありませんでした。あの人は、晩年に病気になって入退院を繰り返していたものだから、貯金もすっかり底をついて・・・病院代とかは私が働いて貯めた貯金でなんとかなりましたけど」
「そうですか、では、財産といえるのは自宅だけだったんですね?」
美土里は念を押した。

その認知をされた子が住む家は、神戸市内中心部から3駅ほど離れたところ、JRの線路沿いにあるハイツだった。
前もって電話番号を調べ、約束は取り付けていた。
「ごめんください」
「はい、どちらさんですか?」
ドアの奥から女性の声がした、奥さんだろうか?
開けられたドアから見せた顔は、女性の来訪に怪訝そうな顔をしていた。
美土里は素早く名刺を差し出し、来訪理由を告げた。
部屋に上げてもらうと、そこには座敷テーブルの前に座った中年の男性がいた。
奥のダイニングでは、小さな子供の声がした。
「石田利夫さんですね」
そう言った美土里に向かって、男は頷いた。
「先日、お電話で少しお話した件ですが・・・」
訪問の趣旨を、美土里は話した。

石田は父親が亡くなったことも聞いていなかったようだ。
石田の生活の中には、父親の存在自体が既に無かったのかも知れない。
生まれながら父親のいない母子家庭に生まれ、石田はどういった人生を歩んできたのだろうか?
石田の眉間に刻まれた皺に、その答えがあるような気がした。
それでも今は、ハイツに家庭を築き、小さいながらも温かい幸せがあるようだ。
美土里は、石田のこれまでの人生に思いを馳せた。

「もし、父親がいくばくかのものを残してくれているのなら、頂きたいというのが正直な気持ちです」
率直に、石田は言った。
既に、この件については奥さんと話ができていたのだろうか?奥さんと思われる女性も、離れて石田の言葉を確認していた。
経済的にも、楽な状況ではないのかもしれない。
美土里は、少し間を置いた。

「石田さんの言われることはもっともなことだと思います。石田さんは、相続人ですから相続財産を受け取る権利もお持ちです」
まずは、石田の思いを肯定した。
「お父さんは、晩年、病気になられ入退院を繰り返されていたようです。その年数は3年を越えていたようです。相続は、亡くなられた方のプラスの財産だけでなくマイナスの財産も引き継ぐことになります。治療費やそれに車椅子生活に必要な家のリフォーム代金など付随する費用は、お父さんの預貯金だけでは足りなかったために、奥さんが働いて工面をしていたようです。3年間の治療費や諸々を計算すると、数百万円にはなるのではないでしょうか?」
「今回の自宅売却は770万円でした。そこから売却にかかる費用を引くと、残るのは735万円ほどになります。それを法定相続分で割ると、石田さんが受取るのは180万円あまりということになるでしょう」
「でも、もしそれを石田さんが主張されるとしたら、奥さんは治療費やリフォーム代金を相続財産から精算をして欲しいという話になることは間違いありません」
「下手をすると、マイナスになって、石田さんに負担を求めることにもなりかねません」
「それは困る」
石田は困った顔をして発し、奥さんを見た。
奥さんは、口を一文字にしていた。

「あっ」と声を上げ、美土里は、慌てて鞄から大きな包みを出してきた。
「すみません、後先になりまして、すっかり忘れていました・・・こちらは、お母さんから預かってきたものです。是非、石田さんに渡して欲しいと言われまして」
大きな箱は、贈答用のお菓子だった。
美土里は石田に箱を渡すと、話を続けた。
「お母さんは、年老いたこの期に及んで、石田さんと争いたくは無いというのが本音のようです。自分が嫁に行く前に生まれた石田さんとは面識も無いけれども、主人の子供であるということは事実なのだから・・・それなら自分の子供と同じだからと言われて・・・」
「お父さんが病気になられてからは、お母さんもかなり苦労されたようです」
そう言って、美土里は目を伏せた。

「実は、もう1つお母さんからお願いされたことがあるんです。もし、石田さんが相続放棄に同意いただけるのなら、印鑑証明を取りに行っていただいたりと、お手間も取らせることになるのだからと、お手間代として渡して欲しいと20万円を預かってきています。プラスになるかマイナスになるかの相続財産の額で争うよりも、ここはこの手間代を受け取られた方がよろしいんじゃないでしょうか?」
美土里の顔を真っ直ぐに見つめていた石田は、同意を促すように奥さんの方を見た。
奥さんも、頷いた。
奥さんの気持ちを大切にしたいと思う石田の心が、その態度に表われているようだ。

「わかりました、顔もよく知らない父親ですが、僕のたった一人の父親です。その看病をしていただき、最後を看取っていただいたお母さんのお気持ちに反するようなことは、僕もしたくありません。潔く、相続放棄させていただきます」
石田は決心をして、印鑑を取り出した。

帰り際に、美土里は石田に、こうも告げた。
「そうそう、石田さんからしたら異母妹にあたる涼子さんからも言伝がありました。涼子さんは石田さんのことを聞かされていなくて、今回それを知り、とてもビックリされたようですが、母親は違うけれども自分にお兄さんがいたことを喜ばれていましたよ。できることなら、今後は家族ぐるみでお付き合いをさせて欲しいって言われてました。まずは年賀状を出してみますって言ってましたよ。たぶん、年明けには涼子さんから届くんじゃないですか?」
石田は、嬉しそうに何度も頷いた。
その後ろから奥さんが、
「どうぞ、みなさまによろしくお伝えください」と深々と頭を下げた。

自宅を売却することになって繋がった縁。
少し駆け引きをしすぎたかな?と美土里は思ったが、それでみんなが気持ちよく丸く収まるのなら良かったんだと自分にいい聞かせ、師走の神戸から東に向かって愛車のボルボを走らせた。

※このドラマはフィクションであり、実在の団体や個人とは何の関係もありませんので、ご承知ください。